江戸時代に生産高全国最低といってよい飛騨では、それゆえに多くの百姓一揆が起こっている。
古里にも義民の慰霊碑が建ててある。無数河村(むすごむら)名主、義民・長次郎の碑(高山市久々野町橋場・往還寺(おうげんじ)説教堂前、本寺は一之宮町に在る)
中でも最大のものは”大原騒動”である。当時飛騨は天領で、代官大原彦四郎の支配下にあった。磔・拷問などの刑死者23名、処刑者1万人に近く、1773年(安永2年)を中心に断続的に18年の長期にわたった。(「岐阜県の歴史散歩」から:山川出版社)
久々野町史から
飛騨ではジャガイモのことを”せんだいも”といいます。八代代官幸田善太夫が飛騨にジャガイモを導入、栽培を指導した。高冷地飛騨には救いの作物であった。善太夫がなまって”せんだいも“と呼び、感謝している。
親戚の葬儀に帰省したので五月晴れの義民の碑にお参りしてきた。久須母地区の鯉のぼり。正面は船山。
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