たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

運転免許を取った頃

2012年07月17日 | 日記

昨日ゎ交通政策で大層なことを失礼しました。半分はパロディです、悪しからず!

普段の私は車の運転は結構慎重派なのです。職場が公共事業体で毎朝朝礼をやり、その後一斉に車の安全点検を二人一組でやって「ウインカーよし」、「ブレーキランプよし」などと指差呼称し「では今日も一日がんばりましょう」と、仕事の効率より安全を優先した職場だったせいもあります。安全教育は受けた機会も与えた機会も相当量になります。
だから防衛運転に徹しています。無理な追い越しとか、後ろから競ってきている場合は道を譲ってやるとか、今日はここでまた1人助けてあげた、と自問自答しながら運転してるわけです。

雪国生まれ育ちで中学を卒業し就職しました。日給160円の臨時作業員という身分で、親戚が勤めていた当時はまだ、国の省庁の一つだった電話事業の線路部門へご厄介になりました。汽車の線路ではありません、電線を線路と今でもいうのです。
そこでは車は進駐軍の払い下げのシボレーのトラックと、トヨタの戦時型トラック、三輪自動車ジャイアントがあって、電柱や電線を運びました。
朝はガソリンスタンドから購入したドラム缶のガソリンからホースを口にくわえて、一気に吸い上げ、飲み込む寸前、車の給油口にホースをあてがって給油する担当でした。
年輩の先輩はこともなげにやるのに15歳の洟垂れに上手にやれるわけがありません。思い切りガソリンを飲んでしまったこともあります。この気持ち悪いことったら話しになりません。
昔はこんな危険なことや、随分無茶やったのですね。当時の先輩はほとんど亡くなりました。昭和27年3月1日に未だ卒業式も終えず働きに出たのですから。親戚の家に居候させてもらってね。

そこで臨時を2年、そういう人が多くいて正社員に採用か、くびか整理されることになり筆記試験がありました。
高校を出た人も、私のような中学を出ただけの者も一緒の問題でした。うまくこの試験に通り正社員にして頂きました。10年この地に働き、折から朝鮮戦争が始まり、そのお陰で高度成長の兆しが見え、昭和37年10月31日岐阜へ転勤しました。管理部門で現業部門ではありません。目をかけてくれた方がいて転勤をどうかと誘ってくれた方がいたからです。
そこで車の運転が必要とされ、仕事が終わってから夜、街の教習場へ、狭い練習コースで座学は全く無く、いきなり運転実習しました。それを1回1時間くらい5~6回受けたでしょうか。

そこでもう自発的に県の運転免許試験場へ行き実地試験を受けました。車は昔のクラウンだったと思います。勿論手動変速機の車です。
1回目は落ちましたが同乗した試験官は「1回で受かった人がいたが、君はその人よりうまかったが、坂道発進でチョットミスったな」と落ちました。
試験コースにゆるい坂道が作ってあって、そこの坂道で一旦停止し、そこから車を下がらせずに再発進するテストです。クラッチ操作とアクセル操作、ブレーキ操作を同時に見る検査でした。
2回目はうまくいき実技は合格です。交通法規の筆記試験は既にバイクの免許を取っていたので無かったのではなかったかな。

驚いたのは職場の上司・先輩達です。皆5~6回は普通で、苦労して運転免許を取った人が多かったので。
当時職場ではこの教習場費用を後から補填・補助してくれる制度があって、上司がもうその事業所では予算を使い切っていたのを、交渉してくれて特別に交付していただきました。今思と本当に頭が下がります。
このテストコースは岐阜市岩戸というところにあって、その後廃止され今は交通公園となっています。テストコースのコンクリート舗装はそのまま残してあり、懐かしいので時々のぞいています。

免許を取ったのは、普通車は昭和37年暮頃と記憶しています。免許証にはバイク免許を郷里で先に取り昭和34年9月となっています。大型自動二輪の免許です。中型普通車を37年頃取ったわけです。
二輪車の免許からもう54年経ちます。横着な運転や言動をせず、この便利な乗り物を感謝して乗らなければと、高齢運転者講習を機会に素直に思っています。 


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