たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

お彼岸法会2

2012年09月25日 | お寺参り

彼岸法会の法話のテーマは
・第1日午前 幸せって何でしょう?
・第1日午後 正信偈(しょうしんげ)について 冒頭句「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の意味とその実践について
・第2日 午前 歎異抄について 第1章の冒頭のことばの意味について
・第2日 午後 正信偈(しょうしんげ)について 二句目 法蔵菩薩因位時 世自在王仏所 の意味、阿弥陀様とお釈迦さまについて

という法話の構成で随分わかり易く、教化資料は例によって自坊の門徒に配布される新聞を、都合6枚もお話しの度に配ってくださった。
お話しの途中で段々分ってきたことは、この講師は70才を少し出た若い老師、元県立高校の英語の先生、ほーウ!なるほど、よく分るお話しをされる訳じゃ!
教頭の時、富山や高岡市の高校を訪問した話をされた。当県(岐阜県)とは違い、高校の建物は作りからして違う、廊下は2倍の広さ、ところどころに交流スペースが作ってある。
類型的、マッチ箱的どこも一緒の校舎ではない。富山の一番立派な建物は市役所で展望台まである。
しかも、自分が出た高校は進学校ではなく、仏教大学ではなく名大を卒業し、母校の英語教師を14年勤め、大変厳しい先生だったと話された。なるほど、ナットクしました。
退職後今でも同朋大学へ週3回聴講生で通学している。聴講生は5教科しか選択を許されない。感心、感心。

歎異抄第1章冒頭の文章
弥陀の誓願不思議(せいがんふしぎ)にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すわわち摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(いやく)にあずけしめたまうなり。

不思議とは 思うこともはかることもできないこと。
摂取不捨とは おさめとって捨てないこと。救いとって捨てないこと。
誓願 本願ともいう、仏説無量寿経(ぶっせつ・むりょうじゅきょう)にあるらしい。阿弥陀さまが、まだ仏になられる前(因位:いんに)のお名前を法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)と申しあげますが、「もし衆生がたすからなければ、自分も仏(ぶつ)にならない」という誓いです。

法蔵菩薩は世自在王仏(せじざいおうぶつ)の元で修行された。そのとき48項目の願(がん)、48願を建立された。
正信偈で親鸞聖人は 五劫思惟之摂受(ごこう・しゆい・し・しょうじゅ)と解説され、お勤めでは棒読みします。意味は“衆生を浄土に導こうかと、ご思案をつづけられること、五劫の長さに及びました。思案はついにその根本にたどり着きました”という意味です。

世自在王仏とは、世界で一番自由自在に生きる王者、と名乗る仏さまです。
劫(こう)とは、古代インドの時間的単位の最も長いもの、無限の時間と考えてよい。

芥子劫=40里四方の大城に芥子を満たし、百年に1つの芥子を取り去ることにして、芥子が尽きても「劫は」終わらない。
磐石劫=40里四方の岩石を百年に一度天女の衣でこすることにして、岩石が尽きても「劫」は終わらない。
碁に劫という手があります。同じ意味で無限に終わらない。将棋では千日手と同じと解説されました。古代インド人は大袈裟に表現することを好んだのでしょうね。
仏(ぶつ)とは、目覚めた人、覚者、悟りを得た人、最高の真理を得た人、“人生の迷いに気づき、人生の真実に目覚めた人=悟りを開いた人のこと、仏陀(ブッタ)と申し上げて讃えます。仏さま、如来のことです”と解説されました。

2日間勉強しました。すっかり疲れて帰途歯医者へ寄り虫歯治療。2本に土台を入れてもらい、飯を食ったら風呂に入る元気もなく、おやすみしました。


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