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今、日本のポップカルチャーが世界でどのように受け入られ影響を広げているのか。WEB等で探ってその最新情報を紹介。

日本とは何か(3):融合こそ日本の力

2012年07月15日 | 侵略を免れた日本
◆『日本とは何か (講談社文庫)』(堺屋太一)

今回は、「日本文化のユニークさ」(4)(6)に関連する事柄を考えたい。

(4)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略、征服されたなどの体験をもたず、そのため縄文・弥生時代以来、一貫した言語や文化の継続があった。

(6)以上のいくつかの理由から、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。

堺屋は、他のアジア・アフリカ諸国に先がけ、なぜ日本だけが真っ先に欧米の近代文化と工業技術を取り入れることができたのかと問い、それはやはり、日本の伝統、明治以前の文化や社会気風が深く関係していると考える。彼は、そのもっとも深い根が神道にあると捉えているようだ。

神道における八百万の神とは、雷や台風などの自然現象、山、滝、大石などの自然物であり、それに先祖崇拝の習俗が重なって出来上がっている。このような自然崇拝的な宗教は、かつて世界中のどこにも広がっていた。しかし、そのような自然崇拝的な宗教が、聖典も戒律もないままに、高度に産業化された現代の社会にまで生き続けたことは、きわめて珍しいことだ。

この事実も、日本文化の特徴を語るうえでこの上なく重要なことだ。そして、日本発のポップカルチャーが世界中で関心を呼ぶ一因もまたここにあるのようだということは、これまでにこのブログで何度か指摘してきた。

堺屋は縄文時代に直接触れてはいないし、縄文時代という言葉もまったく使っていない。しかし、自然崇拝的な宗教が縄文時代にその源をもつことは明らかである。縄文時代の自然宗教から生まれた神道は、明確な規則や原則、 戒律などももたない。だからこそ朝鮮半島から仏教がもたらされたとき、一時の抵抗はあっても比較的おだやかに受け入れられていったのである。

仏教導入は、蘇我・物部の戦いという宗教戦争を引き起こしたが、これが日本史で唯一の宗教戦争だったのである。聖徳太子は、推古天皇の摂政として、仏教と天皇制との両立させる道を発見する。それは、天皇家の家系的な根拠である神道神話を否定せぬまま、仏教をも認めるという「神仏習合」への道だった。

その結果、日本に深刻な宗教対立はなくなった。厳格な宗教論理も戒律もなくなった。聖徳太子のおかげで日本人は、世界ではじめて「宗教からの自由」を得たともいえるのだ。そうした自由があったからこそ日本人は、宗教的戒律にとらわれずに外来文化を受け入れ、すべての文化の都合のよいところだけを身につけた。宗教という、いい加減さがもっとも許されないはずの領域においてさえ「いいとこどり」をするとなれば、他の文化は先方の体系的整合性など無視してつまみ食いすることはごく自然な成り行きだろう。そしてこれこそが、他の非西欧諸国に先がけて日本が近代化できた一要因だといわれる。

確かにそのような意味で聖徳太子は独創的な思想家だったのだろう。しかし、それ以前に縄文人と弥生人がほとんど平和的に融合してったという事実がなければ、聖徳太子の独創性も生まれなかったのではないか。大和政権を担ったのは弥生系の人々であったが、彼らは縄文的な自然崇拝の色彩を色濃く残した形で、神道を自分たちの支配イデオロギーとしていた。ここにすでに縄文文化との「習合」があった。そうした背景があるからこそ、大陸から新たに渡来した仏教の受け入れも「神仏習合」という形で実現したのではないか。

日本列島では、大陸からやってきた異民族が、その圧倒的な軍事力で土着の人々を征服し、自分たちの宗教を押し付けるという状況は起こらなかった。弥生人は、自分たちの文化と縄文人の文化とを「習合」させたからこそ、新たに大陸からもたらされた仏教をも、スムーズに「習合」させることができたのであろう。

そしてこの「原体験」は、その後、大陸の高度な文明を受け入れる際にも、圧倒的な西欧文明の受容の際にも繰り返されるのである。軍事力による制圧と強制なしに、平和裏に、先方の文明の中の自分たちに役立つところだけを、自由に自分たちの文明に「習合」させていくことができたのである。

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