神戸新聞夕刊に杉山平一先生をしのぶ会の記事が出ている。
10月21日午後5時から。大阪のホテルでと。
実行委員会代表は詩人の以倉紘平さん。以倉さんとは一度滋賀県でお会いしている。ある会で同じテーブルだったが、多くは話さなかった。しかし、人格者であることはわかった。
神戸新聞夕刊に杉山平一先生をしのぶ会の記事が出ている。
10月21日午後5時から。大阪のホテルでと。
実行委員会代表は詩人の以倉紘平さん。以倉さんとは一度滋賀県でお会いしている。ある会で同じテーブルだったが、多くは話さなかった。しかし、人格者であることはわかった。
杉山平一先生の葬儀から帰って、しばらくして協○脳○経外科病院へ行った。脳のMRI検査を受けるため。
先日は大阪で心臓の検査を受けたのだが、親切丁寧だった。受検者の不安を取り除くようにくどいぐらいに説明して下さった。技師が一人と、「ここにいますからね」という看護師さん(若い女性)が二人ついていてくださった。
が、今日は、検査技師一人で、ごくあっさりと始まった。検査技師は日常のことだろうがわたしは生まれて初めてのこと。「大きな音がします」だけの説明でトンネルの中へ。たしかに大きな音がした。それが想像以上だった。まるで町工場の中。鉄板を激しく叩く音。得体の知れない怪鳥の鳴き声。大きなドリルを頭に打ち込まれるような回転音。かと思えばドアをノックするような音。それに続いて激しいブザーの音。それが、何度も何度も繰り返される。これ、いいのだろうか?なにか機械に不調が起こっているのではないだろうか、と不安にさせられる。たしかに苦しいわけではない。しかし不快だ。これ程とは思わなかった。こんなだったらわたしより高齢のお年寄りなどはもっと不安に駆られるのではないだろうか。そういう人にはもっと親切な説明があるのだろうか。わたしはまだ若いと思われたのだろうか。それならいいが。20分ぐらいで終わったと思うが長かった。終わって、技師に「想像以上に大きな音でした」と言ったら、「あ、そう」でおわり。
昨夜の通夜式に続き杉山平一先生の葬儀告別式に参列してきました。
開式までの間、映像が流されていた。映画についての講演をなさる姿。大きな会場ではなく、うちわの会のような、リラックスした話しぶり。巧まぬユーモアを交えて笑いを誘う。もっとも先生はどんな時も飄々とした話しぶりで場所によって変わるということはなかったですが。
わたし、今日も早めに行って前の方の席につきました。いつもはなるべく目立たない後ろの席につくのですが杉山先生は別です。なるべく近くに。
前2列は主要客のための席になっていて、わたし、その後ろの3列目の真ん中通路の脇に座りました。一般参列者としては最も厚かましい態度だったのかも。
ということで、わたしの前の前の席、主客の席には宝塚市長の中川智子さんが座られました。その隣に帝塚山大学学長。またわたしの斜め前には神戸流通科学大学副学長の足立明さんが。昨夜、わたしが座った場所だ。明さんは足立巻一先生のご長男です。ご挨拶しました。「夕暮れ忌」がなくなって寂しいです」と申し上げると「いつも杉山先生がご挨拶を下さってましたねえ」と。そう「夕暮れ忌」の代表は杉山平一先生が勤めておられたのだ。そしてその夕暮れ忌の名付け親は井上靖氏と司馬遼太郎氏だった。これでみんな亡くなられてしまった。
弔電紹介の最初は大阪の橋下市長からでした。それはそれは丁寧な杉山先生と大阪との関わりを知り尽くした文章でした。これは絶対に橋下さんの文章ではなく側近の手になるものでしょう。優れた秘書がおられるようだ。あと5人ほどの丁寧な心のこもった弔文が披露され、切りがないので残りは割愛と。電文も山ほどあった様子。
そして今日も、昨夜に続き、焼香の列が延々と続きました。
わたしが見かけた弔問者には知った人も多くありました。また昨夜とはちがった顔ぶれです。
SF作家の眉村卓さんなど文学関係者が多数おみえでした。また神田さんに教えてもらったのだが、竹中郁さんの娘さんという人。いかにも郁さんのお嬢さんらしく気高く美しい人だった。また神戸新聞の平松正子さんも。彼女はつい最近、西宮市甲風園の杉山先生の娘さんのお宅にお住まいの先生を取材し、その記事が載ったばかりだった。いい記事だった。ということで彼女、堪えられずに涙を拭っていました。
杉山平一先生の通夜式に参列しました。色とりどりの花が飾られた明るい祭壇でした。
今日は皆既日食の日。朝、味付け海苔の容器の蓋で見ました。感動しました。
で、杉山先生ですが、11年前、『コーヒーカップの耳』の出版記念会にご出席して下さった時、記念の寄せ書きに「太陽は夜を見たことがない」と一行詩を書いて下さった。
今日の太陽は自ら夜を見たかも知れないなあ、と思ったりしました。
通夜式はやはり多くの参列者でした。
わたし、少し早く行ったので前の方の席に案内され、安水先生のすぐ斜め後ろの前から二列目の席でした。そして、詩友の佐土原さんの隣。後で前の席に伊勢田史郎さんがお見えになった。
読経の前に杉山先生の一生がスクリーンにナレーションと共に映し出された。
わたしの知らない家庭的な写真がほのぼのとしたものを感じさせた。
先生の遺影は赤いカーデガンでリラックスしておられる明るい笑顔の写真で良かった。
焼香は延々と続き、参列者の多さを示していました。お人柄ですね。
後でお顔を拝顔させて頂きましたが、きれいなお顔でした。しかし「大きいなあ」というのが印象。昨秋、先生とツーショットを撮らせて頂いた時、先生が言われた言葉、「顔の長さでは負けてません」を思い出しました。わたしも結構長いと言われているのですが。
戒名 「法性院瑞秀叙情居士」 先生らしくおおらかで清々しいお名前だ。
先生、どうか安らかにお休みください。
「青をめざして」
ただ目の前のシグナルを
青のシグナルを見つめて
脇見をしないで
歩いた
どこへ行くのか考えたことも
なかった
青をみつめて
青だけをみつめて
わたしは歩いていった
どこが悪かったのだ
みんなどこへ消えたのだ
杉山平一詩
先生、杉山先生、もうみなさんに会われましたか?足立巻一先生や、竹中郁さんや、庄野英二さんなど、先に逝かれた人たちとお会いになってますか?
昨秋、「輪」で催した詩書展に杉山先生は思いがけずおいで下さったのでした。その時のブログです。http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20111003
この時お聞きした、江戸川乱歩に関する貴重なお話は『KOBECCO』12月号に書かせて頂いたのでした。足は少々弱っておいででしたが、まだまだお元気で、「また来ます」と言ってお帰りになったのに。
なんということだ!杉山平一先生がお亡くなりになられたとの知らせが入って来た。
なんとなんと、なんということだ!!!
わたしは今日(19日)午後、家内を北口に送って行った帰り、思いついて杉山先生のお住まいを探して車で甲風園のあたりをウロウロしたのだ。道を一本間違えたらしく見つからなかった。一方通行ばかりなので、また日を改めて自転車でお伺いしようと思って帰って来たのだった。なんとその日にお亡くなりになっていたとは!ああ。
3月に体調を崩してから、どうもシャキっとしなくて困っている。
先月には、心臓の精密検査をしてもらって、大した欠陥は見つからずホッとしたのだが、その後もマダラに違和感が続き、今日、かかりつけのお医者さんに相談に行った。というのも、来週27日には毎年恒例の「宮っ子バスツアー」があり、犬山城方面に行く。しかもわたし、その歴史案内役です。しっかりしゃべれるかどうか不安で、今日、医師に相談したというわけ。
いろいろ症状を話したのだが、「一度頭部のMRI検査を」ということで、来週、協立病院での検査を予約しました。脳の血管に異常がなければいいし、ということです。
今日午後、店の前で中学生二人に出会った。そのうちの一人が、「あっ、今村さん」と声をかけてきた。そして、「今日、将棋、行っていいですかぁ?」と。
この子たちは昨年中学生になり会をやめていた。中学生になると勉強も忙しいだろうし、クラブ活動もある。大抵の子がやめる。それは仕方のないことだと思う。また時をおいて機会があったら始めたらいい。その時、少しでも私を思い出してくれるなら幸せなことだ。
で、今夜、彼らは用海公民館へやってきた。三人でやってきた。一人と指導対局をしたが、「あれから全然やってない」と。けど、みな久しぶりに楽しんで帰った。