昨日、出石のここへ取材に行きました。
ある人が生前、庵として使っておられた古民家です。他所から移築されたのでした。
元はこうだったそうです。↓ 昭和49年に移築。その時で築100年。
二階の天井はこのようになっています。元はかやぶきだったのです。昔のように囲炉裏で火を燃やさなければ、早く傷むそうです。それで、外は屋根を瓦風建材で覆っています。
これ、個人の持ち物なのです。庭も広大で風雅な池があったりして素晴らしいです。
ここに、かつては大仏次郎、小松益喜、田辺聖子さんなど文人がたくさんやって来たそうです。今は息子さんが管理しておられます。その人にあることで取材させて頂きました。いいお話が聞けました。原稿を書くのが楽しみです。
親しくして頂いている奥村忠俊さんから、『ねっとわーく京都』の2004年8月号を送って頂いた。
これには出石(いずし)の歴史転換に関わる記事が載っている。
出石はわたしの大好きな町だ。わたしのペンネーム「出石アカル」はその由来による。
その出石町が、平成の大合併に巻き込まれて豊岡市になってしまった経緯がこの冊子には書かれている。
奥村氏、町長就任間なしのインタビュー記事である。
8年前だから、少しお若く写っている。
奥村さんは、うちの家内の同級生。その縁で随分昔から親しくさせて頂いている。そして「出石城」というそば屋を経営する社長さんでもある。出石へ行って時間が許せばそこで出石名物の皿そばを頂く。これがおいしいのだ。
その奥村氏が町長になるいきさつがインタビュー記事になっている。
そもそも、奥村氏は出石の町会議員であった。彼は共産党員である。しかし毎回の選挙で上位当選する。人柄がいいのだ。会って話をすれば彼の人柄にほれ込む人は多いだろう。彼は言っている。「私は基本的に敵をつくるのが嫌いな性格です。ですから解放同盟でも公明党や他党の人たちとも仲良く付き合います」と。
〇
政府の政策で全国的に市町の合併が進められて行きました。出石町も例にもれませんでした。出石町は単独で十分やっていける町でした。独特の文化香る町でした。何のとりえもない豊岡市(ゴメンナサイ)と合併して豊岡の一部になる必要は全くなかったのです。
当然反対の声が上がります。町は二分されます。その中で、当時の町長は国の方針に取り込まれて行きます。しかし、どちらに転んでもいいような日和見態度も保ちながらのずるいやり方で。
奥村氏は当然反対の立場。その仲間が集まり反対運動を繰り広げます。が、結局、合併はなされてしまいます。そのずるいやり方が、この『ねっとわーく京都』のインタビュー記事で明らかにされています。
この合併決定直後に紆余曲折があって奥村氏が出石町最後の町長として当選します。その選挙戦は感動ものです。共産党員の奥村氏は自分でも勝てると思えず、選挙が終わった時の挨拶を負けを想定して考えていたと。だから、予想に反して勝った時、「勝っちゃった」というしかなかったそうです。
〇
出石という町は面白い町です。人口も少なく小さな町です。ところが昔から個性豊かな人を多く輩出しています。東大初代総長。沢庵禅師。戦時中、国会で粛軍演説をし追放された齋藤隆夫。この人は地元のためには大したことしなかった衆議院議員さんでしたが出石の人々は毎回トップ当選させました。出石人の見識は見事です。幕末には桂小五郎を町の人は匿いました。さらに文化勲章を受けた文人は洋画家伊藤清永を始め三人に上ると言います。人口が西宮の50分の一、一万人ほどの、あの小さな町で。
出石は田舎町です。本来保守的な町です。そこで共産党員の町長を誕生させるのです。選挙では自民党支持の人までが多数応援したりするのです。
そうして生まれたのが奥村忠俊町長でした。町長に当選した彼は言います。
「合併はしない方がいいに決まっています。しかし、合併を覆すことはしません」その理由を、決まってしまったことを覆そうとすれば町に新たに混乱を巻き起こし、不毛の戦いをしなければならない。それよりも「豊岡?ああ城下町の出石があるところですね、と言われるような町を私たちは築いていきたい」と。
偉いですね。わたしは、このような人と親しくさせて頂いていることを誇りに思います。
〇
最後の出石町長、奥村忠俊氏は家内の同級生だと書きました。
が、もう一人スゴイ同級生がいます。今、日本中からパッシングされている弁護士、安田弁護士です。あの光市のむごい殺人事件の犯人の弁護を引き受け、あの橋下さんととかくの因縁のある人です。
彼は、あのオウムの麻原も弁護しました。が、途中で別件で逮捕され、その役から外されました。この裏には大きな力が働いたとしか思えません。
安田弁護士については色んな意見があるでしょう。日本人のほとんどが批判するでしょう。しかし彼は昔から、日本中から嫌われる被告ばかりを弁護してきてます。人気取りでもなく、まして金もうけには全く繋がらないその思想には、わたし共感する所があります。彼を本気で、ホントに本気で批判するなら、少なくとも彼が書いた何冊かの著書を読んでからにするべきだと思います。あの橋下氏が彼の著書を読んだとはとても思えません。
出石のことから、話、横道にそれました。
〇
昨夜、テレビの「開運なんでも鑑定団」を見ました。わたしの好きな番組です。
新聞のTV欄には豊岡という文字が。で、豊岡での収録ということです。わたし、これ出石とちゃうやろか?と思いました。すると案の定、出石の「永楽館」という歴史的芝居小屋からの放送でした。
ということです。出石町のままなら、テレビも「出石」と報道発信するのです。出石という地名に興味のない全国の視聴者は「豊岡」と記憶するでしょう。出石は観光の町です。豊岡と合併してはいけなかったのです。
今日は出石のことばかり書きました。西宮発のブログなのにね。けど、西宮人も気骨を持ってほしいのです。出石の人のように。「お前がやれ!」と言われそうですが、もうこの老体ではムリです。
先日、ここに書きました、出石の地ビールのことです。
http://nishinomiya-style.com/blog/page.asp?idx=10001390&post_idx_sel=10042797
このビールのラベルがきれいだったので、水に浸けてはがしました。アサヒ、キリンなどの大メーカーのものはこうはいきませんね。壜に直接印刷されてますから。けど地ビールは貼ってあるのではがせます。
元出石町長の奥村さんから戴いたのですが、何本か飲むうちに段々おいしくなりました。二種類の味の違いも分かってきました。
ラベルの絵は切り絵です。地元の切り絵作家の作だと思うのですが、お名前忘れました。画集、随分前に買ったのですが、今どこにあるか…。奥村さんのお店、「出石城」さんには本物の切り絵の額がかかっています。
一昨日、ご来店下さった出石の奥村さんから届きました。
出石の地ビールです。
このパンフレットには「地産地消ビール」とあります。
出石の町おこしの一環として開発されたようです。
飲ませて頂くのが楽しみ。
そして、1,200字に及ぶお手紙つきでした。
そのお手紙も、お人柄をあらわす温かみのあるうれしいものでした。
〇
「いずし浪漫」のHPから。奥村さんの写真が載ってます。
(誕生秘話〉 
社長の思い
折しも全国的に地ビールが広がり始めた頃、手作りの生ビールがあることを知りました。ビールが大好きな私にとって、その地域で作られるビールはそれぞれ味が違うという発見はとても新鮮でした。そこでうまいそばを作る大きな要素である出石の水を使っておいしいビールを造ることを思いついたのです。
事業をやろうとした仲間はそれぞれロマンを持っていました。夢を実現したいという意気込み、純出石産のビールを新しい名物にするぞー!という熱い想いが全員にありました。そんな仲間の気持ちと、古い歴史をもつ出石らしく、上品であり、覚えやすく暖かな気持ちになれると考えて漢字の浪漫を用い「いずし浪漫」という名前がつけられました。
どうしたら出石で旨いビールを作ることができるのか?その答えを求めて、各地のビールを飲み比べ、醸造施設についても各地に出向いて研究し、「いずし浪漫」を売り出すまでにたくさんの方に試飲してもらいました。意見の多くは「旨いが慣れない」「ビールがにごっている(酵母がそのまま生きているため)」などなど。その度に、『こんなに美味しい出石の水で作られているビールがうまくないはずがない』その一念で試行錯誤を重ねてきました。
いずし浪漫に絶対的な自信があります。なぜなら、美味しい空気と澄んだ水、上質な麦芽、自信を持って造る職人のプライド、旨いビールに欠かせない全ての条件が揃っているからです。
「うまい」と言ってくださる方は現在も増えています。最新の製品であるブルーベリー入りのビールは、飲み口がよく、すっきりとした爽快感が実現しています。これまで地ビールは嫌いだと言っていた方が「これはうまい!」と褒めてくださったほどです。これからも留まる事なく、自信を持ってお勧めできるビール、地元・ご当地のものとして息長く出石の名物になるように頑張ります。うまい「いずし浪漫」をつくり続けていくこと。これが私達の自慢であり浪漫です!
少し遅めのお墓参りに出石へ、家内と行って来ました。
出石町、奥小野の風景です。↓
〇
お盆からずれていたので道は混んでおらず、楽に行けました。
道中にこんな名前の橋があります。↓
なんか怖くありませんか。もうずっと昔から、ここを通りかかるたびに気にかかっているのです。どんないわれがあるのでしょうか?
八鹿にある円山川にかかる橋の名です。
〇
豊岡の親戚二軒にはお見舞いに寄りました。そして、仏さん参り。
うち一軒はわたしたちの仲人をして下さったとこです。
随分久しぶりでした。連れ合いのおばさんはまだ健在でしたが、ベッドで寝たきりになっておられて「よく来てくれた」と涙を流して喜んで下さいました。そしてわたしのことを「若い、若い、ち~とも変わっとんされへん」と何度も言われました。
〇
明日18日(木)の「輪」のおすすめ定食は、
ありません。
神戸新聞夕刊にこんな記事が。
記事拝借お許しを。
出石といえば、鉄道が通らなかった町として認識されてるのではないでしょうか。
山陰本線は当初、出石を通る計画があったが、陸蒸気の煙が農作物に悪影響を与えるとの理由による反対で、豊岡に行ってしまったのだという話を聞いたことがあります。真偽のほどは知りません。
ところが実は、出石には、かつて鉄道が走っていたのです。記事をお読みください。
1929年に開業。1944年に休止。とあります。「第二次大戦の影響で」と穏便な書き方です。
しかし事実は、大日本帝国に奪い取られてしまったのです。住民が資本を出しあって作った鉄道でした。その株券は紙切れになってしまったということです。
出石には、鉄道が走っていたのです。
詳しく知りたい方は、こんなページがあります。ご覧になって下さい。
http://tkohara.la.coocan.jp/izushi1.html
〇
明日25日(水)の「輪」のおすすめ定食は、
「ヒラメフライの甘酢あんかけ」の予定です。
よろしくお願いいたします。
但馬に行ってました。
出石で法事があったのです。
〇
昨日、わたしたちもkoh一家の車に乗せてもらって朝出発し、日和山遊園地に向かいました。ところがあまりにも多くの車が駐車待ちでそこを諦め、玄武洞に行きました。奇岩洞窟です。
わたしは50年ほど前に初めて訪れてますが、当時とは全く様子が違ってました。
見事に整備されてすっかり観光地になってました。昔は何の施設もありませんでした。
今はミュージアムまで出来ていて、たくさんの観光客でした。
豊岡のユルキャラ「玄さん」も出動してました。
〇
その後、法花寺へ。
酒垂神社です。
若き日の小川三夫さんが改築を手掛けられた神社です。三夫氏はこの仕事に来て、後の伴侶との縁を得られました。
三夫氏は言うまでもなく、薬師寺などの宮大工、西岡常一棟梁の一番弟子だった人。
〇
息子、娘の家族と共に旅館に一泊。
〇
法事は、出石の見性寺というお寺で。
〇
そして、お墓のある出石町奥小野です。坂道でツチノコがコロコロと遊んでいます。
今日28日は、出石の町を散策する予定でした。
先日ここに紹介した『但馬の城下町 出石を歩く』を携えて。
ところが朝起きてみると、雨でした。しかもいつ雪に変わるかわからないような冷たい雨。
あきらめて、西宮に帰ることにしました。
I家の皆さまにお世話になりました。
〇
帰りに豊岡の播磨屋本店に寄りました。
今や日本一のおかき屋さんです。
広い駐車場に入って、度肝を抜かれました。
これはなんでしょうか!?
しかも二台。
心の方が勝ちました。
店内にはこんな写真も。
いやあ、ビックリしました。
〇
二階には休憩所もあります。
床の間には立派な日本画。作者は「聴雨」となってましたが、わたし知りません。
傍らに、岡倉天心像も。
〇
廊下を奥へ行くと上から作業中の工場の見学もできました。が、さすがにここではカメラは遠
慮しました。
お庭も立派でしたよ。
さすがに日本一のおかきやさんでした。
〇
明日3月1日(火)の「輪」のおすすめ定食は、
「うどん・おにぎり」セットの予定です。
よろしくお願いいたします。
先日、出石の川見茂さんから贈って頂いた『出石を歩く』を読んでいる。
以前から寺社の多い町だと思っていたが、これほど由緒ある寺社がたくさん有るとは思わな
かった。
その中に驚く記載が。
このすぐそばに、家内の同級生が経営するそば屋がある。だけどこれまでお参りしたことが
なかった。
この神社、西宮神社を分祀したものと書いてある。全く知らなかった。
次、行った時は必ずお参りしよう。
〇
神戸新聞夕刊より。
これも拡大レベル75%で。小和田哲男さん、記事拝借、お許しを。
出石そばの話です。詳しく書いて下さっています。
皿そば、おいしいです。5枚が一人前ですが、わたしは、最初に2人前(10枚)注文します。一
人前注文して、次もう一人前注文すると、出来てくるまでに時間がかかり、その間にお腹がふ
くらんでしまいます。そして最近では、100%そばの大を注文します。これはうまい!




































