宝塚文化創造館の朗読会「詩と映画と人生」―詩人・杉山平一さんを偲んで―に行って来ました。手塚治虫記念館のすぐそばでした。
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宝塚文化創造館は宝塚音楽学校の旧校舎でもあります。宝塚歌劇の卒業生が最も懐かしい場所としている所だとも。
会場で杉山先生のご息女、初美さんにお会いしてご挨拶させて頂きました。
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席に着くと、「今村さん」と声をかける人が。S水上さんでした。わたしのブログを見て来たのだと。
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オープニングは宝塚市長、中川智子さんの朗読から始まりました。「希望」をゆっくりと読まれました。心のこもったいい朗読でした。続いて、市長が杉山先生との出会いのことを話されました。時に涙を抑えながら、たった一回の出会いのことをしみじみと話されました。いっぺんに杉山先生のファンになってしまったと。その後も毎晩、先生の著書を読んだと。そんな時に訃報が入り言葉がなかったと。その中川市長の語り口が誠実感あって、わたしも涙を催すようなことでした。こんな市長さん、西宮にも欲しいなあ。
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この会が始まる前に「写真、録音はご遠慮ください」というメッセージがありました。わたしは写真も録音もさせて頂くつもりで用意して行っていたので残念でした。しかし、後で気づいたら、切ったつもりのレコーダーのスイッチが入ったままになっていて、録音されてしまっていました。消去するのももったいないので、残しています。どうしても聞きたい人には内緒でお聞かせいたします。
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あと、河内厚郎氏がお話しされました。
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そのあとが、竹崎利信師ほかによる朗読でした。
なかなか良かったです。正直いうと少し心配していました。杉山先生の詩の朗読、竹崎さん大丈夫だろうかと思っていたのです。杉山詩は軽く見せて深いものがあります。それを表現するにはさりげない上手さが要求されると思っていたのです。けど心配無用でした。さすがプロの語り師です。読まれた作品の多くが散文詩だったのが幸いで、聞く者の心に届いて響く、抑え気味のいい朗読でした。
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続いて、中高校生の女の子などによる朗読もあり、これも良かった。作品もいいのを選んであった。
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最後に会場の聴衆も一緒に「前へ」と「いま」を朗読してお開きでした。
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撮影禁止でしたが、最後の場面、「ま、いいか」と思って写しました。
「希望」「星」「黒板」「位置」「下降」「木の枝」「乗り換え」「三月」「出ておいで」「橋の上」「町」「解決」「感傷について」「答え」「反射」「知恩院」「前へ」「いま」の18篇。
帰り、北口までの電車で、講演された河内さんとご一緒でした。いろいろお話しさせて頂きました。竹崎さんの朗読、褒めておられました。
今朝の神戸新聞、まだパラパラと見ただけだが、読みどころいっぱいある。
まず「杉山平一先生の追悼朗読会のお知らせ。
この記事、田中真治君が書いてます。
朗読者に、俳優の竹崎利信さんの名前が。そして講演を河内厚郎さんが。
次に文化欄には「小松左京に出会う会」の報告記事。これは平松正子記者が担当。
小松さんの言葉「タバコは身体に悪いて言うけどな、生きてる方がもっと悪いでー」が紹介されている。
詩集欄は、神戸の詩人鈴木漠さんが、二冊の詩集を紹介しておられて、いい作品を提示しておられる。うち、一冊は西宮在住の鳥巣郁美さんのもの。これはわたし献呈を受けている。
神戸新聞はいいなあ。身近な人の名前がいっぱい出て来て。
思いがけないお客様が。
杉山平一先生のご息女、初美さんが、暑い中わざわざおいで下さった。
しかも自転車で。
昨秋、「詩書展」をうちの店で開いた時に、先生に付き添って来て頂いて以来。
恐れ多いことでした。
先生にまつわるお話し、たくさんお聞きしました。これ、公表したくないなあ。わたしと、そして一緒にお聞きした家内だけの内緒の話にしておこう。
杉山平一先生のことが縁で、四国大洲市の女学生さんと文通している。
こちらがお便りすると即座に返事が返ってくる。
先日このブログでも紹介した、編集工房ノアの「海鳴り」が縁である。
今日も便りが届いた。それによると彼女は音楽(クラシック)が好き、美術も好きと。しかも、文学にも興味があり、宮本輝はすでに80冊読破と。わたしには過ぎたペンフレンドだが、手紙の中にこんなことが書いてある。
「あじさいが好きなので茶の間に50本ぐらい活けて、その前に○○○の写真を。毎日見ています」
いやあ、恥ずかしい。
語り師の竹崎利信さんからお知らせくださいました。
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/le_html/kouhou/k_pdf/240701/40.pdf
なんとか参加したいものです。
大洲市の中山さんからのお手紙の続き。
「…。読売新聞で戦時中の文章の募集があり応募しましたところ、それが杉山氏のところに直接送られ、丁寧なお便りを頂いて感激しました。…。愛媛新聞に杉山氏の文が何度か載り、それは大切に保存しております。プロの文章は素晴らしいですね。氏の本、『三好達治 風景と音楽』『杉山平一詩集』『窓開けて』『希望』など何冊か買って読ませて頂きました。松山へ講演に来られた時には、わざわざ大洲へ来られ、女学校はなくなってましたが高校に来られたそうです。本当に御誠実な方だと感激しました。」
杉山先生の誠実なお人柄を改めて思わせられます。
「97歳でお亡くなりになられたそうですね。有名な詩人ですのでこちらの新聞にも出ていました。私の家のお寺(今村? 旦那寺のこと?)の玄関に杉山氏の詩が額に入れられて展示されていました。一ヶ月毎に替えられるので、わたし頼んで頂きました。その写真同封いたします。」
その写真の詩。
「今」
終りはいつも始まりである。
人生にあるのは
いつも今 である。
今だ。
詩人 杉山平一
そのお寺のご住職が書かれたのだろう。よく街を歩いているとお寺の掲示板に人生訓のようなものが書かれているのを見るが、これはいいですね。しかし、写真の字を見ると、どうもお若い住職のようだ。字がまだ枯れていない。いいなあ、若いお坊さんがこんな詩をお寺に掲げておられるとは。
「頂いたのを部屋に飾って毎日見ています」
中山さんは「海鳴り」の中村さんと同級生だったというから多分81歳である。偉いですねえ。というより、杉山先生のこの詩にそれだけの魅力があるということでしょう。
さて中山さんの手紙の結び。
「平凡な人間が一生の間にこんな素晴らしい詩人に出会えたこと、お手紙まで頂いたことは、本当に人間の縁の不思議さを感じます。ありがとうございました。」
わたしも中山さんと全く同じ思いです。
先日のブログ「杉山平一先生の縁」http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20120616の続きである。
大洲からお手紙が届きました。
「海鳴り24とお手紙ありがとうございました」と始まる。
そのあと、わたし笑い転げました。「今村様の文字、普通の人と違って画家かしらと思うくらい美しいです。私たちのまわりにいる人とは全然レベルの違う人だなあと感激しました。大切にしておきます」
これには参りました。私の字、自慢じゃないけど、我流も我流、かな釘流ならぬイカナゴの釘煮流です。家内もこの部分読んで大笑いでした。
と言っては、お手紙の主に失礼ですね。ここは素直に喜んでおくべきでしょうか。中山様、そんなに買いかぶって下さってありがとうございます。
と前段はさておき、
「…。私は戦時中、大洲高女の3年生の時、尼崎へ学徒動員で高射砲の弾丸つくりで働いていました。その時の会社の専務さんが杉山平一氏でした。わずか8カ月位で空襲で焼け野原になり大洲へ帰り、3カ月位で終戦になりました。」
このあたりの中山さんの体験は、「海鳴り」に載っている中村さんの手紙と同じことである。わたしは、この後の中山さんのお手紙の記述に驚きました。
「…。工場で楽しかったのは、杉山氏の詩についての講義。それも一回ぐらいだったように記憶します。」
驚きですね。杉山先生、戦時中に、女子挺身隊員に詩の講義をなさってたのだ。こんな話、今まで聞いたことありません。
そのあとの中山さんの文章も杉山先生のお人柄を表わして心温まります。
つづく
先日のブログ「海鳴り」24号のページ http://blog.goo.ne.jp/coffeecup0816/d/20120524
に驚きのコメントが入りました。
はじめまして。杉山平一さんの詩「希望」を検索していましたら、こちらのブログにたどり着きました。私の母は大洲市出身で、戦争中、学徒動員で尼崎精工で働いておりました。ぜひこちらで紹介されている「大洲からの手紙」の掲載された『海鳴り24号』を母と母の学友たちに読ませたく、もしまだ在庫がおありでしたらお譲りいただけませんでしょうか。郵送料は前もってお支払させていただきますので、何卒よろしくお願いいたします。
宝塚市在住の火曜日同人芦田はるみさんから送って頂きました。
広報「たからづか」です。
そしてページを開くと、
3ページにわたる記事は、杉山先生を迎えて、中川市長と文化プロデューサー河内厚郎氏との三者による鼎談です。この鼎談は4月27日に行われています。まさか記事になる前に先生亡くなられるとは。
記事の最後は、市長さんの「まだまだ詩を書き続けてくださいね。早く次の詩集を出してください。」に対して、先生の「そうですね、まだ、収録されていない詩はありますし、少し新しい詩も創っています。世の中、詩になるものはたくさんありますからね。」で締めくくられている。
中川市長さんは告別式に参列されました。河内厚郎さんは、昨年、あるパーティーでお会いしてお話させて頂きました。なんか皆さん、恐れ多くも身近に感じてしまいます。
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今日、ちょっと用があって杉山先生の娘さん、初美さんと電話でお話させて頂きました。すると、「第30回現代詩人賞の授賞式に代理で東京へ行って参りました」とのこと。「色んな人にお声をかけて頂きました」と仰ってました。この授賞式を先生は楽しみにしておられたのだった。