リスト:ラ・カンパネラ(パガニーニによる大練習曲より:録音1998年/1973年)/た
め息(3つの演奏会用練習曲より)/泉のほとりで(巡礼の年第1年「スイス」
より)
ショパン:夜想曲第2番/練習曲第3番「別れの曲」/練習曲第12番「革命」/マズ
ルカ第49番
ブラームス:ワルツ第15番/ハンガリー舞曲第5番
ラヴェル:パゴダの女王レドロネット(マ・メール・ロワから)
ピアノ:イングリット・フジコ・ヘミング/大月礼子(連弾=ブラームス:ワルツ第15番
/ラヴェル:パゴダの女王レドロネ
ット/ブラームス:ハンガリー舞曲第
5番)
CD:DECCA UCCD 9742
このCDは、イングリット・フジコ・ヘミング(フジ子・ヘミング/本名:イングリット・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング/日本名:大月フジ)が、日本においてリサイタルを開催した時のライブ録音から、一般にお馴染みの小品11曲を1枚に収めたものである。録音時期の違うリストの「ラ・カンパネラ」が最初と最後に収められており、リストに対するイングリット・フジコ・ヘミングの並々ならぬ愛着を裏書するするようだ。私は集中力が一段と高く聴こえ、録音状態も引き締まった1973年イイノホールで収録された「ラ・カンパネラ」の方を推したい気がする。それにしてもイングリット・フジコ・ヘミングの「ラ・カンパネラ」を聴いていると、これほどドラマティックで、ピアノの持つ特色を存分に生かし切った曲には、そう滅多にはお目にかかれるものでないことを再認識させられる。そしてその演奏の力の凄さには脱帽させられる。世界には演奏技術では、彼女を凌駕するピアニストは沢山いるかもしれないが、こんなに心のこもった「ラ・カンパネラ」を弾けるピアニストは、今世界中を探してもいないのではないか。
私がイングリット・フジコ・ヘミングというピアニストを初めて知ったのは、1999年2月11日にNHKテレビで放送された「フジコ~あるピアニストの軌跡~」であった。番組表を見ていたら名前を知らないピアニストが出ていたので、まあ時間があれば見ておこうかといった感じで、見る前はほとんど関心はなかった。テレビを見終わった後でも、こんな話は半分は俄かには信じられない思いがして、暫くの間とても本当の話だとは信じなかったことを覚えている。ざっとおさらいしてみよう。イングリット・フジコ・ヘミングは、スウェーデン人の父(画家)と日本人の母(ピアニスト)の間に1932年ベルリンで生まれている。5歳の時に日本に帰国したが、戦争の気配が濃くなる中、家族3人を残して父はスウェーデンへ帰ってしまう。東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)在学中の1935年に第22回毎日音楽コンクール入賞するなど、数々の賞を受賞し、卒業後プロの演奏家を目指し日本フィルなどと共演を行う。
その後、ベルリン音楽大学へ留学を果たす。30歳台後半、ウィーンで世界的指揮者として名が知られたレナード・バーンスタインに見い出され、リサイタルが決まっていた矢先、風邪の高熱で聴力を失い、突然ピアニストとしての道が閉ざされ、スウェーデンへと向かう。耳の治療に当たりながら、ヨーロッパ各地で音楽教師をし、小さなコンサートを続けていた。1995年末に母の死を契機に日本に帰国。日本でもしばしばリサイタルを開催し、それが口コミで伝わり、最後には先ほどのNHKのテレビ放送につながったのだ。放送後テレビ局へ問い合わせが殺到し、一躍スターピアニストとしての道を歩むことになる。CDのデビューアルバムは200万枚に達し、日本ゴールドディスク大賞(クラシック部門)を4回受賞。いずれも日本のクラシック音楽家として前人未踏の記録を打ち立てたのだ。
イングリット・フジコ・ヘミングのこのCDを静かに聴いていると、実に情念のこもった演奏をするピアニストであることに感服してしまう。今の若い演奏家は、スマートにスピード感を持って、軽やかに技術的に完璧に弾きこなす人がほとんどだが、イングリット・フジコ・ヘミングの演奏を聴いていると何かこの逆をいっているようだ。曲に真正面から立ち向かい、ゆっくりと弾き進む。そしてあたかも作曲家との対話を楽しんでいるかのように、その演奏からは自然と情念が立ち上ってくるかのようだ。“フジコ・ファン”は、そんな熱い心のこもった演奏に心を癒され、感動するのだと思う(私もその一人)。人生は辛いときや悲しいときも少なくない。イングリット・フジコ・ヘミングの演奏を聴くと、そんな人たちの悩みを全部包み込んでしまうような不思議な包容力がある。それは彼女の数奇ともいえる半生がそうさせるのであろうか。現在、世界各地から呼ばれコンサート開催しているようだが、既に世界最高のランクの座にあるピアニストの一人(私はそう思う)として、今後の国際的な活躍を祈るばかりだ。(蔵 志津久)