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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CDレビュー◇ハンス・リヒター=ハーザー(ピアノ)&カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番/ピアノソナタ第17番「テンペスト」

2021-07-13 09:38:38 | 協奏曲(ピアノ)



<クラシック音楽CDレビュー>



~ハンス・リヒター=ハーザー(ピアノ)&カルロ・マリア・ジュリーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団のベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番/ピアノソナタ第17番「テンペスト」~



ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番
        ピアノソナタ第17番「テンペスト」

ピアノ:ハンス・リヒター=ハーザー

指揮:カルロ・マリア・ジュリーニ

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団

録音:1963年4月20日(ピアノ協奏曲第3番)
   1961年4月14日(ピアノソナタ第17番「テンペスト」)

CD:東芝EMI EMI CLASSICS CAPO‐3004

 ハンス・リヒター=ハーザーは、ベートーヴェンのピアノ作品の解釈では、当時、右に出る者はいないとも言われた優れたドイツのピアニストであった。真摯な態度でベートーヴェンの作品に立ち向かい、LPレコード時代のリスナーに深い感動を与えた。現在では、忘れ去られつつあるピアニストの一人になった感のあるハンス・リヒター=ハーザーの録音を、今回、改めてCDで聴き直してみることにした。何よりもベートーヴェンをより深く知るために。

 ピアノのハンス・リヒター=ハーザー(1912年―1980年)は、ドイツ、ドレスデン出身。地元のドレスデン音楽院でハンス・シュナイダーに師事。1928年から演奏活動を開始し、1930年(18歳)「ベヒシュタイン賞」を受賞。ドレスデン音楽院卒業後、一時、フリッツ・ブッシュの下でドレスデン歌劇場の副指揮者を務める。1932年から、ピアニスト兼指揮者として活躍する。第二次世界大戦中からデトモルトに移り住み、1945年から1947年までデトモルト交響楽団の音楽監督を務めた。1947年以降はピアニストに専念する。各地で演奏会を行い、ドイツ系作品、中でもベートーヴェンの優れた解釈者として知られた。また、作曲家としても多くの作品を遺した。1946年から1962年まで北西ドイツ音楽院でピアノを教え、1955年から同院院長に就任。1959年にはアメリカ・デビューを果たし、1963年にはザルツブルク音楽祭にも出演。日本にもは963年と67年の二度訪れ、67年には7夜にわたるベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏会を開催した。

 指揮のカルロ・マリア・ジュリーニ(1914年―2005年)は、イタリア、プッリャ州出身。最初はヴァイオリンを学んだが、サンタ・チェチーリア国立アカデミア管弦楽団のヴィオラ奏者としてスタート。ヴィオラ奏者時代には、客演したブルーノ・ワルターなど当時の大指揮者の指揮に触れる機会を得る。1946年ローマRAI交響楽団首席指揮者、1950年ミラノRAI交響楽団首席指揮者、1953年ミラノ・スカラ座音楽監督、1969年シカゴ交響楽団の首席客演指揮者、1973年ウィーン交響楽団首席指揮者、1978年ロサンジェルス・フィルハーモニック音楽監督。以後、フリーの指揮者としてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団などヨーロッパの名門オーケストラに客演。1998年に指揮活動から引退。

 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37は、ベートーヴェン中期の初頭を飾るピアノ協奏曲で、個性の豊かさを示した傑作と位置付けられている作品。主題の楽想、展開の技法、楽曲全体のスケールの大きさ、どれをとっても飛躍的発展を示している。そしてベートーヴェンが遺したピアノ協奏曲中唯一の短調でもある。1796年にスケッチを開始。当初は、1800年4月2日の初演を目指していたが、この時点では冒頭楽章しか出来ていなかった。それから約3年後にあたる1803年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場において行われた公演でようやく初演にこぎ着けたものの、この時にも独奏ピアノ・パートは殆ど空白のままで、ベートーヴェン自身がピアノ独奏者として即興で乗り切ったという。独奏ピアノ・パートが完成してから最初に演奏が行われたのは、初演から1年余り経った1804年7月のこと。

 この曲でのハンス・リヒター=ハーザーのピアノ演奏は、ベートーヴェンへの過度な思い入れなどは決してしない。淡々と客観的にベートーヴェンを見つめる。しかし、そのピアノタッチの何と温かいことか。全体はきっちとした構成美に貫かれているが、リスナーには少しも堅苦しさを感じさせない演奏内容なのである。弾き進むうちに、あたかもハンス・リヒター=ハーザー自身が生身のベートーヴェンとの会話をしているような、不思議な感覚にリスナーは捕らえられる。そして、いつも聴くベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番のイメージとは違う感覚に身を置くことになり、自然に静かで平穏な世界へと誘われる。ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番がこんなにも包容力のある曲だとは・・・リスナーは初めて知ることになる。カルロ・マリア・ジュリーニ指揮フィルハーモニア管弦楽団も、要所要所を抑え、ベートーヴェンの描く豊かな世界を描き切り、見事な効果を挙げている。

 ベートーヴェン:ピアノソナタ第17番「テンペスト」 ニ短調 作品31-2は、作品31としてまとめられている3曲のピアノソナタ(第16番、第17番、第18番)の2番目の作品。これら3曲は、1801年から1802年の初頭にかけて、ほぼ同時期に作曲が進められた。作曲時期は、難聴への苦悶からハイリゲンシュタットの遺書がしたためられた頃で、冒頭の目まぐるしく変わるテンポ交替による革新的主題構想など、作品31の中でも特に革新的で劇的なピアノソナタである。3つの楽章の全てがソナタ形式で作曲されている。「テンペスト」という通称は、弟子のアントン・シンドラーがこの曲と第23番「熱情」の解釈について尋ねたとき、ベートーヴェンが「シェイクスピアの『テンペスト』を読め」と言ったとされることに由来しているが、このこと自体の信ぴょう性は低いものの、全くの的外れとも言えないとされている。

 この曲でのハンス・リヒター=ハーザーのピアノ演奏は、一転、力強く、いつものベートーヴェン像を彷彿とさせる演奏内容を披露する。ここ頃、ベートーヴェンは、難聴に苦しめられていたわけで、その苦境を跳ねのけようとする強靭な意志の力がこの曲の背景に横たわる。ハンス・リヒター=ハーザーの演奏は、そんなベートーヴェンに寄り添い、少しの妥協を許さない厳しさが、辺り一面を覆い尽くす。そんな中でも揺るぎない構成美は毅然と存在し、ハンス・リヒター=ハーザーは、決して情緒に溺れることはない。ベートーヴェンの心の中に入り込み、あたかもその苦しみを共有するかのような演奏内容は、時代を超越し、永遠の生命力を有しているようにも感じられる。そして終楽章で見せる、未来を見つめ決然とした意志で前進するハンス・リヒター=ハーザーの演奏は、何かベートーヴェンの魂が乗り移ったようだ。でも、そんな時でもハンス・リヒター=ハーザーの演奏には、何かしら心の安らぎを感じることが出来るのだ。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CDレビュー◇

2020-07-06 12:20:12 | 協奏曲(ピアノ)



<クラシック音楽CDレビュー>



~バックハウスのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番~第5番(全曲)~



ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番/第2番
        ピアノ協奏曲第3番/第4番
        ピアノ協奏曲第5番「皇帝」

ピアノ:ヴィルヘルム・バックハウス

指揮:ハンス・シュミット=イッセルシュテット

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ユニバーサルミュージック UCCD‐9166/9165/9164
 
 2020年はベートーヴェン生誕250年に当たる年だ。この記念すべき年に改めて聴いておきたい曲として挙げられるベートーヴェンのシリーズ作品としては、交響曲全曲(全9曲)、ピアノソナタ全曲(全32曲)、弦楽四重奏曲全曲(全16曲)、ヴァイオリンソナタ全曲(全10曲)、チェロソナタ全曲(全5曲)、ピアノ三重奏曲全曲(全7曲)などが思い浮かぶ。今回はこれらの中から、ピアノ協奏曲全曲(全5曲)を取り上げたい。何故かというと、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全5曲が連続して聴ける演奏会にあまりお目にかかれないからである。そして、数ある録音の中からバックハウスで聴きたいと思う。これら3枚のCDの録音時期は、1958年4月~1959年6月(録音場所はいずれもウィーン、ゾフィエンザール)と、今から60年以上前の録音であり、本来ならば”歴史的名盤”として扱われるべきなのかもしれないが、音そのものが鮮明に捉えられており、現在の録音と比べてもいささかの遜色がなく、その上、バックハウスの演奏自体も、古めかしさは微塵も感じられず、現代感覚に溢れており、現役盤と言ってもいいほどの優れた演奏内容となっているからである。
 
 ピアノのヴィルヘルム・バックハウス(1884年―1969年)は、ドイツ、ライプツィヒ出身。ドイツ国籍であったが、後スイスに帰化した。7歳でライプツィヒ音楽院に入学。 1900年、16歳の時にデビュー。1905年、パリで開かれた「ルビンシュタイン音楽コンクール」のピアノ部門で優勝したが、このときの第2位はバルトークであったという。その演奏に付けられたニックネームは”鍵盤の獅子王”だった。 1930年、スイス、ルガーノに移住。1946年、スイスに帰化。第二次世界大戦後の 1954年、カーネギー・ホールでコンサートを開き、アメリカへ進出を果たす。同年、日本を訪れた。1966年、オーストリア共和国「芸術名誉十字勲章」を受ける。また、ベーゼンドルファー社からは、20世紀最大のピアニストとしての意味を持つ指環を贈られた。1969年6月28日、オーストリアでのコンサートで、ベートーヴェンのピアノソナタ第18番の第3楽章を弾いている途中心臓発作を起こし、7日後に死去。享年85歳。
 
 ベートヴェンは、ハイドンに作曲を学ぶため、1792年にボンからウィーンに居を移したが、この時期に第1番~第3番の3曲のピアノ協奏曲が作曲された。第1番と名付けれれた協奏曲は、第2番の後に作曲されたが、出版が先であったためピアノ協奏曲第1番となった。1795年3月に初稿が完成し、初演は3月29日にウィーンのブルク劇場において行われた。その後改訂され、交響曲第1番が初演された1800年4月2日の演奏会においてその改訂版が披露され、さらに手が加えられ、1801年に出版された。ベートヴェン:ピアノ協奏曲第1番でのバックハウスの演奏は、ベートーヴェンの初期の作品であるからといっても少しの手抜きもなく、しかも実に楽しげに演奏している様子が目の前に浮かんでくる。バックハウスの繊細で美しいピアノの音を聴いていると、心の底から清々しくなってくるのだ。
 
 ベートヴェン:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19は、1795年3月に完成した。第2番とされているが、実際は第1番よりも先に作曲されている。 楽曲の規模や楽器の編成の点では第1番よりも小さく、またハイドンやモーツァルトの影響が強く残っているが、随所にベートーヴェンの個性と独創性の萌芽が見える。初演は1795年の3月29日にウィーンのブルク劇場でベートーヴェンのピアノ独奏によって行われた。この初演は、作曲者にとってのウィーンでのデビューとなった。この曲でのバックハウスの演奏の聴きどころは第2楽章アダージョであろう。ゆったりとした優美な旋律が、聴くものの心を鷲掴みしてしまいそうな演奏内容ではある。後年のベートーヴェン像が徐々に形づかれる過程の様子をバックハウスが明快に演奏する。そして快活な第3楽章へとリスナーを自然に誘う。すべてが自然に流れ何とも心地よい。
 
 ベートヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲中唯一の短調である。 1803年4月5日にアン・デア・ウィーン劇場において行われた公演で初演にこぎ着けたが、この時、独奏ピアノ・パートは殆ど空白のままであったという。独奏ピアノ・パートが完成してから最初に演奏が行われたのは、初演から1年余り経った1804年7月であった。そんな苦労のかいがあって、この曲で初めてベートーヴェンらしさが前面に出たピアノ協奏曲が完成したのである。この曲でのバックハウスの演奏は、ニックネームの”鍵盤の獅子王”通りの堂々として力強い演奏に終始する。しかし、ただ力でねじ伏せる演奏でなく、どことなくロマン派風の香りを漂わせながら弾き進む。そこには、それまで聴いたことのない革命的とも言えるピアノ協奏曲が忽然と浮かび上がってくるのだ。
 
 ピアノ協奏曲第4番は、1805年に作曲に着手し、翌1806年に完成。 ベートーヴェンは同ピアノ協奏曲でいきなり独奏ピアノによる弱く柔らかな音で始めるという手法を採り入れた。これは聴衆の意表を突く画期的なもの。さらにベートーヴェンは伴奏役に徹しがちなオーケストラとピアノという独奏楽器を“対話”させるかのように曲を作るという手法も採り入れた。完成の翌年の1807年3月にウィーンで初演された。自身のピアノ独奏により初演された最後のピアノ協奏曲となった。この曲でのバックハウスの演奏は、一音一音を噛みしめるように、やや内省的にゆっくりと弾き進める。”鍵盤の獅子王”ならぬ”鍵盤の白鳥”とでも言ったらいいように一音一音が輝くほど美しく、典雅な演奏に終始する。聴き進むうちに、この協奏曲が本来的に持つスケールの大きな構成力が、リスナーの前に悠然と姿を現し始める演奏内容なのだ。
 
 ピアノ協奏曲第5番は、「皇帝」の通称で知られている。ナポレオン率いるフランス軍によってウィーンが占領される前後に手がけられ、1809年4月頃までにスケッチを完了、同年夏頃までに総譜スケッチを書き上げた。初演は不評に終わったが、後年、リストが好んで演奏してから人気が出始め、現在では、ピアノ協奏曲の名曲の一つに数えられている。 「皇帝」という通称は、ベートーヴェンとほぼ同世代の作曲家兼ピアニストであり楽譜出版などの事業も手がけていたヨハン・バプティスト・クラーマーが、この曲での印象から付与したものと言われていおり、ベートーヴェン自身が付けたものではない。この曲でのバックハウスの演奏は、実に堂々としていて一部の隙も無い男性的な力強い演奏を披露する。バックハウスの演奏は、単に外形的に形が整っている美とはいささか異なる。何か一音一音を、自分自身に言い聴かせるように弾き進めるのだ。このためテンポは比較的ゆっくりとしたものとなる。このような演奏を聴いていると、知らず知らずのうちにベートーヴェンの精神の奥へ奥へと導かれていく。

 この5曲のピアノ協奏曲を伴奏するハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルが、これまた素晴らしい演奏を聴かせる。バックハウスの持つ音楽性と完全に同化する同時に、あたかも交響曲を聴くような充実感を、リスナーに味合わせてくれるのだ。指揮のハンス・シュミット=イッセルシュテット(1900年―1973年)は、ドイツ出身。 第二次世界大戦後、北ドイツにおいてBBC交響楽団を模範にした管弦楽団の設立を委託され、1945年北西ドイツ放送交響楽団(現:NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団)を結成した。以後、 同楽団は飛躍的な進歩を遂げる。ハンス・シュミット=イッセルシュテットは、就任後、26年間にわたり同楽団の首席指揮者の地位にあり、退任後は終身名誉指揮者に就いた。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CDレビュー◇若き日の名ピアニスト アシュケナージ(26歳)のラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番/第3番

2019-11-12 09:37:08 | 協奏曲(ピアノ)

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番/第3番

ピアノ:ウラディーミル・アシュケナージ

指揮:キリル・コンドラシン/管弦楽:モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団<第2番>
指揮:アナトール・フィストラーリ/管弦楽:ロンドン交響楽団<第3番>

録音:1963年3月、ロンドン<第2番>/1963年9月、10月、ロンドン<第3番>

CD:ユニバーサルミュージック UCCS-9155

 ピアノのウラディーミル・アシュケナージ(1937年生まれ)は、旧ソヴィエト連邦出身。9歳の時にモスクワ音楽院附属中央音楽学校に入学。1955年「ショパン国際ピアノコンクール」に出場し第2位。同年モスクワ音楽院に入学。翌1956年「エリザベート王妃国際音楽コンクール」で優勝。これを機にヨーロッパ各国や北米を演奏旅行して成功を収める。モスクワ音楽院を卒業後、1962年「チャイコフスキー国際コンクール」で優勝。1963年旧ソヴィエト連邦を出国し、ロンドンへ移住。 1970年頃からは指揮活動にも取り組み始める。1987年ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督就任。これまで、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者、ベルリン・ドイツ交響楽団首席指揮者、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者、EUユース管弦楽団音楽監督、シドニー交響楽団首席指揮者を歴任。初来日は1965年。2000年に初めてNHK交響楽団の定期公演の指揮を行い、2004年から2007年までは音楽監督を務め、退任後は桂冠指揮者の地位にある。現在でも、しばしば日本を訪れ、指揮活動のほかピアノ演奏も行っている。現在、妻の故国であるアイスランドの国籍を持ち、スイスに在住。   

 指揮のキリル・コンドラシン(1914年―1981年)は、旧ソ連邦出身。1943年ボリショイ劇場の常任指揮者に就任。1960年モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。1967年モスクワ・フィルとともに初来日。1978年アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任客演指揮者に就任し、オランダへ移住。1980年、再来日してNHK交響楽団を指揮。ショスタコーヴィチの交響曲第4番、交響曲第13番「バビ・ヤール」は、コンドラシンの指揮により初演された。モスクワ・フィルを指揮して、世界で初めてショスタコーヴィチの交響曲全集を録音した。一方、指揮のアナトール・フィストゥラーリ(1907年―1995年)は、ウクライナ、キエフ出身。7歳にしてチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を指揮したという神童。ロシア・オペラ・グループを組織し、シャリアピン・オペラ協会、モンテカルロ・ロシア・バレエ団の指揮者を歴任、1943年から1年間、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務めた。20世紀における優れたバレエ指揮者の一人として知られた。1948年イギリス国籍取得。

 ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番 Op.18は、1900年秋から1901年4月にかけて作曲されたラフマニノフの出世作。当時、ラフマニノフは、交響曲第1番の評論家からの酷評に悩まされ、その結果、神経衰弱に襲われ、曲を捜創作することが不可能に陥ってしまった。しかし、催眠療法を受けることによって快方に向かい、ピアノ協奏曲第2番完成させた。全曲の初演は1901年11月9日にラフマニノフ自身のピアノで行われた。あらゆる時代を通じて常に最も人気のあるピアノ協奏曲のひとつであると同時に、ピアノの難曲としても知られる。ロマン派音楽を代表する曲の一つに数えられ、広く演奏されてラフマニノフの代表作の一つとなった。曲は全3楽章からなる。この録音でのアシュケナージの演奏は、安易に流されず、一音一音を確かめるように、ゆっくりと着実に曲を進める。この曲はポピュラーなこともあり、どのピアニストも華やかにムードたっぷりに弾き込む。しかし、ここでのアシュケナージの演奏は、このような姿勢とは相反して、ロマン派の色濃い演奏というより、何か古典派を思い起こさせるような、重々しい雰囲気すら醸し出す。しかし、聴き進うちにアシュケナージのこの曲へ対する熱い思いがリスナーに徐々に押し寄せる。聴きなれたこの曲の新たな側面が浮かび上がってくるのだ。その堂々とした構成美を前面に押し出した演奏内容は、指揮のキリル・コンドラシンからの影響が少なからずあると思う。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は、もう耳にタコができるほど聴いたというリスナーには、特にお勧めの録音。

 一方、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番 Op.30は、1909年の夏に作曲が開始され、完成は同年9月。初演は1909年11月28日に作曲者自身のピアノでカーネギーホールにて行われた。演奏には高い技術がいるため、当初は演奏するピアニストは多くはなかったという。この曲が広く演奏されるようになったのは、1958年に開催された第1回「チャイコフスキー国際コンクール」で、ピアノ部門で第1位となったヴァン・クライバーンが本選でこの曲を演奏したことがきっかけだった。この曲も、ピアノ協奏曲第2番と同様に3つの楽章からなる。この曲でのアシュケナージは、第2番とはがらりと変わり、ロマンの香り濃い演奏に終始する。難曲と言われるこの曲を何の苦も無く弾きこなす技量に圧倒されるが、少しも技巧的な演奏には聴こえないところに真の価値が存在する。そこにあるのは、豊かな精神性であり、ロマン派の音楽だけが持つ、絵にも言われぬ甘美な世界なのだ。アシュケナージの繊細な神経が細部にまで行き届き、この曲の持つ豊饒さを余すところなく弾き尽くす。アナトール・フィストラーリ指揮ロンドン交響楽団の響きも、アシュケナージのピアノ演奏に負けずに幻想的で、優美さを際立たせたものに仕上がっている。ピアノ独奏とオーケストラ伴奏とが一体化したことによる効果を、これほど印象付けられた録音は滅多に聴けるものではない。このピアノ協奏曲第2番/第3番の録音は、ともに1960年代で、アシュケナージが新進ピアニストとして活躍していた26歳の時だ。録音も鮮明であり、今でも十分に鑑賞に耐える。現在は指揮者として活躍するアシュケナージの若き日の名ピアニストとしての姿が、ここに鮮明に捉えられている。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CDレビュー◇カツァリスのバッハ:チェンバロ協奏曲第1番/第5番/第3番/第6番

2019-08-06 09:39:20 | 協奏曲(ピアノ)

バッハ:チェンバロ協奏曲第1番 ニ短調 BWV1052
            第5番 ヘ短調 BWV1056          
            第3番 ニ長調 BWV1054          
            第6番 ヘ長調 BWV1057

ピアノ:シプリアン・カツァリス

指揮:ヤーノシュ・ローラ

管弦楽:フランツ・リスト室内管弦楽団

CD:ワーナーミュージック・ジャパン WPCS‐21047

 バッハのチェンバロ協奏曲は、チェンバロ1台用は全部で8曲遺されている。このほか、2台用が3曲、3台用が2曲、4台用が1曲ある。これらのチェンバロ協奏曲は、当時バッハがライプツィヒのコレギウム・ムジクムの指揮者を務めていたため、その演奏会のために作曲された。しかし、その多くは、バッハの旧作か他の作曲家たちの作品を編曲したもの。また、2台用~4台用を書いたのは、長男や次男、さらには弟子たちが演奏するために書かれたようだ。このCDに収録されている曲の由来は次の通り。第1番の原曲は、消失したヴァイオリンのための協奏曲であると考えられている。ただし、原曲がバッハ自身の作品であったかどうかについては確証がない。第5番 の原曲は、消失したヴァイオリン協奏曲 ト短調であるとされているが、この原曲もバッハ自身の作品か、他の作曲家の作品であるかどうか不明。第2楽章はカンタータ第156番「わが片足すでに墓穴に入りぬ」のシンフォニアと同一の音楽で、「バッハのアリオーソ」として親しまれている。第3番の原曲は、バッハのヴァイオリン協奏曲第2番。第6番の原曲は、バッハのブランデンブルク協奏曲第4番である。

 ピアノのシプリアン・カツァリス(1951年生まれ)は、フランス、マルセイユ出身。1964年パリ音楽院に入学。1969年ピアノで最優秀賞を受賞。さらに室内楽でも1970年最優秀賞を受賞した。 1966年シャンゼリゼ劇場において、パリで最初の公開コンサートを開く。1970年「チャイコフスキー国際コンクール」に入賞。1972年ベルギーで行われた「エリザベート王妃国際音楽コンクール」において9位入賞。同コンクールでは、西欧出身者として唯一の入賞者であった。1974年ヴェルサイユで「ジョルジュ・シフラ国際ピアノコンクール」に出場し、最優秀賞を受賞する。1977年ブラチスラヴァにおけるユネスコ主催の「国際青年演奏家演壇」に入賞。 カツァリスの演奏は超絶技巧的な面と詩人的な両面を併せ持つ。代表的な録音に、ショパンのワルツ集やベートーヴェン交響曲全集(フランツ・リスト編曲)がある。現在は、カツァリス自身が設立したレーベル「PIANO21」において様々なレコーディングや自身の過去の録音の復刻を行っている。

 フランツ・リスト室内管弦楽団の音楽監督のヤーノシュ・ローラ(1944年生まれ)は、ハンガリー、ケーテレク出身。1957年から1962年までバルトーク音楽高等学校でヴァイオリンを学び、1963年からフランツ・リスト音楽院に進学。在学中の1963年からフランツ・リスト室内管弦楽団に参加。1968年に音楽院を卒業し、翌年にはハンガリー放送主催のヴァイオリン・コンクールで第3位入賞。1979年からフランツ・リスト室内管弦楽団の音楽監督(コンサートマスター)を務めている。フランツ・リスト室内管弦楽団は、ハンガリーのブダペストに本拠地がある室内オーケストラで、1963年にフランツ・リスト音楽院教授のフリギエシュ・シャンドールを中心として、同音楽院の学生達により設立。基本編成は弦楽アンサンブルだが、曲により管楽器も加わる。基本的には指揮者を置かず、ローラのリーダーシップにより演奏を行っており、高いアンサンブル精度を誇る。

 バッハのチェンバロ協奏曲は、チェンバロ(ハープシコード、クラブサン)で演奏されるのが基本であるが、最近ではピアノでの演奏も多くなってきている。このCDのカツァリスもピアノで演奏している。この場合、チェンバロ協奏曲ではなくピアノ協奏曲と表記される場合もある。このCDでのカツァリスのピアノ演奏は、流麗そのものであり、全体にキラキラと光り輝くような躍動感に包まれている。音色は透き通っているが、冷たさは微塵も感じられず、逆にその暖かい音色にリスナーは癒される。カツァリスはフランス人であるが、どことなくイタリア風の明るさを思わせるような演奏に思わず引き付けられる。特筆されるのは、緩やかな楽章での細やかな神経が行き届いた演奏内容だ。例えば、第1番の第2楽章や第5番の第2楽章などを聴いていると、静寂の中に深い精神的な営みが繰り広げられ、あたかもカツァリスの独白を聴く思いがする。全4曲を聴き終えると、バッハのチェンバロ協奏曲が持つ全体の構成美が、リスナーの前にくっきりと浮かび上がるような演奏内容に仕上がっている。特に、カツァリスの真摯なその演奏内容には感動すら覚える。フランツ・リスト室内管弦楽団も、カツァリスにぴたりと寄り添い、深みのある音づくりに成功している。(蔵 志津久) 

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◇クラシック音楽CD◇第14回「ショパン国際ピアノコンクール」優勝者 ユンディ・リのリスト&ショパン:ピアノ協奏曲第1番

2018-02-20 07:54:51 | 協奏曲(ピアノ)

リスト:ピアノ協奏曲第1番
ショパン:ピアノ協奏曲第1番

ピアノ:ユンディ・リ

指揮:サー・アンドリュー・デイヴィス

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団

CD:ユニバーサルミュージック UCCG‐52077

 ピアノのユンディ・リ(1982年生れ)は、中国、重慶出身。1989年からピアノを習い始め、1995年「ストラヴィンスキー国際ユースピアノコンクール」第3位に入賞する。さらに1999年「リスト国際ピアノコンクール」第3位、「ジーナ・バックアウワーヤングアーティスト国際ピアノコンクール」第1位と常にコンクール上位入賞を果たす。そして、2000年ワルシャワで開かれた第14回「ショパン国際ピアノコンクール」で優勝し、一躍世界的に注目を浴びることになる。ショパン・コンクールでの優勝は中国人では初、アジア人ではヴェトナムのダン・タイ・ソンに次いで二人目となる快挙であった。ショパン・コンクール優勝後は、ドイツのハノーファー音楽大学で研鑽を積み、現在は香港の市民権を得て同地に在住している。初来日は2001年。このCDには得意とするリストとショパンのピアノ協奏曲が収められている。

 リストのピアノ協奏曲第1番は、1830年代から1856年にかけて作曲された。初演は1855年2月17日に、ベルリオーズの指揮とリスト自身のピアノによって、ヴァイマールの宮廷で行われた。第3楽章を中心にトライアングルが用いられているが、当時、トライアングルを用いることは非常に珍しいことであったため、音楽評論家のハンスリックなどからは「トライアングル協奏曲」と揶揄されてしまうこととなる。全体は、第1楽章「アレグロ・マエストーソ」、第2楽章「クワジ・アダージョ」、第3楽章「アレグレット・ヴィヴァーチェ-アレグロ・アニマート」、第4楽章「アレグロ・マルツィアーレ・アニマート」の4つの楽章から構成され、全曲を通じて連続して演奏される。全体に明快で輝かしさを持ったピアノ協奏曲に仕上がっているため、現在でも演奏会でしばしば取り上げられる、人気のあるピアノ協奏曲として親しまれている。

 ショパンのピアノ協奏曲第1番は、1830年に完成された。初演は、ショパン自身のピアノ独奏により、同年10月11日、ウィーンへ出発する直前に行われたワルシャワでの告別演奏会で行われた。この曲は、しばしば「ピアノ独奏部に対してオーケストラの部分が貧弱である」という批判を受けてきた。このため、第三者による管弦楽部分の改訂版も書かれているほど。現在、この曲の自筆譜はほとんど現存しておらず、このため管弦楽部分の何処までがショパンの自作なのか不明な点も指摘されている。しかし、この作品は、彼の故郷ワルシャワへの告別と、飛翔の意味が込められており、青春の息吹が込められたピアノ協奏曲の傑作として、現在、演奏会では欠かせない人気曲の一つになっている。

 このCDでのリストのピアノ協奏曲第1番のユンディ・リーの演奏は、実に躍動的であり、陰影のつけ方が圧倒的に素晴らしい。この協奏曲の場合、多くのピアニストは一気呵成に力任せに演奏しすぎるきらいがあるが、ユンディ・リーは、一切そのようなことはない。一遍の詩の朗読を聴くがごとく、起伏に富んだ物語が目の前で展開されるかのような印象をリスナーは受けるのだ。特に、色彩感を持ったピアノの音色が誠に持って心地良い。私は、リストのピアノ協奏曲第1番が、こんなにも奥行きが深く、抒情味に富んだ曲であることを、このCDを聴くまでは知らなかった。一方、ショパンのピアノ協奏曲第1番は、哀愁を含んだ青春のほろ苦さという表現に力点が置かれ、特に流麗とも言える表現力が際立った演奏内容を聴かせてくれる。ユンディ・リーの手にかかるとたちまちのうちに一音一音が生き生きとよみがえり、その新鮮な演奏内容にはただただ感心させられる。デイヴィス指揮フィルハーモニア管弦楽団も、そんなユンディ・リーの演奏をより一層際立たせることに見事に成功した演奏を聴かせてくれる。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ベロフのプロコフィエフ:ピアノ協奏曲全集(第1番~第5番)他

2016-03-15 16:26:31 | 協奏曲(ピアノ)

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲全集(第1番~第5番)
         ヘブライの主題による序曲Op.34
         束の間の幻影Op.22(第1曲~第20曲)

ピアノ:ミシェル・ベロフ

指揮:クルト・マズア

管弦楽:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

クラリネット:ミシェル・ポルタル

弦楽四重奏:パレナン四重奏団

CD:EMIミュージック・ジャパン TOCE16144~5

 セルゲイ・プロコフィエフ(1891年―1953年)は、ウクライナ地方南部のソンツォフカ村に生まれた。5歳の時から作曲を始めたというから、その早熟ぶりが窺える。そして、11歳の時に交響曲を、12歳の時にはオペラを作曲したという。13歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学。同音楽院卒業試験でバッハのフーガと自作のピアノ協奏曲第1番を弾き、アントン・ルビンシテイン賞を得ている。26歳の時、ロシア革命が起こり、これが引き金となり、日本を経由してアメリカに渡る。この時のプロコフィエフの日本滞在は、ヨーロッパの大作曲家の初の訪問となり、演奏会を開催するなどして、当時の日本楽壇に少なからぬ影響を及ぼした。

 その後、プロコフィエフは帰国するが、57歳の時、ジダーノフ批判の対象となり作曲活動を制限されてしまう。ジダーノフ批判とは、労働者階級に寄与しない芸術活動は排除するもので、多くの芸術家が命を絶つという悲惨な現実が待っていた。それでも、作曲活動を続けられたというのは、既にプロコフィエフは、世界的名声をえており、旧ソ連政府といえども、そう簡単に手出しができなかったからと言われている。プロコフィエフが死んだのは、1953年3月5日であり、偶然にもスターリンが死んだ同じ日の3時間前であった。スターリンの死はたちどころに世界に知られたが、プロコフィエフの死は、ほとんど誰にも知られることはなかった。

 そんなプロコフィエフのピアノ協奏曲全集(第1番~第5番)とヘブライの主題による序曲Op.34、それに束の間の幻影Op.22(第1曲~第20曲)を収録したのがCD2枚組のこのアルバムで、フランスの名ピアニストのミシェル・ベロフが弾いている。そして伴奏指揮は、昨年惜しまれつつこの世去ったクルト・マズア(1927年―2015年)である。プロコフィエフは旧ソ連政府の弾圧の対象になったが、最後まで作曲の筆を折ることはなかった。一方、クルト・マズアは、優れた指揮者であると同時に、ドイツ統一の際の英雄としてドイツ国民から崇拝された。そんなことを考えると、このCDは、何か因縁めいた録音に思えてくる。

 ドビュッシー、メシアンなど近代フランス音楽の演奏で知られるミシェル・ベロフ(1950年生まれ)は、フランスのピアニスト。パリ音楽院に進み1966年に首席で卒業。1967年第1回オリヴィエ・メシアン国際コンクール優勝。1970年メシアンの「幼な児イエズスに注ぐ20のまなざし」の全曲演奏を行い注目される。しばしば来日しており、日本でもファンが多い。ベロフは、一般的には、ドビュッシーやラヴェルといったフランス印象主義音楽、さらにバルトークやメシアンのスペシャリストとしての印象が強いが、一方で、リストやムソルグスキー、プロコフィエフといったヴィルトゥオーソ向けの難曲も得意としている。

 このCDで、超絶技巧を必要とするプロコフィエフ:ピアノ協奏曲第1番~第5番を、ベロフは唖然とするほどのテクニックで弾きこなしている。しかし、それは内容が空疎なヴィルトゥオーソではなく、プロコフィエフの現代的で、リズム感覚に溢れた、力強い作曲様式を的確に捉え、その特徴を余すところなくリスナーに届けてくれる。このため、このCDで、プロコフィエフのピアノ協奏曲全曲(第1番~第5番)を一気に聴き続けても、少しも長いとは感じられない。限りなく充実した演奏内容に仕上がっているのである。一方、同じプロコフィエフの「ヘブライの主題による序曲」と「束の間の幻影」では、フランス音楽を得意とする、いかにもベロフらしい、微妙なニュアンスの表現力が光る。ベロフのように、超絶技巧と同時に微妙なニュアンスを併せ持っているピアニストを、私はほかに聴いたことがない。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ツィマーマンのリスト:ピアノ協奏曲第1番/第2番/「死の舞踏」

2014-12-09 10:19:12 | 協奏曲(ピアノ)

リスト:ピアノ協奏曲第1番/第2番
    ピアノとオーケストラのための「死の舞踏」

ピアノ:クリスティアン・ツィマーマン

指揮:小澤征爾

管弦楽:ボストン交響楽団

CD:ユニバーサルミュージック UCCG‐2081

 ピアノのクリスティアン・ツィマーマンは、1956年、ポーランドのサブジェに生まれる。カトヴィツェ音楽院でアンジェイ・ヤシンスキに師事する。1973年ベートーヴェン国際音楽コンクール優勝。1975年第9回ショパン国際ピアノコンクールで史上最年少(18歳)優勝を果たす。1996年にはスイスのバーゼル音楽院の教職に就き、後進の指導にも当たる。1999年、ショパン没後150年を記念して、ポーランド人の若手音楽家をオーディションで集め、ポーランド祝祭管弦楽団を設立。2005年、フランスのレジオン・ドヌール勲章(シュバリエ章)を受章した。指揮の小澤征爾は、1935年、満洲国奉天市(中国瀋陽市)に生まれる。1951年、成城学園高校で齋藤秀雄の指揮教室を経て、桐朋学園短期大学で学ぶ。1959年から単身渡仏。1973年、ボストン交響楽団の音楽監督に就任。2002―2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。 2008年文化勲章を受章。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員。

 リストのピアノ協奏曲第1番は、4つの連続した部分から構成され、全体は単一楽章性で書かれている。第3楽章でトライアングルが活躍することから、「トライアングル協奏曲」とも言われる。初演は1855年、ヴァイマルの宮廷でベルリオーズの指揮と作曲者自身のピアノ演奏によって行われた。このCDでのツィマーマンは、流れるような抒情的味をふんだんに盛り込んだピアノ演奏を聴かせる。もうこれはリストの作品と言うよりは、ショパンのピアノ協奏曲を思い起こさせるような幻想の世界へと迷い込むようである。所々で小澤征爾指揮のボストン交響楽団が全開で伴奏を聴かせようやく、「そうだこれはリストのピアノ協奏曲だった」と思わせるほど異次元のリスト:ピアノ協奏曲第1番となっている。しかし、このことは、ツィマーマンの演奏に限っては、マイナス評価でなく、曲の持つ可能性に新たな次元を切り開くというプラスの評価となる。この録音は、ツィマーマンが現在世界最高峰のピアニストの一人であることを実証するような演奏内容と言えよう。

 リストのピアノ協奏曲第2番は、当初「交響的協奏曲」という名称が付けられていたが、後に取り下げられた。全体は6つの部分からなる単一楽章で書かれており、ピアノ協奏曲第1番よりもさらに形式が自由で、狂詩曲風あるいはピアノと管弦楽が一体になった交響詩的な性格が顕著となっている。リスト:ピアノ協奏曲第2番におけるツィマーマンは、第1番の時とはがらりと性格を変え、構成美を前面に打ち出した力強いピアノ演奏を聴かせる。この曲の“ピアノと管弦楽が一体になった交響詩”という性格が、手に取るように分かる。まるで、物語を語るようなツィマーマンのピアノ演奏に、多くのリスナーは満足を覚えるであろう。それを一層引きた立てているのが小澤征爾指揮のボストン交響楽団の伴奏だ。このオーケストラの十分な厚みのある音は、それだけで魅力たっぷりだ。ピアノとオーケストラがあたかも対話しながら曲が進んでいく様が、何とも言えず魅力的で、聴き惚れる。ツィマーマンと小澤征爾とボストン交響楽団の持つ高い音楽性が、深いところで結び付いているのだ。

 リストのピアノとオーケストラのための「死の舞踏」の原題は「死の舞踏-『怒りの日』によるパラフレーズ」であり、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」の旋律を用いた一種の変奏曲となっている。リストは1838年にイタリアを旅したが、その時、ピサの墓所カンポサントにある14世紀のフレスコ画「死の勝利」を見て深い感銘を受けたと言われる。ここでの霊感をもとに、最後の審判を想起させる「怒りの日」を主題として用い、ピアノとオーケストラのための管弦楽曲を作曲したのが「死の舞踏」である。1849年に一旦完成したが、その後改作を重ね、初演は、1865年にハンス・フォン・ビューローの指揮で行われた。このCDで、ツィマーマンのピアノ演奏は、実に重く、悲しく進行する。これまでのピアノ協奏曲の華やかな世界とは一転決別して、ここでは深い精神性に貫かれた神聖で劇的な世界を表現し尽す。ツィマーマンの演奏は、あたかも鋭く先の尖った槍のような武器を持って戦う戦士の姿を思い起こさせられる。ここまで聴いてきて、このCDアルバムにおいてツィマーマンは、3つの異なるリストの姿を描き分け、リスナーに届けることに狙いがあったように読み取れた。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ポリーニと今は亡きアバドのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番「皇帝」

2014-10-07 11:49:35 | 協奏曲(ピアノ)

 

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番「皇帝」

ピアノ:マウリツィオ・ポリーニ

指揮:クラウディオ・アバド

管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ユニバーサルミュージック UCCG-2076(ライヴ録音)

 このCDは、マウリツィオ・ポリーニのピアノ、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルの伴奏による演奏会のライヴ録音盤である。アバドは残念ながら2014年1月20に亡くなってしまったが、ポリーニは、未だ現役として活躍している。この現代を代表する二人の演奏家にによるベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番というのであるから、演奏内容は優れたものになっていることは、聴く前から充分に想像できるが、果たして二人がどうベートーヴェンに取り組むのかの興味は尽きない。マウリツィオ・ポリーニ(1942年生まれ)は、イタリア・ミラノの出身。1957年、15歳でジュネーブ国際コンクール第2位。1960年、18歳で第6回ショパン国際ピアノコンクールで第1位。その後、ミラノ大学で物理学を学び、イタリアの名ピアニストのアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリに師事する。1974年、初来日を果たしている。現在、世界最高峰のピアニストとして高い評価を得ているのはご存じの通り。

 指揮のクラウディオ・アバド(1933年ー2014年)は、ポリーニと同じ、イタリア・ミラノ出身。ウィーン音楽院で学ぶ。1959年に指揮者デビューを果たした。1968年ミラノ・スカラ座の指揮者となり、1972年には音楽監督、1977年には芸術監督に就任。さらに、1979年ロンドン交響楽団の首席指揮者、1983年には同楽団の音楽監督に就任した。1986年には、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。その後、カラヤンの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団芸術監督に就任し、現代最高の指揮者としての名を欲しいままとする。2000年に病魔に倒れたが、ベルリン・フィル辞任後もルツェルン祝祭管弦楽団などを指揮し活躍していた。来日直前の今年、胃癌により80年の生涯を閉じた。このCDの演奏は、1992年12月と1993年1月で、アバド60歳という指揮者として脂の乗り切った時に、手兵ベルリン・フィルを指揮した演奏を聴くことができる。

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は、1806年に作曲された作品。ピアノ協奏曲として、冒頭が独奏楽器のみで開始されるなど、第5番と並んで革新的手法が採用されていることで知られる。今でこそピアノ協奏曲の名曲として知られる同曲ではあるが、初演時には不評であったらしく、ベートーヴェンの死後、メンデルスゾーンが取り上げてから評価が定まったという。第5番が男性的な力強さの「皇帝」という名称で親しまれているが、この第4番は、女性的な優美さが特徴であり、さしずめ「女王」とでも呼んだらいいのではとも思われるほど。ここでのポリーニの演奏は、ポリーニ特有の透明感あるピアノタッチが冴えわたり、流れ出るような繊細さが辺りを覆い尽くし、滅多に聴くことにできない優雅な第4番の演奏となった。ピアノの一音一音がキラキラと光り輝くような美しさに彩られている。それでいて、きちっとしたメリハリを持っている演奏ため、情緒にながされることは決してない。アバド指揮ベルリン・フィルは、そんなポリーニのピアノ演奏に後ろから寄り添うように伴奏するが、時折、前面に出て、演奏全体を高揚感あるものにしている。

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番は、1809年に完成した作品で、「皇帝」の名で知られている。「皇帝」という名はベートーヴェンが付けたものではなく、後世付けられたもので、曲が「皇帝」のように威風堂々としているからとか、ピアノ協奏曲の中の「皇帝」だからとか、諸説ある。「皇帝」の第1楽章の出だしを聴いただけで、誰もがその威厳に満ちた堂々とした佇まいに圧倒されるであろう。ここでのポリーニのピアノ演奏は、第4番とは趣をがらりと変え、男性的な力強さに満ち満ちた豪快なピアノタッチが印象的だ。テンポも中庸を心得、非常に安定感のあるバランスの良い演奏となった。ポリーニのピアノ演奏は、透明感のある音質に加え、常に音が流れ、自然な音づくりが特徴といえようが、ここでは、さらに力強さも加わり、「皇帝」を演奏するには、申し分ないものになった。アバド指揮ベルリン・フィルの伴奏も、第4番の時のようなポリーニを後ろから支えるのではなしに、最初からポリーニのピアノと対等に渡り合うような存在感を見せつける。ポリーニとアバド指揮ベルリン・フィルとががっぷりと組み合うことによって、如何にも「皇帝」らしい、男性的な威厳のある演奏内容となっており、リスナーはその演奏内容に酔わされること請け合いだ。特に第2楽章でポリーニの独白のようなピアノとアバド指揮ベルリン・フィルとが微妙に絡み合う様は秀逸。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇アルゲリッチ&アバドのプロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番他

2014-04-15 11:19:14 | 協奏曲(ピアノ)

~アルゲリッチが今は亡きアバドと共演した名盤~

プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番

ラヴェル:ピアノ協奏曲
      ピアノ組曲「夜のガスパール」

ピアノ:マルタ・アルゲリッチ

指揮:クラウディオ・アバド

管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ユニバーサル ミュージック UCCG 4662

 これは、若き日のマルタ・アルゲリッチ(1941年生まれ)とクラウディオ・アバド(1933年ー2014年)の共演を1枚のCDに収めたもの。それぞれの曲のベスト1かベスト2のいずれにかは必ずリストアップされるという、類まれな名盤と言って間違いなかろう。アバドは今年の1月20日に、突然この世を去ってしまったので、追悼盤としての意味合いもある。このジャケットの2人の顔を見ると、若さに溢れ、演奏家としての充実した日々を送っていたことを窺わせる。マルタ・アルゲリッチは、アルゼンチンのブイノスアイレス出身のピアニストで、現役としては、世界を代表するピアニストの一人。音楽教育はウィーンで受け、1957年、ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールにおいても優勝し、その名が世界的に知られることとなる。さらに1965年、ショパン国際ピアノコンクールで優勝。このアルゲリッチは、ピアニストのほか若手育成にも力をいることでも知られる。「別府アルゲリッチ音楽祭」「マルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール」「ブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭」、さらにルガーノにおいて「マルタ・アルゲリッチ・プロジェクト」を開催している。最近では、毎年のように日本を訪れており、わが国でも多くのファンを有している。一方、クラウディオ・アバドは、イタリア・ミラノ出身の指揮者。ヴェルディ音楽院の後、ウィーン音楽院で指揮を学ぶ。1959年に指揮者としてデビューを果たす。1972年、ミラノ・スカラ座の音楽監督に就任。1986年には、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任。さらに、1990年、カラヤンの後任としてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督に就任し、これによりアバドは、世界の指揮界の頂点を極めたことになる。一度は病に倒れるが、その後復帰し、ルツェルン音楽祭管弦楽団などを指揮していた。2014年1月の突然の訃報は、世界のクラシック音楽ファンを悲しませた。

 最初の曲は、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番。プロコフィエフは、全部で5曲のピアノ協奏曲を作曲しているが、最も知られているのが、この第3番である。作曲期間は、1916年~1921年と5年間をかけている。この間、プロコフィエフは、第一次世界対戦、そしてロシア革命を体験し、ロシアからアメリカへと亡命する。このため、この曲の初演は、シカゴで行われた。時として、プロコフィエフの曲は現代音楽的な要素を帯びるが、この曲は、逆に新古典的な曲であり、バランスの良い仕上がりを見せ人気が高い。要するに、安心して聴けるところがリスナーの支持を得たようであり、同時にピアニストの技巧が最大限に発揮されるところが人気の秘密なのであろう。オーケストラのパートは、単にピアノの伴奏というよりは、独立した楽曲ちして、聴いていて大いに楽しめる。このCDでのアルゲリッチのピアノ演奏は、アルゼンチン出身というラテン系の優位さを最大限に発揮する。ピアノの鍵盤をリズミカルに、激しく打ち付ける抜群のリズム感覚が何とも凄い。そして、あたかもオペラのワンシーンを見ているかのように、ドラマチックに曲を盛り上げていく様は、聴いていて手に汗握るがごとくスリリングである。しかし、一方では、ゆっくりとしたテンポで、弱音の部分に来ると、抒情味たっぷりに弾きこなす。そんなアルゲリッチの演奏を聴いていると、アルゲリッチとこの曲の相性が抜群に良いことに気付かされる。アバドの指揮ぶりは、そんなアルゲリッチの演奏を存分に盛り立てる。一般にアバドの指揮は、少しも奇を衒うことがない正統的なものだが、ここでもその特徴が発揮されている。アルゲリッチとのやり取りは、間髪を入れず行うが、そこには少しの“崩れ”は見られない。聴き終わって、何かすっきりとした感覚に覆われるのは、このためであろう。

 2曲目は、ラヴェル:ピアノ協奏曲。ラヴェルは、ピアノ協奏曲を2曲残している。一つは、このピアノ協奏曲で、もう一つは、左手のためのピアノ協奏曲だ。ピアノ協奏曲は、1931年に完成し、初演は、1933年にフランスの名ピアニストであったマルグリット・ロンがピアノ演奏し、曲は彼女に献呈された。この曲は、フランス風の華やかさに全体が覆われた、美的な感覚を持った作品。このためもあって、アルゲリッチのピアノ演奏は、プロコフィエフの時の激しさを取り除き、抒情味を一層強調した演奏スタイルに変身を遂げる。このようなフランスの感覚を持った曲でもアルゲリッチは、完全に自分の中で昇華させ、自分の語り口で演奏できるところが、プロコフィエフの時とは違った意味で凄さを感じる。第2楽章の独白のような部分の弾きっぷりの良さには、多くののリスナーは惚れ惚れと感じてしまうだろう。ピアノの音色自体は丸身をおび、しかも美しい。まるで目の前で、鮮やかな色彩が舞っているかのごとくである。第1楽章と第3楽章は、軽快なテンポで弾かれるが、少しの無駄のない演奏技能は、聴いていて小気味いいこと、この上ない。アバドの指揮も、プロコフィエフの時と同じく、軽快であると同時に、あくまで正統的でもあり、アルゲリッチとの息も完全に合っており、センスの良い仕上がりを見せる。アルゲリッチもアバドも、決して曲の表面だけをなぞるような演奏はせず、完全に自分のものとして演奏しているところが、高い評価の原因だろう。

 最後の曲は、アルゲリッチのピアノ独奏で、ラヴェル:ピアノ組曲「夜のガスパール」(「水の精<オンディーヌ>」「絞首台」「スカルボ」)が収録されている。この曲は、は、ルイ・ベルトランの詩集を題材にしたピアノ組曲。ルイ・ベルトランは、散文詩という様式を確立し、ボードレールの散文詩にも大きな影響を与えた詩人だという。1曲目の「水の精<オンディーヌ>」の詩の内容は、「人間の男に恋をした水の精オンディーヌが、結婚をして湖の王になってくれと愛を告白する。男がそれを断るとオンディーヌはくやしがってしばらく泣くが、やがて大声で笑い、激しい雨の中を消え去る」。2曲目の「絞首台」の詩の内容は「鐘の音に交じって聞こえてくるのは、風か、死者のすすり泣きか、頭蓋骨から血のしたたる髪をむしっている黄金虫か」。そして3曲目の「スカルボ」の詩の内容は、「スカルボ―身体の太った地の精。邪悪な侏儒。それは夜な夜な人足絶えた町なみをうろつき、片目の目は・・・つぶれている」。この詩は、19世紀の前半のロマンティシズムの台頭期の作品であり、怪奇な幻想に満ちた内容を持つ。ラヴェルは、この詩の内容の雰囲気をたぎらせた名曲のピアノ組曲「夜のガスパール」を書いた。ここでのアルゲリッチは、文学的な表現力を存分に発揮し、怪奇で幻想に満ちた雰囲気を巧みに演出してみせる。しかし、そこには、何ら意図的なところは感じさせない。あたかも、リスナーは知らず知らずのうちに、怪奇で幻想に満ちた詩を読んでいるかのような感覚に捉われる。私は、アルゲリッチのピアノの音色に魅了された。全体が幻想感に覆われた感じがする反面、その芯は、あくまでしっかりとしたタッチの上に構築されている。透明感を持った、しかも暖かみのあるその音質は、この曲の絶妙な味わいを表現するのに、ぴたりと合う。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇グルダのベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番「皇帝」

2013-03-19 10:45:17 | 協奏曲(ピアノ)

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番「皇帝」

ピアノ:フリードリヒ・グルダ

指揮:ホルスト・シュタイン

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ユニバーサルミュージック(DECCA) 480 1191

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲は全部で5曲残されている。一番有名なのが第5番「皇帝」であり、第3番もしばしば演奏される。第4番は、これら2曲に比べ比較的地味な存在ではあるが、作品内容は革新的意欲に溢れたピアノ協奏曲として高く評価されている。1806年に完成し、その第1楽章の独奏楽器のみで開始される冒頭は、それまであまり例のない形式であり、それだけベートーヴェンのこの曲に賭ける意気込みが窺える。初演は1807年3月に行われたが成功には至らなかったと言われている。最初に成功を収めたのは1836年にメンデルスゾーンが取り上げてからだというから、実に30年余り、この第4番のピアノ協奏曲は、評価を受けず、ただ眠っていたということになる。これは、それまでのバロックやロココ調の協奏曲に馴染んだ聴衆の耳には、第4番のピアノ協奏曲は、理解を超えた内容に聴こえたからではなかろうか。つまり、精神的な昇華では5曲中最高の位置づけられるほどの高さに達し、生の人間の心情が溢れ出したようなその作品の内容は、当時の他の作曲家の作品では到底考えられなかったものであり、聴衆もそのような曲をどう評価していいのかも分からなかったのが実情であろう。

 ピアノ協奏曲第5番「皇帝」は、1809年に完成し、1811年に初演が行われている。「皇帝」というニックネームが付けられているが、ベートーヴェン自身により付けられたものではない。「皇帝」という名の由来は、ベートーヴェンが唯一心を許したといわれているルドルフ大公に捧げられたからという以外に、皇帝を連想させる作品内容だからとか、また、あらゆるピアノ協奏曲の頂点に立つ作品だから、といった説などがある。ベートーヴェンは、この曲で、従来、独奏者が即興的に挿入することが慣例になっていたカデンツァを止め、ベートーヴェン自身がカデンツァに当たるものを楽譜に記入してしまった。これは、当時、当たり前だった、ピアニストが過剰に技巧を見せびらかすカデンツァの演奏を中止させることを意味し、貴族にも頭を下げなかったと言われている、如何にもベートーヴェンらしい思い切った試みだ。作曲当時、ベートーヴェンのいたウィーンは、ナポレオンのフランス軍に占領され、得ていた年金もインフレで価値が減じ、ベートーヴェンは生活に苦慮していたという。ピアノ協奏曲第5番「皇帝」の内容は、これとは正反対の意気軒昂、実に堂々とした作品に仕上がっており、これまた、如何にもベートーヴェンらしい話だ。

 このCDでベートーヴェンの2曲のピアノ協奏曲を演奏しているのは、ウィーン出身の名ピアニストのフリードリヒ・グルダ(1930 年―2000年)である。最近、よく来日しているピアニストのパウル・グルダの父親だ。グルダのピアノ演奏は、流れるような流暢な演奏に加え、万人が納得するような中庸を得た、説得力のある表現力が大きな強みとなっている。それはどこから来るかというと、20歳ごろから目覚めたジャズへの傾倒であると私は思う。ジャズにのめり込むグルダに対して、当時のクラシック音楽ファンは戸惑いを覚えるが、グルダ自身も、そんなクラシック音楽ファンに対し、悩んだという。グルダの考えは、もし、モーツァルトが20世紀に生きていたら、きっとジャズに打ち込んだだろうというものであったようだ。つまり、グルダは、確信犯としてクラシック音楽とジャズの間を彷徨い歩いた数少ないピアニストであったのだ。しかし、このことは、クラシック音楽を演奏する場合、マイナスよりプラスに作用していたようだ。そのことは、このCDを聴いてみると何となく理解がいく。どことなく、伝統的なベートーヴェンのピアノ協奏曲とは異なり、いい意味での軽いノリで演奏しているように聴こえる。つまり、ベートーヴェンの曲を、あたかもジャズでいうスイングして弾いている見たいに聴こえるのだ。だから、伝統的なバックハウスのような弾き方を至高とするリスナーにとっては、多少違和感が残る演奏かもしれない。

 このCDに収められた、ピアノ協奏曲第4番第1楽章のグルダの演奏は、夢幻的な柔らかさに包まれた詩情豊かな世界を繰り広げて、この曲の特徴を最大限に引き出すことにものの見事に成功していると言える。曲の内容とピアニストの資質が、見事に溶け合っているかのようだ。特にグルダのピアノの音色が美しいことが印象に残る。第2楽章は、力に満ちた伴奏のホルスト・シュタイン(1928年―2008年)指揮ウィーン・フィルが、印象的な演奏を聴かせる。それに加え、技巧の限りを尽くしたグルダとの掛け合いがとてもいい。第3楽章は、グルダの独自の演奏スタイルが花開いたような華麗な展開に思わず引き寄せられる。一方、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」第1楽章の演奏は、この曲の持つ堂々とした威厳のある雰囲気を十二分に発揮し、聴き応えは十分。4番の奏法とは一転したグルダのこの辺の正攻法が、大いに聴衆を沸かせる源ともなっているのであろう。変幻自在とでもいったらよいのであろうか。第2楽章は、第4番の第2楽章に見せた、あのグルダの抒情的な演奏が再現され聴き惚れる。演奏自体が流れるようで美しいことこの上ない。第3楽章は、グルダのピアノ演奏の技巧と、ホルスト・シュタイン指揮ウィーン・フィルの雄大な伴奏とが巧みに混ざり合い、如何にも「皇帝」らしさが出ていて満足できる。(蔵 志津久)

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