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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇フリッチャイ&メニューインのチャイコフスキー:悲愴交響曲/ヴァイオリン協奏曲

2010-11-30 13:33:23 | 交響曲(チャイコフスキー)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」
         :ヴァイオリン協奏曲

指揮:フェレンツ・フリッチャイ

ヴァイオリン:ユーディ・メニューイン

管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(交響曲第6番「悲愴」)
     RIAS‐シンフォニーオーケストラ(現ベルリン・ドイツ交響楽団)

CD:ドイツ・グラモフォン 445 409‐2

 フェレンツ・フリッチャイ(1914―1963)は、ハンガリー出身の世界的名指揮者である。一般にはそう知名度は高くはないが、その実力たるや超一流であることは誰もが認めるところ。しかし、1962年に白血病が悪化し、1963年、スイスで48歳の若さで亡くなってしまった。余りにも早い死によって、指揮者としてこれからが本格的な円熟の境地に入ろうとした機会を失った、“悲劇の指揮者”なのである。その指揮ぶりは実にメリハリの効いたもので、今、録音を通して聴いてもオーケストラの団員が全力を振り絞って、フリッチャイの指揮にようやくついて行っている様子が窺え、フリッチャイとオーケストラの団員との緊張感がひしひしと伝わってくる。こんな例は、フリッツ・ライナーぐらいしかいなかったのではなかろうか。そのフリッチャイが長生きしていたなら、果たしてどんな指揮ぶりに変貌を遂げたのだろうか。フルトヴェングラーのように超然とした指揮ぶりになるのか、最後までトスカニーニのように一糸乱れぬ整然とした指揮ぶりに終始するのか。

 そのフェレンツ・フリッチャイがチャイコフスキー名曲を振ったのが今回のCDである。メリハリを身上とするフリッチャイが、ロシアの民族音楽の元祖みたいなチャイコフスキーを指揮したらどうなるのか?普通考えるとどうも相性が良くないと思いがちだが、意外にそうでもない。それは、フリッチャイの桁外れな情熱と、暗く、陰鬱なチャイコフスキーの情熱とがうまく混ざり合って、聴くものを圧倒する出来栄えとなっている。このCDでも、フリッチャイの指揮は一点の曖昧さもない。一方、チャイコフスキーの曲は、茫洋とした暗い情念を漂わせている。この二つの接点を考えてみると、チャイコフスキーの曲に、何か一本芯張り棒のようなようなものをフリッチャイが付け加えることによって、結果としてスケールの一回り大きな、しかも過去からの引きずった古臭いチャイコフスキー像に代わり、新鮮で筋肉質の近代的な新しいチャイコフスキー像の創造に成功したということができる。

 チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」は、フリッチャイが指揮した名盤としては、ベルリン放送交響楽団との録音が有名であるが、このCDは、1953年7月にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した録音である。第1楽章から、これまでのどの指揮した「悲愴」より緊迫感が格段に違うことに驚かされる。正に真剣勝負の「悲愴」であり、このことが悲愴交響曲が本来持つ暗い情念を、的確にリスナーに届けてくれる。聴くだけでも相当のエネルギーを消耗してしまうのではないのではなかろうか、と思うほどだ。第2楽章は、一転してゆっくりとした足取りで進む。細部まで神経を行き渡らせた演奏は、何とも心地いい気分にリスナーを包んでくれる。フリッチャイはただ行け行けだけの指揮者ではないのである。懐が深いのだ。第3楽章は、揺れ動く曲想を、速いスピード感で思い切って描き切って見せるところが何とも凄い。第4楽章は、チャイコフスキーならではの哀愁たっぷりのメロディーに覆われるが、フリッチャイの指揮は、単なる甘さだけでなく、遠近感を持った絵を見ているような、壮大でしかも爽快な気分を味あわせてくれる。そして、最後は限りない静かさをもって終える。 

 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲は、ヴァイオリンがユーディ・メニューイン、管弦楽が1946年に西ベルリンで設立されたRIASシンフォニー・オーケストラ。この初代首席指揮者であったのがフリッチャイで、コンサートマスターには豊田耕児が就任していた。その後1956年に同オーケストラは、ベルリン放送交響楽団に改称し、1993年、現在のベルリン・ドイツ交響楽団となった。ヴァイオリンのユーディ・メニューイン(1916年―1999年)は、米国出身のユダヤ系名ヴァイオリニスト。座禅やヨガにも興味を持ち、来日もしているので日本人にとっては特に親みのあるヴァイオリニストの一人であった。後年は指揮もし、音楽教育者としても有名であった。フリッチャイとメニューインというまたとないスターの組み合わせのこのCD、第1楽章は、これまで聴いたことのないようなゆっくりとしたテンポで始まる。あたかも千両役者がしずしずと舞台の中央に進み出るのを見る思いがする。何いう深みがあり、自愛のこもったヴァイオリンの演奏なのであろうか。ここでのフリッチャイは、伴奏に徹しているが、やはりそこはフリッチャイ、一本芯の入った伴奏ぶりで、雄大な演奏を繰り広げる。こんな役者の揃ったスケール大きいチャイコフスキーは、滅多に聴けるものではない。第2楽章は、限りない哀愁を漂わせた演奏が聴ける。第3楽章は、ヴァイオリン協奏曲が持つ“華”の部分が一挙に咲き零れる。これの録音は、数あるチャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲の中でもトップクラスに位置づけられる名盤だ!(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇オーマンディのチャイコフスキー:交響曲第5番/弦楽セレナード

2009-10-29 09:14:13 | 交響曲(チャイコフスキー)

チャイコフスキー:交響曲第5番/弦楽セレナード

指揮:ユージン・オーマンディ

管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団

CD:ソニー・エンターテインメント(ジャパン) SRCR 8881

 チャイコフスキーの交響曲第5番も弦楽セレナードも、クラシック音楽の定番ともいえる名曲であり、これまで無数といっていいほどの録音が残されている。つまり、ある意味では、もうお腹いっぱいといった感じの名曲なのであるが、その芳醇で華麗な響きで“フィラデルフィア・サウンド”という名で親しまれてきた、ユージン・オーマンディ(1899年ー1985年)とフィラデルフィア管弦楽団のコンビの演奏となると、状況がまた違ってくる。私にとってお腹いっぱいどころか、空腹状態で、もっと食べたいという風に状況がたちどころに違ってくるのである。指揮者とオーケストラが、これほど密接な関係にある例を、私はほかに知らない。

 つまり、指揮者とオーケストラとが一体化し、極上の音楽を紡ぎだしているのである。オーケストラは、指揮者が次に何を要求するのかを知り尽くしており、決して指揮者に引っ張られて演奏しているという感じが全くしないので、聴いていて爽快な気分に浸れる。何よりも響きが豊かでまろやかなところがいい。しかも、いかにもアメリカの風土で培われた、明快で曖昧さのない、伸びやかな明るさが、ヨーロッパの伝統のあるオーケストラとは一線を画している。アメリカ独特の大衆性の重視といった姿勢に一貫として貫かれている。このため、主にヨーロッパのオーケストラの渋みのある響きを好む、音楽評論家の先生達には、必ずしも受けはいいとはいえないようなのだ。

 例えば、「新版 クラシックCDの名盤」(宇野功芳/中野雄/福島章恭共著、文春文庫)で、チャイコフスキーの交響曲第5番のところを見てみると・・・「ムラヴィンスキー/レニングラード・フィル」「モントゥー/ロンドン響」はあっても、「ユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管」が見当たらないのである。それなら私はあえて「ユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管」を、意地になってもこの場で推そうと、心に決めた。

 このCDの録音データによると、交響曲第5番が1959年1月25日、弦楽セレナードが1960年4月10日で、フィラデルフィアのブロードウッド・ホテルでの録音だそうだ。ということはオーマンディが60歳くらいの録音であり、正に油の乗り切った、充実した演奏を披露してくれている。ユージン・オーマンディは、ハンガリーのブタペストに生まれている。そして、ブタペスト王立音楽院でヴァイオリンを学んだ。つまり、あの豊穣の音の響きの源泉は、東欧の弦の響きにあったわけである。1921年、オーマンディ22歳のとき米国に渡り、指揮者に転向、37歳のときに、レオポルド・ストコフスキーとともにフィラデルフィア管弦楽団の共同指揮者となっている。以後、音楽監督として実に42年にわたり同管弦楽団に在籍。要するに、東欧の弦の響きと米国の開放感とが一体化したところに“フィラデルフィア・サウンド”が生まれ、育ったのだ。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ムラヴィンスキーのチャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2009-04-23 07:05:40 | 交響曲(チャイコフスキー)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(1982年10月17日デジタルライブ録音)

指揮:エフゲニー・ムラヴィンスキー

管弦楽:レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ビクター音楽産業 VDC-25025

 ムラヴィンスキーの指揮は、曲に真正面から取り組み、少しの曖昧さも許さない、誠に厳格であるにもかかわらず、一方では人間みに溢れ、そして雄大でおおらかな包容力に満ちたものであった。今の指揮者には求めることが難しい資質をふんだんに持った偉大なる指揮者だったのである。そのムラヴィンスキーが振った1枚のライブ録音のCDがこのチャイコフスキーの「悲愴」交響曲である。

 第一楽章から一種異様な緊張感が漂い、ただ事ならざる陰鬱な雰囲気を醸し出す。それが第2楽章では、人が遥か昔を偲びながらこれまでの人生を回顧するような、しみじみとした心情を描ききる。さらに第3楽章に入ると、第1楽章と同様、すざましいほどの緊張感に包まれ、怒りとか絶望感とかが炎になって立ち上っていくようだ。そして、第4楽章は、第2楽章と同様に静かな中での絶望感とかやりきれなさを心の奥深く仕舞い込み、最後はすすり泣くようにして全曲を締めくくる。

 凡庸な指揮者が「悲愴」を指揮すると、1-4楽章がただただ暗く一本調子に終わってしまうことが多い。ところがムラヴィンスキーは4つの楽章の一つ一つの輪郭それぞれはっきりと描き分けて、我々の前に提示してくれる。チャイコフスキーは、人生の苦しみとか悩みとかを、これほどの大きなスケールで描いたのだと改めて感じさせてくれる、ムラヴィンスキーでしか為し得ない名演奏のCDとなっている。

 このCDは、レニングラード放送局に秘蔵されていたライブ録音で、ビクターが15年もの年月をかけた末に、同放送局の許可を得てCD化したという。ムラヴィンスキーの専属エンジニアのシュガル氏が秘蔵していたマスターテープを基に直接CD化してあるため、今から27年前の録音にもかかわらず、鮮明な音質でムラヴィンスキーの指揮ぶりを聴くことができる貴重なCDだ。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇ムラヴィンスキーのチャイコフスキー:交響曲第5番

2008-09-26 17:33:03 | 交響曲(チャイコフスキー)

チャイコフスキー:交響曲第5番

指揮:エフゲニー・ムラヴィンスキー

管弦楽:レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ビクター音楽産業 VDC-25024

 私はチャイコフスキーの交響曲の中でこの5番が一番好きである。4番ほど派手ではないし、5番ほど陰鬱でなく、ちょうどいいメランコリーさといったところが、たまらなくいい。聴く度に懐かしく、そのメロディーに酔わされる。であるからして、演奏内容がぴたっと当てはまらないと、とてもいたたまれなくなる。その点、このCDのムラヴィンスキーとレニングラード・フィルの演奏は極上の第5シンフォニーに仕上がっている。一瞬、室内楽を聴いているかのような緻密な表現があるかと思えば、圧倒的なフォルテシモでのたたみかけるような音の饗宴が繰り広げられる。

 特に強調したいのが全体の構成がきりっと締まっていることだ。チャイコフスキーというと、よく妄想の限りを尽くした指揮をする指揮者がいる。はまり込んでいるのは指揮者当人だけで、リスナーはただ唖然と聴いているといったことも多い。このCDのムラヴィンスキーはそんな凡庸な指揮振りとは違い、現代の我々が聴いて十分納得がいく客観性をもっているところが凄い。

 ムラヴィンスキーは1988年に84歳の生涯を終えた。このCDは1983年3月19日にレニングラード・フィルハーモニー大ホールで行われた、レニングラード・フィルの創立100周年記念特別演奏会のライブ録音だそうだ。デジタル録音なのでライブ録音とはいえ音質は抜群にいい。楽器の一つ一つが聞き分けられるようで、各パートの位置関係も明瞭だ。ライブ録音だけに音自体に力があり、リスナーにとってはこの上ないCDだ。

 このCDの腰巻(CDの場合はなんというのかは知りません)には、“世紀の巨匠ムラヴィンスキー幻の名録音遂に発見!!”“放送局所有のオリジナル・マスター・テープから直接CD化、驚異の音質!!”と謳ってある。レニングラード放送局のテープ倉庫深く眠っていたムラヴィンスキーの専属エンジニア、シュガル氏秘蔵のマスター・テープから直接CD化したものだそうだ。良いCDとの出逢いは人生を豊かにする・・・。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇上岡敏之指揮のチャイコフスキー“悲愴”

2008-05-24 08:28:46 | 交響曲(チャイコフスキー)

チャイコフスキー:交響曲第6番“悲愴”

上岡敏之指揮/ヴァッパータール交響楽団

CD:TDK-MA301

 マエストロ上岡敏之を初めて聴いたのは、07年12月のN響を指揮したベートーベンの“第9”のテレビ放送であった。全くの予備知識はなかったが、最初に頭をよぎったのは、これはなかなかいい指揮者だという印象だ。それもそのはず、ヴァッパータール交響楽団というのはドイツの中でも有力なオーケストラで、マエストロ上岡はその音楽監督に就任している。日本人がクラシック音楽の本場で、音楽監督に就任していること自体たいしたことだ。東京芸大を卒業後、ドイツのハンブルグ音楽大学に留学し、以後ヨーロッパの有力オーケストラを指揮し、名声を高めていった。音楽評論家・指揮者の宇野功芳氏は、ある雑誌に「指揮者で僕が注目するのは上岡敏之、ミッコ・フランク、プレトニョフの3人だ」と書いているほどである。

 このCDは実況録音盤である。曲づくりが緻密に構成され、その流れるような指揮ぶりの中に、内面から湧き出したように、躍動感溢れた表現にはっとさせられる。決して派手な演出はないが自然に溢れ出る感情の高まりに、充実感が感じられる。いわば玄人向けの指揮者であると言うことができよう。このことを宇野功芳氏は「未来のシューリヒトだ」とライナーノートに書いている。チャイコフスキーの“悲愴”は下手な指揮者がオーケストラを指揮すると、大時代がかったグロテスクな仕上がりになってしまうことが多いが、マエストロ上岡のこのCDは違う。あたかも今チャイコフスキーが作曲したかのような新鮮さが随所に溢れている。演奏の最後に拍手も収録されているが、ブラボーの掛け声が当日の演奏会の成功を偲ばせる。今後のマエストロ上岡の国際的活躍に期待したい。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇ムラヴィンスキーのチャイコフスキー:交響曲第5番/弦楽セレナード

2007-07-17 21:17:01 | 交響曲(チャイコフスキー)
チャイコフスキー:交響曲第5番/弦楽セレナード

演奏:エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮/レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ビクター音楽産業 VDC-25002

 ムラヴィンスキーは伝統的ロシア音楽の伝道者という感じを強く感じさせる指揮者だった。無骨で力強く、それでいて聴く者に何か安心感みたいな安らぎを与える。決して聴衆に媚びず、ただひたすらに音楽の正道を突き進んで行くのみという感じがした。あたかも「聴きたくなかったら聴かなくて結構。聴きたい人だけが聴けばいい」とでも言っているように。今はもう日本では死滅してしまった“頑固おやじ”とでもいった感じだ。しかし、ムラヴィンスキーの偉大なところは、ただ単に頑固だけでなく、その曲の持つ本質を聴衆に十分に伝えきる凄さがあるところだ。それに聴衆は感動する。もうこんな指揮者は出て来ないかもしれない。
(蔵 志津久)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
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◇クラシック音楽◇ジョージ・セルのチャイコフスキー交響曲第5番

2007-06-21 22:04:13 | 交響曲(チャイコフスキー)
チャイコフスキー:交響曲第5番

演奏:ジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団

CD:ソニー CSCR 8202

 ジョージ・セルという指揮者の名前を聞けば即座にクリーブランド管弦楽団が思い浮かぶほど両者の関係は切っても切れない関係にある。その演奏を聴けば、この両者の結びつきは単なる指揮者とオーケストラの関係以上のものであることが分かろう。一部の隙のない演奏だがさりとてぎすぎすしたものではなく、むしろ伸びやかな印象を与える。その音色は丁度ビロードのような感触に感じられる。重厚感があるが、決して重々しくない。羽目を外さない演奏なのだが、飽きが来ず、味わいのある雰囲気をかもし出す。何か古き良きアメリカを象徴しているかのようだ。
(蔵 志津久)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%AB
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◇クラシック音楽◇ヤンソンスのチャイコフスキー・悲愴交響曲

2007-06-07 21:17:24 | 交響曲(チャイコフスキー)
チャイコフスキー:交響曲第6番“悲愴”

演奏:マリス・ヤンソンス指揮 オスロフィルハーモニー管弦楽団

CD:英CHANDOS RECORD

 マリス・ヤンソンスは数々の録音を残しているし、日本でも演奏を行っているので親近感がわく。この“悲愴”も名録音の一つに挙げられる。ヤンソンスの指揮は躍動感溢れる指揮ぶりに加え、一方では叙情みにも優れた味わいを持っており、どことなく、フェレンツ・フリッチャイの指揮に似ている。聴いていて新鮮な味わいがするし、何よりもリズム感に富んでいる。オスロフィルもヤンソンスの指揮ぶりにぴったりの味わいを醸しだしている。十分に軽快なテンポを明快に弾きこむ一方で、幻想的な表現は他のオーケストラにはない独特なものだ。やはり北欧のオーケストラということが実感できる。(蔵 志津久)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B9
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◇クラシック音楽◇ジャン・マルティノンの“悲愴”

2007-05-05 18:44:19 | 交響曲(チャイコフスキー)
チャイコフスキー:交響曲第6番“悲愴”

演奏:ジャン・マルティノン指揮:ウイーンフィルハーモニー管弦楽団

CD:キングレコード K30Y 1515

 このCDは名盤として名高く、“悲愴”の録音では必ずといっていいほど引き合いに出される。何が名盤かといって泥臭さがまったくない蒸留水みたいな“悲愴”となっているからである。普通チャイコフスキーの演奏はロシア音楽独特の癖というか泥臭さが付きまとい、逆にこれを強調することがチャイコフスキーを上手く演奏するコツみたいになっている。この逆を行ったのがジャン・マルティノンである。洗練されたチャイコフスキーがウイーンフィルの美しい音で演奏されることによって、ロシアを意識しないで堪能できる。つまり蒸留水みたいな演奏なのだが、ただ無色透明というわけでなく、鮮やかの色彩を持った蒸留水とでも言ったらよいのであろうか。なかなかこれだけのことをできる指揮者はいない。(蔵 志津久)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%B3
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◇クラシック音楽◇セルジュ・チェビリダッケ指揮チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

2007-03-08 20:45:42 | 交響曲(チャイコフスキー)
チャイコフスキー:交響曲第6番“悲愴”

演奏:セルジュ・チェビリダッケ指揮/Munich Philharmonic Orchestra

CD:米国METERO=MCD-002

 フルトヴェングラーやカラヤンに比べ、チェビリダッケは日本人には馴染みは薄い。しかしその指揮ぶりは、フルトヴェングラーやカラヤンに並び立つほどの実力を備えている。戦後、フルトヴェングラーがナチの協力者という疑いの下、裁判にかけられた空白の期間、ベルリンフィルを率いて、ドイツでのオーケストラ活動を復興させた第一人者だ。しかし、フルトヴェングラーが復帰するとその陰に隠れ気味となってしまった。このチャイコフスキーの“悲愴”の実況CDを聴くと、その実力が手に取るように分かる。決してお涙頂戴の主観的な指揮に溺れることがない。かといって、突っ放した指揮ではなくあたかも自然に音楽が湧き上がってくるような音のつくり方をしている。これは只者ではない指揮者だという思いになる。観客の拍手も熱烈な賞賛にあふれていることが聴き取れる。このCDを抜きにしてチャイコフスキーの“悲愴”は語れないほどの名盤だ。(蔵 志津久)
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