<NHK-FM「ベストオブクラシック」レビュー>
~ヴィクトリア・ムローヴァ ヴァイオリン・リサイタル~
ベートーベン:ヴァイオリン・ソナタ第4番 イ短調 作品23
ヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 作品30第2
武満 徹:「妖精の距離」
アルヴォ・ペルト:「フラトレス」
シューベルト:華麗なロンド ロ短調 D.895
ベートーベン:ヴァイオリン・ソナタ 第5番 作品24「春」から第2楽章(アンコール)
ヴァイオリン:ヴィクトリア・ムローヴァ
ピアノ:アラスデア・ビートソン
会場:神奈川県立音楽堂
収録:2022年11月22日
放送:2023年3月29日 午後7:30~午後9:10
今夜のNHK-FM「ベストオブクラシック」は、ヴァイオリン:ヴィクトリア・ムローヴァ、ピアノ:アラスデア・ビートソンによる神奈川県立音楽堂における演奏会の放送である。ベートーベン:ヴァイオリン・ソナタでは、ムローヴァがガット弦の古楽ヴァイオリン、ビートソンがフォルテピアノを用いた。それ以外の曲では、スチール弦のヴァイオリンとモダンピアノを用いることによって、一晩で音色の異なるヴァイオリンとピアノの演奏を聴くことができた。
◇
ヴァイオリンのヴィクトリア・ムローヴァ(1959年生まれ)は、ロシア、モスクワ近郊ジュコーフスキー出身。モスクワ音楽院でレオニード・コーガンに師事。1980年「シベリウス国際ヴァイオリン・コンクール」、1982年「チャイコフスキー・コンクール」でともに優勝。1983年にフィンランドでの演奏旅行中に西側へ亡命。西側へ移住後、ウィーン・フィルやモントリオール交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、バイエルン放送交響楽団など、世界の主要なオーケストラと共演。また、エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団やオルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティークといった古楽器オーケストラとも共演。1990年代半ばからムローヴァ・アンサンブルを結成して、イタリアやドイツ、オランダで演奏活動を行う。小澤征爾指揮ボストン交響楽団と共演した録音(チャイコフスキーとシベリウスの協奏曲)は、モントルーの「ディスク大賞」を受賞。1995年には、アバド指揮ベルリン・フィルとのブラームスの協奏曲の録音(サントリーホールでのライヴ録音)は、「エコー・クラシック賞」と「ドイツ・レコード批評家賞」ならびに「レコード・アカデミー大賞」(音楽之友社)を受賞。現在、世界を代表するヴァイオリニストの一人。
ピアノのアラスデア・ビートソンは、イギリス、スコットランド出身。英国王立音楽大学でジョン・ブレイクリーに、インディアナ大学でメナヘム・プレスラーに師事。バーミンガム音楽大学で教鞭を執る。マルサック音楽祭を創設し、2012~18年に芸術監督を務め、2019年からはエルネンのスイス室内楽音楽祭の共同芸術監督を務める。古典派の作品に加え、シューマンやフォーレを得意とし、幅広いレパートリーを持つ。現代作曲家とも親密な関係を築いており、ソロと室内楽で幅広い活躍を見せている。
◇
今夜の演奏会は、3つのグループに分けられる。その第1のグループの演奏が、ムローヴァがガット弦の古楽ヴァイオリン、ビートソンがフォルテピアノを用いたベートーベン:ヴァイオリン・ソナタ第4番 イ短調 作品23とヴァイオリン・ソナタ第7番 ハ短調 作品30第2である。ヴァイオリンソナタ第4番は、1800年から1801年にかけて作曲され、初めての短調ソナタで第9番「クロイツェル」と同じイ短調。ヴァイオリンソナタ第7番は、第6番や第8番とともに、1802年頃に作曲されたと推定されている。第6番、第8番とともにロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈されており、この3曲は、通称「アレキサンダー・ソナタ」とも呼ばれている。
今夜のムローヴァの古楽ヴァイオリンとビートソンのフォルテピアノによるベートーヴェンのヴァイオリンソナタは、従来聴きなれたこれらの曲とはまた一味違った雰囲気を醸し出して興味深い演奏に終始した。ムローヴァのヴァイオリン演奏は、形式的に実にきちっと整理され、いささかの揺るぎもない。ベートーヴェンの作品ともなると演奏者は、どう解釈するのかという問題に固執するあまり、ベートーヴェンの音楽が後ろに隠れてしまう傾向が強くなる。これに対し、ムローヴァのベートーヴェン演奏は、自己の恣意的な気分を極力排し、ベートーヴェン自身に全てを語らせようとするかのように演奏する。何か長年に渡って演奏してきたムローヴァの演奏の到達点のようにも感じられた。ビートソンのフォルテピアノの演奏も、このことを十二分に理解した上での演奏内容となっていた。今夜のリスナーは、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタを、いつもと違い古楽器で味わうという、またとない機会に恵まれた。
◇
今夜の演奏の第2のグループの演奏が、武満 徹:「妖精の距離」とアルヴォ・ペルト:「フラトレス」。ここからは、普段聴くスチール弦のヴァイオリンとモダンピアノを使用した演奏となった。武満 徹:「妖精の距離」は、武満 徹(1930年―1996年)が瀧口修造(1903年―1979年)の詩「妖精の距離」にインスピレーションを受けて作曲した作品で、1951年に発表された。アルヴォ・ペルト:「フラトレス」は、エストニアの作曲家アルヴォ・ペルト(1935年生まれ)が作曲した室内アンサンブルのための作品で、後にいくつかの異なる楽器のために編曲されている。ペルトの作品の中でも演奏される機会が多い作品。
この2つの作品でのムローヴァとビートソンの演奏は、ロマンあふれる曲想と現代感覚を取り入れた曲に相応しく、豊かな響きとダイナミックな表現を駆使して、鮮やかな仕上がりを見せた。武満 徹:「妖精の距離」では、静かに揺らめくような曲想を、ムローヴァとビートソンは、曲に寄り添うように一音一音を丁寧に弾き進める。西洋音楽とはどことなく異なる神秘的な空間を、2人は実に巧みに表現して、日本人である我々リスナーにも説得力のある演奏内容となった。アルヴォ・ペルト:「フラトレス」は、2人にとって自家薬籠中の曲であるかの如く、情熱の限りを尽くした熱演となった。確固とした技巧に裏付けられ、力の限り突き進む、ムローヴァの真骨頂が如何なく発揮されていた。
◇
今夜最後の曲がシューベルト:華麗なロンド ロ短調 D.895。この曲は、1826年に作曲され、シューベルトの凛とした作曲姿勢がよく表れているヴァイオリンとピアノのための作品。演奏時間は約16分と比較的短い曲ながら、シューベルトのヴァイオリンとピアノのための二重奏曲としては、幻想曲とならんで双璧を為す作品。
シューベルト:華麗なロンド ロ短調 D.895での二人の演奏は、スケールを大きく取り、お互いに自由奔放に弾き進んで演奏が聴いていて実に心地よい。少しの権威主義的なところがなく、ただ演奏すること自体が楽しいのだ、とでもいうように演奏する。当日の聴衆を一緒に取り囲むように2人が弾き進むので、リスナーも自然体で楽しく聴き終えることができた。そして、アンコールで演奏されたのが、ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第5番 作品24「春」から第2楽章。この曲は普通あまりアンコールでは演奏されない。だが、アンコールでなく正規のプログラムとして聴くと、今夜の最初のベートーヴェンの古楽器によるヴァイオリンソナタにたどり着く。良く考え抜かれたアンコール曲であることが分かる。今夜は如何にもベテランらしいムローヴァのプログラムづくりにも感心させられた演奏会となった。(蔵 志津久)