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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

●クラシック音楽●新譜CD情報

2023-11-24 09:39:43 | 交響曲(ブラームス)



<新譜CD情報>



~今、注目の新鋭指揮者 坂入健司郎 読売日本交響楽団デビュー・ライヴ録音盤~



モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 Op.68

指揮:坂入健司郎

管弦楽:読売日本交響楽団(読響創立60周年記念 甲府特別演奏会)

録音:2022年4月29日、 YCC県民文化ホール(山梨県立県民文化ホール)<ライヴ録音>

CD:キングインターナショナル ALTUS ALT-532

 このCDは、2022年4月2に行われた「読響創立60周年記念 甲府特別演奏会」のライヴ録音。指揮は、これが読響との初共演となった坂入健司郎。

 指揮の坂入健司郎(1988年生まれ)は、神奈川県川崎市出身。慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業。指揮法を井上道義、小林研一郎、三河正典、山本七雄、チェロを望月直哉に師事。2008年慶應義塾ユースオーケストラを結成。2014年、より広く文化活動に貢献することを願い、慶應義塾ユースオーケストラを「東京ユヴェントス・フィルハーモニー」に変更。2015年マーラー交響曲第2番「復活」を指揮し好評を得る。かわさき産業親善大使に就任。2018年東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団に初客演し、「カルミナ・ブラーナ」を指揮し成功を収める。マレーシア国立芸術文化遺産大学の客演など海外での活動も行う。2022年日本フィルハーモニー交響楽団へ客演し、サントリーホール・デビューを果たす。
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◇クラシック音楽CDレビュー◇エドゥアルト・ファン・ベイヌム指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のブラームス:交響曲第1番/第4番他

2020-05-12 09:38:57 | 交響曲(ブラームス)


ブラームス:交響曲 第1番
        ハイドンの主題による変奏曲
      
      交響曲 第4番
        悲劇的序曲/大学祝典序曲

指揮 : エドゥアルト・ファン・ベイヌム

管弦楽 : ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

CD:ユニバーサルミュージック(企画・販売:タワーレコード) PROC‐1934、1936
    <「エドゥアルト・ファン・ベイヌムの芸術」(PROC‐1934~7、CD4枚組)から>
 
 指揮のエドゥアルト・ファン・ベイヌム(1901年―1959年、57歳没)は、オランダ、アーネム出身。16歳でアルンヘム管弦楽団のヴァイオリニストとして入団し、その傍ら指揮の勉強を始め、翌年にはアムステルダム音楽院に入学し、ピアノ、ヴィオラ、作曲を学ぶ。 1920年まずピアニストとしてデビュー。同時に各地のアマチュアの合唱団やオーケストラで指揮を執り始め、まもなく指揮者に転向した。1927年にプロの指揮者としてデビューを果たした後、ハールレム交響楽団の音楽監督に就任。1929年アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団へデビューし、1931年同楽団の次席指揮者となった後、1938年からは名指揮者メンゲルベルク(1871年―1951年)とともに首席指揮者として活躍した。第二次世界大戦後の1945年、メンゲルベルクがナチスへの協力の件でスイスに追放されると、ベイヌムはメンゲルベルクの後をついで、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督兼終身指揮者に就任。さらにロサンジェルス・フィルハーモニックの終身指揮者としても迎えられた。しかし、1959年の4月13日に、アムステルダムでブラームスの交響曲第1番のリハーサルを行っていた最中に心臓発作で倒れ、惜しまれつつ、その57歳の生涯を終えた。
 
 今回紹介するベイヌム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の2枚のCDは、エドゥアルト・ファン・ベイヌム生誕115年の2016年に、オリジナルのマスターより、最新のハイビット・ハイサンプリング(24bit/192kHz)でデジタル化を行い、これをもとにCDマスターを制作し、音質を一新したもの。これらの音源自体は、LP時代から親しまれてきたもので、CD時代でも長らく廉価盤として発売され、既に市場に供給されてきた名盤。これらの音源をもとに新リマスターで復刻し、音質を一新し、CD4枚組のアルバムとして発売されたのが、「生誕115年、エドゥアルト・ファン・ベイヌムの芸術」と銘打たれたベイヌム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団による「ブラームス:交響曲全集/管弦楽曲集/他」(このうち、交響曲第2番、第3番、それに「アルトラプソディ」はモノラル録音)である。ベイヌムが活躍した時代は、ステレオ録音の初期であったため、ベイヌムの録音は、その多くがモノラル録音として遺されている。このうち、ブラームスの交響曲第1番と第4番、それに3曲の管弦楽曲は、幸いにもステレオで遺されていた。音質を一新したこれらのステレオ録音を聴いてみると、その音質の鮮明な仕上がりには誰もが驚くであろう。ベイヌム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団が現代に蘇ったと錯覚するほどの出来栄えには感心させられる。
 
 ブラームス:交響曲第1番は、着想から完成までに21年という長い歳月を要した。これは、ベートーヴェンの交響曲の存在があまりにも大きかったためである。 完成した際には、ハンス・フォン・ビューローから「ベートーヴェンの交響曲第10番」と名付けられるなど高い評価を受け、現在でも最も多く演奏される交響曲の一つ。 この曲でのエドゥアルト・ファン・ベイヌムは、実に堂々と曲に真正面から取り組み、しかも、少しの力みもなく、構成力のきちっとした指揮ぶりを見せる。一つひとつの音を蔑ろにせず、十分な吟味の上に築き上げられた交響曲特有の分厚い響きが、リスナーの耳に心地よく響きわたる。これほど品格のあるブラームス:交響曲第1番を私は聴いたことがない。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏も、一糸乱れず、深い信頼でベイヌムと結びあっていることがこの録音から、じわりと伝わってくる。これは、数あるブラームス:交響曲第1番の録音の中でも、ひと際高く聳え立つ名山の趣がある録音だ。ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲は、1873年に完成した作品。最初に2台ピアノ版、次に管弦楽版がつくられている。 近年になり、主題であるコーラルはハイドン作のものではなく、古くからある賛美歌の旋律を引用したものと考えられているが、一般には、「ハイドン変奏曲」として広く知られている。主題と8つの変奏曲、それに終曲からなる。ここでのベイヌム指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は、実に自由闊達に変奏曲を演じて見せる。この録音を聴くまで、私はこの曲の1曲、1曲の変奏曲が、これほど面白みのあるものとは知らなかった。この録音は、この曲の真価を誰もが分かる形で表現し尽くした名演と言えよう。
 
 ブラームス:交響曲第4番は、1884年から1885年にかけて作曲されたブラームス最後の交響曲。終楽章にはバロック時代の変奏曲形式であるシャコンヌを用いるなど、擬古的な手法を採用していることで知られる。古い様式に独創性とブラームス特有のロマン性を盛り込んだ作品として高く評価されている。この曲でのベイヌムの指揮は、基本的には交響曲第1番と変わりはないが、特に第2楽章は、ブラームスに寄り添ながら、ブラームスの晩年の心の内を表現するかのように、ゆっくりと内省的な表現に徹していて、実に見事な出来栄えだ。何かブラームスと対話しているかのような演奏内容である。そしてエネルギッシュな第3楽章、さらには堂々した構成力の第4楽章の指揮ぶりには脱帽。このブラームス:交響曲第4番のベイヌム指揮のCDは、第1番と同様に、歴代1位、2位を争う名演中の名演だ。ブラームス:悲劇的序曲は、1880年に作曲された演奏会用序曲。1879年9月13日に、その日が誕生日だったクララ・シューマンとの連弾で大学祝典序曲とともに披露演奏を行った。この曲は大学祝典序曲の対比としてつくられたもので、特定な悲劇を扱ったものではない。この曲でのベイヌム指揮ぶりは、深みのある曲調を損なわずに、リスナーに分かりやすく表現し尽くしているところが大きな特徴と言える。ベイヌムは常にリスナーと共にあった指揮者であったことが、この演奏から十分に推し量れる。ブラームス:大学祝典序曲は、1879年にブレスラウ大学から名誉博士号を授与され、この名誉博士号の返礼として1880年に作曲した作品で、4つの学生歌が引用されている。この曲でのベイヌムの指揮は、大らかで幸福感にあふれた、この曲の特徴を最大限に発揮することに成功している。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の奏者一人ひとりの達者な腕も存分に楽しめる録音だ。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CD◇サバリッシュ&N響のR.シュトラウス:死と変容/ブラームス:交響曲第1番

2013-05-14 10:45:34 | 交響曲(ブラームス)

 

R.シュトラウス:死と変容

ブラームス:交響曲第1番

指揮:ウォルフガング・サバリッシュ

録音:1987年4月30日、5月1日、NHKホール(NHK交響楽団名誉指揮者20周年記念演奏会ライヴ録音)

管弦楽:NHK交響楽団

CD:ソニー・ミュージック・ジャパン SICC1207

 NHK交響楽団の桂冠名誉指揮者であったウォルフガング・サヴァリッシュが、2013年2月22日に亡くなった。享年89歳。私は、このニュースを聞いた時、「サヴァリッシュが死んでしまった。サヴァリッシュが死んでしまった」とひとり口の中でぶつぶつ言って、暫くは何も手に付かなかった。それは、私のクラシック音楽リスナー人生におけるサヴァリッシュの占める割合が高かったためだ。その昔、FMラジオ放送のクラシック音楽番組にダイアルを回すと、アナウサーの「今日は、ウォルフガング・サヴァリッシュさんの指揮、NHK交響楽団の演奏で、・・・をお送りします」という台詞が飛び込んで来たことを昨日のことのように思い出す。私は、サヴァリッシュの指揮によって、いろいろな名曲を聴き、クラシック音楽の豊かな世界を知ることが出来た。その意味から、サヴァリッシュは、私のクラシック音楽リスナー人生の師匠の一人(一方的ではあるが)であったとも思っている。

 サバリッシュは、1923年にドイツ南部ミュンヘンに生まれる。ドイツのアウクスブルクやアーヘンなどの歌劇場で活躍。バイロイト音楽祭で1957年から1962年まで指揮を行う。ケルン歌劇場音楽総監督(1960年―1963年)、ハンブルク国立フィルハーモニー管弦楽団音楽総監督(1961年―1973年) を経て、 1971年にバイエルン州立歌劇場の音楽総監督に就任。ウィーン交響楽団や米フィラデルフィア管弦楽団などでも活躍した。1964年からNHK交響楽団を指揮し、以後頻繁に来日。N響の名誉指揮者(1967年1月~1994年10月)の後、1994年11月から桂冠名誉指揮者の称号を贈られた。40年間、日本のオーケストラはN響しか振らなかったというから、サヴァリッシュが如何にN響を愛していたかが窺える。

 交響詩「死と変容」は、「ドン・ファン」「マクベス」に続き、R.シュトラウスが作曲した3作目の交響詩。1888年に作曲を開始し翌年に完成した。R.シュトラウスは、生来病身であり、たびたび死の危機に直面したことがあったという。そんなR.シュトラウスは、若い時から死が脳裏から離れず、その自分自身の体験を基に作曲したのが交響詩「死と変容」であると言われている。曲は、死を連想させる動機、病人の心理の動機、死との闘争の動機、少年時代の回想の動機、そして最後には、死との闘争の結果としての変容(浄化)の動機に辿り付き、曲が閉じられる。全体として暗い内容の曲ではあるが、自分自身の体験に基づいて作曲されたものだけに、内容の充実した曲に仕上がっていると同時に、25歳という若さの時の作品らしく、信念のようなエネルギーが内部に潜んでいるようにも感じられる。サヴァリッシュの指揮は、そんな作品を、一つ一つの出来事を確かめるように丁寧に、しかも奥深く演奏していく。単に暗い曲という印象よりも、変容(浄化)に向かって行くR.シュトラウスの心情が滲み出すようにタクトを振る。音楽的に見て、何とも見事な交響詩「死と変容」に仕上がっており、聴き終わった後の印象は、暗いというより、何か爽やかさが残るのは、サヴァリッシュの棒さばきによるものだろう。

 ブラームスの交響曲第1番は、1855年(22歳)の時に、2台のピアノ用の曲として書き始め、1876年(43歳)に交響曲第1番として完成させた。つまり、作曲を開始してから20年以上経って完成させたという、如何にも慎重派のブラームスらしい曲である。ここでのサヴァリッシュの棒さばきは、いたずらに曲を巨大化させることなく、一音一音、ブラームスが熟考したであろう跡を辿るように演奏していく。この交響曲をこんなにも内省的に、しかも音楽的な構成美で演奏した例を、私はこれまで聴いたことがない。サヴァリッシュの持つ信念が、そのままN響に乗り移ったかのような演奏内容である。多分、サヴァリッシュは安易にエキサイトすることによって、曲が本来持つ構成力や響きの美しさが損なわれるのを極力避けたかったのではなかろうか。この真摯に曲に立ち向かうサヴァリッシュの指揮を聴くと、世の中には余りにも曲を弄んで、作曲者の意図とは遠く懸け離れた演奏が蔓延していることが脳裏に浮かぶ。その意味からこの演奏は、サヴァリッシュの音楽に対する姿勢が存分に込められた演奏であることを、肌で感じることが出来るのだ。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ギュンター・ヴァントのブラームス:交響曲第1番/第3番(ライブ録音)

2012-09-24 15:02:52 | 交響曲(ブラームス)

ブラームス:交響曲第1番/第3番

指揮:ギュンター・ヴァント

管弦楽:北ドイツ放送交響楽団

CD:BMG JAPAN BVCC 37610(RCA Red Seal)

 このCDは、ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団の演奏で、ブラームス:交響曲第1番/第3番を収録したものである。第1番が1996年4月21日~23日、第3番が1995年4月9日~11日、いずれもハンブルク、ムジークハレにおけるライブ録音となっている。このCDは、ライヴ録音の良さが充分に発揮されており、2曲とも聴き応えのある内容となっている。特に第3番の出来栄えは優れたものといえよう。スタジオ録音は、どうしても後世への記録ということを意識しすぎるのか、どの録音も優等生的な演奏内容となることが多い。この点、ライヴ録音は、その一瞬一瞬に全精力を集中させた演奏の模様が手に取るように掴め、聴いていて充実感が高い。ブラームスの交響曲第1番は、1862年に第1楽章が完成を見たが、その後、遅々として筆が進まず、全曲が完成したのが1876年だったという。一説には、ベートーヴェンの第九交響曲を意識しすぎた結果だとも言われているが、ベートーヴェンとは違った重厚な響きの中に、青春のほろ苦さも加味された永遠の名曲となっている。一方、第3番は、ブラームスの「英雄交響曲」と言われることもあり、実に堂々としていると同時に簡潔にまとめられ、しかも伸びやかな楽想で書かれており、第1番と同様人気のある交響曲となっている。

 ギュンター・ヴァント(1912年―2002年)は、ドイツ出身の名指揮者。ミュンヘン音楽院およびケルン音楽大学で学ぶ。1938年、ケルンに近いデトモルト州立歌劇場での指揮がもとで、1939年にケルン歌劇場の指揮者となる。その後、ザルツブルグに活動拠点を移し、ここで第2次世界大戦の終戦を迎える。戦後は、ケルン市の音楽監督に就任すると同時に、ヨーロッパの著名オーケストラを客演する。そして、1982年に、ハンブルグに拠点を置く北ドイツ放送交響楽団の音楽監督に就任し、同楽団の第2期黄金期を築くことになる。その指揮ぶりはドイツ音楽の正統的なもので、特にベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーの指揮では、その実力を如何なく発揮し、現在でもそれらの録音は高く評価されている。ある意味では、フルトヴェングラーをはじめとするドイツ系指揮者の最後の巨匠とも位置づけられる指揮者であるのかもしれない。

 ブラームス:交響曲第1番の第1楽章は、ライヴ録音の良さを存分に味合うことができる即興性のある演奏が印象に残る。急緩を巧みに使い分け、既成の演奏スタイルを一歩踏み越えたような指揮ぶりは、新鮮味を感じさせて余りある。第2楽章のゆったりとした厚みのある北ドイツ放送交響楽団の弦の響きと管楽器の響きに暫し聴き惚れる。ヴァントの指揮もこのことを意識してか、余りオーケストラを押さえ込もうとはせずに、自発性に任せたような指揮に徹している。第3楽章の懐かしいメロディーの演奏は、これぞドイツの正統的な演奏であることを自ずと認識させられようではある。何か、ドイツの深い森の中で自然と戯れるような気分になる。この辺は、ライヴ録音の良さであろう、響きが伸び伸びとしており、聴いていて心地いい気分にしてくれる。第4楽章は、これまでとは一転して、ヴァントの強烈な意志の強さが前面に出た演奏となる。そして、時折見せる奥行きの深い演出力は、曲自体の雄大さを充分に引き出しており、満足感の行く演奏内容だ。全体にゆっくりとしたテンポも、いかにも正統派らしい風格がある。

 ブラームス:交響曲第3番の第1楽章は、最初から全力投球で臨むギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団の意気込みが窺える。決して無意味なスケールの大きさを狙うのではなく、ゆっくりとしたテンポの中に、強靭さを秘めた演奏は、ブラームスの演奏には、正にぴったりとあう。ブラームスとギュンター・ヴァントと北ドイツ放送交響楽団の幸福な出会いの一瞬とでも言ったらいいのか。第2楽章は、実に伸び伸びとしたオーケストラの響きに耳を奪われる。その響きは限りなく厚いのである。でも決して重々しくはなく、ある意味では軽快なところすら感じられる。第3楽章の冒頭の一度聴いたら二度と忘れられないメロディーを、ギュンター・ヴァントと北ドイツ放送交響楽団コンビはなんと淡々として演奏するのだろう。何の衒いもなく、自然体のではあるが、一方では、じわじわと底から情熱が滲み出してくるような演奏でもある。もうこれは、他の指揮者とオーケストラが真似しようにもできない、深い境地に達した演奏ともいえる。そして第4楽章は、これまでの思いの全てを一挙に放出するように、高らかに鳴り響かせる。それは、実に柔らかい響きであり、少しも押し付けがましいところの無い、心からの響きとなっている。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇オイゲン・ヨッフムのブラームス:交響曲第3番

2012-02-21 10:32:30 | 交響曲(ブラームス)

ブラームス:交響曲第3番

指揮・オイゲン・ヨッフム

管弦楽:ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:TOCE‐6929

 ブラームスの音楽は、クラシック音楽らしく、厳格で重々しい印象の曲が多い。この辺がブラームスが好きかどうかの分かれ目になると思う。クラシック音楽に伝統的な重厚さを求めるリスナーにとって、ブラームスは神様的存在になるであろうし、逆にそうでないリスナーにとっては、ブラームスの音楽は、やたら重々しく息苦しく感じるであろう。実はこの対立構造は、ブラームスが作品を発表している時から巻き起こっていたものだ。所謂、ブラームス派とワグナー派の対立である。この2派は、根本的に対立したというより、むしろ近親憎悪的な色合いが濃いのである。というのは、ある意味では、ベートーヴェンの後継者としてどちらが正統的なのか、といった争いの側面を持っており、水と油の対立とは少々異なる。ワーグナーは、ベートーヴェンの第九交響曲を指揮し、盛んに広めようとしていたわけであり、その延長線上に“楽劇”の創造という威業を成し遂げた。一方、ブラームスは、シューマンとの出会いにより、ベートーヴェンのつくり上げた音楽の中の古典的要素を大切にし、さらにロマン的な要素を付け加えた作品を発表して行った。その結果として、二つの派は対立するという構図が生じてしまったわけである。

 そんなブラームス派が最も愛好する作品に4つの交響曲がある。それらはいずれもベートーヴェン以降、交響曲の分野で最も重要な作品とみなされていることでも、その位置づけの高さが分る。その後の交響曲の作曲家を挙げるとすると、ブルックナー、マーラーそれにショスタコーヴィッチぐらいであり、このことからも、ブラームスの4つの交響曲が如何に現在でも重要であるかを推し量ることができよう。今回はこの中から第3番を聴いてみよう。この第3番は、ブラームスの「英雄交響曲」と言われることがある。それは、この交響曲がブラームスにしては明快な音楽となっている上、外部に向かって、大らかに主張を繰り広げるような雰囲気を持っているからだろう。あたかもベートヴェンの交響曲第3番「英雄」を連想させるためでもあるからかもしれない。ブラームスにしては比較的短い曲であり、晦渋さがなく、聴きやすいことも好まれる理由の一つだろう。残りの3つの交響曲のうち、第1番は「第十交響曲」と言われる通り、ベートーヴェンの「第九交響曲」を継ぐ内容を持つ交響曲として、現在でも高い評価を得ている。交響曲第2番は、ブラームスの「田園交響曲」とも言われ、牧歌的で爽やかな印象を持つ。そして交響曲第4番は、いかにもブラームスらしい内向的な側面と古典音楽に回帰したような面を併せ持つ優れた交響曲。

 ここで指揮しているのは、ドイツ・オーストリア音楽の指揮では、当時一際高く評価されていたドイツ人指揮者オイゲン・ヨッフム(1902年―1987年)である。ミュンヘン音楽大学に学んだ後、メンヒ=グラドバッハ歌劇場の補助指揮者および第二楽長からキャリアをスタートさせている。1929年―1930年、フルトヴェングラーの推薦でマンハイム国立劇場第一楽長を務めた。若くしてフルトヴェングラーの推薦を受けたということから見ても、ドイツ・オーストリア音楽の指揮において若くしてい如何に優れた才能を発揮していたかが推測できる。1934年から第二次世界大戦後の1945年まで、ハンブルグ国立劇場およびハンブルグ・フィルの音楽監督・常任指揮者として活躍。まだ30歳を超えたばかりという若さであった。1949年にバイエルン放送交響楽団の創設に参画し、同楽団をドイツ有数のオーケストラに育て上げている。1961年―1964年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者を務めた。さらにバイロイト音楽祭やヨーロッパ各国において客演し、中でもこのCDで演奏しているロンドン・フィルからは名誉指揮者の称号を与えられるほど関係が深かった。録音でもオイゲン・ヨッフムは、今に残る業績を残している。それは、ベートーヴェン/ブラームス/ブルックナーの交響曲全集であり、今に至るまでいずれも高い評価が与えられている。今回のCDはそのブラームス交響曲全集の中の1枚である。

 ブラームス:交響曲第3番の第1楽章は、実に堂々と悠然と演奏が始まり、この響きを聴いただけでオイゲン・ヨッフムの指揮するブラームスの奥深さに思わず引き込まれるようである。実に淡々と演奏が進むが、少しの弛緩もなく、心地良い緊張感がリスナーの全身に染み渡る。ブラームスの音楽の重厚さが、こんなにも心地良いものかと改めてブラームスの音楽の凄さを実感させられる。第2楽章は、何か物語でも聴かされているようでもあり、そのゆっくりとしたテンポの合間から時折覗かせる、高揚感は何物にも代えられない充実感を実感することができる。遠近手法で書かれた風景画を見ているようでもあり、心地良い雰囲気を堪能できる。ここでもオイゲン・ヨッフムの指揮は、伸びやかに、深みのあるブラームスの世界を描き出し、誠に見事と言うほかない。第3楽章は、懐かしさに溢れ、しかも分厚いロマンチックなメロディーがリスナーの前にば~と広がる。ここではオイゲン・ヨッフム&ロンドン・フィルは、完全に一体化して、実に繊細な演奏をリスナーに聴かせてくれるのだ。この辺はもうオイゲン・ヨッフム&ロンドン・フィルしか表現不可能なような境地の演奏であり、リスナーは身も心もただただ聴き惚れてしまう。最後の第4楽章は、第1楽章と同様、堂々とした構えのブラームスがそこには聳える。圧倒的な力強さなのであるが、オイゲン・ヨッフムは一方的にオーケストラを鳴らすことはしない。あくまで手綱を絞り、時折瞬間的に爆発させるのだ。ブラームスを知り尽くしたオイゲン・ヨッフムの指揮に、リスナーは知らず知らずのうちに魅入られてしまう。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇インバルのブラームス:交響曲第1番とベルク:管弦楽のための3つの小品

2011-03-15 11:24:27 | 交響曲(ブラームス)

ブラームス:交響曲第1番

ベルク:管弦楽のための3つの小品

指揮:エリアフ・インバル

管弦楽:フランクフルト放送交響楽団

CD:日本コロムビア DENON COCO-73183

 エリアフ・インバルは、2008年から東京都交響楽団のプリンシパル・コンダクターに就任しているので、その実演をお聴きになったリスナーの方もおられよう。2009年度からはチェコ・フィルの主席指揮者にも就任したのをみれば分かるように、現役の指揮者の中でも傑出した能力を持っている一人であることは確かであろう。このCDは15年間音楽監督を務めたフランクフルト放送交響楽団を指揮して、1998年(ブラームス)と1997年(ベルク)に、フランクフルトでスタジオ録音したものが収録されている。ブラームス:交響曲第1番とベルク:管弦楽のための3つの小品の両方の指揮に言えることは、曲の細部にまでわたって、明確な曲づくりに徹しており、しかも曲の盛り上げ方が実に自然で、衒ったところがまったくなく、聴き終わった印象がまことに爽やかで、好印象を受けるということだ。

 ブラームス:交響曲第1番の第1楽章は、実に堂々とした曲づくりが特に印象に残る。しかし、決して肩肘張らず、丁寧にブラームスの世界を一つ一つ紐解いていくような演奏内容は聴いていて大納得させられる。曲の流れも実にスムーズだ。だからといって軽々した印象ではなく、むしろ爽快さがその持ち味であることを聴くものに強くアピールする。第2楽章は、ブラームス特有の鬱蒼とした森の中を彷徨するような雰囲気が誠に聴いていて心地よい。こんなに爽やかなブラームス:交響曲第1番の第2楽章を滅多に聴けるものではない。大抵の指揮者はもっとおどろおどろした雰囲気にしてしまうものだ。この辺のインバルの演出力は図抜けたものがあることを、実感させられる。フランクフルト放送交響楽団の弦楽陣もインバルの期待に応え、透明感ある充実した演奏を聴かせる。

 第3楽章も、第2楽章を延長させたような明快で爽やかな演出が光る。通常の指揮者なら第3楽章をスケルツオ風に激しく指揮して、効果を出そうとするものだが、インバルはそんなことはお構えなしに、自分の感じたブラームスをフランクフルト響としみじみ味わいながら演奏しているかのようだ。ここではなにやら、ブラームスが北欧の作曲者のような錯覚に陥ってしまうほど・・・。そして第4楽章になだれ込むが、ここではインバルは、今までの爽やかさをかなぐり捨てて、深遠なブラームスの世界へとリスナーを誘う。ゆっくりとしたテンポで実に力強いブラームス像を描ききる。決して上滑りすることなく、足を大地に力づよく付け、心の奥から自然に湧き出るような曲づくりには、心底から感服させられる。インバルは、ブラームスの名曲だからといってやたらにけたたましく咆哮したりはしない。曲に真正面から真摯に向き合う姿には好感が持て、現役屈指の指揮者であることを、この録音は実証している。特にフランクフルト響との一体感は感動ものだ。

 ベルク:管弦楽のための3つの小品は、そう滅多に演奏される曲ではなく、初めは取っ付きにくい感じがするが、いざ、聴いてみると意外に面白く聴くことができるのには驚いた。これは、インバルの力によるところが少なくはなかろう。この曲の複雑で重厚な構成をインバルは、一つ一つ解き解くように演奏してくれるので、現代音楽ながら、まるでマーラーの曲を聴くようで充実感が得られる。打楽器から始まる第1楽章の前奏曲は、充実したオーケストラ響きに思わず引き寄せられる。ベルクがこんなにシンフォニックな曲を作曲するなんて・・・といったところ。第2楽章の輪舞は、幻想的な雰囲気が誠に聴いていて心地よい。ベルクってこんなにロマンチックだったっけという思いがしてくる。第3楽章の行進曲は、ベルクの名作オペラ「ヴォツェック」にも使われたようだが、聴いてるだけで面白みのあり、何よりも奥行きのあるオーケストレーションが魅力的。ベルクの曲は如何にも現代音楽といった取っ付きにくい曲が多いが、そんな中、この曲は、古風な味わいがして、しかもオーケストラの響きを十分に堪能でき楽しめる。これはやはり、インバルの指揮の力量が多分に影響していよう。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ワインガルトナーのブラームス:交響曲第1番 他

2011-02-15 11:16:11 | 交響曲(ブラームス)

ブラームス:交響曲第1番

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番

指揮:フェリックス・ワインガルトナー

管弦楽:旧ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(ブラームス)

     パリ音楽院管弦楽団(ベートーヴェン)

ピアノ:マルグリット・ロン

CD:KOCHインターナショナル 3-7128-2 H1

 今回のCDも歴史的名盤である。ブラームス:交響曲第1番が1928年4月11日、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番が1939年6月10日の録音である。普通なら80年も前の録音の紹介は差し控えるところだが、かなり録音状態がよく、少々針音を我慢すれば鑑賞には支障がないので紹介することにした。何故そうしたかというと、指揮者のフェリックス・ワインガルトナーを是非知ってほしいからである。フェリックス・ワインガルトナー(1863年―1942年)は、現在のクロアチアに生まれている。若いときから巨匠達との付き合いがあったようで、その経歴には特筆すべきものがある。例えば、当時、音楽評論家として著名であったハンスリックの推薦でライプチッヒ大学に入学したとある。その後、唯の音楽家とは違う人生を歩むことをことになるのもむべなるかなである。当初、ワインガルトナーは作曲家を目指していたようで、リストからも推挙を受けたそうである。その後、指揮者の道に転進した。

 1891年―1898年にはベルリン宮廷歌劇場(現ベルリン国立歌劇場)の首席指揮者、1908年にはグスタフ・マーラーの後任としてウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)とウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(当時は常任指揮者制)の音楽監督に就任(1922年まで)。ワインガルトナーは、1937年に来日して新交響楽団(現NHK交響楽団)も指揮している。ウィーン・フィルの常任指揮者を1927年に辞任したが、その後任はフルトヴェングラーが就任したというから、その位置づけが何となく分るのではないであろうか。また、ウィーン国立歌劇場総監督を1936年に辞しているが、その後任はカール・ベームであったのだ。つまり、ワインガルトナーは、現在、我々が知る歴史上のマエストロたちの前の世代のマエストロであり、いわば”マエストロのマエストロ”とでもいったらいい指揮者であったのである。当然、ワインガルトナーのナマの指揮ぶりは、フルトヴェングラーもベームも聴いていただろうし、その意味では、現在の我々にも間接的に影響を与えている指揮者と呼んでもいいのではないか。ワインガルトナーは、ナチの手を逃れるようにパリへ行き、さらに第二次世界大戦勃発直前にロンドンに移っている。そして最後はスイスで亡くなっている。

 今回のCDで、圧巻は何といってもブラームスの交響曲第1番の録音だ。実に雄大なブラーム像を描くことに成功していることに驚かされる。これをフルトヴェングラーの指揮スタイルと比較してみると分りやすいかもしれない。フルトヴェングラーの指揮は、何か暗示じみたものが介在していて、その暗号を解いたものだけが、共感を許されるみたいなところがあり、そのことがカリスマ性を高めたと言えそうである。それに対し、ワインガルトナーの指揮は、一切の曖昧な表現を避け、曲の本質にぐいぐい突き進む。ただ、凡庸な指揮者と一回りも二回りも違うのは、作曲者であるブラームスへの共感が、恐ろしいほど強固なことだ。特に、この録音の第1楽章と第4楽章の2つの楽章に、このことが如実に現れている。この2つの楽章だけとれば、あらゆるブラームス:交響曲第1番の録音の中でもトップクラスに入るのは間違いがない。第2楽章と第3楽章は、もう少し情緒纏綿に指揮した方が、曲全体のバランスが取れたのでは、と感じた。

 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番の方が、録音が新しいので音質の向上を期待したが、逆にこちらの方が、少々音がぼんやりとする感じがする。しかし、一般的な意味で鑑賞にはほとんど支障はなく、音量は豊富で聴きやすい。この録音のワインガルトナーの伴奏は、ブラームスの時と同じく実に雄大で、迫力のある指揮ぶりには頭が下がる。現在でもこれほどの伴奏をできる指揮者はそう多くないはずだ。そして、何にも増してフランスに名ピアニストのマルグリット・ロン(1874年―1966年)の演奏が説得力があり素晴らしい。一音一音実に丁寧に弾いて行くが、その語り口が何とも軽妙であり、知らず知らずのうちにマルグリット・ロンの世界に引きずり込まれ、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番は、この弾き方が正統なのだと説得させられてしまう。マルグリット・ロンのピアノ演奏は、押し付けがましいところは少しもないのに、聴き終わった時にはその説得力の虜になっている、といったような演奏である。今に「ロン=ティボー国際コンクール」にその名を残す名ピアニストの演奏だけのことはあるなぁ、と改めて感じ入った次第である。私は古い録音を無理して聴く必要はさらさらないと思うが、鑑賞に堪え得るものなら是非積極的に聴いてほしいと思う。そこには現在の演奏家のルーツともいうべき、素晴らしい演奏が残されているのだから。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇シューリヒト指揮スイス・ロマンドのブラームス:交響曲第4番/バッハ:管弦楽組曲

2010-12-21 13:24:17 | 交響曲(ブラームス)

ブラームス:交響曲第4番
バッハ:管弦楽組曲第2番

指揮:カール・シューリヒト

管弦楽:スイス・ロマンド管弦楽団

CD:CASCAVELLE VEL 3133

 ブラームスの交響曲第4番の第1楽章の出だしのフレーズは、その指揮者およびオーケストラの資質が全て白日の下に晒される、誠にもって演奏家にとっては厄介であろうし、しかし実力の差を出せるまたとない、やりがいのあるシンフォニーでもあろう。カール・シューリヒト指揮スイス・ロマンド管弦楽団のこのCDでの演奏は、これを考えられる最善の表情で演奏しており、思わず「凄い」とひとり声を挙げてしまうような素晴らしい出来栄えだ。生の演奏では不可能であるが、CDならこの出だしのパートだけを、何回も繰り返し聴くことができるという特典が与えられているのが何とも嬉しいかぎり。繰り返し聴いても思わずうっとりと聴き惚れること請け合いだ。第2楽章の淡々とした中にも求心力のある表情もシューリヒト独特のもので、聴き応えは充分にある。第3楽章は、比較的小ぶりに演奏しているが、何ともセンスのあるリズム感とオーケストラの敏感な反応振りを愉しむことができる。これは音楽を知り抜いてる同士の演奏だ。そして、第4楽章で、シューリヒトは、あまり悲劇的にならずに、そこはかとない哀愁をたたえた悟りの境地にも似た演奏を聴かせる。他の指揮者とは、その深みで一味も二味も違った演奏を聴かせる。1952年のライブ録音。

 このCDは、多分ブラームスの交響曲第4番がメインで、バッハの管弦楽組曲第2番はサブであろうと想定して、なにげなくバッハの管弦楽組曲第2番を聴き出したわけであるが、聴き進むうちに、「何だ、これはブラームスの交響曲第4番の演奏の上を行く演奏ではないか」とその演奏内容に知らぬうちに引き寄せられてしまった。バッハは、今から300年以上も前のバロック時代の大作曲家であるが、我々現代人が今聴いても何とも心休まる音楽を作曲してくれている。少し前、バッハの曲を、ジャズにアレンジして演奏することが一種の流行のようになっていたこともあった。どうもジャズとバロック音楽は、共に通奏低音の上に音楽を繰り広げるという点では、同じ土俵にあるということらしい。それにしてもバッハは、なぜオペラを1曲も作曲しなかったのであろうか。私はこの辺にババッハの音楽が現代人にも共感を呼ぶ鍵が隠されているように思えてならない。グレン・グールドは、その類稀な個性でバッハを現代に蘇らせた恩人の一人だが、シューリヒトのバッハは、グールドのような個性味ではなく、むしろ個性を殺したしたような淡々とした佇まいがする。通常なら印象の弱いバッハで終わってしまうのだが、シューリヒトのバッハは、現代の我々に、直ぐ側にいる作曲家のような感じを抱かせる何かがある。静かな緊張感といったような、聴いていて清涼感たっぷりのバッハを届けてくれている。1955年のライブ録音。

 カール・シューリヒト(1880年―1967年)は、ドイツ生まれの名指揮者。1902年にベルリン音楽高等学院に入学する。1912年から1944年までヴィースバーデン市の音楽総監督を務める。ナチスの政策に反対したためであろうか、1944年にエルネスト・アンセルメの求めに応じて、このCDでも共演しているスイス・ロマンド管弦楽団に客演した際に、スイスに亡命し、そのまま終戦を迎えたという。戦後は、ウィーン・フィルをはじめ、シカゴ交響楽団、ボストン交響楽団などで客演指揮を行い、晩年になるほど名声が出てきた指揮者なのである。今、その録音を聴いても、求心力がもの凄く大きかった指揮者であることが聴き取れる。通常、このような指揮者の場合、激情型の演奏をしがちであるが、シューリヒトの場合は、何か清々しい緊張感に包まれるところが、他の指揮者と違う所である。このCDの演奏でも、その曲の演奏をリスナーに押し付けるのではなく、あくまでも、その曲が持つものオーケストラが自発的に演奏するようもっていく腕は、余人を持って代えがたし、とでも言ったらいいであろうか。

 このCDで演奏しているオーケストラは、ヨーロッパの名門オーケストラの一つスイス・ロマンド管弦楽団だ。スイス・ロマンド管弦楽団といえば、私などは、設立者で指揮者のエルネスト・アンセルメ(1883年―1969年)の名を反射的に思い出してしまう。来日して、確かテレビでもそのときの演奏が放映され、白いあごひげが印象的であったことを覚えている。そのスイス・ロマンド管弦楽団に、2012年から山田和樹が首席客員指揮者に就任することになっているから今から楽しみだ。山田和樹は、ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した31歳の若き指揮者であり、今後のわが国のクラシック音楽界を背負って立つ一人。世界の舞台でどこまで成長できるかが興味深い。将来、山田和樹を自分の代役に指名した小澤征爾に追いつき、追い越す指揮者になってほしいものである。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇アーベントロート/バイエルン国立管弦楽団のブラームス:交響曲第1番

2010-10-04 09:23:32 | 交響曲(ブラームス)

ブラームス:交響曲第1番

指揮:ヘルマン・アーベントロート

管弦楽:バイエルン国立管弦楽団

CD:DISQUES REFRAIN DR920035

 録音技術の向上で、最近では生の演奏会とそう違わない雰囲気で聴けるので、リスナーとしては、現在は願ってもない環境にあるといってもよいであろう。しかし、演奏内容だけに限れば、過去の録音の方が圧倒的に名演が多いのも事実である。しかし、世の中うまくいかないもので、名演奏の録音は大概録音が悪いというのが相場。要するに現在のリスナーは、演奏内容を取るか、音質を取るかの二者択一の選択を迫られるのだ。ところがである、演奏内容は超一流であり、しかも音質も悪くないという録音もたまにはある。その中の1枚が、今回のCDのアーベントロート指揮/バイエルン国立管弦楽団のブラームス:交響曲第1番のライブ録音盤(!)なのである。

 ヘルマン・アーベントロート(1883年―1956年)は、亡くなってから50年以上経った指揮者なので、名前を聞いてもぴんとこないかもしれないが、ケルン市の音楽監督をはじめ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団常任指揮者(1934年-1945年)、ライプツィヒ放送交響楽団首席指揮者(1949年-1956年)、ベルリン放送交響楽団首
席指揮者(1953年-1956年)を務めた経歴を見れば、大物指揮者であったことが分ろう。 過去に彼が務めた前任者や後任者の中に、ワルターやフルトヴェングラーなどの名前が見受けられることからしても、このことが裏付けられる。ただ、第2次世界大戦後は、東ドイツに留まったためか、わが国ではフルトヴェングラーやワルターほどには知名度は高くはない。しかし、彼の葬儀は東ドイツでは国葬が行われたというから、やはり凄い指揮であったのだ。

 早速聴いてみることにしよう。第1楽章の始まりから終わりまで、このくらい力の入った、重厚なブラームスの交響曲第1番は今まで聴いたことがない。凄いパンチ力によって全力で指揮している様子が手にとるように分るのだ。何か地の底から湧き起こってくるような響きは、一度聴くと耳から離れない。ただならぬ雰囲気が辺りを駆け巡り、その迫力に圧倒される。唯々息を呑むといった思いがする。第2楽章は、第1楽章の信じられないほどの緊張感から解放され、一時の安らぎが広がり、リスナーもほっとすることができる。しかし、単なる安らぎではなく、これから始まるであろう戦いの前奏曲といったようなところなのである。アーベントロートは、最後のところで手綱は決して緩めない。

 第3楽章は、第2楽章を受けって立っているようで、テンポも快調で第1楽章のような重苦しさはない。しかし、来るべき新たな戦いに武者震いするようなパートも見え隠れし、リスナーは、心地良い適度な緊張感に包まれる。バイエルン国立管弦楽団の弦と管のバランスが絶妙で、オーケストラの響きに存分に身を任せることができる。そして最後の第4楽章を迎える。出だしから第1楽章の緊張感が戻ってくる。アーベントロートは、ゆっくりとゆっくりと指揮を進めるが、その内包した緊張感は、ちょっと桁外れに凄みがある。ティンパニーが高々と先陣を切り咆哮し、次に管楽器群が代わる代わるゆっくりと登場する。何か劇の最終幕を見ているかのような感じだ。そして、最後に弦楽器が満を持していたかのように力演する。他の凡百の指揮者には到底求められない、ここでのアーベントロートの演出力には、正に脱帽だ。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ワルター指揮ニューヨーク・フィルのブラームス:交響曲第3番

2010-05-06 09:33:43 | 交響曲(ブラームス)

ブラームス:交響曲第3番

指揮:ブルーノ・ワルター

管弦楽:ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

CD:THE MUSIC SOCIETY UAR004.3

 久しぶりに東京・新宿のタワーレコードに顔を出して、何か新しいCDでもないかなと物色していたら、なんと懐かしいことにワルターのブラームス全集がセットになった3枚組みのCD集が目に飛び込んできた。しかもニューヨーク・フィルとのコンビの1950年代のものだ。もうこうなったら買うしかないと、他のCDだったら買うべきか、買わざるべきか、ハムレット的心境になるのが通常なのであるが、こればかりは躊躇せずに購入したわけである。ワルターというと、最晩年のコロムビア交響楽団(ワルターの録音のために臨時に編成されたオーケストラ)の録音が耳について、それ以前米国で活躍したニューヨーク・フィルとの演奏を聴いた記憶があまりなかったので、何か過去のを埋めたいような気分にもなっていたである。

 このニューヨーク・フィルとのブラームスの交響曲第3番の録音は、1953年12月21日と23日にコロンビアスタジオで行われている。演奏は、非常に引き締まった、スケールの大きい内容で、その力強さにかけては、他の盤を大きく引き離す迫力に満ちた出来ぶりに驚かされる。後年のコロンビア交響楽団との録音は、どちらかというと静寂な気分が横溢して、ある意味では達観した悟りのような、平穏な世界を描いていた記憶が残っている。これは、年老いて病気を克服した後の演奏なのだから、ある意味では当たり前かも知れない。ところが、このニューヨーク・フィルとの演奏は、鋼鉄のような頑強な音作りに終始して、聴いていてもこちらが緊張してしまうような感じに捉われる。

 宇野功芳氏はその著書「名指揮者ワルターの名盤駄盤」(講談社+α文庫)の中で、次のようにこの録音を賞賛している。「『第二』と共に、ワルターの中のすべてのレコードの中でも傑出した名演の一つであり、オーケストラを自家薬籠中のものとして棒一本で手足のごとく動かすさまは、見事の一語につき、心技充実したワルターの姿がある」と。ブラームスの交響曲第3番は、ブラームスの「英雄」交響曲にも例えられ、男性的な一本筋の通った、闘争心に満ち満ちた曲という性格を持っているが、このときのワルターの指揮ぶりは、正にこれにぴたりと合い、しかもニューヨーク・フィルの強靭なまでの厚みのあるオーケストレーションとも重なって、名演が生まれる結論へと導いたのであろう。

 ところでこのニューヨーク・フィルとの1950年代の録音を聴いてみて、ワルターほど一生のうち、その演奏スタイルを大きく、変貌させた指揮者も珍しいのではなかろうかという思いがする。若き頃、ヨーロッパでのウィーン・フィルとの幸福感溢れた、柔らかなビロードのような優雅な演奏スタイル。さらにナチの手から逃れるため、アメリカに渡ってからの初めて接する、アメリカ社会とニューヨーク・フィルをはじめとするオーケストラの言ってみればプラグマチズム的合理主義に直面し、演奏スタイルもヨーロッパ時代から一変して表情が引き締まり、深みが加わった演奏スタイル。そして、家族の不幸や大病を克服した後の悟りの境地にも似た安らぎに満ち満ちたコロンビア交響楽団との人生最後の指揮。その中でワルターの指揮は、一貫して人間としての包容力に満ちた、暖かさを決して失うことはなかった。そんなワルターを、日本のファンは誰よりも敬愛したのだ。(蔵 志津久)

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