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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇朝比奈 隆のシューベルト:「未完成」/ワーグナー:「パルジファル」から

2013-07-16 10:18:13 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第8番「未完成」

ワーグナー:舞台神聖祭典劇:「パルジファル」から「前奏曲と聖金曜日の音楽」

指揮:朝比奈 隆

管弦楽:東京都交響楽団

CD:フォンテック FOCD 9396

 NHK交響楽団の桂冠指揮者であったサバリッシュが、テレビのインタビューに答え次のように語っていたこと思い出す。「指揮者というのは不思議な職業だ。お客さんにお尻を向けて仕事をする」と。まあ、これは外面的なことだが、内面の問題としてサバリッシュは、「楽団員がその指揮者を信じ、その指揮者の音楽的信念や素養を深く理解することによってはじめて良い演奏が生まれる」と語っていた。如何にもサバリッシュらしい言葉だと思った。普通に演奏しようとするなら、誰が指揮をしようがあまり問題にならないであろう。現に、オルフェウス室内管弦楽団のように、指揮者を置かないで長年にわたって演奏活動を展開して、高い評価を得ているアンサンブルすら存在する。下手な指揮者なら、居ない方がいいという極論さえ出てきそうだ。ウィーン・フィルなどになると、「我々の演奏の邪魔をしないのがいい指揮者だ」と言い放つ楽団員もいるそうだ。ここまで極端になると問題だが、我々リスナーにとっては、指揮者が、どのようにその曲を感じ取り、それをどう楽団員に伝え、それを楽団員がどう表現するか、そして、それらをリスナーが明確に聴き分けることができるのかが、大きな問題になるのである。つまり、指揮者の中に内在する音楽的見識が高ければ高いほど優れた指揮者なのである。朝比奈 隆(1908年―2001年)は、そんなリスナーの願いを、ものの見事にかなえてくれる偉大なる指揮者であった。

 このCDは、シューベルトとワーグナーの曲を、東京交響楽団を朝比奈 隆が指揮したライブ録音盤である。シューベルトの交響曲第8番「未完成」が1955年1月25日の東京芸術劇場、ワーグナーの舞台神聖祭典劇:パルジファルから「前奏曲と聖金曜日の音楽」が1933年9月10日の東京文化会館での演奏である。最初のシューベルトの交響曲第8番「未完成」で、朝比奈 隆は、ゆっくりとしかも静かにメロディーを奏で、滋味あふれる気分が満ち溢れた演奏に終始する。「未完成交響曲」のような超有名な曲ともなると、もうどのように指揮しようが、リスナーはそう簡単には反応しなくなるものである。しかし、唯一の例外とも言えるのが、この日の朝比奈 隆指揮東京交響楽団の演奏なのである。単にロマンの香り高い演奏とか、優美な演奏とかでは到底表現しきれない、心の底から湧きあがる、シューベルトがこの曲へ込めた音楽への共感に溢れた演奏なのである。朝比奈 隆が「未完成」から受けた感動そのものを、東京交響楽団の楽団員一人一人が理解し演奏していることが手に取るように分かる。そして、それを聴くその日の聴衆の深い共感までもが、その音楽空間を通して伝わってくるようだ。「未完成交響曲」が、これほどまで現代人の我々の心を揺さぶる曲であったことを、私はこの演奏を聴いて初めて知った。決して小手先でで指揮をするのではなく、これはもう、朝比奈 隆が全身全霊で指揮をした「未完成交響曲」の記念碑的なライブ録音といっていいだろう。この朝比奈 隆の「未完成交響曲」を聴きながら、私は自然とワルターの指揮ぶりを思い出していた。

 このCDの2曲目は、ワーグナーの舞台神聖祭典劇:パルジファルから「前奏曲と聖金曜日の音楽」である。ワグナーの曲は、我々日本人が聴く場合は、それなりの事前知識を持ってからの方が理解しやすい。ヨーロッパの人々にとっては半ば常識的な事柄でも、我々にとっては、理解しづらいことも少なくない。ワーグナーの音楽の根底にあるのは、要するに“ギリシャ悲劇”なのである。ワーグナーは、民族的アイデンティティを訴求するうちにギリシャ悲劇に辿りつく。このことが最初のうちは、哲学者のニーチェなどとも交流を深めることになり、それらを題材にワーグナーは歌劇の作曲に没頭する。そして、独自の音楽的な理想を実現するため、自らバイロイト音楽劇場をつくり上げ、楽劇という新しいジャンルを切り開く。音楽的には無調形式の創始者とも言われるなど、革新的な作曲者でもあった。しかし、ナチスが国威発揚のためワーグナーを利用したことによって、現在に至るまで偏見で見られることもしばしばある。舞台神聖祭典劇:パルジファルはそんなワーグナーが最後に行き着いた宗教的な曲である。話は中世スペインのモンサルヴァトール城を舞台に、傷つけられた城主のアンフォルタスを救うため、選ばれたパルジファルが、奪われた槍を奪い返す物語。前奏曲は、第1幕前奏曲のことで、「聖餐の動機」「聖杯の動機」「信仰の動機」など劇中の曲が現れてくる。聖金曜日の音楽は、この劇の第3幕で現れる曲。いずれも、神秘的で宗教的な曲であり、ヨーロッパ人の心の故郷のような雰囲気を醸し出す音楽である。そのため、朝比奈 隆指揮東京都交響楽団が、これらをどう演奏するのか、聴く前はちょっと怖いような面もなくはなかった。しかし、一旦曲が流れ始めると、深いヨーロッパの森を彷徨い、宗教的な雰囲気に包まれたかのようなワーグナー独特の分厚い音が流れ始めるではないか。いい意味で「これはヨーロッパの指揮者とオーケストラ演奏ではないのか」と思ったほどだ。東京都交響楽団がつくり出す響きの何と重厚なことか。これは朝比奈 隆が、このオーケストラの持つ潜在能力を存分に発揮させたことのほかあるまい。朝比奈 隆には、ワーグナー:楽劇「ニーベルンゲンの指輪」(日本フィル定期演奏会)のライブ録音盤があるが、今回の東京都交響楽団との演奏も、世界的レベルから見てもかなりの高さに達した演奏と断言できる。

 朝比奈 隆は、大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督を長年にわたり務めたが、生まれは東京。1928年京都帝国大学法学部に入学。同大学の交響楽団に参加し、ヴィオラとヴァイオリンを担当すると同時に、指揮をメッテルに師事した。一旦就職した後、再び京都帝国大学文学部哲学科に入学し、1937年に卒業。1940年新交響楽団を指揮してプロデビューを果たす。1942年大阪放送管弦楽団の首席指揮者に就任。1943年中国大陸に渡り、上海交響楽団などを指揮。1946年中国から引き揚げる。1947年関西交響楽団(大阪フィルの母体)を結成。1950年代からはベルリン・フィルなどヨーロッパの主要なオーケストラにも招かれるようになる。1960年に関西交響楽団を大阪フィルハーモニー交響楽団に改称し、以後朝比奈 隆は、同楽団の指揮者を54年間にわたり務めることになる。1975年には大阪フィルを率いてヨーロッパ演奏旅行を行い絶賛を博す。1996年、シカゴ交響楽団を指揮し北米デビューを果たす。2001年の名古屋公演後、体の不調を訴えて入院し、同年12月29日に死去した。享年93歳。主な受賞歴は、文化功労者、文化勲章(没後従三位)、日本芸術院賞、ドイツ連邦共和国功勲章大功労十字賞、オーストリア連邦共和国一等十字勲章など。主な録音は、ベートーヴェン:交響曲全集を世界最多の7回、ブルックナー:交響曲全集を3回、ブラームス交響曲全集を3回、1984年~1987年の新日本フィルの定期演奏会におけるワーグナー:楽劇「ニーベルンゲンの指輪」など。日本指揮者協会会長、オペラ団体協議会会長、大阪音楽大学教授などを歴任した。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ギュンター・ヴァントのシューベルト:交響曲第9番「ザ・グレート」(ライヴ盤)

2011-06-28 11:26:58 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第9番「ザ・グレート」

指揮:ギュンター・ヴァント

管弦楽:ベルリン・ドイツ交響楽団

CD:キングレコード KICC 868

 シューベルトの交響曲の番号は、どうもよく分らない。あの「未完成交響曲」は第7番なのか第8番なのか?、そして今回のCDである「ザ・グレート」は第8番なのか第9番なのか?これは新旧ドイチュ番号の第2版から、交響曲の通し番号に大きな変更が加えられたことが原因らしい。この結果、従来第8番であった「未完成」を第7番に、従来第9番だった「グレート」を第8番とし、旧7番は番号なしにした、というのが正解だ。このCDのタイトルは、昔の記載である交響曲第9番「ザ・グレート」が採用されているので、ここではそのままにしておく。まあ幸か不幸か、この2曲には、「未完成」「ザ・グレート」というニックネームが付けられているので、旧番号を直さず使っても混乱は起きないということなのであろうか。今回の「ザ・グレート」は、シューベルトがベートーヴェンの死後、何んとかベートーヴェンの交響曲に近づき、あわよくば超えようとした畢生の大作の交響曲である。発表当時は、その真価に気づいた人はほとんどおらず、大方は歌曲のようなメロディーが全面を覆うような交響曲に対し、かなりの違和感を抱いたことが推測される。

 そんな中、この「ザ・グレート」の真価を見抜いたのがシューマンである。以後この曲は、徐々に認められ、現在では「未完成」と並んでシューベルトの代表的な交響曲、いや全作品の中でも代表作の一つと目されている。シューマンがシューベルトのこの曲を再評価したことは、偶然ではない。シューマンも4曲の交響曲を書いているが、いずれも音楽専門家からは不評であり、それは現在までも続いているといってよいだろう。我々リスナーからするとシューマンの4曲の交響曲はそれぞれ独特の持ち味がして、問題作だなんて普通は考えない。シューベルトとシューマンの交響曲が専門家にはあまり評価されないのは、その直前にベートーヴェンが9つの交響曲の決定版を完成させてしまったからである。ベートーヴェンの9つの交響曲の放つオーラは強烈で、シューベルトもシューマンも影が薄くなってしまい、その結果、評価がイマイチというのがホントのところだ。もっと言えば、ベートーヴェンの9つの交響曲の存在感は現在に至るまで続いており、現代の作曲家にも無言の威圧感を与えている。そんな中にあって、このシューベルト:交響曲第9番「ザ・グレート」は、よく聴いてみると、後に出現することになるブルックナーやマーラーの交響曲の先導役を果たした、ともいっていい重要な交響曲であることが、分ってくる。決して、ベートーヴェンの亜流ではない別の面があることが・・・。

 今回のCDは、ギュンター・ヴァント(1912年―2002年)がベルリン・ドイツ交響楽団を指揮したライヴ録音盤(1993年6月14日)である。1968年に初来日を果たし、その後もしばしば日本を訪れ、NHK交響楽団などを指揮したのでその名はわが国でも知られている。典型的なドイツ人指揮者で、ケルン放送交響楽団とのブルックナー交響曲全集などの録音でも知られていた。ケルンの後は北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者に就任し(1982年)、同楽団に再び黄金期をもたらした。その後さらに、ベルリン・フィル、ミュンヘン・フィル、そしてこのベルリン・ドイツ交響楽団を客演して名声を決定的なものにした。派手な所はないが、ドイツ音楽の忠実な指揮者として、その名は今後も忘れられることはないであろう。このCDで指揮しているベルリン・ドイツ交響楽団の名はあまりお馴染みではないが、RIAS交響楽団(RSO)が元の名で、初代首席指揮者がフェレンツ・フリッチャイであると聞けば、ああの名門オーケストラかと思われるリスナーもおられると思う。同楽団は東西冷戦時代にその名を変え、1993年に現在の名称となった名門オーケストラでる。そんな両者のライヴ録音であるので、聴く前から期待感がいやが上にも盛り上がる。

 第1楽章は、かなりゆっくりと立ち上がる。何か古風なヨーロッパの街並みを歩んでいるように、伝統的な演奏に終始する。それがシューベルトの持つ一面を炙り出すかのようでもあり、曲に深みをもたらすことに成功している。第2楽章の第1楽章同様、ヴァント&ベルリン・ドイツ響は通常の演奏のように表面的なシューベルト像よりは、オーケストレーションの分厚い響きを重視した格調の高さを強調する。ここでリスナーは通常の「ザ・グレート」の演奏とは、根本的な違いに気付き始める。何か燻し銀のような幽玄な世界がそこにはあるのである。ヴァントは「ザ・グレート」に“歌”を求めることはしない。徹底して重厚なオーケストレーションの深々とした森を描き出していく。徹底して思索的な世界がそこには広がる。第3楽章は、少しシューベルト的な要素も盛り込み、オーケストラの巧みな演出力が際立っている。しかし、ここでもヴァント&ベルリン・ドイツ響の描き出すものは、薄く靄が霞んだように幻想的な世界である。そして、最後の第4楽章に入り、これまでの夢幻的世界とはきっぱりと決別したかのように、明確で明るい世界が目の前に広がる。テンポもこれまでとは異なり、軽快で足早なものとなる。そこには雄大な「ザ・グレート」が聳え立っているのである。それによりこの交響曲の持つ真の姿が余す所なくリスナーの前に提示される。これはヴァント&ベルリン・ドイツ響の快心の演奏と言っていい。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇フリッチャイのシューベルト:交響曲第8番「未完成」 他

2011-04-19 11:27:37 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第8番「未完成」
メンデルスゾーン:劇音楽「真夏の夜の夢」から

指揮:フェレンツ・フリッチャイ

管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ポリドール(ドイツグラモフォン) POCG‐3101(439 129‐2)

 ハンガリーの名指揮者フェレンツ・フリチャイ(1914年―1962年)は、第二次世界大戦の前後を挟んで活躍した指揮者の一人である。フルトヴェングラーとかワルターと活躍時期が重なったこともあり、その名はあまり一般的ではないが、その残された録音を聴けば、たちどころに傑出した力量の指揮者であったことが理解できる。そのきりりと締まった音楽表現は、今聴いても少しも古臭くなく、逆に、現代の指揮者以上に現代的感覚を豊富に持っていた指揮者だったのではないかとさえ、私などは思ってしまう。フリッチャイの指揮ぶりは、決していたずらにスケールを大きく構えることはしないが、その反面、研ぎ澄まされた感覚が誰よりも増して鋭く、曲の本質を余す所なくリスナーの前に提示してくれる。さらに、何よりもオーケストラとの一体感が、他のどんな指揮者よりも濃密であり、あたかもオケを自分の楽器であるかのように指揮する様は、聴いていて圧倒的な感銘を受ける。“フリッチャイの前にフリッチャイなし、フルッチャイの後にフリッチャイなし”と言っても決して過言でない程に、高い完成度の演奏を我々に聴かせる。

 フェレンツ・フリチャイは、1914年にハンガリーのブタペストに生まれた。ブタペストのリスト音楽院で、ピアノをバルトークに、作曲をコダーイに学ぶ。これを見ても分る通り、当時のハンガリーの音楽教育は申し分ない環境であったことが推測される。1934年から指揮者としての活動を開始している。1945年からブタペスト国立オペラとブタペスト・フィルの指揮者を務める。そして、1947年のザルツブルグ音楽祭で急病のクレンペラーに代わり、指揮者を務めたことが、フリチャイに一躍世界的な名声を得るきっかけを与えることになる。それからのフリッチャイは、一気に世界の指揮者の頂点へ目指し快進撃を始める。1945年―1953年ベルリン国立歌劇場音楽監督、RIAS交響楽団首席指揮者を歴任。さらに、米国にも進出し、1954年にヒューストン交響楽団指揮者に就任。そして1961年に再建されたベルリン・ドイツ・オペラの音楽監督に就任し、誰もがこれからは、フェレンツ・フリッチャイの時代が到来するものと思っていた矢先、1962年白血病が悪化し、翌1963年、48歳という若さで他界してしまった。これから円熟の指揮を披露するという時に夭折したことは、何よりも本人が一番残念至極なことであったろう。その死から10年後にフリッチャイ協会が設立されたことを見ても、如何に図抜けた指揮者であったことが分る。

 このCDは、シューベルト:交響曲第8番「未完成」が1957年9月、メンデルスゾーン:劇音楽「真夏の夜の夢」からが1957年に、ベルリンのイエス・キリスト協会で収録されたもの。録音は残念ながらモノラルではあるが、音は鮮明に収録されており、現役盤でも通用する。このCDのライナーノートには、歌崎和彦氏作成のフリッチャイの詳細な年譜が2ページにわたって掲載されており、これだけでもフリッチャイを知る上で貴重な資料になっているが、フリッチャイ自身による自伝も掲載されており(岡本稔訳)、これも誠に興味深い資料となっているので、その一部を紹介してみよう。「バルトークは学生に対し、楽譜に忠実に、そして作曲者、たとえばモーツァルトが望んだことと違っていたものを決して目指してはいけないことを再三再四注意していた。ドホナーニのピアノのレッスンは、音楽家に数限りないものを与えてくれた。・・・」「『タンホイザー』からのトランペットのファンファーレと行進曲を私は上々の滑り出しで指揮し始めた。曲の中ほどでドアが開き、私の前方に父の姿が見えた。・・・次の第2曲から父が自らタクトをとったことは言うまでもない」。フリッチャイ親子の共演の姿が見えてきそうで何とも微笑ましい。白血病という病魔に冒されなければ、フリッチャイも幸福な指揮者人生を送れただろうに。

 さて、このCDの演奏であるが、シューベルト:交響曲第8番「未完成」については、意外にもフリッチャイはいつもの研ぎ澄まされた感性を少々後ろに置き、全体をロマンチックな雰囲気で指揮している。フリッチャイでなければ聴かれない、言ってみれば“フリッチャイ節”を期待して聴くと少々肩透かしを食わされる録音ではある。しかし、曲は何といってもシューベルトの「未完成」である。ここはフリッチャイ独特の個性を聴くより、シューベル特有のロマンの世界に身を置いた方が楽しく聴けそうだ。きっとフリッチャイもそう思って指揮したのではなかろうかと納得しながら聴いた。それでも節々の感覚にはフリッチャイではなければ表現できないような、がっしりとした構成力と鋭敏な感覚が聴こえてくる。フリッチャイのこの録音は、数ある「未完成」の中でも、やはり完成度が一段と高い名演だと言えよう。メンデルスゾーン:劇音楽「真夏の夜の夢」についても、「未完成」と同じことが言える。その昔フリッチャイが代役を務めたクレンペラーにも「真夏の夜の夢」名録音があるが、フリッチャイの「真夏の夜の夢」指揮も、メンデルスゾーンのロマンの世界に、聴くものを知らず知らずのうちに連れて行ってくれるようだ。その裏には、ここでもフリッチャイのしっかりとした曲の構成力が隠されていることが、聴き終わったときにはっきりと分る。(蔵 志津久) 

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◇クラシック音楽CD◇メンゲルベルクのシューベルト:交響曲第7番「未完成」/第8番「ザ・グレート」

2010-09-22 09:27:13 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第7番「未完成」
        交響曲第(8)9番「ザ・グレート」

指揮:ウィレム・メンゲルベルク

管弦楽団:アムステルダム・コンセトヘボウ管弦楽団

CD:phono-museum MENGELBERG EDITION Vol.1

 今回は、いわゆる歴史的名盤という範疇に入るCDの紹介である。ウィレム・メンゲルベルク指揮、アムステルダム・コンセトヘボウ管弦楽団のシューベルト交響曲第7番「未完成」と交響曲第(8)9番「ザ・グレート」が1枚に収められている。歴史的名盤というと、リスナーとしても何がしかの覚悟がどうしても必要となってくる。それは、ほとんど神様とでも言った方がよいアーティスト達が演奏するので、どう演奏しようと「なるほど凄い」という結論になってしまうからだ。それではリスナー魂が泣こうと言うものだ。要するに歴史的名盤であっても「良いもの良い」「悪いものは悪い」(歴史的名盤に、悪いものはそうありませんけどね)とけじめを付けて聴くことが肝要になる。それに歴史的名盤は音質が期待できない場合がほとんどだ。しかし、橋にも棒にも掛からない音質ならともかく、鑑賞にはそう支障がないものもあるので、これらの見極めが大切となる。今回のCDは、ノイズがあちこち出てきて閉口するが、音量が豊富な点(特に「未完成」)が評価できるので、音質の総合点では合格点すれすれだ(その
逆に、ノイズは無いが、音がなんとも貧弱な歴史的名盤を、無条件に持ち上げるリスナーに対して、私は常に一線を置くことにしている)。

 このCDは、音質はぎりぎり合格点であるが、演奏家が神様がともなると、評価が聴いても聴かなくても、「良い」ことになってしまうので恐ろしい。大分昔、ある雑誌のCD評価で「これは素晴らしい、この演奏家しか成し得ない名演盤」と書いておいて、翌月号で「前号で紹介したCDの演奏者は、録音の際に間違って記載されたもので訂正します」と載っていた。こうなると「この演奏家しか成し得ない」と書いた当の評論家は引っ込みがつかなくなる(宇野功芳氏のように神様フルトヴェングラーであろうと駄盤と切って捨てる猛烈評論家もいることにはいるがごく少数だ)。今回のウィレム・メンゲルベルクは、その昔、泣く子も黙る超名指揮者だった。名前を聞いただけで、体が硬直してしまい、評論なんてとんでもないというくらいの神様的存在であった。

 ウィレム・メンゲルベルク(1871年―1951年)は、ドイツ人を両親に持つオランダ人の指揮者である。1895年にアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に就任した。オランダの名門オーケストラの首席指揮者に24歳のとき就任したのだから、その才能は若いときから突出していたようだ。驚くべきことにアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者として1945年まで活躍したので50年間在籍したことになる。今で言えばギネスブック入りということになろう。1922年―1930年の間は、ニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者も兼任している。さらに1930年―1931年ロンドン交響楽団の首席指揮者も務めていた。第2次世界大戦中はナチスドイツと近い立場にあり、そのため戦後は追放処分に遭い、その後解放されることなく世を去っている。この辺が、他の大指揮者に比べ、知名度はともかく、一般的な人気が低い要因となっているようだ。逆に一部の熱烈な支持者からは、今日に至るまで神様の存在として生き続けている(バッハの「マタイ受難曲」などは今でも入手でき、高い評価を得ている)。

 さて、前置きが長くなった。CDを聴いてみよう。このCDに収められたシューベルトの2つの交響曲は、1942年11月にコンセルトヘボウで録音された。ここでのメンゲルベルグは、「未完成」においては、男性的な指揮ぶりに徹しており、「未完成」の持つ図り知れない生命力を遺憾なく発揮しているのが印象的だ。現代の指揮者は「未完成」を振るとき、余りにもディテールに拘りすぎ、美しい「未完成」を描き過ぎるではないではなかろうか。これは、リスナーがそのようなもの要求するから、自然にそうなっただけと私は思っている。リスナーはただ受身で聴いていたのではダメなのだ。“「未完成」=美しい”だけではいけないのだ。男性的な力強さと生命力を持ったシンフォニーが「未完成」の真の姿であると思う。70年近く前のメンゲベルクのこの指揮ぶりは、このことをはっきりと示しており、その存在意義は今でも少しも薄れていないと私は思う。その意味でこのCDは歴史的名盤というより、私にとっては現役盤と肩を並べる位置づけである。一方、「ザ・グレート」の方は、「未完成」ほど力強くはないが、それでも雄大なシューベルト像を描き出そうとしている点は、「未完成」と同じである。(蔵 志津久) 

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◇クラシック音楽CD◇トスカニーニのシューベルト:「未完成」「ザ・グレイト」

2009-08-06 09:11:47 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第8番「未完成」
         交響曲第9番「ザ・グレイト」

指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ

管弦楽:NBC交響楽団

CD:BMGビクター BVCC-5157

 このCDの録音は、「未完成」が1950年3月12日&6月2日にNBC・8Hスタジオで、「ザ・グレイト」が1953年2月9日にカーネギーホールでそれぞれ行われた。トスカニーニの最晩年の83歳と86歳の時の録音である。いずれも80歳を超えた人の指揮ぶりとは全く思えないくらい、気迫に富んだ、乾坤一擲の力演を聴かせる。「未完成」の方は、いつものトスカニーニ節が幾分なりを潜め、ナイーブで温かみのある印象がして、聴いていて何か救われる気がする。トスカニーニにもこういう一面もあるのだということが分かる。しかし、その核心はトスカニーニらしい一本筋が入っており、結果としてトスカニーニしか成しえない「未完成」が形づくられる。この演奏は数ある「未完成」の録音の中でも傑出した1枚には違いあるまい。

 一方、「ザ・グレイト」はいつものトスカニーニ節炸裂といった感じで、全曲緊張感に包まれ、一分の隙もないような演奏を聴かせる。これが86歳のときの指揮とは恐れ入るとしか言いようがない。トスカニーニの指揮ぶりは、フルトヴェングラーとは正反対に、あらゆる場面を明確に、メリハリを効かせて演奏するのが特質だ。それためオーケストラに対しては、常に最高の技術力を求め、妥協は一切しなかったようだ。この「ザ・グレイト」の録音は、そんなトスカニーニの指揮の特徴が集約されている。このときまでにトスカニーニは何回も「ザ・グレイト」の指揮をしてきたはずだが、このCDの録音が凄いのは、初めてこの曲を指揮をするような緊張感が漂っていることだ。不思議に思ってライナーノートに目を通してみると、その解答が書いてあった。つまり「トスカニーニは自分の指揮する楽曲全てに対して、常に研究をやり直し、どのような作品でも決して型にはまった方法で扱ったりしない」(ハーヴェイ・ザックス/田尻幸子訳)と。

 トスカニーニが凄いのは、現在の指揮者にも営々とその影響が引き継がれていることだ。フルトヴェングラーは“神様”であっても、結果として一代で完結してしまった。誰も“神様”の真似などはしないし、しようとしても出来ないのだ。これに対しトスカニーニに指揮には、現代人の我々にも通じる何かが残されている。例えば、フリッツ・ライナー、シャルル・ミュンシュ、ジョージ・セル、ゲオルク・ショルティなどにトスカニーニの遺産は引き継がれ、さらに、カラヤン、バーンシュタインそして我らがマエストロ小沢征爾などにバトンタッチされている。また、現在第一線で活躍するノリントン、ラトルらにも多かれ少なかれ影響を与えているのである。

 ただ、残念なことにトスカニーニのCDの録音の質が良くないことだ。オーケストラの音の響きの豊かさがまったくといっていいほど伝わってこないのだ。だから、トスカニーニのCDは、トスカニーニに興味がある人か、指揮の特徴に興味がある人しか推薦できない。フルトヴェングラーさえ豊かな音響をとらえた録音が残されているのにだ。私は、トスカニーニに質のよい録音が残されていたら、フルトヴェングラーの人気を凌駕していたのではとさえ思う(近年になり発売されたトスカニーニの録音のリマスター盤は聴いていないので、今度聴いてみることにしたい)。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇エーリッヒ・クライバーのシューベルト:「未完成」とベートーベン:交響曲第2番

2009-05-28 09:20:41 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第8番「未完成」
ベートーベン:交響曲第2番

指揮:エーリッヒ・クライバー

管弦楽:ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(シューベルト)
      ベルギー国立管弦楽団(ベートーベン)

CD:独TELDEC CLASSICS INTERNATIONAL 9031-76436-2

 名指揮者エーリッヒ・クライバー(1890年ー1956年)のこのCDは、シューベルトの交響曲第8番「未完成」が1935年1月28日、ベートーベンの交響曲第2番が1938年1月31日と、今から70年以上前の録音にもかかわらず、いずれの音も豊穣で現在でも十分に鑑賞に耐えうるのには驚きだ。さすがに現在の録音のように、オーケストラの楽器の一つ一つ聴き分けられることはできないものの、オーケストラの全体の響きに訴える力があり、音にも安定感がある。オーケストラの場合は特に、楽器一つ一つの響きより、全体が醸し出す音の方が大切なので、このCDは今でも現役盤で十分に通用するといってもいいほどだ。

 そして、肝心の演奏の方も、指揮者のエーリッヒ・クライバーは、これら2曲の代表的名盤の一つといってもおかしくないほどの名指揮ぶりを、我々に披露してくれる。シューベルトの「未完成」は、誠に粋で曲全体が息づいているとでも言ったらよいだろうか。“小股の切れ上がったいい女”という表現があるが、クライバーの「未完成」は正にそんな感じがするのだ。決してべたべたしない、軽快であるがただ軽いのではない、優美さを兼ね備えた軽さなのだから、その魅力に触れるともう一度聴きかえしたくなる。

 ベートーベンの交響曲第2番も名演で、実に恰幅のいいベートーベン像を聴かせてくれる。通常、ベートーベンの交響曲1番と2番は、颯爽と一気に演奏してしまうのが常なのだが、エーリッヒ・クライバーのベートーベンの2番は、あたかもそれ以後の交響曲のように実に堂々としており、「これが2番なの?」と思うほど深い奥行きが感じられる曲に仕上がっている。

 ところで、エーリッヒ・クライバーは、04年に突如他界してしまった指揮者のカルロス・クライバーのお父さんである。なので今クライバーというと息子のカルロスの方を思い出す方の方が多いであろう。父親のエーリッヒは、実に苦難の音楽家人生を歩んだ指揮者であった。ウィーン出身でプラハ大学で歴史と哲学を学ぶ。プラハ音楽院で指揮法を学び1911年に指揮者デビューを果たし、1923年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した。しかし、ナチの台頭で1935年アルゼンチンに移住を余儀なくされる。戦後は1954年ベルリン歌劇場の音楽監督に就任したが、東ドイツ政府と意見が対立し直ぐに辞任するなど、常に政治の嵐に翻弄され続けてきた。

 今、エーリッヒ・クライバーのCDがたやすく手に入るのかどうか私は知らないが、音質云々を言う前にエーリッヒ・クライバーの残した録音のCDをシリーズとして残すことは現代人の責務でないかとすら感じてしまう。広く名前が知られる指揮者のCDは常に再発売され続けるが、そうでないと無視されるようでは、録音文化の底の浅さが知れようというものだ。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ショルティ/ウィーンフィルのシューベルト:交響曲「未完成」/第5番

2009-03-12 11:27:28 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第8番「未完成」/第5番

指揮:ゲオルグ・ショルティ

管弦楽:ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

CD:英DECCA 430 439-2

 このCDに収められた、ゲオルグ・ショルティが指揮したウィーンフィルによるシューベルトの2つの交響曲は、すべての人に薦められる普遍性を持った実に堂々とした演奏となっている。これまでどのくらいの名指揮者がこれらの2曲、中でもクラシック音楽の代名詞ともなっている「未完成」を演奏し、録音してきたかは数知れない。そんな中で私は、ショルティとウィーンフィルによるこのCDの演奏が一歩抜きん出ている存在であると確信している。

 オーケストラを指揮するということは、指揮者が楽譜から読み取った音楽をオーケストラにトランスファーし、それを楽団員が表現するわけであるが、指揮者の持つオーラが強すぎると主観的演奏になってしまうし、逆に抑えすぎると客観的演奏に終わってしまう。異論もあろうが、フルトベングラーなどは前者の典型的なものだし、後者は例えばカラヤンが挙げられるのではないか。長年にわたって指揮界はこの二つの間を行きつ戻りつしていたような感じがする。

 これに対してショルティの指揮するこのCDに収められた2曲は、雄大なスケールをベースとして歌うべきところは歌い、抑えるべきとこは抑える。実に中庸を射た演奏ではあるが、それでいて聴いていて飽きさせない何物かが秘められている。つまり、ショルティは主観と客観を足して2で割っているのではなく、一歩前に進んだところに焦点を合わせた、実に次元の高いところで勝負をしていると感じさせる演奏をする大指揮者であったと思う。

 ハンガリーのブタペストに生まれたユダヤ系指揮者・ゲオルグ・ショルティ(1912年10月ー1997年9月)はバイエルン国立劇場音楽監督、フランクフルト市立歌劇場音楽監督、コヴェントガーデン王立歌劇場音楽監督などを経て、1969年シカゴ交響楽団音楽監督に就任、以後同楽団の建て直しを見事果たし、桂冠指揮者となる。1972年には英国市民権を得て、ナイトの称号を授与されている。ショルティはその経歴の割には、指揮者界での地位はそう高くないように感じられる。特に日本においてはそうであった。この理由は、クラシック音楽の愛好者には主観的演奏(ノスタルジー)を好む傾向があるためである、と私は今思っている。ショルティは時代を先取りしていた。これからショルティの演奏がさらに輝きを増す時代が必ず来ると確信している。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇フルトヴェングラーのシューベルト:交響曲“未完成”“ザ・グレート”

2008-11-13 16:28:05 | 交響曲(シューベルト)

シューベルト:交響曲第8番“未完成”/交響曲第9番“ザ・グレート”

指揮:ウィルヘルム・フルトヴェングラー

管弦楽:Turin Radio Orchestra(未完成)
    ベルリンフィルハーモニック管弦楽団(ザ・グレート)

CD:Disques Refrain DR920023

 このCDは“未完成”が1952年3月11日、“ザ・グレート”が1950年6月18日の共にライブ録音盤である。フルトヴェングラーは1954年に亡くなっているので死の4年前と2年前の録音に当たる。音質の方は期待できないだろうと聴いてみたがそんなにも悪くない。ノイズがほとんどカットされ、その分聴きやすくなっている。古い録音には2種類あって、音そのものははっきりと捉えられてはいるが、音の豊かさが失われているものと、音そのものは不明瞭ながら、音に豊かさが感じられるものの2種類である。私は前者の場合はいくら大演奏家といえども遠慮させてもらっているが、後者の場合は聴き込む場合が多い。それは聴きながら自分で音を補足して聴けるからである。このCDは典型的な後者の事例であり、ましてや“神様、仏様、フルトヴェングラー様”のCDである。余程のことがない限り無視できる分けがない。

 “未完成”の方は出だしから典型的なフルトベングラー節で、緊張感と高揚感が絡み合ったような、重厚な“未完成”を聴かせてくれる。通常“未完成”は聴く度に「天国的な名曲だな~」と感じ入るが、フルトヴェングラーが振る“未完成”だけは少々趣が違い、まるでベートーベンかブルックナーの交響曲のような重々しさが表現され、天国とは程遠い人生の縮図のような感覚で、思わず冷や汗が出そうになるほどだ。一方、ベルリンフィルとの“ザ・グレート”の方は、がらりと様子が変わり、全曲これ輝かしさに彩られ、フルトヴェングラーにもこんな颯爽とした面があったのだと、思わずにんまりとしてしまうほどである。アポロ的というのか、要するに明るいのである。“ザ・グレート”が死の4年前、そして“未完成”が死の2年前の演奏会のライブ録音ということも何か影響しているのかな、と思いを巡らしてしまう。

 ところで、フルトヴェングラーの録音を聴く際に、避けて通れない本が宇野功芳著「フルトヴェングラーの全名演名盤」(講談社+α文庫)である。この本が凄いのはフルトヴェングラーが録音した“すべて”のLP、CD(ただし海賊盤を除く)を網羅して、作曲者別、録音時代別に系統だって整理され、それらの一盤一盤“すべて”に批評が掲載されていることだ。宇野功芳氏にかかると例えフルトヴェングラーといえども、鋭い批評が襲い掛かかるという誠に恐ろしい、そして権威ある本なのである。今回の
フルトヴェングラーのCDを聴くに当たり、当然なことながらこの本を見てみると・・・、出ていないのである。“?”。ひょっとしてこれは海賊盤か!でも販売元の社名も住所も記載されている。さらに、ちゃんとノイズも除去され、手間を掛けたCDのように見える。謎のCDを前にただただ考え込むばかりではあった。(蔵 志津久)

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