バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番~第6番(全曲)
チェロ:ピエール・フルニエ
CD:ポリドール(ドイツ・グラモフォン) 449 711-2
バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番~第6番は、その中の1番が、いずれもが6楽章から構成されているという、全体が非常に整った形で書かれたチェロ組曲である。つまり全て6、いや3の倍数からつくられている。これは、バッハが作曲したその時代には、3の倍数が重要視されたいただからであろうか。それとも、律儀なバッハの性格として、全てが統一されていないと収まりがつかなかったのか。その各々は、前奏曲、アルマンド、クーラント、サラバンド、メヌエット(ブーレ、ガボット)、ジーグからなり、舞曲が中心をなしている。バッハが作曲した時代には、チェロのための曲は少なく、まして無伴奏曲を作曲したということは、いかにバッハの先見性が図抜けていたかを改めて認識させられる。今の時代において、これらの6曲を聴いても、少しも古めかしく感じられず、逆に、科学技術が発達した現代の我々が聴いて、何か、これまで忘れてきたことを思い出させるかのように、今時の感覚に良く合うことに驚かされる。これは、バッハが不必要な装飾をことごとく排除し、何か根幹にある音楽のエキスだけを搾り出して楽譜にしたためたからではなかろうか。作曲されたのは、ケーテン時代(1717年―1723年)と推測されているが、300年たった今も、人間の根源にあるものにそう違いがないということを、これら6曲が教えてくれるようにも思う。
バッハの無伴奏の曲といえば、無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ(全6曲)を思い出す。これら2曲のヴァイオリンと、チェロの無伴奏曲の相違は何であろう。私は、無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータは、ソプラノ独唱曲か女性合唱曲、それに対して無伴奏チェロ組曲は、バリトン独唱曲か男声合唱曲みたいに聴こえる。女性合唱を聴くと、優美で美しい歌声にうっとりとする反面、長く聴いていると、線の太い低音の男声合唱が懐かしく感じる。一方、男声合唱を立て続けに聴くと、美しい女声合唱の響きが聴きたいとも感じる。バッハの無伴奏チェロ組曲と無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータとの関係は、丁度そんな関係に似ているように私には思える。つまり、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータが好きなリスナーには、是非とも無伴奏チェロ組曲を聴いてもらいたい。無伴奏チェロ組曲の方が、どちらかと言うと口当たりは良くない。しかし、じっと何度も聴き入ると、チェロの独特な雰囲気がリスニングルームに充満してきて、回りの空気に馴染んでくる。そして、バッハの無伴奏チェロ組曲は、夜聴くに限る。第1番~第6番を通して聴くとなると、しんどいとも言えなくはない。そんな時お奨めなのがコマーシャルにも使われて馴染み深い第1番の第1楽章だけを聴くこと。もっと聴きたくなったら、第3番、あるいは私が一番好きな第6番の全6曲を通して聴いてみることだ。
ところで、このバッハ:無伴奏チェロ組曲第1番~第6番は、長い間忘れ去られていたが、それを再発掘したのが、チェロの神様、パブロ・カザルスである。つまり、いまバッハ:無伴奏チェロ組曲を我々リスナーが聴けるのは、カザルスのお陰であるわけだ。そのカザルスが録音したCDがあり、専門家のチョイスでは必ず1位に挙げられる名盤である。しかし、このカザルス盤の欠点は、録音が余りにも貧弱で、チェロ独特の浪々とした音質が聴き取れないことだ。これからバッハ:無伴奏チェロ組曲を聴こうとするリスナーが聴き始めると音質で途中で挫折する確率が高い。最近、音質を改善したCDが発売(オーパス蔵)されたが、音質の改善は見られるが、チェロの豊かな音色を聴き取れるところにまでにはなってはいなように思う。それに、このCDのライナーノートでチェリストの鈴木秀美氏は、カザルスの演奏について「あまりにもバロックのスタイルから逸脱している」と指摘している。これはどういう意味かというと、カザルスが演奏していた時代の演奏習慣と現在の演奏習慣に大きな隔たりがあるという意味である。そんなこともあり、今回取り上げるCDは、フランスの名チェリストのピエール・フルニエ(1906年―1986年)が1960年12月に録音したものである。
ピエール・フルニエのチェロ演奏は、格調が高く、優美で、洗練されたところが最大の特徴であり、我々がチェロという楽器に抱いている印象に最も近いものを表現するチェリストということができる。バッハ:無伴奏チェロ組曲は、比較的単調な曲からなっているために、ピエール・フルニエのチェロ演奏から入って行くのが一番いいと私は思っている。当然ながら、ピエール・フルニエの演奏するバッハ:無伴奏チェロ組曲の演奏に批判的な音楽学者もいる。それは、フルニエの演奏は、旋律を歌わせることに重点が置かれ、ポリフォニー、和声という観点から遠いから、と言うのがその理由だ。この観点も一理あろうが、私は、フルニエの浪々としたチェロの音色に惚れ惚れするし、どちらかと言えばとっつき難い無伴奏チェロ組曲を、聴きやすい豊かなメロディーを中心に進めるフルニエの演奏に限りない愛着を覚える。それは、有名な第1番第1楽章を聴けば明らかなことである。何というゆったりとして、静かな空間が目の前に広がることことであろうか。何か湖の真ん中に浮かんだボートの中で、シンと静かな湖面を眺めているようでもあり、自然との対話がそこには確実に存在しているのである。フルニエは、印象派の画家のようなチェリストだ。(蔵 志津久)