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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CDレビュー◇イシュトヴァン:ケルテス指揮ロンドン交響楽団のドヴォルザーク:交響曲第7番/交響曲第8番

2021-10-12 09:41:58 | 交響曲



<クラシック音楽CDレビュー>



~イシュトヴァン:ケルテス指揮ロンドン交響楽団のドヴォルザーク:交響曲第7番/交響曲第8番~



ドヴォルザーク:交響曲第7番op.70
        交響曲第8番op.88

指揮:イシュトヴァン:ケルテス

管弦楽:ロンドン交響楽団

録音:1964年3月(第7番)/1963年2月(第8番)、イギリス、ロンドン、キングズウェイ・ホール

CD:キングレコード KICC 8624

 指揮のイシュトヴァン・ケルテス(1929年―1973年)は、ハンガリー、ブダペスト出身。同地のフェレンツ・リスト音楽院でゾルタン・コダーイなどに学ぶ。1955年からブダペスト国立歌劇場の副指揮者を務める。1956年、ハンガリー動乱の時、ジョルジュ・シフラと共に祖国を去る。その後、1960年から1963年までアウクスブルク国立歌劇場音楽総監督、1964年ケルン歌劇場音楽監督に就任。1965年から1968年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務めた。1968年来日し、日本フィルハーモニー交響楽団を指揮した。1973年4月、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団に客演した時に、イスラエルのテルアビブの海岸で遊泳中、高波にさらわれ溺死した。43歳没。1973年からはバンベルク交響楽団の首席指揮者の就任も決まっており、今後、世界の指揮者界を背負って立つ人材と思われていた矢先の出来事だったので、大きな衝撃を与えた。

 ロンドン交響楽団(略称:LSO)は、1982年より本拠地をロンドンのバービカンセンターに置いている。名誉総裁にはエリザベス2世が就いており、このため”女王陛下のオーケストラ”としても知られる。同交響楽団は、1904年にクィーンズホール管弦楽団のメンバーを中心に、英国初の独立採算、自主運営のオーケストラとして発足した。同年6月9日に、クィーンズホールにおいて、ハンス・リヒターの指揮で第1回コンサートを開催。その後、リヒターは首席指揮者に就任し、1911年にエドワード・エルガーにその座を譲るまで楽団の基礎を固めた。エルガーの後も、アルトゥール・ニキシュ、トーマス・ビーチャムなどの名指揮者が首席指揮者についているほか、カール・ベームやレナード・バーンスタインが総裁に就任している。2017年からはサイモン・ラトルが音楽監督を務めている。

 ドヴォルザーク:交響曲第7番op.70は、1884年から1885年にかけて作曲された。ドヴォルザークは、1884年3月に、ロンドン・フィルハーモニック協会の招きで、初めてロンドンを訪れた。この時、ドヴォルザークは熱狂的な大歓迎を受けた。帰国後ほどなくして、フィルハーモニック協会の名誉会員に選ばれ、同時に新作交響曲の依頼を受けた。ドヴォルザークは、ロンドンからの申し出をただちに承諾した。1884年9月に再度渡英し、帰国後交響曲に着手、1885年3月に完成させた。同年4月に三たび渡英し、交響曲第7番の初演の指揮を執り、この演奏会は大成功したという。この曲は、ブラームスの交響曲第3番からの影響を受けていることが指摘されている。交響曲第7番、交響曲第8番、それに交響曲第9番「新世界から」の3つの交響曲を合わせて”ドヴォルザークの三大交響曲”と言うことがある。

 交響曲第7番でのイシュトヴァン:ケルテスの指揮は、ロンドン交響楽団から、伸び伸びとスケールが大きく、しかも力強い、この交響曲の性格を余すところなく引き出すことに成功しており、見事な出来栄えだ。ドヴォルザークの作品は、民族色を前面に掲げた演奏内容が多いが、ケルテスは民族色をことさら強調することはせず、曲の流れの中に自然に溶け込むように民族色を滲み出す指揮ぶりで、これが他の指揮者には真似のできない優れた特色として挙げられよう。決して、大衆受けするような小細工は弄しない。このことは、第3楽章の指揮ぶりに如実に示される。このこの交響曲は、ドヴォルザークがブラームスの交響曲に触発されてつくられたと言われているが、ケルテスの指揮は、このことを裏書きしたような指揮ぶりで、特に第4楽章の重厚さは、リスナーに十全な満足感を与えて止まない。

 ドヴォルザーク:交響曲第8番op.88は、1889年の8月から11月にかけて作曲され、1890年、プラハにて作曲者の指揮で初演された。イギリス、ロンドンのノヴェロ社から出版されたため、かつては”イギリス”という愛称で呼ばれることもあったが、最近では”イギリス”と呼ばれることはほとんど無くなった。第7番以前の交響曲にはブラームスの影響が強く見られ、また第9番”新世界より”はアメリカ滞在のあいだに聞いた音楽から大きく影響を受けているため、この交響曲第8番は、チェコの作曲家ドヴォルザークの最も重要な作品として位置づけることができる。スラブ的なのどかで明るい田園的な印象を強く持つ交響曲。

 交響曲第8番でのケルテス指揮ロンドン交響楽団は、完全に自家薬籠中の作品を演奏するのだという、落ち着きと言おうか、包容力のある演奏内容を聴かせてくれる。これは、この曲がロンドンの出版社から出版され、かつては”イギリス”という愛称で呼ばれていたことが、多少なりとも影響しているのであろうか。ここでの演奏内容は、交響曲第7番と同様、力強く、スケールの大きなものであるが、何か凄味さえ感ずる強靭さが奥に控えているといった感じだ。しかし、柔軟さを強く感じさせる優美さに覆われているため、リスナーは一時の夢心地すら味わうことが出来る。そして、何かドラマチックな曲の展開にオペラの一幕を見ているような錯覚にとらわれてさえしまうのだ。

 イシュトヴァン・ケルテスは、イスラエルの海岸で遊泳中、高波にさらわれ溺死し、43歳という若さでこの世を去ってしまった。もし、もっと生きていれば、どれほどの名録音を我々に遺してくれただろうかと思わずにはいられない。今回の録音からは、そのことが明瞭に聴き取ることができるのである。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CDレビュー◇グラズノフ:交響曲第8番/バレエ音楽「ライモンダ」/ヴァイオリン協奏曲/サクソフォン協奏曲

2021-01-12 09:38:05 | 交響曲



<クラシック音楽CDレビュー>



~グラズノフ:交響曲第8番/バレエ音楽「ライモンダ」/ヴァイオリン協奏曲/サクソフォン協奏曲~



グラズノフ:交響曲第8番変ホ長調 Op.83
      バレエ音楽「ライモンダ」組曲 Op.57a
      ヴァイオリン協奏曲イ短調 Op.82
      サクソフォン協奏曲変ホ長調 Op.109

指揮:ホセ・セレブリエール

管弦楽:ロシア・ナショナル管弦楽団

ヴァイオリン:レイチェル・バートン・パイン
アルト・サクソフォン:マルク・シーソン

CD:「グラズノフ:交響曲&協奏曲全集」(Warner Classics 0190295651435<8CD>)より


【グラズノフ:交響曲&協奏曲全集】

<CD1>

交響曲第1番ホ長調 Op.5「スラヴ風」
交響曲第2番嬰ヘ短調Op.16

<CD2>

交響曲第3番ニ長調 Op.33
管弦楽のための幻想曲ホ長調 Op.28「海」

<CD3>

交響曲第4番変ホ長調 Op.48
交響曲第5番変ロ長調 Op.55

<CD4>

交響曲第6番ハ短調 Op.58
交響曲第7番ハ長調 Op.77「田園」

<CD5>

交響曲第8番変ホ長調 Op.83
交響曲第9番ニ短調(ヴイリル・ユーディン補筆版)
劇付随音楽「サロメ」Op.90~序奏とサロメの踊り(オスカー・ワイルドの劇のための付随音楽)

<CD6>

バレエ音楽「ライモンダ」組曲 Op.57a
バレエ音楽「四季」Op.67

<CD7>

ヴァイオリン協奏曲イ短調 Op.82
ヴァイオリンと管弦楽のための瞑想曲ニ長調 Op.32
チェロと管弦楽のためのコンチェルト・バラータ ハ長調Op.108
チェロと管弦楽のための「吟遊詩人の歌」Op.71

<CD8>

ピアノ協奏曲第1番ヘ短調 Op.92
ピアノ協奏曲第2番ロ長調 Op.100
サクソフォン協奏曲変ホ長調 Op.109
ホルンと管弦楽のための「夢」Op.24

指揮:ホセ・セレブリエール

管弦楽:ロシア・ナショナル管弦楽団

ヴァイオリン:レイチェル・バートン・パイン
チェロ:ウェン=シン・ヤン
ピアノ:アレクサンダー・ロマノフスキー
アルト・サクソフォン:マルク・シーソン
ホルン:アレクセイ・セロフ

録音:2004年~2010年

CD:Warner Classics 0190295651435(8CD)


 今回は、「グラズノフ:交響曲&協奏曲全集」(Warner Classics 0190295651435<8CD>)より、グラズノフ:交響曲第8番変ホ長調 Op.83/バレエ音楽「ライモンダ」組曲 Op.57a /ヴァイオリン協奏曲イ短調 Op.82/サクソフォン協奏曲変ホ長調 Op.109の4曲を聴いてみることにする。

 アレクサンドル・グラズノフ(1865年ー1936年)は、ロシア帝国末期およびソビエト連邦建国期に活躍した、サンクトペテルブルク出身の作曲家。ロシア五人組の指導者バラキレフは、グラズノフの才能を認め、また、その作品はリムスキー=コルサコフにも称賛された。グラズノフはやがて国際的な称賛を受けるようになり、1888年には指揮者デビューも果たしている。1890年代に3つの交響曲、2つの弦楽四重奏曲、そしてバレエ音楽「ライモンダ」と「四季」を完成させるなど、グラズノフは創造力の頂点を極める。このほか、この頃の有名な作品には、交響曲第8番やヴァイオリン協奏曲などがある。その後、1906年から1917年にかけてペテルブルク音楽院の院長を務めることになるが、ロシア楽壇における民族主義(ペテルブルク楽派)と国際主義(モスクワ楽派)を巧みに融和させた重要人物でもあった。しかし、グラズノフの保守主義は、教授陣からも、学生からも、同音楽院内部で非難を浴びることになる。これらの批判に対し、グラズノフは破壊的で不当であると反論し、1928年にウィーンで開かれたシューベルトの没後100周年記念行事に出席するのを好機として、国外に出たきり、二度とソ連に戻らなかった。グラズノフはヨーロッパとアメリカ合衆国を巡り、パリに定住したのである。グラズノフは「ロシアを不在にしているのは亡命ではなく、体調不良のせいだ」と主張し、ソ連における尊厳は失わずに済んだという。

 指揮のホセ・セレブリエール(1938年生まれ)は、ウルグアイ、モンテビデオ出身。11歳でウルグアイにおける最初のユース・オーケストラを組織し、指揮者デビュー。1956年にカーティス音楽院に留学、その後タングルウッド音楽センターで、作曲をアーロン・コープランドに師事する。また、同時期に当時ミネアポリス交響楽団の常任指揮者であったアンタル・ドラティの下で指揮法を学び、続いてピエール・モントゥーに師事。その後、作曲家としてだけでなく、指揮者としてもストコフスキーに認められ、1962年にはアメリカ交響楽団の副指揮者に就任。また、1968年にはジョージ・セルによってクリーヴランド管弦楽団のコンポーザー・イン・レジデンスに指名された。自作品は、交響曲第1番、交響曲第2番「パルティータ」、交響曲第3番「神秘的交響曲」、ファンタジア、ヴァイオリン独奏のためのソナタなどがある。

 グラズノフ:交響曲第8番変ホ長調作品83は、1906年に完成した最後の交響曲である(続いて1910年に着手された第9番は、第1楽章のピアノ・スケッチのみで未完に終わった)。第8番の作曲は1903年頃から始められたが、完成までの間にロシア第一革命が起こり、その影響で師リムスキー=コルサコフがペテルブルク音楽院院長を解任され、これに抗議してグラズノフらも辞任した。政府当局や音楽院側の譲歩により彼らの復職が認められ、そして、グラズノフが新たに院長に選出された。このような背景があり、従来のグラズノフの作品の特徴である明るさが影を潜め、陰鬱な気分や悲劇的な調子が曲の中心を占めることになる。第2楽章では、深い魂の痛みが覆い尽くすが、第4楽章の終盤でようやく前向きな姿勢を覗かせる。第8番は、現在ではグラズノフの最高傑作の交響曲に位置付けられている。この曲でのホセ・セレブリエール指揮ロシア・ナショナル管弦楽団の演奏は、当時のグラズノフの置かれた立場に寄り添うように、心の葛藤を巧みな演奏技法で表現してくれる。この交響曲は、グラズノフの他の交響曲のような明るく牧歌的な雰囲気が陰を潜め、陰鬱で重苦しい感情が支配する。このためもあり、この交響曲は最初は取っ付きにくい。しかし、後期のベートーヴェンの弦楽四重奏曲のように、聴けば聴くほど精神的な深みに愛着が深まり、グラゾノフの最後の到達点にリスナーは共感することになる。ホセ・セレブリエールの指揮は、そのような表現しにくい内容を、明確にリスナーに届けてくれる。名演だ。

 グラゾノフは、バレエ音楽を3曲遺している。一番有名なのが、冬に始まり秋に終わる「四季」。今回聴くのは、全3幕からなる「ライモンダ」作品57(1897年)である。バレエ「ライモンダ」の舞台は、13世紀のハンガリー。伯爵家の娘ライモンダは騎士のジャンと熱烈恋愛中であったが、彼が戦争に行っている間に、悪い男が言い寄ってくる。あわや誘拐の大ピンチに恋人が戦地から帰還し、悪い奴を決闘で倒して二人は晴れてゴールインというストーリー。この曲でのホセ・セレブリエール指揮ロシア・ナショナル管弦楽団の演奏は、グラゾノフ特有の明るく、情感あふれるバレエ音楽の真髄を聴かせてくれ、実に楽しい演奏内容だ。グラゾノフのバレエ音楽というと「四季」ばかりが演奏されるが、この「ライモンダ」は、「四季」に負けず劣らず優れた作品であることをこの演奏は、証明している。

 グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82は、1904年に作曲された。3楽章で構成されているが、作品全体が間断なく連結されており、多楽章構成を含んだ単一楽章のようにまとめられている(中間楽章が実質的なカデンツァであることから、第1楽章の延長と見なして、独立した楽章に数えない見方もある)。全般的に華麗な表現技巧が際立ち、グラゾノフというと、バレエ音楽「四季」と並び、このヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品82が挙げられることが多い。この曲でのレイチェル・バートン・パインのヴァイオリン演奏は、線は細いが、高い演奏技法に裏付けられており、微妙な音の揺らめきを巧みに表現し尽くして秀逸。この演奏を聴くと、この曲は、もっと演奏会で取り上げられてもいいのではないかという気がしてくる。

 グラズノフは、1928年にウィーンで開かれたシューベルトの没後100周年記念行事に出席するのを好機として、国外に出たきり、二度とソ連に戻らなかった。グラズノフはヨーロッパとアメリカ合衆国を巡り、パリに定住した。この時作曲されたのが、サキソフォン協奏曲(1933年)である。この曲でグラズノフは、ジャズの要素を巧みに取り込み、その結果「独特な構想を持っており、この独自の楽器の可能性を切り開いた巨匠的作品」(「ロシア音楽史Ⅱ」クリューコフ他著/全音楽譜出版社)を最晩年に完成させるのである。この曲はあまり演奏される機会はないが、リスナーは、一度聴くとその魅力にたちどころに引き寄せられてしまう。アルト・サクソフォンのマルク・シーソンの演奏は、故国を離れ、二度と帰らないグラズノフの哀愁の情を、しみじみと、しかもストレートに表現して見事な効果を挙げている。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CDレビュー◇ロストロポーヴィチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団/ロンドン交響楽団のショスタコーヴィチ:交響曲第5番/第7番「レニングラード」/第10番

2020-10-06 09:41:19 | 交響曲



<クラシック音楽CDレビュー>



~ロストロポーヴィチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団/ロンドン交響楽団のショスタコーヴィチ:交響曲第5番/第7番「レニングラード」/第10番~



ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
          交響曲第7番「レニングラード」
          交響曲第10番

指揮:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ

管弦楽:ワシントン・ナショナル交響楽団(第5番/第7番)
    ロンドン交響楽団(第10番)

CD:ショスタコーヴィチ:交響曲全集(第1番~第15番)から
    WARNER CLASSICS 0190295460761(CD12枚組)



~ショスタコーヴィチ:交響曲全集(第1番~第15番)~

指揮:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ

管弦楽:ワシントン・ナショナル交響楽団
   (第1番/第2番/第3番/第4番/第5番/第6番/第7番/第8番/第11番/第12番/第13番)
管弦楽:ロンドン交響楽団(第10番/第15番)
管弦楽:モスクワ・アカデミー交響楽団(モスクワ・フィル)(第14番)

<CD1>
 交響曲第1番ヘ短調 Op.10
 交響曲第9番変ホ長調 Op.70
<CD2>
 交響曲第2番 Op.14「十月革命に捧ぐ」
 交響曲第3番変ホ長調 Op.20「メーデー」
 合唱:ロンドン・ヴォイシズ
<CD3>
 交響曲第4番ハ短調 Op.43
<CD4>
 交響曲第5番ニ短調 Op.47
<CD5>
 交響曲第6番ロ短調 Op.54
 交響曲第12番ニ短調 Op.112「1917年」
<CD6>
 交響曲第7番ハ長調 Op.60「レニングラード」
<CD7>
 交響曲第8番ハ短調 Op.65
<CD8>
 交響曲第10番ホ短調 Op.93
<CD9>
 交響曲第11ト短調 Op.103「1905年」
<CD10>
 交響曲第13番変ロ短調 Op.113「バビ・ヤール」
 バス:ニコラ・ギュゼレフ(バス)
 合唱:ワシントン合唱芸術協会男声合唱団
<CD11>
 交響曲第14番ト短調 Op.135「死者の歌」
 ソプラノ:ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
 バス:マルク・レシェーチン
<CD12>
 交響曲第15番イ長調 Op.141

録音:1988年~1995年(第14番のみ1973年ライヴ)

CD:WARNER CLASSICS 0190295460761(CD12枚組)


 今回は、チェロの巨匠ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが指揮をした、CD12枚組「ショスタコーヴィチ:交響曲全集(第1番~第15番)」から、第5番、第7番「レニングラード」、第10番の3曲を聴くことにする。これら3曲に共通するのは、当時の旧ソ連政府という絶対的権力に対峙して、体制、反体制を止揚した高みに達した無類の傑作交響曲であるということである。第5番は「民族意識の高揚」、第7番は「祖国防衛の大叙事詩」、そして第10番は「心の葛藤からの解放」という人類の普遍的テーマに真正面から取り組み、ものの見事に音楽で描き切っている。ロストロポーヴィチは34歳以後は、指揮者としても活躍したが、この録音を聴くと、指揮者としても超一流の腕を持っていたことが聴きとれる。そしてなにより、自身も亡命生活という苦難を経験したことが、ショスタコーヴィチの交響曲を他のどんな指揮者より、深い愛情と共感をもって指揮することができる源泉になっているのだろう。その意味から、ロストロポーヴィチが指揮したCDアルバム「ショスタコーヴィチ:交響曲全集」は、不滅の存在価値を持っている言っても過言でない。

 ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(1927年―2007年)は、アゼルバイジャン、 バクー(旧ソビエト連邦)出身。チェリストとして20世紀後半を代表する巨匠として知られる。1943年モスクワ音楽院に入学したが、作曲の師はショスタコーヴィチであったという。1945年「全ソビエト音楽コンクール」金賞受賞。1951年バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏で「スターリン賞」受賞。そして1961年指揮者としてもデビューを果たす。1963年「レーニン賞」受賞。1966年ソビエト連邦「人民芸術家」の称号を受ける。しかし、1970年社会主義を批判した作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンを擁護したことにより旧ソ連政府から「反体制」とみなされ、以降、国内演奏活動を停止させられ、外国での出演契約も一方的に破棄される。そのため1974年に亡命。1977年アメリカ合衆国へ渡り、ワシントン・ナショナル交響楽団(1931年に設立されたワシントンD.C.のオーケストラで、ケネディ・センターを拠点とし、英語名は The National Symphony Orchestra)音楽監督兼首席常任指揮者に就任。1978年旧ソビエト政府により国籍剥奪されるが、1990年ワシントン・ナショナル交響楽団を率いてゴルバチョフ体制のソ連で16年ぶりに凱旋公演を行い、国籍を回復した。親日家としても知られ、1958年に大阪国際フェスティバルで初来日して以降、たびたび来日した。
 
 ショスタコーヴィチ:交響曲第5番は、1937年に作曲された。全4楽章による古典的な構成となっており、ショスタコーヴィチの作品の中でも特に著名な作品の一つ。日本では、かつては「革命」の副題で親しまれた。1936年、スターリンの意向を受けた旧ソビエト共産党の機関紙「プラウダ」が、ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を「荒唐無稽」、バレエ音楽「明るい小川」を「バレエの嘘」と激しく批判するという事件が発生した。つまり、スターリンの独裁下の旧ソ連体制下にあっては、作曲者のショスタコーヴィチ自身は、「体制への反逆者」というレッテルを貼り付けられたことを意味する。そして、ショスタコーヴィチの友人・親類たちも次々に逮捕・処刑されていった。このような厳しい状況に晒される中、ショスタコーヴィチが書いたのが交響曲第5番である。作曲の前年にはスターリン憲法が制定された。第5番が旧ソ連体制の輝ける将来を祝福するような力強さがみなぎった交響曲に聴こえる裏には、ショスタコーヴィチの旧ソ連政府への静かな抵抗が潜んでいるとする見方がある。

 交響曲第5番でのロストロポーヴィチの指揮は、どちらかというと壮大さな音づくりは極力抑えられ、ショスタコーヴィチの心の奥底に入り込み、ショスタコーヴィチがこの曲で真に訴えたかったことを手探りで探し出し、訴えかけるような演奏に徹する。これはロストロポーヴィチのショスタコーヴィチへ対する深い共感がつくり上げた、情感のこもった指揮内容であり、ショスタコーヴィチの心の奥底を映し出した、他の指揮者には到底真似できない境地に達した、ロストロポーヴィチならではの演奏と言える。

 ショスタコーヴィチ:交響曲第7番は、レニングラード包囲前の1941年12月に完成した。現在、第8番、第9番と合わせ「戦争3部作」と言われる。「私は自分の第七交響曲を我々のファシズムに対する戦いと我々の宿命的勝利、そして我が故郷レニングラードに捧げる」と作曲者自身が表明したことから「レニングラード」という副題が付けられている。第二次世界大戦のさなか、ナチス・ドイツ軍に包囲された(レニングラード包囲戦)レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)市内で作曲された。当初、全4楽章からなる各楽章には、「戦争」「回想」「祖国の大地」「勝利」という副題が付けれれていたが後に削除された。このことを見てもショスタコーヴィチはこの曲を、単なる反ナチズムの立場に立つ作品としてとらえていたわけではないことが推測される。つまり、現在では、反ファシズムだけでなく旧ソビエト政府の全体主義も描いたのではないかという見方もされている。しかし、当時の旧ソ連政府や欧米の連合国諸国にとってこの交響曲は、反ファシズム、反ナチズムの勝利の交響曲として捉えられ、絶賛された。

 交響曲第7番でのロストロポーヴィチの指揮は、第5番に比べて伸び伸びと雄大なスケールで描き切る。これは、少なくとも反ナチズムを象徴する曲であり、これへの共感の意識が根底にはあるように感じられる。ロストロポーヴィチの指揮は実に明瞭で曖昧さが入り込む余地はない。しかし、決してぎすぎすした感じは感じさせず、逆にショスタコーヴィチの心情に対する共感がたっぷりと込められたものに仕上がった。この曲の指揮でもロストロポーヴィチは、そのスケールの大きいドラマチックな棒さばきで、他の指揮者を大きく凌駕したと言える。

 ショスタコーヴィチ:交響曲第10は、1953年に完成した。全部で15曲あるショスタコーヴィチの交響曲のうちでも、最高傑作とも位置付けられている作品である。この作品の前の作品に当たる交響曲第9番を聴いたスターリンは、ベートーヴェンの交響曲第9番のような偉大なる作品を期待していたが、聴いてみるとその期待とは裏腹に、軽妙洒脱な作品であったため激怒したとも伝えられている。このために、1948年にショスタコーヴィチは、当時、旧ソ連政府の文化部門の最高責任者であったジダーノフより批判を受け(ジダーノフ批判)、ショスタコーヴィチは苦境に追い込まれることとなった。そして1953年のスターリンの死の直後、いわゆる雪どけの時代の直前に、この交響曲第10番が発表されたのだ。発表当時、「ニューヨーク音楽評論家賞」を受賞するなど、西側諸国は交響曲第10に高い評価を与えたが、旧ソ連内においては「社会主義リアリズムからかけ離れた曲」派と「作品支持」派に二分され、いわゆる「第10論争」が繰り広げられることになるが、結局「楽観的な悲劇」という訳の分からない統一見解で騒ぎは収まった。

 交響曲第10でのロストロポーヴィチの指揮は、ショスタコーヴィチの心の内に潜む苦悩に静かに寄り添い、深い理解をもった指揮ぶりに徹する。ジダーノフ批判を受け、何時死が襲ってくるかもしれないショスタコーヴィチの恐怖感がひしひしと伝わってくるような演奏内容だ。これは、地球温暖化やコロナ禍の恐怖に直面する現代にも当てはまる感情ではないのか。そして、この曲での最後では、突破口が開かれ、未来に向け雄々しく立ち上がろうとする様子も克明に演奏される。この曲においてもロストロポーヴィチは、存在感のある指揮ぶりを遺憾なく発揮して、聴くものを圧倒する。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CDレビュー◇ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルのヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第3番「田園交響曲」/第4番/第5番

2020-08-11 09:38:46 | 交響曲



<クラシック音楽CDレビュー>



~ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルのヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第3番「田園交響曲」/第4番/第5番~


ヴォーン・ウィリアムズ:①交響曲 第3番「田園交響曲」(ソプラノ: アマンダ・ルークロフト)
               交響曲 第4番
            
                  <CD:ワーナークラシックス 9 84764 2>

              ②交響曲 第5番
               ノーフォーク狂詩曲 第1番
               「揚げヒバリ」~ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス~
                        (ヴァイオリン: サラ・チャン)
   
                  <CD:ワーナークラシックス 9 84766 2>

指揮:ベルナルト・ハイティンク

管弦楽:ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:ワーナー・クラシックス ヴォーン=ウィリアムズ: 交響曲全集(交響曲第1番~第9番)
                  (7CD<9 84760 2~9 84772 2>)より


ワーナー・クラシックス ヴォーン=ウィリアムズ: 交響曲全集(交響曲第1番~第9番) 7CD<9 84760 2~9 84772 2>

<CD1>

交響曲 第1番「海の交響曲」
     ソプラノ: フェリシティ・ロット
     バリトン: ジョナサン・サマーズ
     合唱: ロンドン・フィルハーモニック合唱団、カンティレーナ

<CD2>
 
交響曲 第2番「ロンドン交響曲」

<CD3>

交響曲 第3番「田園交響曲」
     ソプラノ: アマンダ・ルークロフト
交響曲 第4番 ヘ短調

<CD4>

交響曲 第5番 ニ長調
ノーフォーク狂詩曲 第1番 ホ短調
「揚げヒバリ」(ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス)
     ヴァイオリン: サラ・チャン

<CD5>

交響曲 第6番 ホ短調
交響的印象「沼沢地方にて」
「ウェンロックの断崖で」
     テノール: イアン・ボストリッジ

<CD6>

交響曲 第7番「南極交響曲」
     ソプラノ: シーラ・アームストロング
     合唱: ロンドン・フィルハーモニック合唱団

<CD7>

交響曲 第8番 ニ短調
交響曲 第9番 ホ短調

指揮:ベルナルト・ハイティンク

管弦楽:ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

 レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872年―1958年、RVW または VW と略される)は、イギリス、イングランド南西部のグロスターシャー州ダウンアンプニー出身。1890年王立音楽大学に入学。1892年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。1907年ラヴェルから作曲とオーケストレーションのレッスンを受ける。ヴォーン・ウィリアムズの音楽は、イングランドの特徴を備えていると言われる。生涯に9つの交響曲を遺し、また、イングランドの民謡を題材にした作品も多く、イギリスの田園風景を彷彿とさせる牧歌的な作風は、広くイギリス国民に広く愛されている。日本では、ヴォーン・ウィリアムズの作品として広く知られるのは「グリーンスリーヴスによる幻想曲」「トーマス・タリスの主題による幻想曲」「揚げひばり」ぐらいなものであり、「惑星」で知られるホルストに比べると知名度が低い。しかし、欧米では9つの交響曲をはじめ数多くの名曲を作曲したヴォーン・ウィリアムズは、ホルストより広く知られた作曲家だ。生涯にわたってシベリウスを尊敬していたといわれ、第5交響曲はシベリウスに献呈されている。ヴォーン・ウィリアムズが民謡に魅了され、そこから深い造詣を獲得していることは作品から窺い知れる。イングランドへの愛国心に加え、その古き風景を垣間見せる作品を多く遺した。1919年王立音楽大学の作曲科教授に就任。1935年「メリット勲章」を受章。1958年交響曲第9番が初演された後の8月26日にロンドンにて心臓発作のため死去。享年85歳。

 ヴォーン・ウィリアムズの交響曲は、多くの指揮者が録音しているが、ここでは、ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルの「ヴォーン・ウィリアムズ: 交響曲全集(交響曲第1番~第9番)」(7CD<9 84760 2~9 84772 2>)から①交響曲 第3番「田園交響曲」(ソプラノ: アマンダ・ルークロフト)/交響曲 第4番 <CD:ワーナークラシックス 9 84764 2>②交響曲 第5番/ノーフォーク狂詩曲 第1番/「揚げヒバリ」~ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス~(ヴァイオリン: サラ・チャン)<CD:ワーナークラシックス 9 84766 2>の2枚のCDを聴いてみることにする。 

 指揮のベルナルト・ハイティンク(1929年生まれ)は、オランダ、アムステルダム出身。地元のオーケストラのヴァイオリン奏者を務めた後、フェルディナント・ライトナーに指揮を師事し、指揮者に転向。1955年オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団次席指揮者(1957年より首席指揮者)に就任。1961年アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、1967年ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団のそれぞれ首席指揮者に就任。1978年から1988年までグラインドボーン音楽祭、1987年から2002年までロイヤル・オペラ・ハウスの音楽監督を務める。1991年「エラスムス賞」を受賞。1995年からボストン交響楽団の首席客演指揮者となり、2004年に名誉指揮者。2002年ドレスデン国立管弦楽団の首席指揮者に就任。2006年シカゴ交響楽団首席指揮者に就任。日本には、1962年コンセルトヘボウとの初来日を皮切りに以後しばしば来日を果たしている。EUユース管弦楽団音楽監督、シュターツカペレ・ドレスデン音楽総監督・首席指揮者を歴任。2019年ルツェルン音楽祭でのウィーン・フィルとの共演を最後に引退を発表した。

 交響曲第3番「田園交響曲」は、1918年から1921年にかけて作曲された。全4楽章よりなる。ヴォーン・ウィリアムズが第一次世界大戦の従軍経験から発想を得たという。全部の楽章がモデラートあるいはレントからなっていて、ほんの一部を除いて曲中にテンポの速い箇所がない。この曲は、友人を含む第一次世界大戦の犠牲者への挽歌であると考えられている。この曲で用いられる独唱は歌詞を持たないヴォカリーズ。この交響曲は、従軍した経験者でなければ到底表現できないであろう、深い悲しみが込められた、古今の交響曲の中でも特筆すべき曲だ。決して声高に主張するわけではないが、美しい自然に対する深い畏敬の念に貫かれ、聴いていて心を打たれるものがある。ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルは、作曲者に強い共感をもって、深く静かに、ゆっくりとしたテンポで曲を進める。死と直面したヴォーン=ウィリアムズの心の叫びが、聴こえてきそうな、心のこもった演奏内容に深く感動させられた。

 交響曲第4番ヘ短調は、1931年から1934年にかけて作曲された。前3作はいずれも標題交響曲であるが、この曲には標題がない。初演は1935年4月10日、エイドリアン・ボールト指揮のBBC交響楽団によって行われた。聴衆の多くは、前作と異なる大胆な不協和音や厳しく激しい音楽に当惑したという。これは第一次世界大戦が終わり、来るべき第二次世界大戦への恐れや不安感が、この交響曲を攻撃的な作風にしたと考えられる。ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルの演奏は、第4番とは打って変わり、激しく強靭な演奏に終始する。重々しい弦楽器のうなり、ときおり飛び込む打楽器の破壊的な響き。どれをとっても再度の世界大戦の到来におののく当時の民衆の心の叫びが聴こえてきそうだ。ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルは、そんな雰囲気を余すところなく見事に伝えきる。
 
 交響曲第5番ニ長調は、1938年から1943年にかけて作曲されたが、時代はちょうど第二次世界大戦のさ中だ。この曲は、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲の中での最高傑作と言われ、日本での演奏機会が最も多い作品。1943年6月24日にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいて、作曲者指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団演奏により初演された。曲はシベリウスに献呈された。1935年初演の交響曲第4番で見られた暴力的な不協和音や緊張感は影を潜め、交響曲第3番「田園交響曲」以前の穏やかな作風に回帰しているが、独自の旋法性もこの頃から現れ始めている。この曲は、ヴォーン・ウィリアムズの交響曲の中での最高傑作と言われているが、あらゆる交響曲中の傑作の一つと言い換えても十分に通用すると私は確信する。この曲には、あらゆる苦悩を乗り越えた人間だけが感じ取れる崇高な精神に満ち溢れている。ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルは、第3番の静かさだけでもなく、第4番の激しさだけでもない、この交響曲の持つ精神性の高さを前面に押し出した熱演を聴かせてくれる。特に、第3楽章の演奏内容には深い感銘を受けた。そして、ベルナルト・ハイティンクの誠実な指揮ぶりには、思わず頭が下がる。(蔵 志津久)
 
 要望:日本のクラシック音楽界は、演奏会において、合計9曲もあるヴォーン・ウィリアムズの交響曲を、もっと積極的に取り上げてほしいものだ。 
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◇クラシック音楽CDレビュー◇ジャン・マルティノン指揮フランス国立管弦楽団のサン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」

2020-04-07 09:38:01 | 交響曲
  

サン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」

指揮: ジャン・マルティノン

管弦楽:フランス国立管弦楽団

オルガン:ベルナール・ガボティ

CD:ワーナーミュージック・ジャパン WPCS 13440
   
   サン=サーンス:交響曲全集(WPCS 13439~40)から
  
    <ディスク:1> 1. 交響曲イ長調 2. 交響曲第1番変ホ長調op.2 3. 交響曲第2番イ短調op.55
    <ディスク:2> 1. 交響曲ヘ長調「ローマ」 2. 交響曲第3番「オルガン付き」op.78
 
 指揮のジャン・マルティノン(1910年―1976年)は、フランス、リヨン出身。パリ音楽院でヴァイオリン、作曲、指揮を学ぶ。ヴァイオリン奏者として出発するが、指揮者としても活躍。第二次世界大戦後は本格的に指揮者に転身、パリ音楽院管弦楽団、ボルドー交響楽団、コンセール・ラムルー、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、デュッセルドルフ交響楽団などの首席指揮者などを歴任。その後1963年にはシカゴ交響楽団の音楽監督、さらに1968年からはフランス国立放送管弦楽団の音楽監督を務めるた。生涯に1953年、1963年、1970年の3回、来日を果たしている。フランス音楽を得意としていたが、自身ドイツ系アルザス人の血を引いており、ドイツ音楽の解釈に対しても高い評価を得ていた。作曲家としても4曲の交響曲をはじめ、協奏曲や室内楽曲を遺している。
 
 フランス国立管弦楽団(Orchestre national de France)は、パリ管弦楽団などと並ぶフランスの代表的なオーケストラの一つ。定期演奏会はパリのシャンゼリゼ劇場で行われている。 1934年に、フランスラジオ放送(RDF)専属のオーケストラとして創立。当初の名称は、「フランス国立放送管弦楽団」である。1964年以降は「Orchestre national de l'ORTF」( ORTF=フランス放送協会)となる。ジャン・マルティノンは、1968年~1974年音楽監督を務めた。1975年、ORTFの組織が7つに分割され、ラジオ・フランスに管理・運営が移管されるに伴い、現在の名称に改称し、チェリビダッケを初の音楽監督に迎えた。現在は、エマニュエル・クリヴィヌが音楽監督を務めいるが、2021年からは、ルーマニア出身の米国人指揮者で、ケルンWDR交響楽団(旧ケルン放送交響楽団)首席指揮者のクリスティアン・マチェラルが音楽監督を務めることになっている。
 
 このサン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」のCDは、2枚組のサン=サーンス:交響曲全集(WPCS 13439~40)に収められている。交響曲第3番「オルガン付き」は、サン=サーンスがそれまでに作曲してきた交響曲の集大成といった意味合いを持つもので、その他の交響曲をたとえ聴かなくても支障はないが、この全集はサン=サーンスが如何にして交響曲第3番「オルガン付き」にまでたどり着いたかを知りたい人にとっては貴重な録音だ。最初の交響曲イ長調は、パリ音楽院に籍を置いていた1850年(15歳)の作品。次の交響曲第1番は、作曲コンクールで優勝した後で作曲の依頼を受けて書いた作品で、1853年(17歳)の作品。さらに交響曲第2番は、古典派としてのサン=サーンスの個性が出た作品で、1859年に書かれた。そして、交響曲第3番「オルガン付き」の前に書かれたのが、交響曲ヘ長調「ローマ」。この交響曲は、1856年に行われた作曲コンクールでの優勝作品で、翌年、「ローマ」と名づけられ初演された。ところが、出版もされず、交響曲作品としての番号も付けられていない。これはもしかすると、サン=サーンスとしては、次に手掛けることになる交響曲第3番「オルガン付き」に、交響曲作品として自己の持てるもの全てを盛り込みたかったためかもしれない。
 
 交響曲第3番「オルガン付き」は、ピアノと教会のパイプオルガンが盛り込まれていることで一躍その名が知れ渡り、フランス系の代表的な交響曲であることは勿論のこと、現在では、あらゆる交響曲作品の中の傑作として演奏会でしばしば取り上げられている。1886年の初演に加え、翌1887年1月9日のパリ音楽院演奏協会によるパリ初演も成功を収めた。この交響曲は、全体が循環主題形式により構成されており、通常の交響曲の4つの楽章は、ここでは2つの楽章に圧縮されている。このCDでのジャン・マルティノン指揮フランス国立管弦楽団の演奏は、細部にわたり彫りの深い、リスナーに強いインパクトを与えずにはおかない名演を聴かせる。あたかもライヴ録音のような緊張感に全体が包まれている。ジャン・マルティノンは、フランスの指揮者だが、同時にドイツ・オーストリア系の作品にも深い造詣を持っているため、ちょうどこのサン=サーンス:交響曲第3番「オルガン付き」の持つ、ドイツ・オーストリア系的交響曲の雰囲気を醸成するのには、これほど適任の指揮者はいない。流れるような的確なリズム感を強調する一方では、深い叙情性をたたえた美しいメロディーを、これでもかと言うようにリスナーの眼前に朗々と提示してみせる。そしてオルガンとオーケストラの渾然と一体化したその演奏内容は、数あるこの曲のCDの中でも1、2を争う高いレベルに達している。このCDは、録音の質も極めて良好であり、その演奏内容の高さからも、今後長い生命力を持ち続けることは間違いあるまい。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CDレビュー◇ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団のプロコフィエフ:交響曲第1、5、4、6、7番/管弦楽組曲「3つのオレンジの恋」、「キージェ中尉」

2019-09-10 09:39:03 | 交響曲


プロコフィエフ:交響曲第1番 「古典」                   
        交響曲第5番                    
        
        管弦楽組曲「3つのオレンジの恋」(歌劇「3つのオレンジの恋」から)
        管弦楽組曲「キージェ中尉」(映画「キージェ中尉」から)                    
        交響曲第4番 [改訂版]                   
        交響曲第6番                    
        交響曲第7番「青春」

指揮:ユージン・オーマンディ

管弦楽:フィラデルフィア管弦楽団

CD:ソニーミュージック SICC1587~9(3枚組)

 ユージン・オーマンディ(1899年―1985年)は、ハンガリー出身のアメリカ人指揮者。1905年、ブダペスト王立音楽院に入学。1908年から名ヴァイオリニストのフーバイに師事。1917年にヴァイオリン教授の資格を得て音楽院卒業後、ヴァイオリニストとして本格的な演奏活動を開始。1921年、アメリカ演奏旅行をきっかけにアメリカに定住することとなり、ニューヨーク・キャピトル劇場オーケストラのヴァイオリン奏者となる。1924年、同オーケストラの指揮者としてデビュー。1931年、病気のトスカニーニの代役として、フィラデルフィア管弦楽団定期公演を指揮。この代演を成功させて評判を高め、同年、ミネアポリス交響楽団(現・ミネソタ管弦楽団)の常任指揮者に就任。1936年、レオポルド・ストコフスキーと共にフィラデルフィア管弦楽団の共同指揮者となる。 1938年、ストコフスキーの辞任により後任としてフィラデルフィア管弦楽団音楽監督に就任。以後、音楽監督として1980年に勇退するまで42年の長期にわたって在任。来日公演も4度(1967年、1972年、1978年、1981年)行った。 オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団の音色は、“フィラデルフィア・サウンド”として多くのファンから親しまれた。

 フィラデルフィア管弦楽団は、アメリカ合衆国のペンシルベニア州フィラデルフィアを本拠地とするオーケストラで1900年に創立され、現在では「アメリカ5大オーケストラ」の一つとして知られている。1912年に首席指揮者となったレオポルド・ストコフスキーによって名声が築かれたが、1936年から1938年までユージン・オーマンディが首席指揮者の座をストコフスキーと分かち合い、それ以降はユージン・オーマンディが単独で音楽監督となった。同楽団の奏者のほとんどはカーティス音楽学校のトップ卒業生によって占められている。カーティス音楽学校は、同楽団の水準を満たすような楽団員の養成機関をめざして設立され、その教授陣は同楽団のメンバーまたは元メンバーで構成され、伝統の途切れない継承が行われている。ユージン・オーマンディ以降の音楽監督・首席指揮者は次の通り。リッカルド・ムーティ(1980年―1992年)、ヴォルフガング・サヴァリッシュ(1993年―2003年)、クリストフ・エッシェンバッハ(2003年―2008年)、シャルル・デュトワ(2008年―2012年)、ヤニック・ネゼ=セガン (2012年― )。

 このCDは、ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団が、プロコフィエフの交響曲と管弦楽組曲を収めた3枚組のアルバムだ。プロコフィエフの交響曲と言うと、多くの人が直ぐに思い当たるのが第1番「古典」であろう。プロコフィエフが古典派の交響曲を擬え、現代風の感覚で作曲した作品で、プロコフィエフの天衣無縫とも言える天才ぶりを如何なく発揮した傑作である。ほかの交響曲というと第5番が挙げられるくらいで、そのほかの交響曲は現在あまり演奏される機会はない。何故、そうなったかを物語るのがこの3枚組のCDアルバムなのである。プロコフィエフは、若いころからその才能を世界から認められる存在であった。そのため、旧ソ連体制になった後でも、例外的にアメリカへの出国が認められた(事実上の亡命である)。その旅の途中、プロコフィエフは日本にも立ち寄りピアノ演奏会を開催している(日本でプロコフィエフが弾いたピアノは遺され、復元され現在演奏できる状態にある)。ところが当時、旧ソ連政府は、労働者階級に基づく芸術作品しか認めず(ジュダーノフによる芸術家への弾圧)、それまで黙認されていたプロコフィエフも帰国を促された。そして帰国後、書かれたのが、交響曲第5番、交響曲第4番 [改訂版]、交響曲第6番 、交響曲第7番「青春」なのである。そこでは、プロコフィエフ本来の天衣無縫さは失せ、どことなく抑うつ的な作品(第5番、第6番)か、明るさだけが目だつ作品(第4番[改訂版]、第7番)が生み出されることになった。現在では、交響曲作品は、第1番と第5番を除いては、ほとんど演奏機会が無い状態なっている。

 ところが、ありがたいことに録音という技術は、これらの交響曲を何回も聴き直すことを可能にする。何回も聴いていると、プロコフィエフが、スターリンの抑圧をかいくぐり作曲した、これらの曲の真価がじわじわと伝わってくるのだ。これを実現したのがこのCDのユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団である。華麗であると同時に真摯に曲と向き合うその演奏姿勢によって、これまであまり顧みられることのなかった作品に新たな光を投げかけている。交響曲第5番は、私には、当時のソ連が祖国防衛のために戦った独ソ戦を交響曲にまとめ上げたように聴こえる。ショスタコーヴィチの交響曲第5番を意識して書かれたのではないかとも感じられる。そこには戦争そのものを否定するのではなく、祖国防衛という崇高な使命に燃えたドラマがある。そして、これを受けるように作曲されたのが、交響曲第6番であり、ここには第5番には盛り込めなかった戦争の悲惨さが込められていると私には聴こえる。一方、交響曲第4番[改訂版]は、アメリカ時代に作曲した明るい曲想の作品を、雄大なシンフォニーに書き改めた作品。そして最後の交響曲7番「青春」は、若人の明るい将来を賛美した作品。この曲を「体制に迎合した交響曲」と批判する向きもあるが、私には、プロコフィエフが政治体制の違いを越えて辿りついた、理想の社会への夢が込められた作品と思えてならない。プロコフィエフは独裁者に対し気づかれないよう静かに抵抗するタイプの芸術家であった。ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の演奏は、これら性格の異なる交響曲を一曲一曲丁寧に辿って演奏している。いたずらに表面的な効果を追うのではなく、プロコフィエフの心に寄り添うような演奏を聴くと尊敬の念すら覚える。なお、プロコフィエフは、1953年3月5日午後6時に脳出血により亡くなったが、偶然にもスターリンは同年同月同日の3時間前に死去した。スターリンが亡くなると同時にその知らせは瞬時に国中に伝わったが、プロコフィエフの死は、しばらくの間、誰にも気づかれなかったほど寂しいものだったという。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇多才な名指揮者アンドレ・プレヴィンが遺した4曲のハイドン: 交響曲集

2019-04-09 07:26:25 | 交響曲

ハイドン: 交響曲第92番「オックスフォード」
     交響曲第96番「奇蹟」                     
     交響曲第102番                     
     交響曲第104番「ロンドン」

指揮: アンドレ・プレヴィン

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

録音:1992年2月4~7日(第92番/第96番)、1993年4、5、10日(第96番/第104番)、
        ウィーン、ムジークフェライン

CD:タワーレコード PROC‐1013~4(2枚組)

 指揮のアンドレ・プレヴィン(1929年―2019年)は、ドイツ、ベルリンの出身。1938年と一緒にアメリカへと渡り、1943年にアメリカ合衆国市民権を獲得。ピエール・モントゥーに指揮法を学ぶ。ヒューストン交響楽団、ロンドン交響楽団、ピッツバーグ交響楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニック、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団などで音楽監督、首席指揮者などを歴任した。また、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との関係も深かった。2009年よりNHK交響楽団の首席客演指揮者(後に名誉客演指揮者)に就任した。2019年2月28日、89歳でニューヨークで亡くなった時、NHK交響楽団は「プレヴィン氏とN響の初共演は1993年8月。・・・その人柄を映し出すかのような高い品位と優しさを兼ね備えた演奏で私達を魅了してきました。またモーツァルトやガーシュウィンのピアノ協奏曲で披露した”弾き振り”も忘れ難いものです。・・・氏が指揮を務めた東日本大震災直後の2011年3月のN響北米ツアーでは、自らバッハ”G線上のアリア”を演奏することを提案し、日本への痛切な思いを現地の聴衆に音楽を通じて届けました」と哀悼の意を表した。

 アンドレ・プレヴィンは、10代の頃からジャズを演奏し、”天才少年”として注目された。1953年からは、ウェストコースト・ジャズ界の名トランペット奏者ショーティ・ロジャースの楽団に所属。1960年代までジャズ・ピアニストとして多くのレコードを製作。また、ロサンゼルス時代にはハリウッドの大手映画会社MGM専属となり、多くの映画において映画音楽の作曲や編曲、音楽監督を務めた。プレヴィンが何らかの形でかかわった作品としては、「キス・ミー・ケイト」「絹の靴下」「恋の手ほどき」「あなただけ今晩は」「マイ・フェア・レディ」「ペンチャー・ワゴン(英語版)」「ジーザス・クライスト・スーパースター」などがある。アカデミー賞は通算4回受賞。クラシック音楽の作曲家としても多くの作品を遺している。「ピアノ協奏曲」「チェロ協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「ギター協奏曲」「金管五重奏のための4つの野外音楽」のほか、オペラ「欲望という名の電車」、歌曲集「ハニー・アンド・ルー」などの声楽曲も作曲した。1998年にはケネディ・センター賞を授与されたほか、イギリスではナイト(KBE)に叙勲された。

 このような多彩な才能を持ち主であったアンドレ・プレヴィンが、ウィーン・フィルを指揮してハイドンの交響曲4曲を2枚に収録したのが今回のCDである。ハイドンは、弦楽四重奏曲および交響曲の古典的形式を確立したというクラシック音楽史上に不滅の足跡を残している。ハイドン以前の演奏会での主役は協奏曲や声楽曲であり、交響曲は聴衆が座席に付き終える間の音楽という脇役的存在にすぎなかった。それを、ハイドンは4楽章からなる独立した音楽ジャンルに成長させ、その結果、現在の演奏会においては、交響曲が主役の座を占めることになった。交響曲第92番が「オックスフォード」と名付けられたのは、1791年にオックスフォード大学における名誉博士号の授与式でハイドンがこれを指揮したと伝えられているため。ハイドンは、1761年にハンガリーのアイゼンシュタットのエステルハージー家の楽団の副楽長に就任したが、1790年に音楽に造詣が深いニコラウス公が亡くなり、その後を継いだアントン公が音楽に関心がないことを、ボン生まれのヴァイオリニストで当時、ロンドンで活躍していたヨハン・ペーター・ザロモンから聞き、1791年にロンドンに赴いた。ロンドンではザロモン・コンサートと名付けられた演奏会が大成功を収めることになる。交響曲第96番「奇蹟」は、ハイドンが1791年に作曲した曲。「奇蹟」という愛称は、楽曲そのものとは関係はない。この交響曲の初演時に、会場のシャンデリアが天井から落下したにも関わらず誰も怪我をしなかった、という出来事に由来したという。しかし、近年の研究では、交響曲第96番ではなく、102番であるらしいことが分かっている。

 交響曲第102番は、ハイドンが1794年にロンドンで作曲した作品。1791年から1795年にかけて作曲した12曲の交響曲は「ロンドン交響曲(ザロモン交響曲)」と呼ばれているが、第102番はその中の1曲。交響曲第104番「ロンドン」は、1795年にロンドンで作曲した曲で、ハイドンの代表作の一つであり、ハイドンの最後の交響曲。「ロンドン」の愛称は曲とは直接関係はない。「ロンドン交響曲」を締めくくる曲であることで付けられたもので、曲の内容は極めて充実した作風となっており、今でも演奏会でしばしば取り上げられている。アンドレ・プレヴィンの録音と言えば、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ラフマニノフ、それにプロコフィエフなどを思い出す。このCDを聴く前は、正直なところ私にはプレヴィンとハイドンの相性について少々戸惑ががあったのも事実。ところが、このれらの4曲を聴き終えてみると、相性はなかなかいいどころか、明るく軽快なハイドン像がくっきりと浮かび上がる名演を聴かせてくれる。ウィーン・フィルを巧みに指揮し、ウィーン・フィルの持ち味を存分に引き出すことに成功している。ウィーン・フィルというと、毎年の元旦のニューイヤー・コンサートのイメージが強くいためか、ウィーン情緒たっぷりの演奏を思い浮かべるが、実は強靭なバネを連想させる力強さが本領なのだ。私は、たまたま2018年11月24日にサントリーホールで開催されたフランツ・ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィルの演奏会を聴いたが、その演奏の強靭さには驚かされた。このCDでは、プレヴィンはそんなウィーン・フィルを、手綱捌きの良い騎手の如く巧みに導いていく。表現は明るく澄みっ切って、明快この上ない。重くもなく、さりとて軽くもない。中庸さを保つが、凡庸ではない演奏内容だ。4曲の中でも白眉なのは交響曲第104番「ロンドン」の演奏である。神々しいばかりの重厚さが曲全体を覆う演奏だが、そこにはプレヴィン特有の遊び心のような親しみやすさが溢れ返っている。プレヴィンさん、長い間数々の名演奏をありがとう、合掌。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のブルックナー:交響曲第3番「ワーグナー」/ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲

2019-02-12 09:31:58 | 交響曲

ブルックナー:交響曲第3番「ワーグナー」
ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲

指揮:アンドリス・ネルソンス

管弦楽:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

録音:2016年6月

CD:ユニバーサルミュージック UCCG-1766

 指揮のアンドリス・ネルソンス(1978年生まれ)は、ラトヴィア、リガ出身。12歳の時からトランペットを学び、ラトヴィア国立歌劇場管弦楽団のトランペット奏者となる。その後サンクトペテルブルクで指揮を学ぶ。オスロ・フィルハーモニー管弦楽団で緊急のトランペット奏者の代役を務めた時にマリス・ヤンソンスの目に留まり、2002年から指揮を学ぶことになった。2003年ラトヴィア国立歌劇場音楽監督に就任。2006年北ドイツ・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者に就任。2008年バーミンガム市交響楽団音楽監督に就任。2010年バイロイト音楽祭に「ローエングリン」を指揮してデビューを果たす。2014年ボストン交響楽団の音楽監督に就任(2022年まで)。2016年ボストン交響楽団を指揮してドイツ・グラモフォンに録音したショスタコーヴィチの交響曲第10番、パッサカリアが「グラミー賞」の「最優秀オーケストラ録音賞」を獲得した。2017年ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスター(楽長)に就任。

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、ドイツ、ライプツィヒに本拠を置くオーケストラで、1743年世界初の市民階級による自主経営オーケストラとして発足。それまでの宮廷専属オーケストラと異なり、このオーケストラの誕生で、自らの城や宮殿などを演奏会場として音楽を聞いていた王侯貴族のような身分・階級でなくとも、入場料さえ払えば誰でもオーケストラ演奏を聴っけるようになった。 1835年メンデルスゾーンがカペルマイスター(楽長)になると、技術的でも待遇面でも、より基盤が固まり大きく飛躍する。この伝統のあるオーケストラは、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、ブルックナーをはじめ、多くの作曲家の作品を初演してきたことでも知られる。ライプツィヒ歌劇場のオーケストラも兼ねている。最近のカペルマイスターは次の通り。フランツ・コンヴィチュニー(1949 - 1962)、ヴァーツラフ・ノイマン(1964 - 1968)、クルト・マズア(1970 - 1996)、ヘルベルト・ブロムシュテット(1998 - 2005)、リッカルド・シャイー(2005 - 2016)、そして現在のアンドリス・ネルソンス(2018 -)と続く。

 2018年からカペルマイスターを務めるネルソンスが、ゲヴァントハウスとブルックナー録音を開始したが、その第1弾となるのがこのCDで、ブルックナーが敬愛するワーグナーに献呈した交響曲第3番とワーグナーの歌劇「タンホイザー」が収録されている。  ブルックナーは、1873年の夏に、ほぼ完成していたこの交響曲第3番と完成済みの交響曲第2番とを携え、敬愛するワーグナーのもとを訪れた。これに対し、ワーグナーは、第3番の方を評価したため、ブルックナーは第3番をワーグナーに献呈すすることにした。このことによって、この交響曲は“ワーグナー交響曲”と呼ばれるようになったわけである。最初、初演をウィーン・フィルに依頼したが、拒否されてしまった。初稿は、ワーグナー作品からの様々な引用がなされたいたが、これを改め、ワーグナー作品の引用の大部分が削除され、大幅に短縮・削除されて第2稿が完成した。初演は1877年12月16日にブルックナーの指揮で行われたが、これが大失敗に終わってしまった。当時の様子を記したものには、終楽章の前から、また途中から聴衆が群れを成して退室し始め、最後まで残ったのは7人のみという有様であった、とある。もっとも、これは当日の演奏曲目が多かったのに加え、ブルックナーの指揮の不慣れなことも要因となったようである。これででくじけないのがブルックナーらしいところで、早速さらなる改訂版の作製に着手することになる。 

  そして、10年余りがたった1888年3月に、第2稿をさらに切り詰め、整理された第3稿の完成に至った。この第3稿の初演はウィーン・フィルが行い、今度は、大成功を収めた。このCDには、第3稿をもとにしてつくられたノヴァーク版が使われている。この第3番はニ短調で書かれているが、これは同じくブルックナーの第9番やベートーベンの第9番(合唱付き)と同じ調性であり、全体に厳粛で、しかも力強く、重々しい雰囲気が立ち込めた作品となっている。ブルックナーの他の交響曲に比べても、如何にも武骨さが際立ち、逆に言うとブルックナー好きにはたまらない作品であろう。ここでのアンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、輪郭のはっきりとした力強い演奏に徹して、ブルックナー独特の奥深さをこれでもかといった塩梅で聴かせてくれる。少しも聴衆に媚びることなく、ブルックナーの世界を思う存分演奏し尽くす姿勢は、生演奏でもそう滅多に遭遇できるものではない。ライヴ録音のためだろうか、楽章が進めば進むほど熱気が溢れ返り、第3楽章に入る頃になると、リスナーはその迫力に思わず手に力が入るほどの熱演に酔わされる。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、ブルックナーの交響曲の専用オーケストラではないか、と思うくらい相性がいい。今後、アンドリス・ネルソンス指揮でブルックナーの交響曲がシリーズで録音されるようなので楽しみだ。なお、ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲の演奏では、このコンビは、ブルックナーの時ような武骨さは影を潜め、妖艶な演奏を聴かせてくれるのにも引き付けられた。このCDを聴き、アンドリス・ネルソンスが、今後世界の指揮界を牽引する存在になるのは間違いないなと感じられた。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ソプラノのドーン・アップショウ&デイヴィッド・ジンマン指揮ロンドン・シンフォニエッタのグレツキ:交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」

2019-01-08 09:37:08 | 交響曲

グレツキ:交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」

ソプラノ:ドーン・アップショウ

指揮:デイヴィッド・ジンマン

管弦楽:ロンドン・シンフォニエッタ

CD:ワーナー・ミュージック・ジャパン WPCC‐5340

 このグレツキ:交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」のCDは、1991年5月にロンドンのCTSスタジオで録音されたものである。1976年に作曲されたこの曲は、当時、欧米で30万枚を超えるセールスを記録し、それまで一部の間でしか知られていなかったグレツキの名前を一躍有名にした。きっかけとなったのは、この曲の第2楽章がイギリスのFM局で繰り替えし放送されこと。「お母さま、どうか泣かないでください」で始まるこの歌詞がリスナーの心を掴んだようである。それに加えて、ソプラノのドーン・アップショウの天使のような歌声が哀しみを湛えて、静かにリスナーの胸に響いたのだ。これが大きな反響を呼び、CDの売り上げに繋がったようだ。この交響曲は、ソプラノとオーケストラのための作品で、3つの楽章では、それぞれ次のような詩が歌われる。第1楽章は、15世紀ポーランドの祈りの言葉を歌詞とした「聖十字架修道院の哀歌」、第2楽章は、第2次世界大戦末期に囚われた18歳の女性が独房の壁に書いた祈りの言葉、そして第3楽章は、ポーランドのオポーレ地方の方言による民謡で、戦いで息子を失った悲しみを切々と訴える年老いた母親の心境が書かれている。つまり、いずれもポーランドの女性の悲痛な想いが込められた歌詞となっている。これはレクイエムとも言える曲で、よく聴くと、フォーレのレクイエムを何となく思う浮かべてしまう。リスナーへ静かに深く訴えかける力が強く感じられる。グレツキは、もともと現代音楽の作曲家としてそのキャリアをスタートさせたが、この交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」を完成させる頃は、カノン技法やシンプルなミニマリズムによった作風に変わって行った。そのため、この曲は、非常に聴きやすく、誰もが馴染むことができる曲に仕上がっている。これほど愛される要素を持ったグレツキ:交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」なのだが、現在、演奏会でほとんど取り上げられないのが不思議であると同時にもったいない気がしてならない。

 ヘンリク・グレツキ(1933年―2010年)は、ポーランドのチェルニツァ出身。現代音楽の作曲家としてそのキャリアをスタートさせた。デビュー時の彼の作品はピエール・ブーレーズを始めとするミュージック・セリエル(セリー音楽:ある音列<セリー>を設定し、それを厳密な規則性に基づいて分割、変形して構成された音楽。20世紀初頭のシェーンベルクの十二音音楽に始まる)の作曲家らと同じく、前衛的な様式に基づくものであった。その後、突如として宗教性を打ち出す作風へと歩んで行く。この時期以降は調性的側面への傾倒や巨大なモノフォニーなどを追求し、理解されやすい作風となって行った。交響曲第2番以降のグレツキの音楽は、16世紀以前のカノン技法から現代にいたるまでの音楽様式採用することになる。彼の音楽はholy minimalism(ミニマリズム:要求される要素を最小限度まで突き詰めようとした一連の最小限主義で、シンプルなフォルムを特徴とする)と称される。グレツキの作品に宗教的信仰を反映するものが多いのは、カトリック教徒であるため。単純な和音の反復や宗教性を徐々に帯び始め、1970年代後半には、ついに全音階主義に立ち返えり、そして交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」がつくられる。1990年以降に入ると、「悲歌のシンフォニー」のヒットによってholy minimalismの潮流に乗る作曲家が次々と現れ、グレツキはその盟主とも言える立場になった。そして「弦楽四重奏曲第2番」あたりからは、死を暗示する沈黙の使用が目立ち、体調不良を訴えることが増え、創作数が激減する。2010年11月12日、カトヴィツェの病院にて死去。享年76歳。


 この曲では歌詞の内容が重要となることから、このCDのライナーノートから、各楽章で歌われる歌詞を紹介させてもらう。

  【第1楽章】 

  (15世紀後半の聖十字架修道院の哀歌「ウィングラの歌」より)

  私の愛しい、選ばれた息子よ、
  自分の傷を母と分かち合いたまえ。
  愛しい息子よ、私はあなたをこの胸のうちにいだき
  忠実に仕えてきたではありませんか。
  母に話しかけ、喜ばせておくれ。
  わたしの愛しい望みよ、あなたはもうわたしのもとを離れようとしているのだから。

  【第2楽章】 

  (ナチス・ドイツ秘密警察の本部があったザコパネの「パレス」で、第3独房の第3壁に刻み込まれた祈り。その下に、ヘレナ・ヴァンダ・ブアジュシャクヴナの署名があり、「18歳、1944年9月25日より投獄される」と書かれている)

  お母さま、どうか泣かないでください。
  天のいと清らかな女王さま、
  どうかいつもわたしを助けてくださるよう。
  アヴエ・マリア。

  【第3楽章】 

  (ポーランド、オポーレ地方の民謡)

  わたしの愛しい息子は
  どこへ行ってしまったの?
  きっと蜂起のときに
  悪い敵に殺されたのでしょう
  人でなしども        
  後生だから教えて
  どうしてわたしの
  息子を殺したの
      (以下略)

 第1楽章の出だしはゆっくりと重々しく始まり、悲歌が歌われる予兆をいやがうえにも感じさせる。やがてカノンが奏せられ、15世紀後半の聖十字架修道院の哀歌「ウィングラの歌」が始まり、「私の愛しい、選ばれた息子よ、自分の傷を母と分かち合い給え…」が歌われ、最後は、徐々にカノンが減って行き、コントラバス独奏で終わる。第2楽章は、暗く苦悩に満ちた雰囲気の楽章で、第二次世界大戦末期に、囚人の身となった18歳の女性がゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密国家警察)の独房の壁に書いた祈りの言葉「お母さま、どうか泣かないでください。・・・」が切々と歌われる。投獄された自分の身を助けて欲しいと祈る女性の切なさ、悲しみ、怒りが深く刻まれた楽章で、リスナーの胸を深く打つ。第3楽章は、ポーランドのドイツに対するシレジア蜂起の際に息子を失った母親の嘆きの言葉が綴られたポーランド、オポーレ地方の民謡が重々しく歌われる。このCDでソプラノのドーン・アップショウは3つの悲歌を、静かに、優美に歌う。そのためか、内容は、悲痛極まりない歌詞であっても、曲が終わった後では、何か清々しささえ感じさせてくれる。下手な歌唱法を駆使するより、曲に真正面から取り組み、誠実に歌い切るドーン・アップショウの歌声は強く印象に残る。デイヴィッド・ジンマン指揮ロンドン・シンフォニエッタの響きも、単に重々しさだけでなく、天上に一点の希望の光を見出すような透明感が聴かれ、救われる思いがする。ソプラノのドーン・アップショウ(1960年生まれ)は米国インディアナ州ナッシュビル出身。ニューヨークに出てメトロポリタン歌劇場で訓練を受ける。1984年メトロポリタン・オペラでニューヨークデビューを果たす。1998年初来日。「ロサンゼルスタイムズ」誌に「もっとも重要な演奏者の一人」と紹介れたこともある。グラミー賞を複数回受賞。指揮のデイヴィッド・ジンマン(1936年生まれ)は、アメリカ出身。ミネソタ大学に学ぶ。1985年~1988年ボルチモア交響楽団の音楽監督として、同楽団をアメリカ屈指のオーケストラへと育て上げた。ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団音楽監督を歴任。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ピエール・ブーレーズ指揮ベルリン国立歌劇場管弦楽団のマーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」

2018-11-06 09:33:12 | 交響曲

マーラー:交響曲第8番“千人の交響曲”
          ~大管弦楽、8人のソリスト、2つの混声合唱団と児童合唱団のための2部による~

【第1部:賛歌「来よ、創造主なる聖霊よ」】

①「来よ、創造主なる聖霊よ」(合唱 I / II)
②「たかき恵みをもってみたしたまえ」(ソプラノI、テノール、ソプラノII、コントラルトI/II、バリトン、バス;合唱 I/II)
③「われらが肉の弱きを」(合唱 II/I: ソプラノ I/II、コントラルト I/II、テノール、バス、バリトン)
④テンポ・プリモ(アレグロ、いくぶん性急に)
⑤「われらが肉の弱きを」(バス、テノール、コントラルト I/II、バリトン、ソプラノ I/II)
⑥「光もて五官を高め」(ソプラノI/II、コントラルトI/II、テノール、バリトン、バス、児童合唱、合唱I/II)
⑦「来よ、創造主なる聖霊よ」(ソプラノI/II、コントラルトI/II、テノール、バリトン、バス;合唱I/II、児童合唱)
⑧「主なる父に栄光あれ」(少年合唱:ソプラノI/II、コントラルトI/II、テノール:合唱I/II:バリトン、バス)

【第2部:ゲーテの「ファウスト」第2部からの終幕の場】

①ポコ・アダージョ
②ピウ・モッソ(アレグロ・モデラート)
③合唱とこだま:「森は揺らぎつつ来たり」(合唱 I / II)
④法悦の教父:「永遠の喜びの炎」(バリトン)
⑤黙想の教父:「岩壁の断崖が、私の足もとで」(バス)
⑥天使の合唱:「霊界の気高いひとりが悪から救われた」、祝福された少年たちの合唱:「うれしく手と手を」(合唱 I / II: ソプラノ、コントラルト: 児童合唱)
⑦若い天使たちの合唱:「手から授けられたあのバラの花が」(合唱 I: ソプラノ、コントラルト)
⑧完成された天使たち:「大地の残りの屑を担うのは」(合唱 II: ソプラノ、コントラルト、テノール: コントラルト・ソロ)
⑨若い天使たち:「岩の頂に霧のように」、マリア崇拝の博士:「ここは見晴らしが自由であり」、祝福された少年たちの合唱:「よろこんで私たちは」(合唱 I: ソプラノ、コントラルト: テノール: 児童合唱)
⑩マリア崇拝の博士:「世界を支配し給う最高の女王よ!」(テノール:合唱I/II)
⑪「触れることのできないあなたにも」(合唱 II / I)、贖罪の女たちとひとりの告白する女の合唱:「おん身は、永遠なる国のみ空にただよい行き給う」(合唱II:ソプラノ:ソプラノII)
⑫いと罪深き女:「パリサイ人のあざけりを受けながらも」、サマリアの女:「その昔、アブラハムが家畜を」、エジプトのマリア:「主がやすらい給うた」(ソプラノ I、コントラルト I / II)
⑬贖罪の女:「たぐいなきおん方、光あふれるおん方」(ソプラノ II)
⑭祝福された少年たち:「この人は僕たちよりも大きくなり」、贖罪の女:「気高い霊の群れにとりかこまれて」(児童合唱、合唱 II: ソプラノ: ソプラノ II)
⑮栄光の聖母:「さあ!いっそう高い天空へ昇って行きなさい!」(ソプラノIII)、マリア崇拝の博士:「悔いを知るすべての優しき人びとよ」(テノール: 合唱 II / I、児童合唱)
⑯神秘の合唱:「すべての無常のものは」(合唱 I/II:ソプラノI/II、コントラルトI/II、テノール、バリトン、バス:児童合唱)

指揮:ピエール・ブーレーズ

管弦楽:ベルリン国立歌劇場管弦楽団

独唱:トワイラ・ロビンソン(ソプラノⅠ:いと罪深き女)
    エリン・ウォール(ソプラノⅡ:贖罪の女)
    アドリアーネ・ケイロス(ソプラノⅢ:栄光の聖母)
       ミシェル・デヤング(アルトⅠ:サマリアの女)
        ジモーネ・シュレーダー(アルトⅡ:エジプトのマリア)
        ヨハン・ボタ(テノール:マリア崇拝の博士)
        ハンノ・ミューラー=ブラッハマン(バリトン:法悦の教父)
        ロバート・ホル(バス:瞑想の教父)

合唱:ベルリン国立歌劇場合唱団
    ベルリン放送合唱団
    カルヴ・アウレリウス少年合唱団

CD:ユニバーサル ミュージック UCCG52056~7 

 このCDの指揮者ピエール・ブーレーズ(1925年―2016年)は、フランス、ロワール県の出身で、第2次世界大戦後のフランスのクラシック音楽界で活躍した作曲家、指揮者、音楽教育家である。現代音楽界の重鎮にして、近現代音楽の最高の解釈者だった。高等学校では数学を専攻するが、やがて音楽の道に進む。パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに学び、40年代半ばから作曲活動を開始し、新鋭作曲家として注目を集める。1970年代にフランス国立の「IRCAM(音楽/音響の探究と調整の研究所)」を創設し、総裁を務め、フランスをはじめヨーロッパ現代音楽文化を統合するための活動を展開。1991年IRCAM所長を辞任した後も、積極的に演奏、作曲活動を展開した。主な作品には、「フルートとピアノのためのソナチネ」「ピアノ・ソナタ第1番」「デリーヴ」「メモリアル」「二重の影の対話」「カミングズは詩人である」などがある。指揮者としては、クリーヴランド管弦楽団音楽監督、BBC交響楽団首席指揮者、ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督、シカゴ交響楽団音楽監督などを歴任。主な受賞歴は、第1回「高松宮殿下記念世界文化賞」(1989年)、「ウルフ賞」芸術部門(2000年)、「グラミー賞」クラシック現代作品部門(2000年)、「グロマイヤー賞」作曲部門(2001年)、「京都賞」思想・芸術部門音楽分野(2009年)など。

 マーラー:交響曲第8番は、【第1部:賛歌「来よ、創造主なる聖霊よ」】と【第2部:ゲーテの「ファウスト」第2部からの終幕の場】の2部構成となっている。第2部では、ゲーテの戯曲「ファウスト」の第2部の終幕の場の台詞がオーケストラの伴奏で歌われる。ここに何故、突然ゲーテの「ファウスト」が登場するのであろうか。「ファウスト」をテーマとした作品は、マーラーのほかベートーヴェン、シューベルト、ワーグナー、リスト、シューマン、ベルリオーズ、ムソルグスキーなども書いており、如何に作曲家の関心が高い題材であることが窺える。ドイツを代表する文豪ゲーテの戯曲「ファウスト」は、第1部と第2部に分かれ、第1部発表から第2部の完成まで25年の間が空いており、全部で約60年の歳月を要したというゲーテ畢生の大作である。ファウスト博士、悪魔のメフィストフェレス、ファウストの恋人グレートヒェン、ギリシア神話の美女ヘーレナなどが登場し、繰り広げられる悲劇である。これらにより引き起こされる事件の一つ一つが、現代の我々が抱える課題を先取りして問題提起している所に、「ファウスト」が現在でも読み継がれている根幹がある。1789年に始まったフランス革命にもゲーテは辛辣な風刺を利かせる。ムソルグスキーが「ファウスト」をもとに作曲した「蚤の歌」では、宮廷社会批判と同時にフランス革命の危うさなどが歌われる。これらは、現在の世界が抱える政治のポピュリズム化に対する批判にも一脈通じるものだ。

 マーラーは、交響曲第8番の第1部で古代ギリシアに始る神に呼びかける歌である「賛歌」を取り上げ、そして第2部でゲーテの「ファウスト」を取り上げることによって、人類の掲げる理想の姿とその対極にある現実の危うさを、この交響曲においてさらけだす。この交響曲ついてマーラーは、「これは私がこれまでつくったもののうち最大のものです。宇宙が音を立てて、鳴り響き始めるさまをお考えになってください。これは、もはや人間の声ではなく、渦巻く惑星や恒星たちなのです」と述べている。これを裏付けるかのように、第1部:賛歌「来よ、創造主なる聖霊よ」は、宇宙が出現し、人類が生まれ、それらを創造した神に対する畏敬の念が込められている。ブーレーズ指揮シュターツカペレ・ベルリンの演奏は、安定感が限りなく良く、壮大な宇宙の開闢という壮大さに加え、厚い信仰心に支えられた深遠さを、よく表現できている。これに独唱と合唱とが加わることによって、相乗的に高められ、それらの効果が一挙にリスナーへ向けて解き放たれる。

 第2部:ゲーテの「ファウスト」第2部からの終幕の場では、ブーレーズ指揮シュターツカペレ・ベルリンの演奏は、リスナーへ語りかけるように演奏を進める。ここでも、その表現のスケールの大きさと荘重さとが際立つ演奏内容だ。ゲーテの戯曲「ファウスト」の悲劇の内容を噛みしめるように、そしてやがてすべてが浄化されていく様が、十二分に整理され、手に取るように分かりやすく、淡々と演奏される。そして、「すべて無常のものは影像にほかならぬ。および得ざるものがここに再現され、名状しがたきものがここに成しとげられた。永遠に女性的なものがわれらを引いて昇り行く」と歌われる最後の合唱「神秘の合唱」で終える。人間社会が抱える不条理性と信仰心との相克とが、ブーレーズの鮮やかな棒捌きで表現された、そう滅多に聴くことのできない類まれな名演に仕上がっている。(蔵 志津久)

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