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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CD◇ヴンダーリッヒ&フィッシャーディスカウのマーラー:「大地の歌」

2011-08-23 10:31:08 | 歌曲(男声)

マーラー:「大地の歌」

指揮:ヨーゼフ・クリップス

管弦楽:ウィーン交響楽団

独唱:フィリッツ・ヴンダーリッヒ(テノール)/ディートリッヒ・フィッシャーディスカウ(バリトン)

CD:独グラモフォン 00289 477 8988

 マーラーの「大地の歌」は、一体交響曲なのか、はてまたニ部の独唱つき管弦楽曲なのか、どの本を見ても曖昧にしてあり、どっちとも取れる表現をしているケースが多い。はっきりと交響曲「大地の歌」と書いてある場合もあるが、実際にこの曲の全曲を聴き通してみると、やはりこれは独唱付き管弦楽曲であるという感じを強く受ける。それほど、この曲において独唱者の力量がはっきりと表面に現れてくる。独唱者がつまらなければ、いくら指揮者やオケが頑張ったところで、所詮出来具合は知れたところ、と言った塩梅だ。そういうわけでマーラー:「大地の歌」を聴く場合は、まず独唱者の名前を確認してから、次に指揮者とオケの名前を見るという習慣を付けておいた方が無難だ。つい、指揮者の名前に引き付けられてCDを買ってから、独唱者の名前を見たら無名な歌手であることが分り、いやな予感がしたのだが、案の定、聴いてみてがっくりと来た経験を私は持っている。ただ、私には「大地の歌」はこうあらねばならないという固定概念が出来上がっているので、ただ、それに合わない歌手を排除しているに過ぎない、ということなのかもしれないのだが・・・。

 今回のCDは、録音は1964年6月14日のウィーン楽友協会ホールでのライヴ録音と、40年以上も前の大分古い演奏ながら、独唱がテノールのフィリッツ・ヴンダーリッヒ(1930年―1966年)とバリトンのディートリッヒ・フィッシャーディスカウ(1925年生まれ)と、当時人気絶頂の2人のスター歌手を揃えた演奏だけに見逃す分けにはいかなくなってしまった盤である。マーラー:「大地の歌」の名盤というとマーラーに直接薫陶を受けたワルター指揮の数種類の録音を筆頭に幾種類もの名盤があるが、そのほとんどが、テノールにアルトという組み合わせが多い。マーラーは、アルトまたはバリトン独唱といったようにどちらでもいいという風に作曲したのだが、これまでは、テノールとアルトの組み合わせが圧倒的に多かった。これは、コンサートでの華やかさを演出するには、男声歌手2人よりも男女の独唱者を揃えた方がいいといった単純な理由からだろうと推察される。しかし、フィッシャーディスカウだけはこの昔からの慣わしに逆らい「大地の歌」を得意にしてきており、バーンスタイン指揮の名盤も残されている。最近になって徐々にアルトに代わりバリトンが歌うケースが増えていると聞く。その意味でフィッシャーディスカウは先駆者であったのである。

 このマーラー:「大地の歌」は、全部で6楽章からなり、テノールとアルトまたはバリトンが交互に歌うという実に分りやすい構成を取っていることもあり、昔から日本では人気のある曲で、ビギナーでも充分楽しむことが出来る大衆性がウリとなっている。基となったのが、ハンス・ベートゲが編んだ詩集「中国の笛」であり、同じ東洋人として日本人が聴くには違和感を感じないところが人気の秘密であろう。「悲歌行」「宴陶家亭子」「採蓮曲」など李白などの唐詩が用いられ、マーラーも東洋的音階を使うなど、東洋的情緒がたっぷりなところが、クラシック音楽ではなかなか求められない魅力を発揮している。第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」、第2楽章「秋に寂しき者」、第3楽章「青春について」、第4楽章「美について」、第5楽章「春に酔える者」、第6楽章「告別」からなる。特に30分ほどかかる長大な第6楽章「告別」の最後の「愛しき大地に春が来て、ここかしこ百花咲く緑は木々を覆い尽くし、永遠にはるか彼方まで青々と輝き渡らん 永遠に 永遠に・・・」などを聴くと、後期ロマン派の面目躍如といった感じを強く受け、西洋と東洋の融合という、マーラーが狙った斬新性に感動させられずにはいられない。

 第1楽章のヴンダーリッヒの歌唱は、詩の「生は暗く、死もまた暗い」といった歌詞を的確に表現し、聴くものを釘付けにしてはおかない。このライヴ録音のCDは、このヴンダーリッヒのこの歌唱を聴いただけで、東洋的な深遠さの世界へとリスナーを自然に誘う。第2楽章のフィッシャーディスカウの歌は、オケの奏でる永遠の東洋的な静寂さを背景にして、力強くしかも包容力あり、説得力に富んだものだ。第3楽章は、楽しくうきうきとした曲であり、ヴンダーリッヒのテノールの技が一段と冴え渡る。第4楽章は、まるで物語を語るようなフィッシャーディスカウの歌声が、聴くものを陰影感豊かな世界へと導き入れる。第5楽章は、東洋を強く感じるような曲であり、美しいメロディーにも酔わされる思いがするが、ヴンダーリッヒの澄んだ歌声は、詩にピタリと寄り添い、実に軽快だ。そして、クライマックスともいえる第6楽章を、フィッシャーディスカウが熱唱し、後期ロマン派音楽が爛熟の境に入ったことを十二分に実感することができる。何かここでマーラーは、人生の最後の旅路を終えようとするかのような、悟りの境地ににも似た音楽を余す所なく開陳し尽すのである。マーラーは、この「大地の歌」最後の楽章でおいて、現世と来世とを、あたかも音楽で表現しようと試みたかのように私には思えてならない。ヨーゼフ・クリップス指揮ウィーン交響楽団は、中庸を得た安定感ある演奏を繰り広げている。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇~悲しくなったときは 福井敬、日本を歌う。~

2011-04-01 11:28:25 | 歌曲(男声)

 

~悲しくなったときは 福井敬、日本を歌う。~

落葉松(作詞:野上 彰/作曲:小林秀雄)
荒城の月(土井晩翠/瀧 廉太郎)
秋の月(瀧 廉太郎)
出船(勝田香月/杉山長谷夫)
鐘が鳴ります(北原白秋/山田耕筰)
待ちぼうけ(北原白秋/山田耕筰)
宵待草(竹久夢二/多 忠亮)
かやの木山の(北原白秋/山田耕筰)
城ヶ島の雨(北原白秋/梁田 貞) 
初恋(石川啄木/越谷達之助)
野の羊(大木惇夫/服部 正)
さくら横ちょう(加藤周一/別宮貞雄)
悲しくなったときは(寺山修司/中田喜直)
ひぐらし(北山冬一郎/團 伊玖磨)
紫陽花(北山冬一郎/團 伊玖磨)
恋のかくれんぼ(谷川俊太郎/武満 徹)
ぽつねん(谷川俊太郎/武満 徹)
死んだ男の残したものは(谷川俊太郎/武満 徹)
小さな空(武満 徹)
見上げてごらん夜の星を(永 六輔/いずみたく)

テノール:福井 敬

ピアノ:谷池重紬子

CD:ディスク クラシカ ジャパン DCJA‐21019

 2011年3月11日午後2時46分、日本の太平洋三陸沖を震源として千年に一度とも言われるマグニチュード9.0の巨大地震、東日本大震災が日本を襲った。その時、私は東京いたが、これまで経験したことのない長周期の揺れに恐怖感を感じ、机につかまりなすすべもなかった。揺れが一旦静まったのでビルの外に出てみると、多くのビルのオフィスから避難してきたビジネスマンで道路が塞がれ、前に進むにも骨が折れるほどであった。そのときは、大きな地震があったなというぐらいの感じしか持たなかったが、次第に東北地方を中心に津波の被害が出ていることを街頭のテレビで知り、これは大変なことになったぞと、初めてことの重大さに気が付いたのである。さらに、原発が事故を起こしたニュースに接し、背筋が凍りつく思いであった。世界で唯一の被爆国の日本で重大な原発事故とは、絶対にあってはならない事である。今日現在、死者・行方不明者合わせて3万人に近いといい、原発事故もどうなるか予断がつかないというではないか。地震国・日本の宿命と言えばそれまでだが、我々一人一人にも油断みたいなものがなかったとは言い切れないのではないのか。東京に住んでいる人の何人が、福島の原発のお陰で、日々の快適な生活が送れていたことを分っていたのであろうか。現在、全国17ヶ所に54基の原発があり、2030年までにさらに14基以上の原発を設置する計画があるという事実を、私は恥ずかしながら今回初めてはっきりと認識することができた。

 毎日テレビで放映される、悲しくも悲惨な災害の映像を眺めながら、手元をふと見ると「悲しくなったときは 福井敬、日本を歌う」のCDが目に留まった。このCDは、私の大好きなテノールの福井 敬が日本の歌を歌ったCDを出したというので買って置いたものだ。一瞬目を疑った。今回の東日本大震災の犠牲者を悼むために福井 敬が歌ったのか?そんな馬鹿な。録音の期日を見ると、2010年9月7-8日、11月9日、相模湖交流センター多目的ホールとある。そして、2011年2月9日の発売であるので、当たり前ではあるが、いずれも東日本大震災の以前のことだ。そして、まさかと思って福井 敬の出身地を見てみると、なんと岩手県とあるではないか。このCDのジャケットの写真は、海を背景とした風景の中、福井 敬が、あたかも犠牲者の霊を思って黙祷しているかのようにも見える。普通、日本の歌のCDのジャケットには、桜とか富士山のように、日本を代表するような絵柄をもちいることが多いのに、このCDだけは違う。また、タイトルの「悲しくなったときは」と同じように、このCDに収録された曲は、全て何か悲しげだ。世の中には、不思議なめぐり合わせということがあるものだ。このCDもそんな不思議なめぐり合わせでリリースされたものなのかもしれない。

 テノールの福井 敬は、1963年生まれで、岩手県水沢市出身。国立音楽大学声楽科・同大学大学院を修了後、1990・1994年文化庁派遣芸術家在外研修員としてイタリアに留学。1989年にイタリア声楽コンコルソでミラノ大賞(1位)受賞。さらに1992年ジロー・オペラ賞新人賞、1993年五島記念文化賞オペラ新人賞、1994年には芸術選奨新人賞を受賞するなど、多くの受賞歴を持つ。私が福井 敬を最初に聴いたのは、サントリーホールのコンサートであった。オーケストラに負けない程の声量にまず驚かされた。あのコンサートホール一面に福井 敬の声が響き渡る様は、圧巻とでも言いようがないほどだ。福井 敬はテーノールなのだが、典型的なテノール歌手とは少々違う。何となくバリトン的な響きもするところが、ある種の男性的魅力を発散しているのかもしれない。そして何より声の質が滑らかというか、伸びやかというか、決して聴衆に緊張感を与えずに、曲の本質を伝えるところが凄いところだ。現在、日本を代表するテノール歌手ということができる。何時もなら、オペラを歌っている福井 敬だが、このCDでは日本の歌を歌っているのである。日本の歌を歌ったCDでは、これまで松本美和子フォレスタコーラスさらにはグレッグ・アーウィンなどを紹介してきたが、このCDで福井 敬は一体、日本の歌をどう歌いこなすのか興味津々である。

 私の個人的趣味からいうと、「落葉松」(野上 彰/小林秀雄)、「出船」(勝田香月/杉山長谷夫)、「城ヶ島の雨」(北原白秋/梁田 貞)、「初恋」(石川啄木/越谷達之助)、「小さな空」(武満 徹)、「見上げてごらん夜の星を」(永 六輔/いずみたく)が特に印象に残った。「落葉松」は、日本の歌の中でも飛びっきりの傑作の一つと私は思っているが、福井 敬はこのCDの初めに取り上げるだけあって、この曲の持つ温もりを存分に表現している。福井 敬の“おっかけ”を自認する江川紹子氏もこのCDのライナーノートで「・・・懐かしくもあり、なんだか悲しくもあり、つい涙ぐんでしまいました」と書いている。東日本大震災後の今、福井 敬の「落葉松」を聴くと犠牲者の御霊への思いが加わり、聴きながら自然に涙が込み上げてくる。「出船」「城ヶ島の雨」「初恋」なども、福井 敬ならではの情感溢れる歌に聴き惚れる。武満 徹作詞/作曲の「小さな空」は、武満もこんな童謡のような曲を書くこともあったのだと知らされて面白い。最後の「見上げてごらん夜の星を」は、今聴くと東日本大震災の犠牲者を思い、そしてこれからの明るい将来に向かって「みんな頑張って生き抜こう」と、福井 敬が歌いかけているようにも聴こえてくる。そして、谷池重紬子のピアノ伴奏も素晴らしい。地震や津波はほんとに怖いと思う。でも私は豊かな自然と美しい歌がある日本が何よりも大好きである。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇フィッシャー=ディースカウのマーラー:「さすらう若人の歌」 「亡き子をしのぶ歌」

2011-02-01 13:43:22 | 歌曲(男声)

マーラー:「さすらう若人の歌」(1)
      「リュッケルトの詩による歌曲」(2)
      「亡き子をしのぶ歌」(3)

バリトン:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

指揮:ラファエル・クーベリック(1)

管弦楽:バイエルン放送交響楽団(1)

指揮:カール・ベーム(2)(3)

管弦弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2)(3)

 その昔、バリトンのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウがマーラーの「さすらう若人の歌」「リュッケルトの詩による歌曲」「亡き子をしのぶ歌」を録音(1963年4月、ミュンヘン)したレコードを、私はレコード盤がする切れる程愛聴した。つまり私のクラシック音楽リスナー人生にとって決して忘れることのできない録音なのである。フィッシャー=ディースカウが60歳になったことを記念して、そのときの録音をCDとして発売(1985年)したのが今回のCD。フィッシャー=ディースカウの声の質は、安定感があると同時に、包容力もあり、さらに知的な雰囲気が何といってもいい。当然、声の質そのものも美しいのであるが、単に綺麗な声というよりも、味わいの深さが際立つ声である。単に歌手が歌う曲を聴いているというより、親しき友人や先輩に話かけられているような親密感がする。聴いた後は、何かそれまでのもやもやが一挙に解消してしまうような気がするから不思議だ。フィッシャー=ディースカウが引退した後、現在に至るまでフィッシャー=ディースカウに匹敵するバリトンを探し出すことは容易なことではない。

 マーラーの「さすらう若人の歌」は、マーラーが23歳の若いときに自作に詩に作曲した曲。自身の失恋の経験を歌曲にしたとされている。全部で4つの歌曲(君がとつぐ日/露しげき朝の野べに/灼熱せる短刀もて/君が青きひとみ)からなる。若者特有の夢と挫折感が微妙に交差するようなさまが描かれ、稀に見る美しい歌曲に仕上がっている。フィッシャー=ディースカウは、そんな若者特有の揺れ動く心理描写を巧みに表現しており、リスナーの気持ちをがっちりと掴んで離さない。

 「リュッケルトの詩による歌曲」は、ドイツ・ロマン派の詩人フリードリヒ・リュッケルトの詩をもとにマーラーが作曲したもので、通常「最後の7つの歌」として歌われるが、ここでは、その中の4曲(真夜中に/ほのかなかおりを私はかいだ/私の歌をのぞかないでください/わたしはこの世に忘れられた)が歌われている。4つの歌とも文学の香りが濃厚に立ち込めるような雰囲気につつまれている。フィッシャー=ディースカウはそんな曲を、丁寧にかみくだくように表現しており、思わずそんな世界に吸い寄せられる。ここでのマーラーのオーケストレーションの巧みさが一際光る。

 マーラーの「亡き子をしのぶ歌」は、1904年に作曲された。作曲した時は、マーラーの子供達は健康な生活を送っており、妻のアルマは何故マーラーがそんな曲を作曲したのか、訝しがったそうである。後に娘の一人が死ぬが、アルマは不吉な予感が的中してしまったことに愕然としたそうである。全部で5つの曲(いま太陽は明るく昇る/いま私には分るのだ、なぜあの暗い炎を/おまえのお母さんが/よく私は考える/こんなひどい嵐の日には)からなる。5つの曲とも、子供を亡くした親の心境が表現されており、胸を締め付けられるような悲痛さが聴くものの心を打つ。フィッシャー=ディースカウの感情移入は凄まじく、自身泣きながら歌っているようにすら感じられるほどである。(蔵 志津久)      

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◇クラシック音楽CD◇ジェラール・スゼーのフォーレ:歌曲集

2010-12-23 13:37:45 | 歌曲(男声)

フォーレ:優しい歌Op.61
      ある一日の詩Op.21
      3つの歌Op.23
      5つの歌曲集「ヴェネツィア」Op.58
      幻影Op.113
      幻想の水平線Op.118
      閉じられた庭Op.106
      イヴの唄Op.95

バリトン:ジェラール・スゼー

ピアノ:ダルトン・ボールドウィン

CD:日本フォノグラム(西独PHILIPS) 420 775‐2

 フランスの名バリトン歌手ジェラール・スゼー(1918年―2004年)は、私の最も好きなバリトン歌手であった。何故好きかというと、その声の質そのものが何ともいえず心地よく耳に入ってくるからだ。“ビロードのような声”という表現があるが、これは正にスゼーのためにある言葉ではないかと私は今でも思う。スゼーの録音したシューマンの「詩人の恋」は、青春の1ページを飾る、私にとっては絶対に忘れることができないLPレコード(その後CD化された)であった。ところで、フランス人がドイツの作曲家の曲を演奏すると、ドイツ人とはまた違う、その曲の本質をずばりと言い当てるような秀演になることが少なくない。例えば、サンソン・フランソワ(1924年―1970年)がベートーヴェンのピアノソナタを演奏した録音があるが、ドイツ人のピアニストとは一味違った手法でベートーヴェンの一面を鋭く描き切っている。イヴ・ナット(1890年―1956年)もそうだ。指揮者では、アンドレ・クリュイタンス(1905年―1967年)がベートーヴェンの交響曲全集を録音し、その出来栄えに当時大いに話題を集めたものである。

 今回のCDは、フランス人のバリトン歌手のジェラール・スゼーが、フランス人の作曲家であるフォーレの作曲した歌曲を歌ったLPレコードのマスターテープを基に制作された。しかし、LPレコードのマスターテープからといっても、決して聴きづらくはなく、現役の録音と言われても分らないほどにいい仕上がりとなっている。これはフィリップスの“ノーノイズ・システム”により実現されたとある。「優しい歌」「ある一日の詩」「3つの歌」は、1960年6月16日―25日のモノラル録音、それ以外は、1964年7月2日―7日のステレオ録音でスイスで収録されたことが記されてる。私が一番好きであったバリトン歌手のジェラール・スゼーが歌ったドイツ・リートは、これまで愛聴してきたが、肝心なスゼーが得意とするフランス歌曲は、私はこれまであまり聴いてこなかった。それは、私自身フランスの歌曲に対しては一歩腰が引けた状態になっているからだ。そこで、以前買っておいて、これまであまり聴いてこなかったこのCDを引っ張り出してきて、フランス歌曲に今回再挑戦してみたわけである。

 結論から言うと、一般にフォーレの歌曲の傑作といわれる「優しい歌」や「幻想の水平線」は、今回聴いても私はそう共感を覚えることはできなかった(挑戦に失敗か!)。ところが、それ以外の曲において大きな発見があった。まず、「3つの歌」Op.23から第1曲の「ゆりかご」。なんと豊かに広がった曲想であり、ゆったりと“ゆりかご”が動くさまが目の前に自然に広がっていくようだ。家里和夫氏のライナーノートによると「恐らくフォーレの歌曲の中で最もポピュラーな存在の一つであろう」とある。第3曲の「秘密」も「ゆりかご」を上回るような、何とも言えずいい雰囲気を漂わしており、思わず“秘密”めいた感情に引き付けられてしまう。次に、「5つの歌曲集“ヴェネツィア”」Op.58を挙げたい。第1曲の「マンドリン」は軽快でしかも優雅で聴きやすい。第2曲の「ひそやかに」は、このCDで私が一番好きになった曲。題名通りひそやかな感じが充分に伝わる。第3曲「グリーン」、第4曲「クリメーヌに」、第5曲「恍惚」と続くが、いずれも情緒たっぷりなところがよく、全体にちょっとシューベルトのリートを聴いているようにも感じる。

 もう一つ、「幻影」Op.113も大いに楽しめた。第1曲「水の上の白鳥」の静かな佇まいを聴くと白鳥の姿が眼前に浮かんでくるようだ。第2曲「水に映るかげ」の仄かににおい立つような曲調はフォーレにしか表現できないかのよう。第3曲「夜の庭」は、豊かな感性を感じさせる名曲。家里和夫氏も「『夜の庭』での静けさの感動は、他の何物にも例えようがない」と書いている。第4曲「踊り子」は、踊りのさまが優雅に表現されている。以上今回のCDでの収穫は、以上の曲を知りえたということとなった。我々の多くは、ドイツ・リートなら昔から聴かされ、身近な存在ではあるが、フランス歌曲というともう一つ間をあけてしまうことが少なくない。しかし、今回スゼーの歌うフォーレの歌曲を聴いて、食わず嫌いの傾向もあるように感じた。もし、あなたが「どうもフランス歌曲は苦手だ」という人であったなら、今回私が挙げたフォーレの歌曲を聴いてみてください。きっとフランスの歌曲も好きになりますよ。 (蔵 志津久)    

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◇クラシック音楽CD◇グレッグ・アーウィンの英語訳「日本の童謡・唱歌集」

2010-03-25 09:21:24 | 歌曲(男声)

~グレッグ・アーウィン/ブルー・アイズ~
    青い眼からのメッセージ―美しい日本の「こころ」

早春賦/浜辺の歌/みかんの花咲く丘/月の砂漠/青い眼の人形/証城寺の狸囃子
叱られて/この道/里の秋/赤とんぼ/故郷/砂山

歌/英語訳:グレッグ・アーウィン

CD:ビクターエンタテインメント VICL6113

 私は、日本の童謡や唱歌は、常にクラシック音楽のジャンルの一つに入れて考えている。一般的に言えばジャンルが違うじゃないか、と言われそうであるが、明治維新以後、初めて日本人が西洋のクラシック音楽を学び、そして日本人の心を反映させて作曲して生まれたのが、童謡や唱歌だからである。その意味では、歌謡曲や演歌の一部もクラシック音楽と言っても決して間違いではない、という勝手な思いが私の心の中にあるのである。そして、これらの曲の中には名曲も少なくない。

 ところで、皆さんは米国出身で東京在住のシンガーソングライターで童謡の伝道師”と言われているグレッグ・アーウィンさんをご存知であろうか。グレッグさんは、米国ウイスコンシン州の出身で、ウイスコンシン州立大学で音楽、ミネソタ大学で演劇、ハワイ大学で日本語を専攻したという経歴の持ち主である。このCDのライナーノートによるとグレッグさんと日本の童謡・唱歌の出逢いは次のようなことであったという。来日後しばらくして、童謡・唱歌の英語訳を依頼され、そこに収められたメッセージと美しいメロディーに次第に心を動かされていったそうだ。それは日本と日本の人たちが私の心をとらえる何かが、すべてそこに描かれていたからだという。

 日本語の童謡や唱歌を英語に訳すという難しいテーマにチャレンジし、そしてこれらの英訳された詩を自ら歌い、収録したのがこのCDである。我々日本人は、明治維新以来、進んだ文明を持つ欧米の文化の吸収に全身全霊を傾けてきた。そして、その成果は、技術製品については広く世界に行きわたったが、“文化”という面では必ずしも十分発信されているとは言えない。それは言葉の壁に加え、我々日本人が「とても世界には理解してもらえまい」と自らブレーキを掛けてしまってことにも起因している。このブレーキを外してくれた一人がグレッグさんなのである。

 この幼年時代と望郷”をテーマとしたCDを聴いていると、日本人は豊かな自然を受け入れ、それらを享受しながら世界的に見ても高いレベルの、それはそれは美しい童謡・唱歌を生み出してきたことを実感することができる。そしてグレッグさんの澄んで伸びやかな歌声は童謡・唱歌の世界にぴったりだ。グレッグさんの尽力で、これらの曲が既に素晴らしい英語に翻訳されているのだから、今度は、日本人自ら英語の歌詞で世界へ向け童謡・唱歌の世界を広めて行ってほしい。私は、若きフォレスタコーラスが最適だと、ひとり思っているのだが・・・。
(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇フィッシャー=ディスカウ、1974年東京ライブ盤 オールシューマンプログラム

2010-01-07 09:36:13 | 歌曲(男声)

~ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ 東京ライブ1974~

シューマン:歌曲集「詩人の恋」
       リーダークライスop.24
       他

バリトン:ディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ

ピアノ:小林道夫

 バリトンのディートリヒ・フィッシャー=ディスカウ(1925年ー)は、私にとっては青春の思い出そのものである。その昔、ラジオから聴こえてくるバリトンというと、フィッシャー=ディスカウが圧倒的に多かったことを覚えている。実に堂々としていて、男性的で、少しも聴衆に媚びることはなく、我は我の道を行く、とでも言ったらいいような、信念にみちみちた態度に好感がもてたのである。勿論、声の質も美しいし、メリハリのある歌いっぷりは、非の打ち所がないといった感じがした。当時ソプラノでは、シュワルツコップが大人気であったのだが、何か当時の一流の歌手は、品格が備わっており、毅然としたところがあったように思う。フィッシャー=ディスカウの何が一番好きか、と問われれば、私はその声の音色そのものと答えると思う。あんなに温かく、深みもあり、そして人間味に溢れた音色のバリトンは、私にとってフィッシャー=ディスカウしか、今だに存在しない。

 そんな憧れのバリトン、フィッシャー=ディスカウが1974年に東京でのコンサートのライブ録音盤があるというので、飛びついて買ったのがこのCDである。期待に違わず素晴らしい出来のCDに仕上がっている。ライブ録音独特の緊張感が何よりもいいし、録音の質も良く、フィッシャー=ディスカウのあのビロードのような美しい音色が十分に聴き取れるのだから堪らない。曲目もシューマンのリートであるので何回も聴き直しても、決して飽きが来ない。シューマンのリートを聴くには、ひょっとすると、このCDが一番いいかもしれないとさえ感じられる。それもそのはず、このときフィッシャー=ディスカウ49歳で、バリトンとして一番油の乗った時期であり、円熟の境地にあったことが窺える。それにピアノの小林道夫とのコンビも抜群だ。このCDのライナーノートに小林道夫自身が、フィッシャー=ディスカウの人となりを書いているが、それを読んでなるほどと、一人で納得した。

 このCDのライブ録音の音質がいいので、何故かと思って見てみると、録音を担当した東条碩夫氏がそのいきさつを詳しく書いてあった。エフエム東京の「TDKオリジナルコンサート」用に録音したもので、多分当時の最高水準の録音技術を駆使した結果なのであろう。何故、音質に拘るかというと、少し前に東京・新宿のタワーレコードで、独Membren Music製のフィッシャー=ディスカウのリートが10枚1ボックスに収まったCDを見つけ、うむをいわずに買い求めた。これも素晴らしい出来のCDで大満足であったのであるが、フィッシャー=ディスカウしか出せない、あの音色がいまいちという思いがずっとしていた。そして今回音色の良い東京でのライブ録音盤を聴いて、胸のつかえが一挙に晴れたからだ。

 吉田秀和著「一枚のレコード」(中公文庫)の中に、フィッシャー=ディスカウが来日したとき(このCDが録音された1974年かどうかは分らない)、吉田氏が直接会話した話が載っており、その中に「今は専門の歌手たちは、リートよりむしろオペラを歌うのに精いっぱいだ。日本といういう国が東洋にあるのは、ありがたいことだ。今に、シューベルトを歌おうと思ったら、日本に来なければならなくなるかもしれない」と笑いながら話したということが載っている。フィッシャー=ディスカウが如何にリートを愛していたか、そして、その人間性が垣間見えて、面白い話だなと思う。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇スゼーのシューベルト:歌曲集「白鳥の歌」

2008-12-11 10:06:14 | 歌曲(男声)

シューベルト:歌曲集「白鳥の歌」

バリトン:ジェラール・スゼー

ピアノ:ダルトン・ボールドウィン

CD:東芝EMI TOCE-7180

 シューベルトの歌曲集は「美しい水車屋の娘」「冬の旅」それにこの「白鳥の歌」が三大歌曲集として昔から親しまれている。「美しい水車屋の娘」は青年の青春の思いが歌に存分に込められ、聴くものを魅了してやまない。これはシューベルトの青春の思いであると同時に、年配のリスナーのほろ苦い青春の思い出にも通じる。これに対し「冬の旅」は実に重々しい。聴いていて息が詰まりそうになり、最後まで聴き通せない。シューベルトは死と常に直面して生きていたわけであるが、誰一人いない寒い寒い冬の道をとぼとぼと歩いていき、このままでは死しかありえないような、壮絶な思いを「冬の旅」は語りかけてくる。

 そして今回の「白鳥の歌」である。「白鳥の歌」はシューベルトの死の年に作曲された単独のリートを集めて、一つの歌曲集にしたものであるが、最初から歌曲集として作曲したかのような統一性のある、見事な仕上がりとなっている。シューベルトはもう死の恐怖を通り過ぎて、悟りのような境地にたどり着いたような感じすら受ける。そこには、昔の明るさが戻っており、静かな静かな精神が広がっている。シューベルトは我々に「人生なんて所詮ちっぽけな人間の思い込みに過ぎない。肩の力を抜けばもっと豊かな世界が見えてくる」とでも言ってるようだ。そんなわけで今の私には三大歌曲集の中で一番身近な存在なのが「白鳥の歌」だ。今、手元において繰り返し聴ている。

 このCDはスゼーのバリトン、ボールドウィンのピアノというゴールデンコンビによる「白鳥の歌」のCDで、私にとってはお宝CDなのだ。スゼーはフランス人なのにドイツ・リートを歌わせるとドイツ人以上に旨い。“ビロードのような音質を持つバリトン”と謳われたスゼーの歌声は魅力的だ。そして何よりもスゼーの声は「白鳥の歌」に素晴らしくよく調和する。ところで、このCDのライナーノートには「録音:1970年頃」と記載されているが、何故「頃」となったのか不思議だ。スゼー(1918-2004年)52歳頃の録音ということになる。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇スゼーのシューベルト歌曲集

2008-08-22 16:55:14 | 歌曲(男声)

シューベルト:歌曲集「美しき水車屋の娘」「冬に旅」「白鳥の歌」他

バリトン:ジェラール・スゼー
ピアノ:ダルトン・ボールドウィン

CD:日本フォノグラフ(PHILIPS) PHCP-5078~81

 シューベルト(1797-1828年)は31歳という若さでこの世を去っている。このあまりにも短い生涯の中でつくられた作品は、今でもまったく輝きを失っていないということは驚嘆に値すると同時に、人生における時間というものはいったい何なのか、改めて考えさせられてしまう。天才といわれる人の生涯は大体短いものだが、その間の仕事の凝縮度は限りなく濃い。その濃い凝縮度の中でもさらに一層濃いのがこの歌曲集「美しき水車屋の娘」と「冬の旅」それに連作の「白鳥の歌」ではなかろうか。「美しき水車屋の娘」は青春のほのぼのとした憧れが歌われていて、聴いていても現実の厳しさといったことを、しばし忘れさせてくれる。それに対し「冬の旅」は暗く、重く、聴いていても心が閉ざされていく思いがする。だから、私は「冬の旅」全曲を通して聴いたことは実はこれまであまり多くはない。「白鳥の歌」は死に直面していたためか、暗さというよりは何か悟りの心境のような感じが強くする。

 このCDは“ジェラール・スゼーの芸術”と銘打たれ、CD4枚に収められている。スゼーは私のお気に入りのフランスのバリトンだ。残念なことに2004年にその生涯を終えてしまった。“ビロードの歌声”と讃えられていた通り、聴いていて何か夢の中にいるような心地よさがなんともいえない。私はスゼーの歌ったシューマンの「詩人の恋」のCDを何回も何回も、これまで数えられないほど聴いてきた。ところで、ドイツ音楽とフランス音楽はどうしてこんなに違うのと思えるほど雰囲気が異なるが、フランス人がドイツ音楽を演奏すると不思議にドイツ人以上のものに仕上がるケースがある。スゼーの歌うシューベルトは正にこの典型的事例だろう。私はスゼーの歌った「美しき水車屋の娘」が一番好きだ。ビロードの歌声に曲想がぴたりと合うからだ。それに対し「冬の旅」はフィッシャー・ディスカウの印象が余りに強すぎて、ほかの歌手が歌ってももう一つぴんとこない。

 シューベルトの作品はクラシック音楽の中で革命を成し遂げた。今あるリートの形をつくり上げたのもシューベルトだ。ベートーベンも交響曲の世界に革命をもたらしたが、私はシューベルトの方が革命的という点では、その存在が一層大きいのではないかと思う。ところで、モーツアルト、シューベルト、ベートーベンなき、これからのクラシック音楽は一体どうなっていくのであろうか。一時、現代音楽がクラシック音楽のこれからを作り出すのだと思われていた。「あと何十年もすると、誰でも現代音楽で鼻歌を歌ってるさ」という現代音楽の作曲家が昔いた。しかし今、現代音楽の将来は明るくない。先細りしつつあるようにも感じられる。民族音楽ももう出尽くした感がある。今のクラシック音楽界は過去の遺産だけで食べているようなもので、このままでは将来死滅しかねない。このことは現在のクラシック音楽のコンサート会場を見れば一目瞭然。年寄りが圧倒的で、若者の姿はちらほらだ。クラシック音楽界にまたシューベルトのような天才が現れて、再生してくれることを祈るばかりである。(蔵 志津久)

 

 

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◇クラシック音楽◇パンゼラ、コルトーのシューマン:詩人の恋

2008-06-19 09:07:22 | 歌曲(男声)

シューマン:詩人の恋他

バリトン:シャルル・パンゼラ
ピアノ:アルフレッド・コルトー他

CD:英PAVILION RECORDS GEMM CD 9919

 シューマンの「詩人の恋」のCDは数々の名演盤がある。フィッシャー・ディスカウ、スゼー、ヴンダーリッヒなど、それぞれ個性を持ったCDが揃っている。しかし、その頂点煮立つのがこのCDのパンゼラとコルトーによる「詩人の恋」であることは論を待たない。パンゼラのまるでビロードのようなしなやかなバリトンの声を、コルトーの微妙なタッチのピアノが包み込む。こんな馥郁として、繊細で、そしてドラマチックな「詩人の恋」は、これからも果たして出てくるのか疑問に思えるほどの出来栄えとなっている。パンゼラ、コルトーともフランス人であるが、フランス人の演じるドイツ音楽は、成功を収めるというジンクスはここでも健在だ。

 この録音は1933~1939年で、今から70年以上も前の古いSP録音にもかかわらず、意外に聴きやすい。その理由はSP録音にあるといえそうだ。今でもSP録音の音が最高と評価するする人もおり、SPの同好会もあるほどだ。確かに、中、高音にかけては、最新のデジタル録音に勝るも劣らないものがあるといえる。私は骨董的録音盤の保存と、SP、LPの中で現在でも鑑賞に耐ええるものの保存は別のものと考えている。このパンゼラ、コルトーのCDはもちろん後者の位置づけであり、今後も永遠に残さなければならない名録音である。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇スゼーのドビュッシー:歌曲集

2008-05-17 08:12:45 | 歌曲(男声)

ドビュッシー:歌曲集 
             

  1. マンドリン
  2. 美しい夕暮れ
  3. 忘れられたアリエッタ~第4曲 木馬
  4. 同~第5曲 グリーン
  5. 噴水
  6. 海は美しい
  7. 羊の群と立ちならぶ生垣は…
  8. 「艶なる宴」第2集
  9. フランスの2つのシャンソン
  10. フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード
  11. 2人の恋人の散歩道

演奏:バリトン=ジェラール・スゼー
    ピアノ=ダルトン・ボールドウィン

CD:ポリドール POCG3038

  日本人は学校で最初に、シューベルトとかシューマンなどのドイツリートや合唱曲を教え込まれる。これは今も変わっていないと思う。リートとか合唱曲はドイツがベースとなって歌ったり、聴いたりしてきた。そんな環境でフランスのリートを聴いたらどうなるか。一瞬聴くとやはり違和感が先に立つ。しかし、ドイツリートをベースに聴くからそう感じるだけなんだろう。このCDのドビュッシーのリートを聴くと最初どうしても違和感にとらわれる。しかし、じっと聴いていくうちその違和感も徐々に薄れ、逆にそこはかとない感覚が、何か東洋的な趣がしてくるから不思議だ。私はこのドビュッシーのリートを聴くと“百人一首”の世界を思い浮かべる。

  バリトンのジェラール・スゼーはフランス人のバリトンで、当然のことながらドビュッシー、フォーレ、デュパルクなどを得意としてきた。一方、シューベルトやシューマンなどドイツリートもCDに録音している。スゼーの録音したシューマンの“詩人の恋”は今でも私のお気に入りNo.1である。スゼーはこれまで“ビロードのような美しい声”で、幾多のリスナーを魅了してきた。ピアノ伴奏のボールドウィンとの息がぴったり合っていることも、魅力を倍増させている。このドビュッシーのリートを収めたCDの最初の曲は“美しい夕暮れ”であるが、フランスのリートは何故か夕暮れに聴くとその魅力が一層深まる。(蔵 志津久)

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