マーラー:「大地の歌」
指揮:ヨーゼフ・クリップス
管弦楽:ウィーン交響楽団
独唱:フィリッツ・ヴンダーリッヒ(テノール)/ディートリッヒ・フィッシャーディスカウ(バリトン)
CD:独グラモフォン 00289 477 8988
マーラーの「大地の歌」は、一体交響曲なのか、はてまたニ部の独唱つき管弦楽曲なのか、どの本を見ても曖昧にしてあり、どっちとも取れる表現をしているケースが多い。はっきりと交響曲「大地の歌」と書いてある場合もあるが、実際にこの曲の全曲を聴き通してみると、やはりこれは独唱付き管弦楽曲であるという感じを強く受ける。それほど、この曲において独唱者の力量がはっきりと表面に現れてくる。独唱者がつまらなければ、いくら指揮者やオケが頑張ったところで、所詮出来具合は知れたところ、と言った塩梅だ。そういうわけでマーラー:「大地の歌」を聴く場合は、まず独唱者の名前を確認してから、次に指揮者とオケの名前を見るという習慣を付けておいた方が無難だ。つい、指揮者の名前に引き付けられてCDを買ってから、独唱者の名前を見たら無名な歌手であることが分り、いやな予感がしたのだが、案の定、聴いてみてがっくりと来た経験を私は持っている。ただ、私には「大地の歌」はこうあらねばならないという固定概念が出来上がっているので、ただ、それに合わない歌手を排除しているに過ぎない、ということなのかもしれないのだが・・・。
今回のCDは、録音は1964年6月14日のウィーン楽友協会ホールでのライヴ録音と、40年以上も前の大分古い演奏ながら、独唱がテノールのフィリッツ・ヴンダーリッヒ(1930年―1966年)とバリトンのディートリッヒ・フィッシャーディスカウ(1925年生まれ)と、当時人気絶頂の2人のスター歌手を揃えた演奏だけに見逃す分けにはいかなくなってしまった盤である。マーラー:「大地の歌」の名盤というとマーラーに直接薫陶を受けたワルター指揮の数種類の録音を筆頭に幾種類もの名盤があるが、そのほとんどが、テノールにアルトという組み合わせが多い。マーラーは、アルトまたはバリトン独唱といったようにどちらでもいいという風に作曲したのだが、これまでは、テノールとアルトの組み合わせが圧倒的に多かった。これは、コンサートでの華やかさを演出するには、男声歌手2人よりも男女の独唱者を揃えた方がいいといった単純な理由からだろうと推察される。しかし、フィッシャーディスカウだけはこの昔からの慣わしに逆らい「大地の歌」を得意にしてきており、バーンスタイン指揮の名盤も残されている。最近になって徐々にアルトに代わりバリトンが歌うケースが増えていると聞く。その意味でフィッシャーディスカウは先駆者であったのである。
このマーラー:「大地の歌」は、全部で6楽章からなり、テノールとアルトまたはバリトンが交互に歌うという実に分りやすい構成を取っていることもあり、昔から日本では人気のある曲で、ビギナーでも充分楽しむことが出来る大衆性がウリとなっている。基となったのが、ハンス・ベートゲが編んだ詩集「中国の笛」であり、同じ東洋人として日本人が聴くには違和感を感じないところが人気の秘密であろう。「悲歌行」「宴陶家亭子」「採蓮曲」など李白などの唐詩が用いられ、マーラーも東洋的音階を使うなど、東洋的情緒がたっぷりなところが、クラシック音楽ではなかなか求められない魅力を発揮している。第1楽章「大地の哀愁に寄せる酒の歌」、第2楽章「秋に寂しき者」、第3楽章「青春について」、第4楽章「美について」、第5楽章「春に酔える者」、第6楽章「告別」からなる。特に30分ほどかかる長大な第6楽章「告別」の最後の「愛しき大地に春が来て、ここかしこ百花咲く緑は木々を覆い尽くし、永遠にはるか彼方まで青々と輝き渡らん 永遠に 永遠に・・・」などを聴くと、後期ロマン派の面目躍如といった感じを強く受け、西洋と東洋の融合という、マーラーが狙った斬新性に感動させられずにはいられない。
第1楽章のヴンダーリッヒの歌唱は、詩の「生は暗く、死もまた暗い」といった歌詞を的確に表現し、聴くものを釘付けにしてはおかない。このライヴ録音のCDは、このヴンダーリッヒのこの歌唱を聴いただけで、東洋的な深遠さの世界へとリスナーを自然に誘う。第2楽章のフィッシャーディスカウの歌は、オケの奏でる永遠の東洋的な静寂さを背景にして、力強くしかも包容力あり、説得力に富んだものだ。第3楽章は、楽しくうきうきとした曲であり、ヴンダーリッヒのテノールの技が一段と冴え渡る。第4楽章は、まるで物語を語るようなフィッシャーディスカウの歌声が、聴くものを陰影感豊かな世界へと導き入れる。第5楽章は、東洋を強く感じるような曲であり、美しいメロディーにも酔わされる思いがするが、ヴンダーリッヒの澄んだ歌声は、詩にピタリと寄り添い、実に軽快だ。そして、クライマックスともいえる第6楽章を、フィッシャーディスカウが熱唱し、後期ロマン派音楽が爛熟の境に入ったことを十二分に実感することができる。何かここでマーラーは、人生の最後の旅路を終えようとするかのような、悟りの境地ににも似た音楽を余す所なく開陳し尽すのである。マーラーは、この「大地の歌」最後の楽章でおいて、現世と来世とを、あたかも音楽で表現しようと試みたかのように私には思えてならない。ヨーゼフ・クリップス指揮ウィーン交響楽団は、中庸を得た安定感ある演奏を繰り広げている。(蔵 志津久)