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★ 私のクラシック音楽館 (MCM) ★ 蔵 志津久

クラシック音楽研究者 蔵 志津久によるCD/DVDの名曲・名盤の紹介および最新コンサート情報/新刊書のブログ

◇クラシック音楽CDレビュー◇山田一雄指揮新日本フィルハーモニー交響楽団のモーツァルト:交響曲第41番 「ジュピター」/オペラ「偽の女庭師」序曲/セレナード第6番 「セレナータ・ノットゥルナ」

2021-05-11 09:39:49 | 交響曲(モーツァルト)



<クラシック音楽CDレビュー>



~山田一雄指揮新日本フィルハーモニー交響楽団のモーツァルト:交響曲第41番 「ジュピター」/オペラ「偽の女庭師」序曲/セレナード第6番 「セレナータ・ノットゥルナ」~



モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調「ジュピター」K.551
       オペラ「偽の女庭師」序曲 K.196
       セレナード第6番 ニ長調「セレナータ・ノットゥルナ」K.239

           豊嶋泰嗣(第一ヴァイオリン)
           戸松智美(第二ヴァイオリン)
           白尾偕子(ヴィオラ)
           牧田 斉(コントラバス)

指揮:山田一雄

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

録音:1990年8月30日~31日、洗足学園前田ホール

CD:fontec TWFS90001(企画・販売元:タワーレコード)

 このCDは、”ヤマカズ”の愛称で親しまれた伝説的指揮者の山田一雄(1912年―1991年)が、ちょうど亡くなる1年前に、それまで主にライヴ録音を中心に行ってきた氏が、モーツァルトの作品を敢えてセッション録音(スタジオ録音)で遺した貴重な録音である。最新のDSDリマスタリング技術で蘇り、録音状態が極めて良好であり、ヤマカズさんと新日本フィルの熱演を余すことなく聴くことが出来る。今から30年以上前に、日本の指揮者と日本のオーケストラが、モーツァルトの交響曲を自家薬籠中の物とし、さらに世界的レベルと言っても過言でない程の水準にまで達していたかということを、このCDを聴くことによって我々は知ることになる。

 山田一雄は、東京都(東京府)出身。1931年に東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科首席卒業ののち研究課程に進む。ヨーゼフ・ローゼンストック(1895年―1985年)のもとで研鑽を積んだ後、1941年新交響楽団(略称:新響=現NHK交響楽団)の補助指揮者に就任。この新響が日本交響楽団(略称:日響)に改組後、ローゼンストックを支える立場の専任指揮者となる。翌1945年には満州国に渡り、新京やハルビンのオーケストラを指揮した。日本に引き揚げ後は、以前と同様に日響の指揮台に立ち、1949年にはマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」を日本初演するなどの活動を続けた。1956年ニッポン放送の「フジセイテツコンサート」用オーケストラであるNFC交響楽団を組織した。1960年から東京交響楽団、1966年から日本合唱協会、1968年から群馬交響楽団、次いで1972年から京都市交響楽団の各音楽監督等を務め、1981年には新星日本交響楽団(2001年に東京フィルハーモニー交響楽団と合併)の名誉指揮者となるなど、多くのオーケストラとの共演を重ねた。1991年7月に神奈川フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任したが、わずか1ヵ月後の8月13日に急逝した。1976年「紫綬褒章」、1979年第29回「芸術選奨」文部大臣賞、1982年「芸術祭大賞」、1983年「有馬賞」、1984年「勲四等旭日小綬章」、1985年度第42回「日本芸術院賞」などを受賞(章)。

 新日本フィルハーモニー交響楽団は、日本フィルハーモニー交響楽団出身の楽員と小澤征爾や山本直純らが中心となり、新たに自主運営のオーケストラを1972年に設立したのが始まり。そして1997年には、東京都墨田区とフランチャイズ契約を結び、墨田区に完成したすみだトリフォニーホールを本拠地とした。これは、日常の練習と公演を行うという日本初の本格的フランチャイズ制の導入であり、これが現在に至るまで継承されている。現在は、音楽監督が上岡敏之、そして新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ音楽監督・Composer in Residence and Music Partnerが久石譲、さらに桂冠名誉コンサートマスターが豊嶋泰嗣という体制で臨んでおり、活発な演奏活動を展開している。この中の「新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラ」とは、2004年夏、作曲家・久石譲を音楽監督に迎え、新たに立ち上げたプロジェクト。「世界中に素晴らしい曲がたくさんある。ジャンルにとらわれず魅力ある作品を多くの人々に聴いてもらおう」という願いが、このオーケストラの活動におけるテーマとして掲げられている。

 モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」は、モーツァルトが作曲した最後の交響曲で、ローマ神話の最高神ユーピテルにちなんで「ジュピターの愛称を持つが、同交響曲のスケールの大きさ、輝かしく荘厳な曲想から付けられた通称であり、特に標題的な意味合いはない。完成は、1788年8月で、同年に作曲された第39番、第40番とともにモーツァルトの”3大交響曲”と呼ばれている。第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ、第2楽章 アンダンテ・カンタービレ、第3楽章 メヌエット:アレグレット、第4楽章 モルト・アレグロの4つの楽章からなる。この曲での山田一雄指揮新日本フィルの演奏は、正に乾坤一擲、スタジオ録音でありながら、ライヴ録音のような緊張感が全体に漲り、悠揚迫らざる堂々とした演奏を繰り広げる。第二次世界大戦後、日本のクラシック音楽界は欧米に追い付くことを目指し、日夜活動を展開してきたのであるが、この録音を聴く限り、さらに世界へと通じる高みへと向かいつつあることが聴きとれる。ここでの山田一雄の指揮は、明快極まりないもであり、一点の曖昧さもなく自信に満ちている。それに応えるように、新日本フィルの演奏も地に足が付き、音質も分厚く、力強いものに仕上がった。テンポも中庸を心得て安心して聴き通すことができ、申し分ない。日本人によるモーツァルトの交響曲の演奏としては、過去にこれほどまでの高みに達した演奏は、皆無と言ってよく、今後も果たしてこれを超えるものが現れるか、疑問にさえ思うほどの完成度の高い見事な出来栄えだ。

 モーツァルト:オペラ「偽の女庭師」は、モーツァルトが19歳のときに書いた、3幕もののオペラ・ブッファ。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世から作曲を依頼され1774年に完成した。初演は、翌1775年にミュンヘンのザルヴァートル劇場 で行われた。イタリア、ナポリの東南100キロほどの都市、南イタリアのラゴネグロがこのオペラの舞台で、この地の名家ドン・アルキーゼ家に女庭師として雇われてきたヴィオランテ姫が恋愛騒動に巻き込まれるというのがそのストーリー。この曲での山田一雄指揮新日本フィルの演奏は、基本的には交響曲第41番「ジュピター」と同じことが言えるが、オペラの序曲として、これから始まる劇の進行をワクワクして聴いている聴衆に向けて、語りかけるような演奏に徹したところが聴きどころ。

 モーツァルト:セレナード第6番 「セレナータ・ノットゥルナ」は、1776年にザルツブルクで書かれた、管楽器を省いた小規模な編成で構成される作品。作曲された1776年は、”セレナード音楽の年”と称される程、数多くのセレナーデ(第7番や第8番など)やディヴェルティメント(第9番から第13番)などが作曲された。これは、当時のモーツァルトがザルツブルクの宮廷のお抱えの音楽家で、主に娯楽的・社交的な音楽作品を作曲したため。ここでの山田一雄指揮新日本フィルの演奏は、肩の力を抜き、リラックスした雰囲気を醸し出す。独奏者とオーケストラの掛け合いも楽し気に行われるが、そこには一本の線がピンと張られ、適度な緊張感も醸し出される心地よい見事な演奏ぶり。(蔵 志津久)
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◇クラシック音楽CD◇ネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団のモーツァルト:交響曲「ジュピター」「ハフナー」

2016-11-08 11:16:04 | 交響曲(モーツァルト)

モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」
         交響曲第35番「ハフナー」

指揮:ネヴィル・マリナー

管弦楽:アカデミー室内管弦楽団

CD:EMIミュージック・ジャパン TOCE16078

 多くのクラシック音楽ファンに愛された名指揮者ネヴィル・マリナー(1924年―2016年)が、2016年10月2日に没した。享年92歳であった。ここ数年の間、度々来日したので、直接マリナーの指揮をお聴きになった方もおられよう。マリナーは、英国のリンカンシャー州出身。ロンドンの王立音楽大学に学んだ後、パリ音楽院に留学。その後、フィルハーモニア管弦楽団、ロンドン交響楽団(LSO)などのヴァイオリニストとして活躍。1958年には、バロック音楽を演奏するため聖マーティ・イン・ザ・フィールズ教会を拠点としてアカデミー室内管弦楽団を結成。当初は、ヴァイオリンを弾いていたが、要請を受け指揮者に転向。次第にマリナーは指揮者として名前が広く知られることとなる。さらにマリナーは、フルオーケストラの指揮者としてもその能力を発揮することになる。1979年~1986年ミネソタ管弦楽団音楽監督、1983年~1989年シュトゥットガルト放送交響楽団首席指揮者などを歴任。1985年には、長年にわたり音楽界に貢献したことによりナイト号を授与されている。
 
 アカデミー室内管弦楽団(アカデミー・オブ・セント・マーティ・イン・ザ・フィールズ=The Academy)は、ロンドンでネヴィル・マリナーが創立。1959年に最初の演奏会を行なったが、これが現在の古楽アンサンブルブームの先駆けとなった室内管弦楽団の発足であった。当初は17世紀から18世紀の音楽を専門にしてきたが、その後、編成とレパートリーを拡張して、古典派やロマン派、さらには現代音楽などにも積極的に取り組むようになった。1959年から1978年まで、ネヴィル・マリナーが指揮者を務めたが、発足当初は指揮者なしの弦楽合奏団として演奏した。その活動は、バロック音楽演奏の復活に貢献して、それまでの演奏に見られない新解釈ということで、当時の音楽界の話題を呼んだ。映画「アマデウス」(1984年)のサウンドトラックを担当したほか、映画「タイタニック」のサウンドトラックも担当し、クラシック音楽以外にもファンを広げたことも特筆できる。

 モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」は、1788年8月10日に完成した。この交響曲のタイトル「ジュピター」は、モーツァルトによるものではなく、イギリスの興行主ザロモンが、この曲の終楽章を、ローマ神話のジュピターに譬えたことによるもの。全部で4つの楽章からなるが、特にフーガの技法を取り入れた第4楽章は、モーツァルトの交響曲の頂点に聳える傑作として知られる。このCDでのマリナーは、若々しく、洗練された、英国流の流れるような指揮ぶりを聴かせる。モーツアルトの交響曲の中でも傑作として知られるこの交響曲は、どの指揮者が指揮しても、力強く、スケールの大きさをことさら強調した演奏内容になるものだ。ところが、このCDでのマリナーの指揮は、これとは真逆で、緻密で、清々しさを辺り一面にまき散らすような雰囲気を漂わす。「ジュピター」のこれまで聴いたことのない新鮮な姿がそこに存在する。結果として、アカデミー室内管弦楽団の存在価値を存分に聴かせた録音となった。

 モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」は、ウィーンにおいてモーツァルトが最初に書いた交響曲である。しかし、その内容はというと、ザルツブルグの富豪であったハフナー家のためにモーツァルトが書いたセレナードの改作である。このセレナードは、ハフナー家の息子が爵位を受けた際の祝典曲として書かれたものであり、内容的には交響曲になるべき題材ではないように誰もが思う。しかし、それはモーツァルトのこと、初めて書き下ろされたかのような、堂々とした交響曲である第35番「ハフナー」にまとめ上げてしまったのだ。そして、モーツァルトは、1783年の春に行われた演奏会にこの“新作”交響曲を見事間に合わせたのであった。交響曲第35番「ハフナー」でのマリナー指揮アカデミー室内管弦楽団の演奏は、交響曲第41番「ジュピター」の演奏内容とがらりと変え、実に力強く、明るく、堂々としたものに仕上げている。この演奏を聴いていると、「ハフナー」交響曲は、セレナードの改作交響曲などという感じは微塵も感じることはない。マリナーの考え抜かれた指揮ぶりには思わず脱帽といったところだ。

 ■追悼 「ネヴィル・マリナーさん、長年にわたり、素晴らしい演奏をありがとうございました。心から感謝致します。安らかにお眠りください」 合掌 (蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇フリッチャイのモーツァルト:交響曲第40番/第41番「ジュピター」

2010-08-10 09:29:52 | 交響曲(モーツァルト)

モーツァルト:交響曲第40番/第41番「ジュピター」

指揮:フェレンツ・フリッチャイ

管弦楽:ウィーン交響楽団

CD:BELART 450 034‐2

 フェレンツ・フリッチャイ(1914年―1963年)は、ハンガリー出身の名指揮者で、ドイツを中心としたヨーロッパおよび米国で活躍したが、1962年に白血病により他界した。まだ48歳という若さであった。指揮者は概して長老になればなる程、知名度が上がり、名演を残すケースが多いが、フリッチャイは円熟の度がこれから加わろうとしていた矢先での死であっただけに、余計惜しまれる。バイエルン国立歌劇場音楽監督、ベルリン放送交響楽団首席指揮者、ベルリン・ドイツ・オペラ初代音楽総監督などその経歴を見れば、いかに実力がある指揮者だったかが分ろう。フリッチャイの死後、名バリトン歌手のフィッシャー=ディースカウがフリッチャイ協会を設立して、名指揮者カール・ベームがその名誉会長を務めたことを見ても、如何にその死が多くの人に惜しまれたがよく分る。

 フリッチャイは、あくまで音楽そのものに語らせるといった指揮ぶりが特徴だ。フルトヴェンングラー、ワルター、トスカニーニなどの名指揮者の録音を今聴くと、いずれも個性的であり、自己主張を貫き通すタイプだ。それに対しフリッチャイは、自分の主張よりも、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの作曲家が意図した音楽そのものをリスナーに正確に、表情豊かに伝え切るといった指揮ぶりで、その真摯な姿勢に、聴くもの皆が心の底から感動を覚えるのである。タイプとしては、ショルティやシューリヒトに近いものを感じるが、フリッチャイが振ると、オケの音が豊穣に鳴り響き、凄まじいばかりの圧倒的な求心力驚かされる。客観的でありながら、同時に主観的な演奏を聴かせるといった、そう簡単に真似できないその類稀な手腕は、今になっても少しも輝きは失せてはいない。モーツァルトの交響曲第40番と第41番の録音が数多く存在する中にあって、この録音は歴史的名演奏であると私は思う。あえて「フリッチャイ盤を聴かずして、モーツァルトの交響曲第40番と第41番を語るなかれ」とでも言っておこう。

 モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」の第1楽章の堂々とした佇まいはどうだ(このCDには第41番、第40番の順に入っている)。これぞモーツァルトとでも言いたいような、優美にして、筋肉が引きしまったような無駄のない構成美に酔いしれることができる。第2楽章の咽び返るような音づくりには、ただただ聴き惚れるしかない。モーツァルトのマジックに完全に自己を埋没しそうになる。フリッチャイの指揮は、あくまで自己の主張ではなく、モーツァルトの美意識への導き役をかって出ているだけだよ、とでも言っているかに聴こえるくる。一転して第3楽章の軽快な軽がるとした流れによって、はっとして我に返える。そして燦燦と輝くモーツァルトの音の世界に身を置く。第4楽章は、第3楽章の延長みたいなところがあって、伸び伸びとした健やかな音づくりが印象深い。フリッチャイの指揮はここでも、エネルギーを極限まで集中させ、豊かな音づくりに終始する。この交響曲に付けられたジュピターは、ローマ神話における最高の神のことであり、スケールが大きく、輝かしく荘厳なさまはこの曲にぴったり合う。そのことがフリッチャイの指揮により一層確かなものに見えてくるのだ。

 第40番の交響曲は、これまで40番の「ジュピター」みたいなニックネームが付けられてこなかったことが不思議に思うほど、我々リスナーにとっては身近な曲である。モーツァルトの交響曲のうち短調のものはこの作品を含め2曲しかない。もう一つの交響曲は第25番で、いずれもト短調。第1楽章の出だしからリスナーの心を虜にして離さない。フリッチャイは、決してスピードを上げず、ゆっくりと淡々と進む。この方がかえってモーツァルトの悲壮感が滲み出る。ここでは下手な演技をしない方が賢明なことをフリッチャイは知っている。第2楽章は、第1楽章を受けて立つかのような、透明で平穏な空気が流れる。第1楽章の悲壮感が少しは拭えるかのようだ。フリッチャイの指揮は、実に淡々と演奏するが、その深みのある弦の響きに加え、管の一瞬の輝きに、その全神経を集中して指揮していることが窺える。第3楽章は、壮大な音の饗宴。フリッチャイの研ぎ澄まされた感性が冴え渡る。第4楽章は、悟り切ったような表情から、それがさらに未来に繋がるような雰囲気が何ともいいが、ここでもフリッチャイの指揮は、あくまで自然体であり、モーツァルトに全てを語らせ、決して自分がでしゃばろうとはしない。ところでウィーン交響楽団は、普段、ウィーンフィルの陰に隠れた存在に甘んじているが、ここでは、フリッチャイによりその持てる力を存分に出し切って、自信に満ちた演奏をしていることが印象に残る。(蔵 志津久) 

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◇クラシック音楽CD◇ベーム/ウィーンフィルのモーツアルト:交響曲第29番他(ライブ盤)

2010-07-20 09:27:18 | 交響曲(モーツァルト)

~ベーム、ウィーンフィル 1977東京ライブ~

モーツアルト:交響曲第29番
リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」

リハーサル風景
ブラームス:交響曲第2番

指揮:カール・ベーム

管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:TDK-OC 006

 このCDは、カール・ベームとウィーンフィルが来日公演を行った時のライブ録音盤で、リハーサル風景も録音されているため、カール・ベームの肉声を聞くことができる貴重なCDである。録音は1977年3月11日、東京文化会館で行われた。演奏自体が名演の誉れ高いもので(特にモーツアルト:交響曲第29番は、生、録音いずれでも、現在に至るまでそうめったに聴くことができない極めて質の高い演奏内容)、FM東京で放送されていた民放唯一のライブ・コンサートの番組「TDKオリジナルコンサート」を、その音源としている。インターネット放送を含め、今でこそクラシック音楽は、多くの放送局から、あらゆる時間帯で聴くことができるが、1970年代には、来日オーケストラの演奏会を高音質で収録し放送してくれる「TDKオリジナルコンサート」は、クラシック音楽ファンにとっては掛け替えのない貴重な放送であったわけである。このCDは、発売元の変更があり、それを契機として発売された中の1枚のようだ。当時、世界的に見ても高い水準にあったTDKのオリジナルテープを基にCD化されたものだけに、今聴いてみても音質が心地よい。

 モーツアルトの交響曲第29番は、ウィーンからザルツブルグに戻ったモーツアルトが1744年に作曲した、後期の交響曲にも繋がるような、非常に充実した内容を持つ、初期の交響曲である。第1楽章の出だしからして、ベームとウィーンフィルの名コンビは、これ以上考えられない程に安らぎに満ち、弦楽器の音色の微妙な変化を愉しむかのように演奏していく。これだけ聴くだけで、このコンビの巧みで自然な演出力の虜になってしまい、気分はもうモーツアルトの世界に釘づけとなること請け合い。第2楽章は、アンダンテのゆっくりとした楽章で、この高貴な雰囲気の中に身を置いていると、何か俗世間のことを一時忘れ去るような雰囲気に包まれる。ここでも、ベームとウィーンフィルのコンビは、考え得る最良の音楽をリスナーに届けてくれるのだから堪らない。第3楽章は、軽快なメヌエット。管楽器と弦楽器の掛け合いのような音づくりに酔わされる思いがする。第4楽章は、これまでのゆっくりとした雰囲気から、一気に交響曲らしい壮大な音づくりに大満足。この楽章あたりは、モーツアルトの後期の交響曲を彷彿とさせる。ベームとウィーンフィルのコンビは、その能力をフル発揮させている様子が手に取るように分かり、リスナーの気分も高揚へと向かう。

 リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の演奏も、このコンビの自在な音づくりの鮮やかさに、一時、夢の中にいるような雰囲気を味合わせてくれる。正に、このコンビでなくては出せない、豊穣な奥深い音の森の中を歩いていくような気分に浸れるのは、流石と思わざるを得ない。「ドン・ファン」をはじめとして、リヒャルト・シュトラウスのオーケストラの曲を演奏する指揮者およびオケともに、張り切りすぎてやたらと大きい音を出しすぎるきらいがあるものだ。それに対し、このコンビの演奏はどうだ。ロマンの香りが臭い立つような、妖艶なリヒャルト・シュトラウスの音楽の世界を描き切る。この「ドン・ファン」は、ドイツの詩人ニコラウス・レーナウの詩に基づいており、リストが創始した交響詩の様式に則って作曲されている。ドン・ファンは、17世紀スペインの伝説上の放蕩児で、このプレイボーイの貴族が繰り広げる女性にまつわるお話。たまには、文学的な雰囲気の中に身を置き、ベーム/ウィーンフィルの名コンビの演奏を聴くのもおつなものだ。

 カール・ベーム(1894年―1981年)は、オーストリアのグラーツに生まれた指揮者。1921年にワルターの招きにより、バイエルン国立歌劇場の指揮者に就任した。ベームはワルターから多くを学んだが、とりわけモーツアルト演奏では大きな影響を受け、後年ベームはモーツアルトの権威者としての立場を築くことになる。1943年にはウィーン国立歌劇場総監督に就任している。戦後は、1964年に「オーストリア(共和国)音楽総監督」を、また、1967年にはウィーン・フィル創立125周年を記念して、特にベームのために創設された「名誉指揮者」の称号を授けられたりして、大指揮者の道を歩んだ。しかし、フルトヴェングラーみたいな神様のような存在というよりも、年配のリスナーの多くは、常に我々に近いところにいた名指揮者と感じていたのではなかろうか。このCDの最後にブラームスの交響曲第2番のリハーサル風景の録音が付けられているので、その中からカール・ベームの言葉を一つ紹介しよう。「私は皆さんと音楽をしながら死んでいければいいと思っています。何とか立っていられる間はね。もし立てなくなっても、小さな杖でひざをかばうことができれば(笑)、皆さんと一緒に音楽をしていきたいね」。カール・ベームはこの4年後、ザルツブルグで亡くなっている。音楽をこよなく愛したマエストロに合掌。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのモーツアルト交響曲第39番他

2010-03-09 10:23:43 | 交響曲(モーツァルト)

~新ムラヴィンスキーの芸術~<ライブ録音盤>

モーツアルト:交響曲第39番
グラゾノフ:組曲「ライモンダ」
ワーグナー:歌劇「ローエングリン」から第3幕への前奏曲

指揮:エフゲニー・ムラヴィンスキー

管弦楽:レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

 このCDの録音時期は、モーツアルト:交響曲第39番が1972年、グラゾノフ:組曲「ライモンダ」が1969年、そしてワーグナー:歌劇「ローエングリン」から第3幕への前奏曲が1973年となっている。会場は、いずれもレニングラード・フィルの大ホール。この録音を含め、レニングラード放送局のテープ倉庫に長年にわたり眠っていたマスターテープから直接CD化したため、音質は現在聴いてもなかなかいいのである。このCDには、①ライブ録音②初録音盤(グラゾノフ:組曲「ライモンダ」)それに③モノラル録音ーの3つが書かれ、「世界初発売」と銘記されている。当時、新たに発見された録音テープを基にしたCDということで、ムラヴィンスキー信奉者にとっては、この一連の録音は、誠にかけがえのないものであることには間違いない。

 演奏はというと、どれを取っても曲の本質を、一切の贅肉をそぎ落とし、しかも少しも、ぎすぎすしたところがなく、しかもある意味では豊穣な香りが立ち上る感覚を覚えるところが、ムラヴィンスキーの指揮の凄いところだ。例えば、ムラヴィンスキー同様、トスカニーニも余計な贅肉をそぎ落とした指揮をするのだが、トスカニーニは筋肉質の緊張感が表面に出てくる。それに対し、ムラヴィンスキーは、豊かな詩情を残しながら、しかも演奏の本質は筋肉質で無駄はない。言ってみればトスカニーニとワルターとを足してニで割ったような印象を持つ。足してニで割ると言っても、決して2者の中間という意味でなく、あくまで独自の主張を持った曲づくりがその中心にある巨匠であることが、このCDを聴くとよく分る。

 モーツアルトの交響曲第39番は、モーツアルトの後期交響曲の中で私が最も好きで、よく聴いた曲だ。特に第3楽章に現れる、何とも牧歌的なメロディーを聴くと、これぞ至福の一時という思いがする。モーツアルトの後期交響曲の中では、比較的地味であるが、その代わり内省的な深さという点では、他の曲を圧していると思う。こんな特徴を持つ交響曲を、ムラヴィンスキーの指揮は、誠に真摯に克明に表現し、そして同時に求心力も併せ持つ、第一級の演奏に仕上げているところは、さすがマエストロという感じを受ける。グラズノフの組曲「ライモンダ」は、バレエ音楽を基につくられた曲で、私は初めて聴く。バレエ音楽だけに演出効果は抜群で、踊りがなくても音楽だけでも十分楽しめる管弦楽曲だ。ここでのムラヴィンスキーは、従来の厳格なイメージをかなぐり捨てて、会場の聴衆と一緒に思う存分音楽を楽しんでいる雰囲気がいい。これもライブ録音の持ち味であろう。文句なく楽しいバレエ音楽に仕上がっている。

 ワーグナー:歌劇「ローエングリン」から第3幕への前奏曲は、いかにもムラヴィンスキーらしいワーグナーをつくりあげている。曲の本質をずばり表現して、余計な尾ひれは付けない。これを好むリスナーもいれば、もっと濃厚なワーグナーを好むリスナーもおろう。好みの問題だ。ムラヴィンスキー(1903年-1988年)は、ロシアの伝説的指揮者。レニングラード音楽院に学び、1931年レニングラード・オペラ・バレエ劇場の指揮者に就任。1938年全ソビェト指揮者コンクールで優勝し、同時にレニングラード・フィルの正指揮者となる。以後、はぼ半世紀にわたってこの名門オーケストラを高い水準に守り続けた。今、ムラヴィンスキーに似ている指揮者は、と言われると思いつかない。それは何故か。古きよき時代を体現した指揮者であったからなのであろうか?(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽CD◇ケルテス/ウイーンフィルのモーツアルト:交響曲第25/29/40番

2009-06-04 09:20:01 | 交響曲(モーツァルト)

モーツアルト:交響曲第25番/第29番/第40番

指揮:イシュトヴァン・ケルテス

管弦楽:ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団

CD:KING RECORD  230E 51016

 ハンガリー生まれの指揮者のイシュトヴァン・ケルティス(1929年ー1973年)は、1973年の夏、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団に客演した時に、イスラエルのテル・アビブの海岸で遊泳中に高波にさらわれ溺死した。享年43歳であった。演奏家は海外遠征が多く、飛行機事故で命を奪われることがあるが、ケルテスのようなケースは余り聞いたことがない。それだけに余計若くして死んだケルテスについては、今になっても忘れることができない。あんな余りある才能に恵まれた指揮者が一瞬にして我々の前から姿を消してしまったのだから・・・。今もしケルテスが生きていたら丁度80歳となっており、世界の楽団の重鎮として君臨していたのではないだろうか。

 このモーツアルトの交響曲3曲を収めたCDは1972年11月、ウイーンにおいて録音されたもので、死の1年前ということになる。第25番の出だしからして他の演奏とは比較にならない程のウイーンフィルの醸し出す音の深さに、思わず引き込まれるほどだ。ケルテスの指揮は決してオーケストラを無理矢理引っ張って行こうとはしない(もっともウイーンフィルを引っ張っていくにはまだ若過ぎたかもしれないが)。オーケストラが意のままにともまた違う。何かモーツアルトへの限りない親しみといったものを、オーケストラと一体となり実現するんだといったような意思が、聴くものにひしひしと伝わってくるのだ。音質も今から29年前の録音とは思えないほど鮮明で、ウイーンフィルの音色を存分に味わえることでも貴重なCDといえる。

 このCDのモーツアルトの3曲の交響曲の中でも、第25番が出色の出来だ。この曲のナンバーワンの録音ではないか。第25番は、モーツアルトの後期の傑作交響曲が生まれるにはまだ間がある頃の作品ではあるが、ケルテスの指揮は、それがあたかも後期の交響曲のごとく威厳に満ち、陰影を深く刻んだ曲につくり上げている。ケルテスがもしその後も存命であったら、モーツアルトの後期交響曲をどんなにスケールを大きくして指揮していただろうかという、思いに駆られるような演奏だ。このCDのライナーノートで岩井宏之氏も「モーツアルトにおいて、円熟期の作品よりも比較的初期の作品において、ケルテスがいい結果をおさめているのは、多分、ケルテスの指揮者としての若さのためであろう」と書いている通り、42歳という年齢がそうさせているのであろう。

 今後ケルテスという名前は徐々に皆の記憶から忘れ去られていくであろうが、その録音だけは今後も残しておきたいものだ。それはこんなにも純粋に音楽を演奏した指揮者も過去に存在していたという意味においてである。近年になるほど、パフォーマンスばかりに気を使った演奏が多すぎはしまいか。コンサート会場の雰囲気を高めればそれで事足りるとばかりに“熱演”するのはいいのだが、“仏つくって魂入れず”的な演奏が多すぎる。その点ケルテスの演奏は、仏もつくり、魂も入れた演奏内容となっているのだ。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇ショルティのモーツアルト:交響曲第40番/第41番

2008-09-05 10:42:22 | 交響曲(モーツァルト)

モーツアルト:交響曲第40番/第41番

指揮:ゲオルグ・ショルティ
管弦楽:ヨーロッパ室内管弦楽団

CD:DECCA(西独ポリグラム)414 334-2

 昔、ゲオルグ・ショルティ(1912-1977年)はあまり気になる指揮者ではなかったが、何年か前にベートーベンの交響曲全集を聴いたときに、なんと凄い指揮者がいるもんだとびっくりしたのを覚えている。以後私の最も偉大な指揮者はゲオルグ・ショルティとなり、今でもそうだ。日本ではそれほど評価が高くないようだが、一度白紙の状態でお聴きすることをお勧めしたい。好き嫌いは別として、その指揮の次元の高さにびっくりすると思う。過去に偉大な指揮者は沢山いた。フルトベングラー、ワルター、トスカニーニ・・・数え上げればきりがないが、私見で言わせてもらうと、それらの偉大な指揮者の集大成がゲオルグ・ショルティではないかとすら考えている。偉大な指揮者はそれぞれ強烈な個性があり、バランスから考えると万全とはいえない。それに対しショルティは、過去の偉大なる指揮者の要素を包含し、それらをバランス良く形づくっている。まるでギリシャ彫刻を見ているような優美さに圧倒される演奏ではある。

 このCDはヨーロッパ室内管弦楽団のレベルの高い演奏と、ショルティの究極の造形美を表現する指揮ぶりが見事に調和し、モーツアルトが追求した音楽を、極限まで再現して見せた極上のCDに仕上がっている。聴いても聴いても聴き飽きない演奏なんてそんなにないが、このCDは正に聴き飽きないのだ。これはショルティの指揮が上辺だけをなぞっておらず、モーツアルトの内面から迫った演奏だからこそ出来たのであろう。それにしてもヨーロッパ室内管弦楽団は世界の一流のオーケストラだけあって、その音色の優美さと流れるような演奏は特筆ものだ。

 繰り返すが、私はゲオルグ・ショルティは最後の正統派指揮者だと思っている。これからも個性ある指揮者は出てこようが、正統派指揮者はショルティをもって終わりだと思う。もうこれ以上の正統派の指揮者が現れるのは難しいであろう。最近読んだ本で「西洋音楽史―『クラシック』の黄昏」(岡田暁生著/中央公論新社刊)がある。この中で指揮者のアーノンクールが「18世紀の人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると現代音楽と並んで、過去の音楽が聴かれるようになってきた。そして20世紀の人々は、過去の音楽しか聴かなくなった」という言葉が紹介されている。何百年も前の曲の演奏を突き詰めていけば、いずれは終末が来る。もうそれ以上の演奏は無理だという終末が。現代音楽にそっぽを向いた現代のクラシック音楽界は、これからどこに向かおうとしているのであろうか。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇クナッパーツブッシュのモーツアルト:交響曲第39/40/41番

2008-04-22 21:46:30 | 交響曲(モーツァルト)

モーツアルト:交響曲第39番/第40番/第41番

演奏:指揮=ハンス・クナッパーツブッシュ      
        ベルリン・オペラ管弦楽団/ウイーンフィルハーモニー管弦楽団

CD:PREISERRECORDS 90951  

 このCDは歴史的録音で、録音年が第39番が1929年、第40番と第41番が1941年と古い割りにはデジタル化が上手くいって、そんなに聴きづらくないのが嬉しい。演奏内容はこれらの交響曲の代表的CDといっても過言でないほど充実している。ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ぶりは、限りなくスケールが大きく、まるで天空から音が溢れ落ちてくる感じがする。それでいて感情に流れるのではなく、知的なコントロールが聴いているところにリスナーは引き付けられる。正に正真正銘のマエストロなのである。
 
 この意味では、マエストロの東の横綱がフルトベングラーなら、西の横綱がクナッパーツブッシュという位置付けだ。フルトベングラーの指揮は、“振ると面食らう”と揶揄されたように、茫漠とした感情の嵐が吹きすさむダイナミックな演奏が身上だ。それに対しクナッパーツブッシュの指揮はスケールの大きさではフルトベングラーさえも上回り、現在まで比肩できる指揮者はいないほどだ。ただ、クナッパーツブッシュは感情に流されることなく、客観的に曲と接している。この辺が両マエストロの違いだ。
 
 そして、クナッパーツブッシュの指揮は比較的ゆっくりとしたテンポを刻む。最近の指揮者は、特にカラヤン以後の指揮者は皆テンポが速い。まるで新幹線に乗っている感じがする。これは現代という、あらゆるものにスピードが求められている世相の反映であろうから、仕方がないことかもしれない。でも今後、若手指揮者の中から、クナッパーツブッシュのようなスケールの大きい、比較的ゆっくりとしたテンポの演奏をする人が出て来てほしいものだ。そのためにも、クナッパーツブッシュのCDは今後もその存在価値は決して失せない。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇岩城宏之指揮のモーツアルトとチャイコフスキー

2008-03-04 21:24:39 | 交響曲(モーツァルト)

モーツアルト:交響曲第40番/チャイコフスキー:弦楽のためのセレナード

岩城宏之指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

CD:ビクター音楽産業 PRCD-5041

 わが国は岩城宏之というかけがえのない指揮者を失ってしまった。少しも偉ぶったところがなく、ただひたすらに音楽だけを極めていく姿勢にはいつも敬服していた。勿論クラシック音楽が活動の場であったわけだが、他のジャンルの音楽にも関心があったようで、そんな“自由な”姿勢が作り出す雰囲気は、他の指揮者にはない豊かさ、包容力を持っていた。海外で美空ひばりのCDを聴かせ、人々がどういう反応を示すのか実際にやってみたという。学生時代に通った喫茶店のおばちゃんから「将来、偉い指揮者になるのよ」と言われ、このことをいつまでも覚えていて、おばあちゃんになった彼女を自分が指揮するコンサートに招待し、彼女をいたく感激させた、などなど人情味溢れるエピソードが数多くある。

 このCDに収められたモーツアルトの第40番の交響曲は、岩城宏之マエストロの音楽性の行き着いた回答の一つだと言っても過言がないほどの高みに達している。決して力むところがなく、しっかりとした確信を持って聴くものを引っ張っていく。表面的なきらびやかをすべて取り去り、モーツアルトが書きたかった音楽のみを取り出し、それを正確に、ゆっくりとしたテンポで再現していく。演奏するオーケストラ・アンサンブル金沢も岩城の指揮に見事応えて、清々しい精緻な演奏を紡ぎ出している。この演奏を聴いていると、モーツアルトがいま作曲したような錯覚すら覚える。指揮、演奏とも世界の第一級だと言ってもいいと思う。  

 チャイコフスキーの弦楽のためのセレナーデの方は、リスナーが固定概念を持って聴くと見事肩透かしを食わされる。チャイコフスキーは良くも悪くも、ロシア特有の泥臭さが特徴だ。演奏する方もリスナーもこのことを強調しがちだ。これに対し岩城のこのCDのチャイコフスキーは、チャイコフスキーの泥臭さは拭い去って、芯となる音楽だけをぶつけてくる。チャイコフスキーてこんなセンスのいい音楽だったんだと納得させられる。これは岩城がチャイコフスキーを追い求めた得た回答であったのではなかろうか。ここでも、わが国クラシック音楽の到達した一つの頂点が聳え立っているのが見える。岩城宏之マエストロの生の演奏がもう聴けないと思うと残念でならない。(蔵 志津久)

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◇クラシック音楽◇小沢征爾/水戸室内管弦楽団のモーツアルトの交響曲ライブ

2008-02-05 21:35:32 | 交響曲(モーツァルト)
モーツアルト:交響曲第36番「リンツ」/第38番「プラハ」他

小沢征治指揮水戸室内管弦楽団

CD:Sony Music Japan International Inc. SICC10047

 我らが小沢征爾マエストロに関するニュースが、今年の1月にウイーンから伝えられた。それはヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100年を記念して行われたウイーンでのコンサートで、小沢征爾がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮をしたというものであった。西洋音楽のメッカともいえるウイーンで、東洋人の小沢が、カラヤン生誕100年でベルリンフィルを指揮したということは、ある意味で快挙といえるものだ。それだけに西洋音楽の本場でいかに小沢の評価が高いかがうかがえる。  

 今回発売されたこのCDは、水戸室内管弦楽団の定期演奏会のライブ録音(03年-05年)である。小沢一流のテンポの速い、強弱がはっきりとしたモーツアルトの演奏が展開されている。これだけリズム感に富んだ、躍動感に溢れたモーツアルトを演奏できる指揮者は日本ではいないであろうし、世界でも少ないだろう。小沢マジックとでも呼びたいような求心力はさすがだ。東洋と西洋の垣根を取り払ったパイオニアの一人が小沢征爾その人だといえる。(蔵 志津久)
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