御託専科

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ソーカル、ブリクモン「知の欺瞞」

2010-12-05 22:35:41 | 書評
ポストモダンの有力思想家たちのあまりにでたらめな科学分野の引用や応用を批判した本。端緒となったソーカルの有名なパロディ論文は巻末付録にある。
さてと。率直にいって大して読んではいない。というのは幸いなことにここで槍玉に上がっている面々、ラカン、クリステヴァ、イリガライ、ラトゥール、ボードリヤール、ドルーズ・ガタリ、ヴィリリオなどの著作に僕は真剣に取り組んだことがないので、まあとりあえずこの人たちの名前を忘れなければそれでよい。ボードリヤールは「消費社会の神話と構造」を一度手に取ったが大仰でもったいぶった物言いに少々食傷して投げ出した。その他の被害はない。
それでも、「第一の間奏」で挙げられている科学哲学者たちに関しては小生も無関心というわけにも行かず少々まじめに読んでみた。以下は本書の首長である。

ポパー:反証可能性の考え方はそれ自体悪くない。しかしそれを極端に進めて、世の中にありうるのは反証のみで確証(主観的確率の増大)ということを一切禁じるとすれば、あす日が昇るということさえ言えなくなる。第二に、反証ということは案外込み入っている。たとえばケプラーの惑星運動の法則の導出は、ニュートン力学とは独立ないくつかの付加的仮定に基づく。或いは電流は目盛上の針の位置により特定される。理論本体のみでなく補助仮説、測定に関する意識的・無意識的理論や仮説などの総体が検証すべき対象となるわけで、もし観察が違ってもなにが違っているのか直ちにわかるわけではない。

クーン:パラダイムの通約不可能性の不当な強調。パラダイム転換が非経験的な諸要因によって生じ、一旦生じるとそれが我々の世界を任視するやり方まで強く条件付ける、という考え方は明らかに強引過ぎる。実験結果の知覚の仕方まで理論が決めてしまうというのは極端だし、それは自己反駁的である。というのは、もし電子やDNAなどの概念を実在として扱うのが幻想であるというように言うならば、パラダイムという考え方も同じである。

ファイアベント:彼に対する論駁は少々難渋している。彼の「なんでもあり」とその変奏に対しての反論はもっともだが、そもそもトリックスター・道化の言うことにいちいち反論しているような面倒さがあって、著者たちも些か困っていると見られた。

このあとストロングプログラムという科学哲学というか科学社会学への反論が続くが、僕はストロングプラグラムというたわけた話はよく知らないので割愛する。