御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

中村屋のボース

2006-08-19 17:59:22 | 書評
チャンドラ・ボースというのは知っていたが、この物語の主人公、ラッシュ・ベハリ・ボースというのはしらなかった。日本に寄り沿いつつインド独立の目的を果たそうとし、日本に客死した闘士の物語。
あのころの日本というのは、対華21か条ののちであっても、アジアのリーダーでありアンチ西洋近代の思想的・実態的中心となり得たんだなあ、そうボースや孫文からも期待はあったんだなあ、と認識。でも、著者の言うとおり頭山満などの右翼大立者たちは心情が前面に出てしまい論理・思想・戦略に欠けていた。本当に残念なことである。今ひとつの「スピン」があればうまくめぐったのかもしれない、と思う。
もうひとつ。あとがきを見て著者の若さに驚いた。「私の二〇代は、この本を書くためにあったといっても過言ではない。」なんたる達成感、何たる充実!新たな論客の出現である。その才能と幸運には嫉妬を禁じえなかった。

「心理テストはウソでした」村上宣寛

2006-08-19 17:44:30 | 書評
あらら、やっぱりそうだったの?って感じかなあ。血液型を初めとしてロールシャッハ、矢田部ギルフォード、内田クレペリン、みんなウソでした、ってことですね。
自分にとっては、知能テストも含め、そこで聞かれていること以外のなにものかを測ると称するテストってのは胡散臭さがいつもつきまとっていた。国語や算数のテストは当該科目の能力(というかそこまでの必要履修状況の達成度)を表し、まあストレートなものである。それに比べて知能テストは、確かにパターン認識などの巧拙が反映しそうなテストだけど、「パターン認識の巧拙」と言わず「知能」を測っている、と言われてムッとしつつ釈然とせぬままトシをとった。性格検査になると更にわけがわからない。普通の面接ではわからん何かを検出すると言うのか。

とまあ、目くじらたてても仕方がない。ホーガンのいう「皮肉な科学」というのはこんなものだし、誰かがウソでもいいから壮大な伽藍を作ってくれればそれをめぐって虚妄の、あるいは誠実な論議が起きる。目的がはっきりしない状況下では人々は好きなように論を展開する権利がある、とまあ達観して言ってもいいだろう。もちろん何らかの目的がある人は巻き込まれぬよう用心はせねばなるまいが。暇つぶしと虚名の維持のため論を張る人と、頭が悪くてそれを本気で信じてる人をうまくかわす必要はある。大変そうだが、論証を求めたら大体その対応でわかるというものだから、それほど難しいわけではない。

ふむ。僕も闘士だったのだけど。上も下も等しく論難し、死体にさえ鞭を打つ、とまで言われた激高の士だったのだが。悲しいね。さびしいね。