中二な中年の備忘録

備忘録なので大した内容はありません。
たまにちょっと多めに語る時があります。
競馬の話題の時はさらに饒舌になります。

総ては芸術である。総ては芸術ではない。

2021年08月02日 06時48分36秒 | ぶらり、城東
2021.7.10の回顧録

銀座メゾンエルメスフォーラム(マチュウ=コプラン展)→CADAN有楽町(TRILLUSION/大塚聡・齋木克裕・ノリ服部展)→全家福(昼食)

「総てのものは芸術である」とはオノヨーコの言ですが、総てのものが芸術だったら、そうでないものとの境界が限りなく曖昧になり、結果芸術という概念が失われる。その地平に立った時、芸術家はどうあるべきか、というのがテーマの一つだよね。
起点は、美術館という権威主義と、ギャラリーという商業主義が定義する芸術から、芸術家は脱却すべき、という所にあるんだけど、これを突き詰めると、芸術という概念のない場所に立脚して、芸術家はどう活動出来るか、という所に繋がるんだよね。まあ、これは芸術家にとってとんでもないチャレンジで、何しろ自作の価値をゼロから生み出さなきゃならない、錬金術みたいなものだからね。
一つの考え方として、芸術とはリアクションを喚起するアクションで、作品はアクションの結果生まれた現象の一つに過ぎない、と言えそうで、そうすると、鑑賞者も芸術に強く関与する訳で、これは以前の鴻池朋子さんの問いと通ずる所があるのでは。そこにリアクションの大小は取り敢えず関係なくて、先述の「総てのものは芸術である」をもう少し深く捉えるなら、『普遍的な芸術はないが、僅かでも何者かの注意を喚起したならば、それは芸術である』と言い換えられるか。今展は、言葉も揺るがせにされているから、言葉で定義し直すこと自体にナンセンスを覚えなくはないけど。個人的には、考え方を肯定されて、行動を否定されたようなイベントだったね。
でも、“芸術とはアクションである”と考えれば、発表という手段ももっと広がりを見せるのでは。だって、鑑賞者さえいてくれれば、空間に拘る必要がないんだから。許可が取れるなら、河原にベニヤ小屋でアクリル板の向こうで見せたっていい訳。破壊される恐れがあるなら、それもまたリアクションだから、終日監視状態で総てを録画して、それを“リアクションのリアクション”として発表してもいい訳だし。

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