CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

累計訪問者数 160万を突破 on 2021-1-30 &明石市東二見、御厨神社のロウバイと紅梅

2021年01月31日 04時44分43秒 | Weblog

2021年1月30日(土)に累計の訪問者数が160万uuを突破しました。

憶えの為、記載しておきます。

本ブログも2004年に開設していますので17年近く続けています。
あと何年生きれるか判りませんが死ぬまで継続出来ればイイナと考えています。

直近の週間アクセス数
    (2021.1.10 〜 2021.1.16)6,693UU、20,431PV 394位
 
    (2021.1.17 〜 2021.1.23)6,784UU、14,630PV 373位

    (2021.1.24 〜 2021.1.30)8,274UU、24,848PV 273位

アクセスしていただいた方々に感謝致します。
これを励みに無理をしない程度に継続していきたいと思います。

尚、2021年1月30日(土)現在の総閲覧数は6,187,634PVです

 

過去の同じテーマのブログ

 累計訪問者数 155万を突破 on 2020-12-7 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 累計訪問者数 150万UUを突破 on 2020-10-23 

 累計訪問者数 145万UUを突破 on 2020-9-12

 累計訪問者数 140万UUを突破 on 2020-8-5

 累計訪問者数 135万UUを突破 on 2020-6-26

 累計訪問者数 130万UUを突破 on 2020-5-20

上記ブログ(130万UU)では過去の経過も含めて纏めています。

 

写真が無いと寂しいので明石市東二見、御厨神社のロウバイと紅梅の写真を添付

訪問日:2021年1月30日

 

 

ロウバイ

上の2枚の写真は御厨神社楼門横に咲くロウバイの近遠景

 

紅梅

御厨神社に訪問したキッカケは神戸新聞の記事で紅梅が今が見頃・・・との記事を読んだ

 紅梅が見頃 甘い香り、景色春めく 明石・御厨神社|明石|神戸新聞NEXT (kobe-np.co.jp)

上の2枚の写真は拝殿・本殿を背景に撮った紅梅

上の写真は社務所前の紅梅

上の写真は境内摂社の武内宿禰を祀る高良神社を背景にした紅梅

上の写真は神輿蔵裏の紅梅

上の写真は紅梅のアップ

 

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尾道市にある聖徳太子ゆかりの浄土寺バーチャル探訪

2021年01月30日 05時32分27秒 | バーチャル探訪

尾道市の浄土寺については2005年1月1日に訪問し下に添付のブログを書いています。

 浄土寺---尾道 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

今回、過去の資料を整理していたら坂井敬樹氏「千五百枚の写真集」 昭和30年前後

の「尾道写真」備後レポート社のCDが出てきました。

そこでこの写真の一部とGoogleのストリートビューを利用して由緒ある浄土寺を

バーチャル訪問することとしました。

尾道・浄土寺の基本情報

住所:尾道市東久保町20-28 TEL:0848-37-2361

宗派:真言宗泉涌寺派 大本山 山号:転法輪山 院号:大乗院

御本尊:十一面観音像立像(重文) 観音霊場:中国33観音霊場第9番札所

創建:推古天皇24年(616) 開基:(伝)聖徳太子

中興:鎌倉時代後期に真言律宗系の僧で叡尊の弟子・定証により中興

公式HP:真言宗泉涌寺派 大本山 浄土寺■ 聖徳太子をはじめ、足利尊氏・源氏物語ゆかりの寺です。 (ermjp.com)

 

浄土寺の概略説明(前記ブログより)

聖徳太子が616年に創建したと伝えられている。本堂(嘉歴2年(1327))及び

多宝塔(元徳元年(1329))の国宝をはじめ重要文化財などが多数ある。
2005年正月の訪問で参拝者が多く訪れていた。
また足利尊氏や蓮如上人も訪れたゆかりの寺である。

浄土寺境内の建物

(1)本堂と阿弥陀堂

上の写真は本堂(左側)と阿弥陀堂(右側) 出典:上述のCD

本堂(国宝)は 嘉暦2年(1327)に建築されました。昭和28年(1953)3月31日に

国宝に指定されました。(附:厨子、棟札2枚、境内図2枚)

文化庁のデータベース解説文には「本堂は正中二年(1525)の火災後貞和元年(1345)

に再建された建物で和様を基調として唐様、天竺様を混用したいわゆる折衷様式に属し、

瀬戸内海沿岸諸地方に存するこの種建築の代表的なものである。

又年代の確証あるものとしては最古の例に属する。」と記載されています。

阿弥陀堂(重文)は貞和元年(1345)の建築物 大正2年(1913)4月14日に重文に指定

     
     
     

(2)多宝塔


上の写真は阿弥陀堂(左側)と多宝塔(右側奥) 出典:上述のCD

上の写真は多宝塔 出典:上述のCD

上の写真は山側から俯瞰した多宝塔と境内 出典:上述のCD

多宝塔は元徳元年(1319)の建造物で昭和28年(1953)3月31日に国宝に指定されました

浄土寺のシンボル的な建物で法輪内に納入の経巻類は附指定されています。

(3)山門

上の写真は山門 出典:Googleストリートビューより

室町前期(1333-1392)の建造物 昭和28年(1953)11月14日に国の重文に指定

(4)護摩堂

上の写真は護摩堂 出典:上述のCD

(5)庫裡

上の写真は庫裡(重文) 出典:上述のCD

かっては食堂であった。享保4年(1719)の建造物です。

庫裡に隣接している客殿も国の重要文化財です。

平成6年(1994)7月12日に重文に指定されています。

(6)方丈

上の写真は浄土寺方丈(重文) 元禄3年(1690)の建造物です

平成6年(1994)7月12日に国の重要文化財に指定されています。

同じ日付で方丈の他に露滴庵附中門、唐門、庫裡及び客殿、宝庫、裏門の6棟が

重要文化財に指定されましたあ。現地説明板を下に添付。

(7)境内建物配置

上の写真は浄土寺境内の建物配置 出典:Google地図

 

重要文化財の宝篋印塔と納経塔

上の写真の左手は鎌倉時代前期(1333-1392)の宝篋印塔(重文)

昭和36年(1961)3月23日に国の重要文化財に指定されています。

写真はありませんが上記の宝篋印塔の他に次の重要文化財があります。

1)石造宝篋印塔(重文) 昭和28年(1953)8月29日に国の重要文化財に指定
   貞和四年(1348)戊子十月一日の刻銘がある

2)石造宝塔、基壇付(重文) 昭和28年(1953)8月29日に国の重要文化財に指定
   弘安元年(1278)戊寅十月十四日の刻銘がある

 

 

重要文化財の仏像(4体)

 

浄土寺には重要文化財に指定されている仏像が多く保管されています。

上の写真は木造十一面観音立像(明治32年(1899)8月1日に国の重文に指定)

本堂に秘仏として保管されています。 像内に仁平4年(1154)造立の銘あり

出典:重要文化財3 彫刻Ⅲ 木造-菩薩2、明王 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page51

木造聖徳太子立像(右側)には乾元2年(1303)の銘 院憲作

木造聖徳太子立像(左側)には暦応2年(1339)の銘 幸春作

2体は共に大正元年(1912)9月3日に国の重文に指定 開山堂に安置

出典:重要文化財5 彫刻Ⅴ 木造-神像・肖像他 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page81

上の写真は木造聖徳太子立像(南無仏太子像)

頭部内部に建武5年(1338)10月24日 院勢作の銘あり

昭和2年(1927)9月18日に国の重要文化財に指定されました。

出典:重要文化財5 彫刻Ⅴ 木造-神像・肖像他 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page81

 

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日本の観測隊が南極に初上陸 on 1957-1-29

2021年01月29日 07時28分50秒 | Weblog

本日(2021-1-29)のNHKラジオの「きょうは何の日」で「日本の観測隊が南極に初上陸」

と聞きました。神戸新聞でも同じく昭和32年(1957年)日本の南極観測隊が南極初上陸を

取り上げていました。

そこで南極観測隊を送り届けた「宗谷」についてブログ記事を書くこととしました。

神戸新聞の記事によれば62次南極観測「2代目しらせ」はコロナの影響で感染防止

のためオーストラリア(燃料、食料などの補給)には寄港せず直接、南極に向かうという。

上の写真は神戸市中央区元町通3丁目にある海文堂書店のショーウィンドーに展示
されていた第1次南極観測隊 観測船 宗谷の模型です。

撮影:2008-2-29

上の写真は同じく海文堂の宗谷の説明パネル

 

宗谷に関して フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より
引用させていただきます。
「1936年(昭和11年)10月31日 ソビエト連邦からの発注で耐氷型貨物船
ボロシャエベツとして川南工業株式会社香焼島造船所にて起工。
1938年(昭和13年)2月16日、川南工業社長の娘の手によって進水。
しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず
商船地領丸として竣工した。
1940年(昭和15年)6月4日 ソ連向けに建造された耐氷能力と当時としては
珍しい最新鋭のイギリス製水深探知機(ソナー)が装備されていた民間貨物船
だったため、時勢を睨み測量業務ができ、なおかつ大量量輸送能力を持つ船を
捜していた日本海軍が地領丸を所有していた民間会社より買取りを行ない、
正規の軍艦籍に入籍後に宗谷と改名、石川島造船所にて改装を行う。

特務艦(運送艦)として横須賀鎮守府部隊付属となる。その後、大戦中は
第4艦隊、第8艦隊、連合艦隊付属と所属は変わった。

戦局の推移によって北洋のみならず南洋へも進出し任務につく。
アメリカ潜水艦から発射された魚雷が右舷後方に命中するものの幸運にも不発弾
であったため難を逃れ、逆に爆雷にて反撃し敵潜水艦を撃沈する武勲を挙げる。
ミッドウェー海戦にも動員され、南方戦線では、ガダルカナル島撤退に活躍した。
トラック島空襲では奇跡的に脱出に成功する。終戦時は北海道・室蘭港に所在。

終戦後、主に小樽 - 樺太間を往復し引揚者を次々と本土へと運んだ。
その後、オホーツク海配属の砕氷能力を持つ灯台補給船を必要としていた海上保安庁は、
当初大泊を引き継ぐ予定であったものの、予想以上に老朽化が進んでいたことから
宗谷に変更される。

1956年(昭和31年)11月8日 日本は国際地球観測年に伴い南極観測を行うこととなり、
南極観測船が必要となった。国鉄の宗谷丸などの候補が選定され、砕氷能力や船体の
キャパシティは宗谷丸のほうが勝っていたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さを
買われ、宗谷が南極観測船に選定される。
大幅な船体補強と耐氷能力の向上を主眼とした大改装を日本鋼管浅野船渠で受け、
初代南極観測船として、東京水産大学(現東京海洋大学)の海鷹丸を随伴船に従え
南極に向け出港。1957年(昭和32年)1月29日 南緯69度00分22秒・
東経39度35分24秒オングル島プリンスハラルド海岸に第1次南極地域観測隊が
昭和基地を開設。帰路に厚い氷に閉じ込められたが、当時最新鋭艦だったソ連の
砕氷艦「オビ」の救援により辛くも脱出に成功。砕氷して進む「オビ」号が、後ろをついて
進む宗谷が離されないように注意しなければならないほどの性能差であったという。
その後も宗谷は1958年にアメリカの砕氷艦「バートン・アイランド」号、
1960年に「オビ」号の救援を再び受けている。宗谷はその後派遣回数と同じ回数の
修理・改装を繰り返し、通算6回の南極観測任務を遂行した。

1962年(昭和37年) 南極観測任務を後継の砕氷艦「ふじ」に譲り、
再び通常任務に復帰。北海道に配備される。

1970年(昭和45年)3月 19隻の漁船が吹雪と流氷のために遭難し、
宗谷が救出に向かう。悪天候の中、無事救出成功。

1978年(昭和53年)10月2日 退役。生涯で通算1000名以上の命を救った。
代替船としてヘリコプター搭載型巡視船「そうや」(船番号:PLH01、現役)が建造された。

2007年(平成19年)現在、東京・お台場にある船の科学館で一般公開されている。」

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祥福寺の御本尊 釈迦如来像 及び 開山盤珪禅師の頂相(肖像画)

2021年01月29日 04時28分01秒 | 神戸情報

資料を整理していたら表題の祥福寺の御本尊 釈迦如来像 及び 開山盤珪禅師の

頂相(肖像画)が出てきましたので記憶に留めるためブログ記事としました。

上の写真は神戸市兵庫区にある臨済宗の禅寺「祥福寺」の御本尊「釈迦如来像」

祥福寺を開山した盤珪禅師の作と伝えられています。

上の写真は盤珪禅師の頂相(肖像画)。

盤珪禅師についてWikipediaでは次のように解説されています。

盤珪禅師は播州の網干(現在の姫路市網干区)に生まれ、龍門寺を建て「西に盤珪、東に白隠」
といわれるほどの大徳で、禅師を開基とする寺院は、全国で47ヵ寺、元禄3年(1690年)9月3日
龍門寺で72歳で歿してから、勧請開山となった寺が150にもおよぶほど尊敬された。

このことから盤珪国師とも称される。

祥福寺は上述のように盤珪禅師により開山されたが天保1年(1830)に白隠下の13世

黙伝和尚によって現在地に移転され、山号も徳運山から天門山へ改められた。

 

祥福寺の基本情報

住所:神戸市兵庫区五宮町22-17  TEL:078-361-0379

宗派:臨済宗妙心寺派 山号:天門山  御本尊:釈迦如来像

開山:盤珪禅師 創建:貞享2年(1685)12月 田捨女の3男「雲厳祖瑞和尚」により創建

中興:享保年間(1716年~1735年)廬山妙覚和尚が入山
明和年間(1764年~1771年)宇和島の伊達家菩提寺から黙伝和尚が寺域を拡張、僧堂を建立

明治5年(1872)大坂高津の少林寺より匡通和尚が入山し現在の姿に整備

上の2枚の写真は光村弥兵衛が祥福寺に寄進した多宝塔です。

多宝塔は祥福寺の象徴的な建物で遠くからもその勇姿を臨めます。
 撮影:2008-12-22

 

下の2枚の写真も2008年12月22日に撮影した境内の建物です。

 

祥福寺については下記ブログで境内を紹介しています。

 祥福寺 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

代表画像を1枚添付しておきます(下の写真)

 

 

 

 

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めしや食堂 神戸多聞店でのランチ on 2021-1-26

2021年01月28日 05時09分55秒 | 神戸情報

2021年1月26日、めしや食堂 神戸多聞店でランチをいただきましたので

写真紹介します。久しぶりの訪問なのでブログを書くこととしました。

 

めしや食堂 神戸多聞店の基本情報

住所:神戸市垂水区舞多聞東1-10-7   TEL:078-782-4411

営業時間:11:00~24:00 定休日:なし(不休)

運営会社:株式会社ライフフーズ

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

上の写真は私が選んだ品々  価格はすべて税別

鰻の散らし寿司 400円、卯の花100円、豚汁140円

上の写真は奥様が選んだ品々

天婦羅190円、玉子焼き150円、冷ややっこ90円、小ごはん130円

奥様とShareしていただきました。

特に美味しかったのは鰻のちらし寿司、卵焼き

 

以前の訪問記

 めしや食堂 神戸多聞店でのランチ on 2020-3-14 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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かって舞子介類館があった in 神戸市垂水区 明治41年(1908)から昭和5年(1930)に開設

2021年01月27日 04時09分17秒 | 昔こんなものがあった 昭和編

2019年6月15日の神戸新聞朝刊に舞子介類館の標本の記事が掲載されていました。

現在、昔の資料を整理処分作業中でその過程で出てきた。

これに刺激され矢倉和三郎について調べてみました。

舞子介類館の標本は貝類収集・研究家の矢倉和三郎氏(1875-1944)が垂水区舞子浜

の自宅に明治41年(1908)に開設されたもので昭和5年(1930)の閉館までの22年間

存在していました。

所蔵標本は約2900種に上り、年間5000人が訪れたが赤字のため閉館。

標本の一部は研究機関に一部売却されたものの他は行方不明となった。

2018年、樟蔭学園(東大阪市)が所蔵する貝類標本約500点について調査したところ、

舞子介類館から購入したものであることが判明しました。

これは、樟蔭高等女学校(当時)が1917(大正6)年に設立された際、理科の教材用に

揃えたものと思われます。舞子介類館由来の現存標本でこれだけまとまったものは

知られておらず、同館の活動や、当時の日本の生物相を知るうえで大変貴重な資料です。

上記の貝類標本は2018年に大阪市立自然史博物館に寄贈されました。

大阪市立自然史博物館では下記要綱で展示会を開催、一般公開されました。

   1.名称              企画展示「標本を未来に引き継ぐ〜新収資料展2019〜」
        2.主催              大阪市立自然史博物館
        3.会期              2019年4月27日(土)〜5月26日(日)
                           ※開館時間:午前9時30分~午後5時
                               (入館は午後4時30分まで)
        4.会場              大阪市立自然史博物館ネイチャーホール
                               (花と緑と自然の情報センター2階)
                              〒546-0034  大阪市東住吉区長居公園1-23

大阪樟蔭学園(下記サイト)に上述の詳しいいきさつが紹介されています。

 学校法人樟蔭学園 :: 本学園が寄贈した貝類の標本(創立当時)が展示されました! (osaka-shoin.ac.jp)

 

矢倉和三郎氏は旧兵庫県博物学会の顧問を務め、介類研究家として著作も多い

「知る人ぞ知る存在」の有名な方です。

 

矢倉和三郎の著作

国立国会図書館のデジタルコレクションで矢倉和三郎著「日本貝類写真帖」大正2年刊

の内容を観れますので、リンクを張っておきます。

 日本貝類写真帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

さらに同じく国会図書館のデジタルコレクションで「介類叢話 : 趣味研究」大正11年刊

の内容を観れますので、リンクを張っておきます。

介類叢話 : 趣味研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

尚、国会図書館の資料によれば舞子介類館は井上甫田によって開館されたとの記述

がありました。(矢倉亀三郎はかって井上甫田と名乗っていました)

矢倉和三郎氏の著作には上記の他、下記の著作があります。

「兵庫県産貝類目録」甲南貝類荘 1932年刊

「趣味研究介類叢話」成山堂書店 1994年10月

 

矢倉和三郎(1875-1944)の略歴

(出典:貝類学雑誌 19(3・4)1957 金丸:日本貝類学史 Page270-271)

 明治8年(1875) 大阪北浜の両替商に生まれる

 明治37-38年頃 舞子に転住

  もとは古銭の収集家であったが平瀬介館(京都市下長者町)の趣旨に感銘し

  貝類の収集家に転向。

  当時、矢倉和三郎は井上甫田という名前を使っていました。

  また別名で矢倉甫田という名前もあります。

 明治41年7月(1908)7月 自邸んの一部を開放して舞子介類館を開設

  舞子介類館は入場料は徴収せず貝類彫刻品の販売、絵葉書などの土産物を販売して

  利益を得る程度であった。

  宣伝に努め、しきりに同好者を求めて標本の供給交換を希望し、且つ学校方面

  及び後進者に標本を販売して活動資金の補足に充てた。開館5年の大正2年(1913)

  「日本貝類写真帖」を発行し、また絵葉書は「コンコロジー」と題し毎年1組づつ

  を新たに出して前後10余集に及んだ。何れも優秀な写真で貝類の美観を世に紹介

  するのに役立った。また大いに郷土産貝類の調査に力を注ぎ、その努力は鮮新層

  の化石にも及び新種Pecten Yagurai Makiyamaを出し、その海岸の細砂中から

  ミジンギリギリッツを択りだすなどの成績を挙げた。

  大正5年(1916)「兵庫県産貝類目録」を編纂し720種を明らかにした。

  この日本において地方目録を刊行した最初のものであった。

  この目録は昭和8年(1933)さらに増訂され831種の掲載となった。

  氏はまた文献の不十分な中にありながら常に耳目をそば立てて貝類に関する見聞を

  求めて手記し、考究怠らず所見をまとめては地方若しくは中央の新聞雑誌に投稿した。

  大正11年(1922)それら並びに未発表の手記を集成して「趣味研究貝類叢話」と

  題して丸善書店から出版した。実に開館15周年記念出版であったである。

  なお叢話以後も「兵庫県博物学会誌」等にしばしば貝類記事を投じて昭和16年(1941)

  におよんでいる。舞子介類館の陳列品は分類標本2,500種におよび実に平瀬博物館に

  次ぐ大収集で外に参考品も多々あったが、これらを維持するのは容易ではなく苦労は

  絶えなかった。昭和5年(1930)10月農林省地質調査所の所望に応じ分類標本を挙げて

  これに売却した。氏は多くの苦難を抱え最愛の標本をも手放さなければならなかった。

  なおも貝を離るること能わず本山村の新居を「甲南貝類荘」と号し、副品を整理し、

  知友に連絡して再興を計ったが、後にはそれをも宝塚昆虫館に譲渡し、昭和19年(1944)

  2月病のため没した。年70歳。ヤグラギセル、ヤグラモシオガイ、ヤグラビョウブガイ

  は氏の功績を記念するものである。(本誌13(5-8)Page320参照)

 

写真が無いと寂しいので矢倉和三郎の自筆と思われる標本ラベルと「カタヤマガイ」の

標本(旧宝塚昆虫館蔵)の写真を添付しておきます。

出典:2013年KECだより第9号 2013年12月26日発行 page8/8

写真撮影者の川上誠太氏は阪神貝類談話会で「宝塚昆虫館旧蔵の矢倉和三郎貝類

コレクションについて」と題して講演発表されています。

ラベルには舞子介類館標本の英文名「The Maiko Conchological Cabinet]が

印刷されています。

 

私立樟蔭学園旧蔵の舞子介類館標本の記事が神戸新聞に掲載されました(6月15日付)。
神戸新聞webサイトでもご覧いただけます。

神戸新聞NEXT|総合|100年前の貝標本520点発見 絶滅危惧種も

 

毎日新聞の報道では舞子介類館の外観写真も掲載されています。

 舞子介類館:幻の貝コレクション、90年ぶり発見 神戸で22年だけ開館 大阪・自然史博物館で展示中 - 毎日新聞 (mainichi.jp)

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尋常小学校唱歌「敦盛と忠度」通称「青葉の笛」

2021年01月26日 06時38分01秒 | 神戸情報

明治39年(1906)7月、田村虎蔵、納所弁次郎、佐々木吉三郎編の「尋常小学唱歌」

の四学年用に「敦盛と忠度」という唱歌が掲載されていました。

この唱歌は「青葉の笛」という題で知られています。

昭和2年(1927)の検定唱歌集に青葉の笛という題で再登場している。
1番の歌詞は平敦盛を追悼した歌で2番は平忠度(たいらのただのり)を追悼した歌です。

 

田村虎蔵作曲、作詞は大和田建樹

 

上の2枚の写真は敦盛と忠度の歌詞と譜面です。

1番の歌詞は平敦盛(たいらのあつもり)に関するものです。

平敦盛は源氏方の将、熊谷直実に首を討たれた後、懐中から一管の笛が出てきた。

青葉の笛である。直実は昨夜月の光の明るい陣屋で朗々たる笛の音を聞いたことを

思い起こし、さてはこの青年だったかと哀れみをもよおしたという話です。

上の写真は須磨寺宝物館の「青葉の笛」の展示 撮影:2020-11-21

上の写真は同じく須磨寺宝物館の展示で平敦盛像 撮影:2020-11-21

上の写真も須磨寺宝物館の展示で平敦盛と熊谷直実の一騎うちの場面を絵にしたもの

撮影:2020-11-21

上の写真は須磨寺、源平の庭における平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面

平敦盛について過去に書いたブログにリンクしておきます。

 第827回 敦盛忌 in 敦盛塚 on 2012-3-10 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 須磨寺 敦盛首洗いの池 on 2010-8-12 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 第825回 敦盛忌 on 2010-3-6(土) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 平敦盛の命日 2月7日 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 青葉の笛 その2 青葉の笛か小枝の笛か? : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 青葉の笛(敦盛と忠度) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 敦盛会による敦盛供養 on 2009-3-7 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 須磨寺(福祥寺)の義経腰掛けの松と敦盛首洗いの池 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 須磨寺本堂と熊谷直実&平敦盛の像 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 須磨海づり公園と敦盛塚石造五輪塔 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 敦盛塚の発掘調査 on 昭和60年度(1985) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 敦盛塚 on 2018-3-28 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 謡曲「敦盛」と敦盛首塚 on 2014-3-8 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第829回 敦盛忌 in 敦盛塚 on 2014-3-8 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

続いて、2番の歌詞は源氏方の木曽義仲に攻められて都落ちをしようとする際、

平忠度(たいらのただのり)は和歌の師藤原俊成の家の門を叩いた。自らの生きた

証である詠歌を託したのである。俊成は受け取った歌から一首選び、「千載和歌集」

に詠者名を伏せ、「詠み人知らず」として下記の歌を掲載しています。

ゆきくれて木の下かげを宿とせば 花や今宵の主ならまし

その後、平忠度は一の谷の合戦で討ち取られ、その箙(えびら)に結びつけられた

歌と署名から薩摩守忠度と判明しました。

平忠度に関する供養の場所は神戸市長田区駒ヶ林付近に2か所、明石市山陽電車人丸駅

付近に2か所ありブログも作成していますのでリンクしておきます。

 1)神戸市

   平忠度の胴塚(首塚) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

   腕塚堂(平忠度塚) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 2)明石市

   忠度塚 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

   両馬川旧跡と腕塚神社 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 3)神戸市&明石市

   平忠度を祀った史跡 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 

最後に須磨琴の伴奏で表題の「尋常小学校唱歌」の歌を動画でお楽しみください。

第829回 敦盛忌. 敦盛塚 on 2014-3-8 その1

2014年3月8日(土)14時から神戸市須磨区の敦盛塚において第829回 

敦盛忌が行われました。 敦盛忌は寿永3年(1184)2月7日に、当時16才の

平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するために敦盛も命日

(新暦換算では1184年3月27日)毎年3月の土曜日に開催されています。

今年は敦盛が直実に討たれて830年の節目でもあります。

動画は須磨琴保存会の皆様による一絃琴演奏です。

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今年の節分は124年ぶりに2月2日(火)になります。何故2月2日なの?

2021年01月25日 05時47分06秒 | Weblog

2021年の「節分」は明治30年(1897)以来、124年ぶりに「2月2日」になります。

何故2月2日なの?という疑問に答えるために調べてみました。

節分の定義をWikipediaで調べて見ると

節分(せつぶん/せちぶん)は雑節の一つで各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)
の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことも意味している。江戸時代以降は特に立春
(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。


すなわち、節分は江戸時代以前は4回あった。

節分を英語で説明すると


Setsubun(Feb.3).This festival takes place on the day before the beginning
of spring(Risshun),the first day of spring on the Chinese calendar.
Roasted soybeans are scattered in and around the house to drive out sickness
and misfortune,represented by a demon.This custom is called mame-maki.
This Chinese custom introduced to Japan in the eighth century.

These days,the toshiotoko (年男),sumo-wrestlers and other well-known
personalities are are ofteninvited to perform the bean throwing ceremony
at shrines and temples.
These people say "Demons out! Luck in!" (鬼は外! 福は内! Oni wa soto! Fuku wa uchi!)
The gestures of mamemaki look similar to the Western custom of throwing rice
at newly married couples after a wedding.

旧暦では冬から春に変わる「立春」を1年の始まりと考えます。

その前日である「節分の日」は一年の終わり。

古くから、新しい春の訪れの前に「厄災が起こらないように」縁起を担いで

豆撒きが行われてきました。

豆を魔の目(魔目=まめ)にぶつけて魔を滅する(魔滅ーまめつ)意味があります。

中国から伝わる二十四節気(および雑節)、この季節を24個に分けた考え方が

元になり、国立天文台が地球と太陽の位置を調べることで立春の日付が決定されます。

立春の日付が前後することにあわせて、前日の節分も動くことになるので、節分の日

は2月3日の他に「2月4日」や「2月2日」にもなります。

2021年の立春の日は2月3日と国立天文台が決定。

季節が変化する理由は、地球が傾いた状態で公転しているため。例えば日本では、

北極側が太陽を向く時期は夏、南極側が太陽を向く時期は冬となります。  

地球が太陽の周りを1周すると1年ですが、1周にかかる時間は厳密には365日ではなく

365日と約6時間かかります。わずかなズレを調節するためにうるう年がありますが、

地球が立春の位置を通過する時間単位で見るとわずかに周期にズレがあるため、

立春の日付が前後します。 

「2月2日」の節分は、2022年に「2月3日」へ戻りますが、2025年から4年ごとに再び

2月2日が続き、今世紀末にかけて2月2日節分の頻度が増えていきます。

 

近畿地方で有名な節分・豆まき・追儺行事(2021年)

 今年はコロナの影響で鬼追い等のイベントが中止され神事のみ実施が多いようです。

 2月2日 通天閣の福豆まき
 2月1日~3日 京都吉田神社の節分祭
         京都壬生寺節分会
 2月2日 奈良 全興寺の節分(お砂ふみ)
      奈良 興福寺追儺会
      奈良 春日大社節分万燈籠
      奈良 法隆寺 鬼追い式
      奈良 金峰山寺蔵王堂節分会・鬼火の祭典
      彦根 多賀大社の節分祭
      神戸 長田神社の古式追儺式
      大阪 成田山別院 節分会
      尼崎 大覚寺の節分会
      宝塚 中山寺 鬼が善神に変わる音楽法要
      京都 松尾大社 弓の弦の音で鬼を退散
      京都 六波羅蜜寺 六斎念仏で糸を吐く土蜘蛛を退治
      京都 千本釈迦堂 おかめ福節分

 2月3日~11日 和歌山海南市 春日神社の節分ぶりぶり大祭

 

今年の恵方巻の方向南南東です。

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神戸市垂水区、和料理「と魚」でのランチ on 2021-1-21

2021年01月24日 05時10分45秒 | 神戸情報

2021年1月21日(木)、和料理 「 と魚 (とと)」でランチを頂きましたので
写真紹介します。今回で4回目の訪問です。英文名:TOTO

女性客が多い人気店です。

和料理 と魚(TO TO)の基本情報

住所:神戸市垂水区日向1-5-1 レバンテ垂水2番館 1F TEL:050-5595-1779

料理ジャンル:和食

営業時間:昼11:30~14:00 夜17:00~22:00 定休日:日曜日

公式サイト:http://nagomi-toto.blog.jp/


当日注文したのは奥様も私も同じ「本日の日替わり膳」 1,200円(税別)です。

上の写真は奥様が選んだメインのタラの酒糟焼

上の写真は私が選択した和牛すじコン煮

上の写真は和牛すじコン煮のアップ

上の写真は刺身のアップ これが新鮮で美味しい

まず、前菜が出てきます(上の写真)

次に茶碗蒸しが出てきます(上の写真)

上の写真はお昼のお勧めメニュー

上の写真はお店の外観です。

上の写真は要予約のメニュー表

上の写真は夜のほろ酔いセットのメニュー表

上の写真は緊急事態宣言(1月14日~2月7日)中の営業時間

上の写真は2月2日、節分の恵方巻の看板

上の写真はテイクアウトメニューの看板

 

過去の訪問記:

 和料理「 と魚 (とと)」でのランチ on 2020-5-28 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 和料理「 と魚 (とと)」でのランチ on 2019-4-12 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 和料理 と魚 (とと)でのランチ on 2018-11-21 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)
 

 

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究極ガイドTV「2時間でまわる高野山」を視聴して その2 金剛峯寺エリア

2021年01月23日 05時49分33秒 | 和歌山県情報

新年(2021年)の元日2:30~4:30にNHK総合テレビで標題の番組を録画して

視聴しました。この番組は2020年2月16日に放送された再放送番組であった。

高野山を下記の3つの地域に分けて2時間で要所を巡るもので判り易い解説であった。

 1.壇上伽藍

 2.金剛峯寺

 3.奥の院

【語り】篠原ともえ,眞島秀和

本日はその第2回で金剛峯寺について要点を纏めてみました。

シリーズ過去のブログへリンクしておきます。

 第1回 究極ガイドTV「2時間でまわる高野山」を視聴して その1 壇上伽藍

上の境内配置図で橙枠の場所を巡ります。

8.金剛峯寺正門

上の写真は金剛峯寺正門の遠景

上の写真は豊臣秀吉が母の供養のため寄進した正門

 

9.主殿の屋根

上の写真は主殿の屋根です。

火災に備えて雨水を貯める木桶が屋根の上に準備されています。

明治21年(1888)には大きな火災があり高野山の多くの建物が焼失した。

上の2枚の写真は主殿の遠景です。拝観は8:30~17:00

金剛峯寺の御本尊は空海(弘法大師)

火災に備えてすぐに屋根に登れるように梯子と鉄鎖が常時準備されています。

 

10.柳の間

上の写真は柳の間の遠景です。豊臣秀次が切腹をした場所として有名。

豊臣秀次は1568年、尾張で生まれた。
父は農民である木下弥助(後の三好吉房)。
母は豊臣秀吉の姉・とも(日秀尼、瑞竜院日秀)。
豊臣秀次は長男であり、通称は孫七郎(まごしちろう)、幼名は治兵衛(じへえ)だった。
秀吉は豊臣政権の後継者として秀次にすべてを譲るつもりで関白の地位も継承していたが、
秀吉に実子(秀頼)が出来たことで次第に秀次が邪魔な存在になっていきます。

文禄4年(1595)豊臣秀次はここ「柳の間」で切腹させられることになります。
享年は28歳。この事件より豊臣家が崩壊の方向に進んだように思えます。

豊臣秀次の関連で2019年3月27日に近江八幡に行った時の写真を何枚か添付しておきます。

上の2枚の写真は豊臣秀次公の肖像と概略説明パネル 撮影:2019-3-27

上の写真は近江八幡で善政を行った豊臣秀次の逸話の1つを紹介した絵

上の写真は八幡城を築城した歴史の説明パネル

秀次公絵伝記 第2巻の説明パネル

上の写真は豊臣秀次が築城した八幡城の説明図

上の写真は「豊臣秀次の近江八幡まちづくり」の説明パネル

 

11.幡龍庭

上の写真は幡龍庭

砂は京都の白川砂 石は四国の花崗岩(空海への敬意を込めて)

上の写真は上空から撮影した幡龍庭 石で2匹の龍の姿を表現しています。

12.上壇の間

上の写真は皇室など高貴な方のための上壇の間

上の写真は上壇の間の左手にある空海が座る上々壇の間

上の写真は上々壇の間の天井、折上格天井(おりあげごうてんじょう)と呼ばれる

上の写真は上壇の間の護衛のための武者隠しの部屋(稚児の間)

13.台所

 

 

 

 

 

高野山には2009年10月20日~21日に1泊2日で訪問した1回のみです。ブログも

書いていますのでリンクしておきます。(宿泊は一乗院

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その1) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その2) 女人堂とお竹地蔵 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その3) 準別格本山 蓮華定院 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その4)金剛塔 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その5)徳川家霊台 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その6)別格本山南院(浪切不動尊) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その7)一乗院宿泊 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その8)高野山駅と橋本警察署高野幹部交番 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その9)一乗院の朝 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その10)普賢院 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その11)綱引弁財天と6町石 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その12)金剛峯寺 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その13)大門 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その14)壇上伽藍 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 高野山詣 on 2009-10-20&10-21 (その15 最終回)苅萱堂から一の橋 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

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