CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

和料理「 と魚 (とと)」でのランチ on 2020-5-28

2020年05月31日 04時58分53秒 | 神戸情報

2020年5月28日(木)、和料理 「 と魚 (とと)」でランチを頂きましたので
写真紹介します。英文名:TOTO

和料理 と魚(TO TO)の基本情報

住所:神戸市垂水区日向1-5-1 レバンテ垂水2番館 1F TEL:050-5595-1779
営業時間:昼11:30~14:00 夜17:00~22:00 定休日:日曜日

公式サイト:http://nagomi-toto.blog.jp/



当日注文したのは奥様も私も同じ「本日の日替わり膳」 1,200円(税別)です。

まずは前菜三種盛りが出てきます(上の写真)

次に茶碗蒸し(上の写真)

上の写真は奥様のもの メインが魚を選択

上の写真は私のもの メインが京ナスの揚げ出し

上の写真は日替わり御膳の内容が書かれたボード

 

上の2枚の写真はメニュー表

上の写真はお店の外観

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兵庫城の御座所普請がNHKBS3「英雄たちの選択(2020年4月8日放送)」で紹介されました

2020年05月30日 07時20分23秒 | 神戸情報

2020年4月8日 NHK BSプレミアム 「英雄たちの選択」で秀吉の中国大返し

について考察した番組の中で「兵庫城の御座所普請」に関して千田嘉博さんが

神戸市埋蔵文化財センターと兵庫城跡(現在イオンモール神戸南)を訪問され

解説された内容についてレビューします。

まず、上記の番組内容を概略記述します。

天正10年(1582)6月2日、明智光秀謀反の本能寺の変勃発。この直後、秀吉の中国大返しが行われた。
大軍の高速移動はなぜ可能になったのか?最新の城郭研究から、その幻のシステムに迫る。

本能寺の変に端を発した秀吉の中国大返しは、“戦国の奇跡”とよばれる。
備中高松城から姫路城まで100キロにおよぶ行程を大軍が驚異的な速度で取って返した。
いかにして秀吉は不可能を可能にしたのか?近年の城館調査や中国大返しの再検証によって、
“幻の大返しシステム”の存在が、浮かび上がってきた。
城郭考古学者の千田嘉博さんが、現地を徹底調査し、中国大返しの真相に迫る大胆仮説が披露された。

上の写真は番組のタイトル

上の写真は新しい考え方を披露された千田嘉博教授

 

次に兵庫城の歴史概要を記述します。

天正8年(1580)、池田恒興(信輝)と輝政父子が花隈城を攻め落とした功によって
兵庫の地を与えられてからは、兵庫はそれまでの室町幕府の権力を離れ、
東大寺や興福寺と兵庫の関との関係も脱して、新たに織田信長の傘下に入った。
これを機会に池田氏は花隈城の遺材も加えて兵庫城を築いた。
『花熊落城記』1732年に花隈城を解体し兵庫城の用材として利用したとの記録あり。
その地点は、現在イオンモール神戸南が建つ中之島・切戸町である。

兵庫城は天正9年(1581)に築城が完成。その構造は平城で、
織田信長の築いた安土城や旧二条城とともに最古級の城で胴木が石垣の最下段に
敷かれ初期の平城の築城技術として織田信長が採用した技術を継承するものと
して貴重である。
海上交通の要所である兵庫津に兵庫城を築城する意味は織田信長が西国大名に
備える拠点として信長自身の命で建設されたもので兵庫城が重要視されていた
ことが伺い知れます。

その後、天正11年(1583) 池田恒興の美濃へ転封に伴い兵庫と尼崎が
三好(豊臣)秀次に与えられる。さらに天正13年(1585) 羽柴秀吉の
直轄領となる。片桐且元が代官となり、「片桐陣屋」と呼ばれる。
東西、南北ともに140m~160mの地域で、周囲には幅3.6mの堀があった。
元禄9年(1696)紺屋安右衛門(南仲町絵師) によって書かれた
摂州八部郡福原庄兵庫津絵図野中に御屋敷として堀に囲まれた図が残されています。
古来兵庫は1184年の源平合戦一の谷の戦い、1336年の湊川の合戦以降
たびたび大きな合戦が続き、そのつどひどい戦災を受けた。
兵庫に古いものが少ないのもその為であろう。しかし信長・秀吉による全国統一
がなってからはこの地方ではもう合戦がなく、兵庫の町は平和に栄えていった。
兵庫城跡は江戸時代に入り元和3年(1617)、尼崎藩領となり、藩の陣屋となり、
明和6年(1769)、幕府  領となってからは、大坂町奉行所に所属して、
与力や同心の勤番所として明治になるまで続いた。

慶応4年5月23日(新暦換算1968年7月12日に1次兵庫県が成立この時初代の
県庁がこの地に置かれました。

兵庫城関連年表(2015-1-31の現地説明会で配布された資料より)
天正8年(1580) 池田恒興が築城。荒木村重の花熊城を解体し、
         その用材を用いたとの記録がある(『花熊落城記』1732年)
天正11年(1583) 池田恒興、美濃へ転封。
         兵庫と尼崎が三好(豊臣)秀次に与えられる。
天正13年(1585) 羽柴秀吉の直轄領となる。片桐且元が代官となり、
          「片桐陣屋」と呼ばれる。
慶長元年(1596) 慶長伏見地震。兵庫津も被害を受ける。
元和3年(1617) 尼崎藩領となる。「兵庫陣屋」が置かれ、奉行が駐在
元禄9年(1696) 『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』が描かれる。
          「御屋敷」と表現される。
明和6年(1769) 幕府直轄領となり、「勤番所」が置かれる。
             このころ、堀が埋められ町屋となる。
文久2年(1862) 『兵庫津之圖』が描かれる。
          「御番所」の周りも町屋となっている。
明治元年(1868) 兵庫県庁が置かれる。4ヶ月で移転する。
明治7年(1874) 新川運河開削により、中心部の大半が削られる。

 

今回のキーワード1「御座所 普請」

上の写真は羽柴秀吉書状に出てくる「御座所 普請」

御座所とは高貴な方(ここでは織田信長)が宿泊される場所

織田信長が出馬される前に毛利攻めの拠点の城には御座所が整備されていった。

 

その城の1つが兵庫城であった。

ここには宿泊の為の建物や付属の施設が整えられていた。

さらに十分な兵糧も用意されていた。

上の2枚の写真は番組で使用された兵庫城の発掘調査結果に基づく建設当時、

天正9年(1581)頃の兵庫城 正面に入り口が2か所設置された。

手前の外堀に近い赤丸印のところが御座所に入るための入り口。

信長一行がすばやく入場できるように設計されていました。

兵庫城は毛利氏の支配する中国地方征伐の重要拠点の一つで御座所が設置され

御座所へ入る入り口が設けられた。

(写真は神戸市埋蔵文化財センター3階で説明される千田教授)

当時の城の石垣つくりにおける最新技術「胴木組」が兵庫城の石垣でも採用

坂本城(1572年)や安土城(1576年)でも胴木組の技術が採用されています。

 

兵庫城の発掘調査などに関して過去に書いたブログ:

 兵庫津遺跡第62次調査 2015-3-28現地説明会 兵庫城 天守台跡発見

 兵庫城

 兵庫城跡現地説明会 on 2012-8-4

 兵庫城

 兵庫津遺跡第62次調査 現地説明会 on 2014-6-28

番組では兵庫城での御座所以外に兵庫県加西市の小谷城(垣屋源三郎が普請)、

山梨県甲府市の徳川家康が信長の為に建設した右左口(うばぐち)宿が御座所の

例として紹介されました。

上の4枚の写真は加西市の小谷城について案内役の知立市教育員会の中川さんは

小谷城が西は津山、東は京都、北は鳥取、南は姫路を俯瞰できる立地であること

横堀、外枡形など信長の時代の城づくりの特徴などを説明

 

今回のキーワード2「軍道の整備」

番組では滋賀県と福井県の県境、標高400mの尾根道に柴田勝家が信長の命令で

建設した軍道の例が紹介された。(上の2枚の写真)

さらに、御座所の存在と軍道が整備されていたことで中国大返しが容易に実現

できたと結論づけられました

 

神戸市埋蔵文化財センターでの取材

上の写真は兵庫城の石垣の展示前で赤の服が千田教授、応対は斎木さん

上の3枚の写真は神戸市埋蔵文化財センター1階に展示の兵庫城の石垣と説明パネル

撮影:2020-5-27

上の写真は神戸市埋蔵文化財センター3階で兵庫城の説明をされた千田教授

上の2枚の写真は神戸市埋蔵文化財センター3階に展示の兵庫城の石垣に使用された

石造品と説明パネル 撮影:2020-5-27

 

イオンモール神戸南(兵庫城跡)での取材

上の写真は兵庫城跡の上に建つイオンモール神戸南に復元された石垣の前の千田教授

 

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【おうちで演奏】宝島 / 東海大学付属高輪台高等学校吹奏楽部

2020年05月29日 06時52分37秒 | Weblog

今朝(2020-5-29)のNHKテレビで表題の紹介がありましたので共有させて

いただきました。

東海大学付属高輪台高等学校吹奏楽部は全国大会で金賞を取るほどに実力校で

96名の吹奏楽部の部員が相談してこの動画が作られたそうです。

【おうちで演奏】宝島 / 東海大学付属高輪台高等学校吹奏楽部

 

関連のyoutube動画も添付

東海大学付属高輪台高等学校吹奏楽部『想い』

 

東海大付属高輪台高等学校吹奏楽部 ラテンスペシャル21! [ 4Kマルチ ]

 

写真が無いと寂しいので最近撮った写真を添付して筆を置きます。

上の3枚の写真は神戸市立中央体育館前の光景

撮影:2020-5-25

 

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土佐わら焼き 龍神丸 西神プレンティ店でのランチ on 2020-5-27

2020年05月29日 04時42分51秒 | 神戸情報

2020年5月27日、土佐わら焼き 龍神丸 西神プレンティ店でいただいたランチを

写真紹介します。久々のグルメ関連の投稿です。

新型コロナウイルス感染症の感染防止の為、開店早々の時間を狙って入店しました。

龍神丸 西神中央店の基本情報

住所:神戸市西区糀谷5-2-3 プレンティ西神中央2番館2階 TEL:078-940-8288

営業時間:11:00~24:00  定休日:なし(無休)

オープン日:2016年12月5日

公式サイト:http://bec-fin.jp/ryujinmaru/news/526/

 

上の写真は注文したものの遠景です。

私はB定食(刺身の3種盛り)、奥様はA定食(カツオのたたき)夫々1,000円(税別)を注文。

 

上の写真は私が注文した私が注文したB定食のメイン。

上の写真は奥様が注文したA定食のメイン。土佐わら焼きたたき

上の写真は今回注文した定食が掲載のメニュー表

上の3枚の写真は今回の注文品以外のメニュー表

上の写真はたたきの美味しい食べ方の説明パネル

上の写真は釜焚き御飯の美味しい食べ方の説明パネル

感想

リーズナブルな値段で美味しいランチをいただけました。

奥様から今が旬のカツオのたたきと鰤(ブリ)も分けていただきました。

 

 

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朝ドラ「エール」第9週 「福島三羽烏」がいよいよ始動「東京恋物語」と野村俊夫

2020年05月28日 03時55分05秒 | Weblog

NHKの朝ドラ「エール」を熱心に見ています。

今週(第9週)のあらすじを予習しようとネットで調べていたら次のYoutube動画

が見つかりましたので共有させていただきました。

朝ドラ「エール」第9週 「福島三羽烏」がいよいよ始動する!?音はカフェで働く事になるが…ドラマ第8週感想

昨日(2020-5-26)43回の放送までの今週のあらすじをまず、おさらいします。

「紺碧の空」で自信を取り戻した裕一(窪田正孝)は、福島で新聞記者をする鉄男
(中村蒼)を呼び出す。自分が曲を作って久志(山崎育三郎)が歌うので、詞を書いて
ほしいと頼む。一方、音楽学校の記念公演のヒロイン役最終選考に向けて、
音(二階堂ふみ)は男女の機微を学ぶために男女の社交場のカフェーで働くことにする。
心配した裕一に頼まれて店に様子を見に来た鉄男は、そこで店員の希穂子(入山法子)

を見て驚く。希穂子は福島時代、仲居として働いた時に鉄男と出会い互いに恋仲と
なるが、鉄男の勤務する新聞社の社長令嬢との縁談話を聞いた後、突然、
東京へ逃避した働き先が音も働き始めたカフェーであった。
昨日(2020-5-26)は古山裕一宅で鉄男は希穂子から今は鉄男に対する
特別な思いが無いと言われやけ酒で荒れている場面で終了しました。

上の3枚の写真は昨日(2020-5-26)エールのハイライト場面

ここからはファクトの世界に話題を変えます。

古山裕一・音のモデルは古関祐而・金子夫妻

鉄男のモデルは野村 俊夫

久志のモデルは伊藤久男です。

古関祐而、野村俊夫、伊藤久男の3人は福島の三羽烏と言われています。

 

野村俊夫についてWikipediaより引用紹介します。

野村 俊夫(のむら としお、1904年11月21日 - 1966年10月27日)は、日本の作詞家、

詩人。福島県福島市出身。本名は鈴木喜八

福島県福島市大町の生まれ。近所には作曲家の古関裕而が住んでおり、子供の頃はともに遊んだ仲だった。 
1924年、20歳の時に福島民友新聞社に入社し、編集部・報道部・文芸欄を担当する。
1931年をもって福島民友新聞社を退社、すでにコロムビア専属作曲家として東京で活動していた古関裕而のすすめで上京する。
同年に古関裕而と組んだ初のレコード「福島行進曲」が発売される。この頃からフリーの作詞家として本格的に活動を開始する。 
1939年、藤山一郎コロムビア復帰第1作目であった「上海夜曲」のヒットにより、コロムビア専属作詞家となる。 
1951年頃からは日本音楽著作権協会の理事も務めていた。また、たいへんな酒豪だったという。 


主な作品
1931年「福島行進曲」(作曲:古関裕而、歌:天野喜久代)
1938年「音信はないか」(作曲:能代八郎、歌:小野巡)
1938年「忠治子守唄」(作曲:服部逸郎、歌:東海林太郎)
1939年「ほんとにほんとに御苦労ね」(作曲:倉若晴生、歌:山中みゆき)[1]
1940年「暁に祈る」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男)
1943年「索敵行」(作曲:万城目正、歌:伊藤久男、霧島昇、楠木繁夫)
1943年「大空に祈る」(作曲:万城目正、歌:松原操、三原純子、菊池章子)
1944年「あゝ紅の血は燃ゆる」(作曲:明本京静、歌:酒井弘、安西愛子)
1948年「南のバラ」(作曲:米山正夫、歌:近江俊郎)
1948年「湯の町エレジー」(作曲:古賀政男、歌:近江俊郎)
1948年「シベリア・エレジー」(作曲:古賀政男、歌:伊藤久男)
1948年「若き日のエレジー」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男)
1949年「港の恋唄」(作曲:古賀政男、歌:鶴田六郎)
1949年「ハバロッスク小唄」(作曲:島田逸平、編曲:米山正夫、歌:近江俊郎、中村耕造)
1950年「薔薇と蜜蜂」(作曲:古関裕而、歌:二葉あき子)
1951年「青いガス燈」(作曲:古賀政男、歌:岡本敦郎)
1952年「夜船の灯り」(作曲:古関裕而、歌:久保幸江)
1952年「月が出ている港町」(作曲:米山正夫、歌:青木光一)
1953年「岬の灯り」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男)
1953年「元気でねさようなら」(作曲:三界稔、歌:青木光一)
1953年「見ないで頂戴お月さま」(作曲:古賀政男、歌:神楽坂はん子)
1954年「湖畔のギター」(作曲:古賀政男、歌:霧島昇)
1954年「二十才の青春」(作曲:古賀政男、歌:青木光一)
1954年「月を見ていたら」(作曲:服部逸郎、歌:青木光一)
1954年「元気でね、又逢おう」(作曲:三界稔、歌:青木光一)
1954年「佐賀音頭」(作曲:八州秀章、歌:青木光一、永田とよ子)
1956年「怒涛の男」(作曲:古賀政男、歌:美空ひばり)
1956年「どうせ拾った恋だもの」(作曲:船村徹、歌:コロムビア・ローズ)
1956年「メコンの舟歌」(作曲:古関裕而、歌:伊藤久男)
1957年「東京だョおっ母さん」(作曲:船村徹、歌:島倉千代子)
1957年「馬喰一代」(作曲:古賀政男、歌:村田英雄)
1959年「東京タワー」(作曲:船村徹、歌:美空ひばり)
1960年「他国の雨」(作曲:石毛長二郎、歌:島倉千代子)
1960年「スカイラインの歌(補作)」(作曲:古関裕而、歌:守屋浩)
1962年「殺陣師段平」(作曲:船村徹、歌:村田英雄)
1964年「故郷はいつも瞼に」(作曲:古関裕而、歌:不明)

 

昭和6年(1931)5月、古関祐而と組んだ「福島行進曲」は古関祐而(22歳)の

初のレコード作品となっている。

B面の福島夜曲は作曲:古関祐而 作詞:竹久夢二

 

野村俊夫さんが作詞した代表曲のyoutube動画を共有させていただきました。

暁に祈る 伊藤久男

 この作品(暁に祈る)は福島三羽烏による作詞、作曲、歌です。

近江俊郎 湯の町エレジー

湯の町エレジー 春日八郎

東京だョおっ母さん 島倉千代子

初代コロムビア・ローズ どうせひろった恋だもの

 

古関メロディが流れる街-福島市-

 

野村俊夫(本名は鈴木喜八)について私が知りたい情報が書かれたサイトが

見つかりましたのでリンクさせていただきました。

 http://nobunaga-oda.com/nomura-tosio/

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正岡子規の神戸での療養生活

2020年05月27日 04時36分22秒 | 神戸情報

表題のテーマについて以前にもブログ記事を書いていますが今回、新しく

写真を多く追加して書き直しました。以前のブログにリンクしておきます。

  正岡子規と神戸市須磨 

今回の改訂版のブログの作成にあたり次の資料を参照しました。

 1)正岡子規 新潮日本文学アルバム (1986)

 2)古地図で楽しむ神戸 水内眞著 大国正美編著 風媒社(2019)

 3)須磨の歴史散歩 田辺眞人著(1997)

 4)須磨の近代史 神戸市須磨区役所編(1998)

正岡子規(1867-1902)は日清戦争の従軍記者として明治28年(1895)4月に
遼東半島に赴任したがその帰路の5月17日に佐渡国丸の船上で吐血、5月22日の

午後、船は神戸市和田岬に着き検疫所を経て翌日の夕方、当時下山手8丁目
にあった県立神戸病院に入院、7月23日までの2か月を病院の2階2号室
で過ごす。7月23日になって吐血も収まり須磨海浜保養院に転地し須磨浦療病院
に通院。8月20日には病状も良くなり、郷里松山に帰り、当時松山中学
に赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)で過ごす。
すなわち、正岡子規が神戸に滞在した期間は約3か月である。

5月27日には同じ松山出身の高浜虚子が駆けつけ、諏訪山付近の畑でイチゴを求め、

子規を喜ばせた。

正岡子規は須磨を散策し、須磨寺をはじめとする史跡の多くに訪れたようである。

須磨保養院は明治26年(1893)に創立されており子規が滞在した頃はまだ営業

し始めてから2年後の真新しい施設であった。

本論に入る前にWikipediaより正岡子規の略歴を引用紹介します。(一部加筆)

※日付は1872年までは旧暦
1867年(慶応3年)9月17日:伊予国温泉郡藤原新町(現・松山市花園町)
              に松山藩士・正岡常尚の長男として生まれる
              本名常規,幼名処之助,のちに升(のぼる)
1868年(明治元年):湊町新町に転居(現湊町4丁目1番地)
1872年(明治5年)4月:父・常尚が死去
1873年(明治6年):寺子屋式の末広学校に通う
1875年(明治8年) 1月:勝山学校(現・松山市立番町小)へ転校
          4月:祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ
1878年(明治11年):初めて漢詩を作り久明の添削を受ける
1879年(明治12年)12月:勝山学校卒業
1880年(明治13年)3月:松山中学(現・松山東高)入学
         三並良,竹村鍛らと「同親会」を結成。
         河東静渓(竹村鍛・河東碧梧桐の父)に指導を受ける。
1883年(明治16年) 5月:大学予備門受験のために松山中学を退学
          6月:東京へ出る
          10月:共立学校(現・開成高)入学。
1884年(明治17年)9月:東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学。
            俳句を作り始める
            この年から3年間,ベースボールに熱中
1888年(明治21年) 7月:第一高等中学校予科卒業
          9月:本科へ進級 常磐会寄宿舎に入る。
1889年(明治22年) 夏目金之助(漱石)と落語を介して交遊を始める。
     4月3日:常磐会の友人と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、
         徒歩旅行を行う
     5月9日:喀血。初めて「子規」と号す。
1890年(明治23年) 7月:第一高等中学校本科卒業
          9月:東京帝国大学文科大学哲学科入学
1891年(明治24年)1月:国文科に転科
1892年(明治25年) 10月:退学
          12月:日本新聞社入社
1895年(明治28年)4月:日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血
1896年(明治29年)1月:子規庵で句会
1898年(明治31年)3月:子規庵で歌会
1900年(明治33年)8月:大量の喀血
1902年(明治35年)9月19日:死去。享年34。東京都北区田端の大龍寺に眠る。

辞世の句「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき」より、子規の忌日9月19日を
「糸瓜忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

神戸市の神戸病院及び須磨保養院での生活について(正岡子規 28-29歳)
 (1)県立 神戸病院時代

 (2)須磨浦療病院 須磨海浜保養院時代

上記の2つに分けて記述する。

(1)県立 神戸病院時代(明治28年5月23日~7月23日)

   正岡子規が入院した頃は病状も重篤でしばらくは俳句を詠む状態では
   なかった。入院後4~5日して高浜虚子(当時21歳)や川東碧悟桐(22歳)
   が京都から駆けつけ、さらにはご母堂も東京から駆けつけ正岡子規の看護
   にあたった。

   毎朝のように高浜虚子が諏訪山付近の畑からのイチゴを購入して子規を
   喜ばせたエピソードが残っている。

   川東碧悟桐の東京へ帰る時に送った句

   「短夜を 眠がる人の 別れかな

   母が東京に帰る時に詠んだ句

   「この二日 五月雨なんど ふるべからず

   病状が落ち着いてからの作句と思われるが次の句を残している。

   ほととぎす山手通りと覚えたり

   露あかしいちご畑の山かつら

   もりあげて病うれしき苺かな

上の写真は明治35年(1902)の地図で県立神戸病院の位置を示しています。

現在の神戸大学附属病院の位置にありました。

(2)須磨浦療病院 須磨海浜保養院時代(明治28年7月23日~8月20日)
   
   須磨浦療病院は明治22年8月12日、鶴崎平三郎氏が創始した日本発の
   サナトリウムである。現在も須磨浦病院と名前が変わったが鶴崎氏の
   子孫が経営されています。須磨海浜保養院は須磨浦公園「みどりの塔」
   付近にあった施設で須磨浦療病院への通院患者が多く宿泊していた。

   正岡子規の病状もある程度落ち着いており須磨の地に移ることを楽しみ
   にしていたようで次の句が残されている。(7月23日の作句)

   うれしさに 涼しさに須磨の恋しさに

上の写真は正岡子規が療養した須磨保養院 出典:上述の2)Page138

上の写真は須磨海浜保養院 出典:上述の1)Page41

上の写真は須磨保養院 出典:上述の4)のPage45

 

須磨保養院に来てすぐに詠んだ俳句

夕涼み 仲居に文字を 習はする

須磨保養院に滞在中に京都の友に寄す

暑からん 我に不断の 松の風

暁や 白帆過ぎ行く 蚊帳の外

須磨保養院での生活の中の句

人もなし 木陰の椅子の 散松葉

横様に 紀の国長く 明け易し

松越しに 白帆過ゆく 保養院

夏山 病院高し 松の中

ほととぎす なくや二の谷 三の谷

なみじいに 生き残りたる 暑さかな

須磨にて虚子の東京へ帰るときに送った句

贈るべき 扇も持たず うき別れ

すずみがてら 君を送らん そこら迄

内裏跡の外人住宅に関して

夏やかた 異人住むかや 赤い花

この間に67句を残しており、須磨寺を題材に詠んだ句もあります(下記)。

須磨寺に 取りつくまでの 暑さ哉
御仏も 扉をあけて 涼みかな
須磨寺の 門を過ぎ行く 夜寒哉
秋風や 平家弔う 経の声
二文投げて 寺に縁借る 涼みかな

 

須磨の関守跡(関守稲荷神社付近)

瓜茄子 どこを関所の 名残とも

めずらしや 海に帆の無い 秋の暮

敦盛塚

石塔に 洩るる日影や 夏木立

上の写真は須磨保養院の遠景 当時の須磨名所図に書かれていたもの 建物が6棟

確認できます。 出典:上述の1) Page41

上の写真は7月25日、子規から陸 羯南(くが かつなん)に宛てた手紙

出典:上述の1) Page41

陸羯南は日本新聞社の社長。当時、正岡子規は日本新聞社の記者であった。

「・・・・当地風光ハ いふ迄もなき事ながら当保養院ハ其位置形勢ニ於テ甚タ

大磯ノ松林館ニ類似致候 須磨の駅をはなれて松林の中ニ幾棟か建並べいと

閑静ニ御座候・・・・・」子規が須磨の地を気に入っている様子が伺えます

出典:上述の1)Page41

上の写真は須磨浦公園「みどりの塔」付近の遠景 撮影:2020-5-15

上の写真は須磨浦公園総合案内図 撮影:2020-5-15

上の写真は須磨浦病院 奥の鉄筋の建物 撮影:2020-5-15

上の写真は須磨浦病院の看板 撮影:2020-5-15

昭和51年(1976)に須磨浦療病院が須磨浦病院に名称が変更されています。

病院に離接して老人施設があります。

明治22年
(1889)8月に須磨浦療病院が、日本最初の結核療養専門のサナトリウムとして
設立されています。このサナトリウムは明治16年(1883)東大医学部を卒業し、
兵庫県立姫路病院長であった鶴崎平三郎(佐賀県出身)が姫路在住の有力者の
出資を得て一の谷、二の谷にかけて約16,000坪の敷地に建物(1号館~3号館)
鶴崎院長の自邸が存在した。病室や治療室の他、文庫、庭園、運動場、温室
牛舎、果樹園などが建設された。
須磨浦療病院(サナトリウム)は日本全国のみならず海外にまで広く知られ、
療養地、景勝地須磨の名声を高めるのに大きな役割を果たした。鶴崎氏が
須磨浦の地を選定したのは、須磨の良好な気候、清浄な空気、景勝が結核療養に
最適と考えたからである。
正岡子規が入ったのは須磨保養院で須磨浦療病院ではありません。

鶴崎平三郎院長の往診は受けていました。

上の写真は鶴崎邸 設計者は野口孫市 明治40年(1907)建築

出典:上述の4)のPage73

上の2枚の写真は大正15年(1926)当時の須磨の地図

須磨浦療病院と須磨花壇の位置を示した。

須磨保養院はその後、須磨花壇(料理旅館)となり、昭和10年には神戸市に明け渡します。

須磨にある正岡子規の句碑を写真と共に紹介します。

 

須磨寺

暁や 白帆過ぎ行く 蚊帳の外」と書かれています。
この石碑は昭和9年(1934)9月 正岡子規33年忌に弟子の青木月斗が建立
したものです。

現光寺

現行寺にも正岡子規の句碑 「読みさして 月が出るなり 須磨の巻
があります。

 

須磨浦公園

ことづてよ 須磨の浦わに 昼寝すと  子規
月を思ひ 人を思ひて 須磨にあり  虚子

上記の句で子規の句は高浜虚子の東帰にことづてとして詠んだもの
虚子の句はホトトギス誌の正岡子規の50年忌記念号からとったもので
県会議員の酒井一雄氏が私費を投じ昭和28年(1953)4月に建立されたものです。
碑の文字は夫々直筆から採ったもので五十嵐播水の協力を得て句碑は完成しました。

はじめは須磨保養院即時の正岡子規の句は
夕涼み仲居に文字を習はする 」を選んでいたが、「仲居」の文字があっては
ということから急遽変更となり上記の句になったエピソードも残っています。 

 

 

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楠木正成の命日(5月25日)に湊川神社内墓所に墓参 on 2020-5-25

2020年05月26日 05時04分14秒 | 神戸情報

昨日(2020-5-25)は楠木正成公の命日でした。

そこで、湊川神社まで墓参のため出かけました。当日、撮った写真を紹介します。

新型コロナウイルスの影響で公共交通機関に乗車するのは2か月余ぶりです。

上の2枚の写真は楠木正成の墓所です。

墓前に線香をあげてきました。

楠木正成は湊川の戦いで足利軍に敗れ5月25日に戦死しました。

湊川の戦いは1336年7月4日((建武3年)5月25日)に、摂津国湊川
(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義
兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間
で行われた合戦である。

本年(2020年)で684回忌になります。

例年ですと、楠木正成公の遺徳を偲び楠公祭(5月24日~5月26日)が行われていますが2020年は

新型コロナウイルス感染症の影響で中止となりました。

上の2枚の写真は史跡 楠木正成公戦没地 湊川神社境内北西隅にあります。

戦没地と墓所に関する詳細は下のブログで書いていますので良かったら参照

してください。

 

湊川神社 楠木正成公戦没地 on 2019-3-3

 

上の写真は当日、拝殿・本殿で行われた楠木正成公を偲ぶ神事と拝殿外観

 

楠公祭の期日にあわせて5年に1度、楠公武者行列が行われます。

楠公武者行列について
湊川神社で5年に1回に頻度で開催される楠公武者行列は楠木正成が、元弘3年(1333)6月
幽閉されていた隠岐から京に戻る途中、後醍醐天皇を神戸で迎え、都まで先導した行列
を再現したものである。

過去の楠公武者行列について作成したブログにリンクしておきます。

 

2018年

楠公武者行列 on 2018-5-26 (その1) 前陣武者列

楠公武者行列 on 2018-5-26 (その2) 神幸列本社(じんこうれつほんしゃ)

楠公武者行列 on 2018-5-26 (その3)完 神幸列甘南備神社(じんこうれつかんなびじんじゃ)


2013年

楠公武者行列 on 2013-5-26 (その1)

楠公武者行列 on 2013-5-26 (その2)

楠公武者行列 on 2013-5-26 (その3)完 神幸列甘南備神社

 

 

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整備が進む湊川公園の音楽堂と新開地音楽祭

2020年05月25日 05時00分39秒 | 神戸情報

現在、湊川公園の改造工事が進められています。

その中で音楽堂の整備工事も進められていますので写真紹介します。

上の3枚の写真は湊川公園で整備工事が進行中の音楽堂

撮影:2020-3-28

完成したらまた写真を追加したいと思います。

上の写真は一番最初の湊川公園の音楽堂

大正13年(1924)4月30日に音楽堂は完成しました。

出典:市民のグラフ こうべ No.198 1989年4月号 Page13

 

こちらで、毎年「新開地音楽祭」のメイン会場として使用されていましたが、今年の

5月9日(土)、5月10日(日)に実施予定の第20回の新開地音楽祭は新型コロナウイルス

の影響で中止となりました。1日目はロック、2日目はジャズがメイン

 

新開地音楽祭関連のYoutube動画にGooブログで共有させていただきました。

神戸新開地音楽祭/新開地

 

Tennessee Waltz by SPOONFULL 神戸新開地音楽祭 2019年5月12日

 

2014 5 11 新開地音楽祭

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今日は何の日  5月24日

2020年05月24日 05時57分13秒 | Weblog

NHKラジオでは標題の番組が放送されています。
本日の放送からNHKラジオが選択したItemsを紹介します。

神戸ゴルフ倶楽部の項があったので取り上げました。

  青字は説明項目


■1878年(明治11年) 日本初の障害児教育施設が京都に設立される

  京都盲唖院は視力・聴力が不自由な幼児のために設立 翌年公立学校となる

     
■1903年(明治36年) 日本初のゴルフ場が六甲山にオープン

  神戸ゴルフ倶楽部で4年後には第1回アマチュアのゴルフ大会が開催された

神戸ゴルフ倶楽部について上の写真の市民のグラフこうべ No.236 1992年6月に4ページに

わたって紹介されていますのでその一部を紹介します。

日本でのゴルフは六甲山で始まった。その頃六甲山はイギリスの茶貿易商 A.H..グルーム

 

OGPイメージ

 

 

 

 

 

が中心

となって開発を進めつつある段階で、山上には60軒余りの別荘が建っており、一種の外人村を

形成していた。ある集まりで、グルームが友人たちと談笑中、ゴルフをやろうという話が出た。

早速、グルームは数人の友人を誘って山上に4ホールだけのゴルフ場をつくった。

明治34年のことであった。2年後には9ホールに拡張され、会員も120人に増えて、日本初のゴルフ

クラブ、神戸ゴルフ倶楽部が発足した。

上の写真は神戸ゴルフ倶楽部発足当時の会員のサイン 現在も保存されているとのことです。

上の写真は明治39年、18番グリーンでの光景 この頃18ホールに拡張された。

明治40年には神戸ゴルフ倶楽部は横浜とのインターポートマッチと日本ゴルフ選手権を開催、注目された

上の写真は着物姿のグルーム。彼は明治初年に日本人宮崎直さんと結婚。

日本びいきで茶目っ気のある人物であったそうである。


■1949年(昭和24年) “満年齢法”公布

  それまでは数え年齢が適用されていた


■1958年(昭和33年) 第3回アジア大会が東京で開幕

  戦後日本が初めて行った国際大会

■1960年(昭和35年) チリ地震津波

  日本の太平洋岸で津波 死者・行方不明 142人


■1999年(平成11年) ガイドライン関連法成立

  所謂、日米防衛協力の指針

 

神戸新聞小史では次のItemsをピックアップ

・1980年(昭和55年)モスクワ五輪ボイコット

  日本オリンピック委員会(JOC)が臨時総会でモスクワ五輪不参加を決定

  マラソンの瀬古選手や柔道の山下選手らはメダルのチャンスを失った

・1959年(昭和34年)ダレス元米国務長官が死去

  アイゼンハワー大統領の下で国務長官のジョン・フォスター・ダレスが死去

  71歳。反共主義を貫き「大量報復戦略」など核戦力を背景とした冷戦政策を推進

 

本日(2020-5-24)の予定項目

(1)市長選 鹿沼(栃木)、藤枝(静岡)、相生(兵庫)、御所、香芝(奈良)

   御坊(和歌山) 美馬(徳島)

  但し、無投票の当選も含む

(2)イスラエルのネタニヤフ首相の初公判(収賄罪などで起訴)

(3)第81回 競馬 オークス(東京)

 

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志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に7回目の出演 on 2020-5-22

2020年05月23日 05時59分15秒 | Weblog

新型コロナウイルス感染症で亡くなられた志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」
で7回目の出演をされていましたので写真紹介します。(5月22日に放送)


1回目~6回目の出演に関する記事にリンクしておきます。

 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に出演 on 2020-5-1

 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に2回目の出演 on 2020-5-6

  志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に3回目の出演 on   2020-5-14

志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に4回目の出演 on 2020-5-15

 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に5回目の出演 on 2020-5-19

 志村けんさんがNHK朝ドラ「エール」に6回目の出演 on 2020-5-20

 

 


ドラマ初出演の志村さんは昨年12月から亡くなる約3週間前の3月6日まで
撮影に参加されていたそうです。

志村けんさんが演じた人物のモデルは山田耕作

 

当日の番組では古山音(二階堂ふみ)が豊橋の実家に帰る場面から始まります。

音は早稲田の応援歌を完成させる為に色々と工作した結果、応援歌は締め切りの

1日前に完成する。

そして、早慶戦でその応援歌をお披露目し、連敗中の早稲田は慶応義塾大学に

2勝1敗で雪辱を果たす。

上の写真は小山田耕三(志村けん)の登場場面で、それまで早稲田大学の第1応援歌

を作曲していた小山田耕三(志村けん)に対して古山裕一(窪田正孝)の応援歌が

第1応援歌になったことに対して誤っている場面です。

 

今迄、モデルとなった山田耕作について書いてこなかったのでWikipediaより引用紹介します。

山田 耕筰(やまだ こうさく、1886年〈明治19年〉6月9日 - 1965年〈昭和40年〉12月29日)は、日本の作曲家、指揮者。山田 耕作としても知られる。 

日本語の抑揚を活かしたメロディーで多くの作品を残した。
日本初の管弦楽団を造るなど日本において西洋音楽の普及に努めた。
また、ニューヨークのカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲を演奏、
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・
フィルハーモニー交響楽団等を指揮するなど国際的にも活動、
欧米でも名前を知られた最初の日本人音楽家でもある。
軍歌の作曲も多く手がけている。

 

山田耕作が作曲した曲でyoutube動画で公開されている曲のいくつかを共有

させていただきました。

山田耕筰:この道(北原白秋)Kosaku YAMADA: "Kono-Michi"

山田耕筰作品集 この道~樹立~からたちの花 泉貴子 ソプラノ

山田耕筰と美術

Kosaku Yamada: Sinfonia "Inno Meiji" (1921)

 

山田耕筰:交響詩「神風」

MBTZ05 ひばりの挑戦!山田耕筰を歌う(山の子駅、他) 美空ひばり 180318 vL HD

 

テレビ評伝 山田耕筰

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