CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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日本初の女性医師は誰?

2023年10月08日 04時34分39秒 | 日本はじめて物語
明治時代は女性が働くことをよく思わない人々がたくさんいました。
そんな中で医師シーボルトの娘の楠本いねは蘭学者で宇和島藩 外科医の二宮敬作からは
医学の基礎を学び、石井宗謙からは産科医術を 、村田蔵六(後の大村益次郎)からは
オランダ語を教わり産科医術を修行した後、明治3年(1870)に東京で産科医院を開業しました。
このことから日本初の女性医師とされています。
明治6年(1873)には宮内庁御用掛の産科医になっています。

楠本いねについてもう少し詳しく記述していきます。
上の写真は楠本いね(1827-1903)の写真。
出典:出典:湯本豪一監修「日本人はじめて百科」①(2008)Page47 

1827年5月31日、ドイツの医師・博物学者として有名なシーボルトとシーボルトお抱えの
遊女だった瀧(お滝)(1807年 - 1869年) の娘として生まれる。
イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放(1829年、イネ2歳)まで出島で 暮らす。
以下、Wikipedia(楠本イネ)からの引用です。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。
1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。
1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問などの講義をしている。
明治
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー・フォン・シーボルト、弟ハインリヒ・フォン・シーボルト)の支援で東京の築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、
1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まるが、女性であったイネには受験資格がなかったことと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれ、すでに57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断し、イネはこの試験を受験しなかったとする通説があるが、当該試験は新たに開業を志すものを対象とした試験であったため、町医者として豊富な経験を持つイネは受験する必要がなかったというのが実情である.
この試験に合格し開業した荻野吟子が「日本初の女医」として話題になるが、あくまで国家試験に合格した女医一号であり、イネを含め野中婉、稲井静庵、松岡小鶴、榎本住、光後玉江、高場乱など多数の女性医者がすでに存在していた。
62歳のとき、実の娘の楠本高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院を閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べあわせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
楠本イネを描いた小説などは下記のとおりです。
1)司馬遼太郎『花神』。新潮文庫ほか、主人公大村益次郎に恋するヒロインとして描かれている
2)吉村昭『楠本いね』(短編小説『日本医家伝』収録)。新版は中公文庫、他に新潮社「自選作品集」に収録
3)吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』(長編小説、主人公)。新版は新潮文庫(上下)、岩波書店「歴史小説集成六」
4)宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』現代書館、2018年


国家試験に合格した女医1号の荻野吟子(1851-1913)について簡単に記載しておきます。
荻野吟子は夫から性病をうつされ、男性医師による治療に屈辱を感じて医師を志した。
明治6年(1873)に上京して漢方医に学んだ後、東京女子師範学校(今のお茶の水女子大学)
を経て私立医学校を卒業しました。当時、女性に医師試験の受験資格はなかったが、
知人の助けもあり明治18年(1885)ついに受験許可を得て合格。
日本で初めての公認の女性医師となりました。
上の写真は荻野吟子の写真
出典:湯本豪一監修「日本人はじめて百科」①(2008)Page47

北海道の瀬棚町の荻野医院の跡地には顕彰碑が建っているようです。




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日本で最初に商用の洋式高炉をつくった大島高任

2023年10月05日 05時53分25秒 | 日本はじめて物語
本日は日本で最初に商用の洋式高炉をつくった大島高任について書いていきます。

Wikipediaによれば大島 高任(おおしま たかとう、文政9年5月11日(1826年6月16日) - 
明治34年(1901年)3月29日)は、明治時代の鉱山学者。
父・大島周意は藩医として盛岡藩に勤めた。
文政9年5月11日(1826年6月16日)、盛岡仁王小路にて盛岡藩侍医・大島周意の長男
として生まれる。天保13年(1842年)17歳で留学、江戸で蘭方医の箕作阮甫や
坪井信道に師事し、長崎では採鉱術を学ぶ。
嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭から招かれて那珂湊反射炉を建造。
大砲の鋳造に成功するが、原材料が砂鉄の為にその性能は高くはなかった。
西洋と並ぶ高品質な鉄を造るべく、良質の鉄鉱石が産出する大橋(釜石)の地に
U・ヒュゲーニン著の「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」を参考として
西洋式高炉を建造、安政4年12月1日(新暦1858年1月15日)に鉄鉱石製錬による
本格的連続出銑に成功する。

このことから大島高任は近代製鉄の父と呼ばれています。
大島高任は大橋高炉の他にも計10基の高炉を築き、明治維新後の産業の発展に大きく貢献。
尚、日本で最初に洋式高炉をつくったのは薩摩藩主の島津斉彬で安政元年(1854)に
つくられていますが完成後、薩英戦争で破壊されてしまいました。

上の写真は大橋高炉の外観です。
出典:湯本豪一監修「日本人はじめて百科」④(2008)Page9
高炉内の高温の空気が下から上昇するのを利用した鉄の精錬法で、反射炉に較べて
炉内が高温に保たれるため、砂鉄よりも大きな鉄鉱石を溶かすことが可能となった。
大橋高炉には3座あり年産量は約640トンであった。

上の写真はJR釜石駅前の近代製鉄の父「大島高任」の銅像
出典:Google ストリートビュー

日清戦争の賠償金を使用して日本初の本格的な官営の製鉄所(八幡製鉄所)が建設
されました。当初、高炉の火入れに何度も失敗したが明治34年(1901)野呂景義の尽力で
操業を開始。軍艦や機械の原材料となる大量の鉄鋼を生産し、日本の重工業の
基盤を築く原動力となりました。

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初めて国産の鞄(かばん)をつくった山城屋和助

2023年10月03日 06時01分46秒 | 日本はじめて物語
江戸時代まで旅行などで使用される鞄(かばん)は無く、乱胴、革袋、風呂敷
などが使用されていました。
江戸時代のスーツケースという題で下記サイトに乱胴、革袋が絵入りで説明されています。

日本で初めて鞄を作った人物は明治時代に陸軍に品物を納めていた御用商人の
山城屋和助です。明治6年(1873)兵器購入のために出かけたヨーロッパから帰国の際、
フランスで購入した鞄を持ち帰りました。
政府に納める靴や帽子などを作っていた職人の森田直七にそれをもとに鞄を作らせ
売り出しました。これが国産鞄の始まりであります。
上の写真は田山花袋の著作「田舎教師」の挿絵に登場する鞄
田舎教師は明治42年(1909)に左久良書房より刊行されています。
 
上の写真は明治31年(1898)の旅行鞄。
鉄道の普及で旅行鞄の需要が増え、外国製の鞄をもとに様々なデザインの国産鞄が作られた。
出典:湯本豪一監修「日本人はじめて百科」①(2008)Page5

これらの写真をみると現在の鞄と大きくは相違していないことが判ります。

山城屋 和助についてWikipediaより概説を引用紹介します。
山城屋 和助(やましろや わすけ、天保7年(1836年) - 明治5年11月29日
(1872年12月29日))は、明治時代初期の陸軍省御用商人。
元・長州藩奇兵隊隊士。明治初期に起こった公金不正融資事件に関与し
割腹自殺したことで知られる。

関連サイト(豊岡の鞄他)


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