CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

神戸・岩国の最新情報を紹介していきます。また、最近のキーワード についてメモを作成していきます。

元離宮 二条城の東大手門と唐門

2018年06月24日 14時53分57秒 | 京都情報
本日(2018-6-24)、2017年9月19日BS朝日の下記放送を録画で観た。
 京都ぶらり歴史探訪 「二条城と坂本龍馬~大政奉還の真実~ 」


この番組の中から東大手門と唐門について写真紹介していきます。

元離宮 二条城の公式サイト:
 https://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/nijojo/index.html


東大手門


2017年3月22日に二条城東大手門は建設当時の姿に蘇りテープカットの儀式が
行われました。
東大手門は二条城が築城された慶長8年(1603)につくられたが、寛文2年(1662)頃に
再建され、今の姿になったとされる。工事は平成26年(2014)10月から行われ、
老朽化した屋根瓦の葺き替えや漆喰を塗り替え、金箔貼りの当時の姿をよみがえらせた。




上の2枚の写真は改修後(上)と改修前(下)の二条城東大手門


上の写真は上空より二条城東大手門付近を俯瞰したものです。


上の写真は寛永3年(1626年)9月6日に行われた後水尾天皇の二条城行幸が描かれた
二条城行幸図 (洛中洛外図) 屏風の左隻 広島海の見える杜美術館 蔵
2代目将軍の徳川秀忠が大御所として、さらに3代目将軍徳川家光が天皇をお迎え
しています。

2017年6月1日のうみもりブログで上記屏風に関する詳しい解説があります。

本ブログではこの時に現在2層である東大手門が1層に建て替えられたことが
番組で指摘されていましたのでその部分を強調しました。(下の2枚の写真)




唐門











上の6枚の写真は表側と真下から撮られた二条城唐門です。

明治17年(1884)に二条城は宮内省の所管となり「二条離宮」と改称された為
菊の御紋の紋章となっています。




上の2枚の写真は二条城唐門の内側の飾りで仙人と瑞鳥が描かれています。

最後に二条城を上空より観た遠景を添付しておきます。
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土足参内 in 京都御所 on 2017-10-14

2018年03月13日 05時22分29秒 | 京都情報
2017年10月14日、京都御所で土足参内が行われたことを2018-3-9(金)、
21:00~22:00のNHK BSプレミアムの番組「新日本風土記 比叡山」で知りました。

憶えのためブログ記事を書いておきます。












上の6枚の写真は京都御所での土足参内の様子です。

土足参内(どそくさんだい)とは、千日回峰の創始者・相応和尚(最澄上人の孫弟子)以来
千年の格式と伝統があります。
由来は、文徳天皇の女御の病を京都市中の高僧の呪法効き目なく、12年籠山中の相応和尚が
行者姿で参内加持したところ、病はただちに平癒したといわれる。
千日回峰を満行した行者のみが許されるもので、京都御所小御所に土足のまま参内、
国家安泰を加持するものです。
江戸時代の大名ですら浅沓(あさぐつ)に履き替えて入った宜秋門を草鞋(わらじ)の
ままで入ることを許されたことから「土足参内」の呼び名が付いたという。
前回は光永圓道師が2009年に行い、今回千日回峰を満行した大阿闍梨(だいあじゃり)の
釜堀浩元(こうげん)さんがお勤めをされました。
記録が残る比叡山焼き打ち(1571年)以降51人目で、戦後14人目にあたるそうです。

釜堀浩元さんは大津市坂本の延暦寺善住院住職をされておられます。

当日の土足参内の日程は以下の通り

10時   寺町通りの京都御所のすぐ東の「静浄華院」から行列を整えて御所へ参内
10時30分 小御所で御加持奉修
11時   小御所退出

次に上記のNHK番組で千日回峰の様子も紹介されていましたので写真添付しておきます。
(下の3枚の写真)





Wikipediaより千日回峰行についての解説をそのまま引用紹介します。

千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、滋賀県と京都府にまたがる比叡山山内で
行われる、天台宗の回峰行の1つ。満行者は「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれる。
「千日」と言われているが、実際に歩くのは「975日」で、残りの「25日」は
「一生をかけて修行しなさい」という意味である
7年間にわたって行う。1〜3年目は年に100日、4〜5年目は年に200日行う。
無動寺で勤行のあと、深夜2時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と
260箇所で礼拝しながら、約30 km を平均6時間で巡拝する。
途中で行を続けられなくなったときは自害する。そのための「死出紐」と、短剣、
埋葬料10万円を常時携行する。
未開の蓮華の葉をかたどった笠をかぶり、白装束、草鞋履きで行う。

堂入り

5年700日を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。
入堂前には行者は生き葬式を行い、無動寺明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる
断食・断水・断眠・断臥の4無行に入る。堂入り中は明王堂には五色の幔幕が張られ、
行者は不動明王の真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で
閼伽水を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。水を汲みに出る以外は、
堂中で10万回真言を唱え続ける。
堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨となり、
信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行から、衆生救済の
利他行に入る。6年目にはこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、
1日約60 km の行程を100日続ける。
7年目には200日行い、はじめの100日は全行程84 km におよぶ京都大回りで、
後半100日は比叡山中30 km の行程に戻る。


釜堀浩元さんは平成23年(2011)3月に千日回峰を始められ、2017年9月18日に
満行されました。約7年間の荒行で地球約1周分の約4万キロを踏破したことになるそうです。



上記番組では釜堀浩元さんへのインタビューもされており、阿闍梨への道は師僧と同じ
白い衣を着れた喜びの方が大きかった
と述べられました。




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京都宇治 とにまる  ぶんぱく店でのランチ on 2018-1-24

2018年02月16日 05時16分26秒 | 京都情報
2018年1月24日、京都文化博物館にある京都宇治 とにまる  ぶんぱく店で
ランチを頂きましたので写真紹介します。

とにまる  ぶんぱく店の基本情報

住所:京都市中京区東片町623-1 京都文化博物館1階  TEL:075-221-8101
営業時間:11:00~20:00  定休日:月曜日(祝日の場合は翌日の火曜日)、年末年始
ジャンル:甘味処


公式サイト:https://tonimaru.com/
Instagram: https://www.instagram.com/kyoame_tonimaru/

Facebook: https://www.facebook.com/kyoame.tonimaru/


上の写真は当日いただいた甘酢さっぱりたれ唐揚げ定食 980円(税込)
と追加メニューのホットコーヒー200円(税込)
割合美味しかった。


上の写真はランチメニュー表



上の写真は西京漬け鰆(さわら)焼き定食 980円(税込)の内容


上の写真は野菜たっぷりカレー 980円(税込)の内容


上の写真は甘味のメニュー(ショーウィンドウ提示)




上の2枚の写真はお店の入口。同時に米屋格子を再現展示




上の2枚の写真はろうじ(路地)店舗の遠景と店舗一覧


上の写真はろうじ(路地)店舗の現地説明板



上の写真は京都文化博物館〈新館)の外観

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阪急電車烏丸駅の乗降通路の洛中洛外図(高津家本)陶板壁画 on 2018-1-24

2018年02月15日 06時38分59秒 | 京都情報
2018年1月24日、阪急電車烏丸駅の乗降通路で洛中洛外図(高津家本)陶板壁画
を偶然見つけましたので写真紹介します。

この壁画は、高津古文化会館所蔵の洛中洛外図を基にしてつくられた物で、
制作は慶長末期から元和初期と推定される。作者は不明。
昭和59年(1984)に駅の四條通東洞院地下道が完成したのを記念して作られたもの。


上の写真は陶板壁画全体の遠景です。






上の3枚の写真は部分拡大図。


上の写真は現地説明板。

写真が上手く撮れていないのでまたの機会に再度写真を撮れればイイナと思っています

付近の地上写真も添付しておきます。


上の写真は四条通り(大丸付近)


上の写真は錦市場西側の入口付近



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ポータルカフェ スバコ JR京都伊勢丹店 でのモーニングビュッフェ on 2018-1-24

2018年02月15日 05時57分30秒 | 京都情報
2018年1月24日、JR京都駅のコンコースにあるポータルカフェ スバコ 
JR京都伊勢丹店で頂いたモーニングビュッフェを写真紹介します。

ポータルカフェ スバコの英文名:Portal Cafe SUVACO


ポータルカフェ スバコ JR京都伊勢丹店の基本情報

住所:京都市下京区烏丸通塩小路下る東塩小路町901 JR京都伊勢丹 2F
TEL:075-342-2577(直通)  営業時間:7:00~23:00
定休日:なし(無休)


公式サイト:https://www.kyoto-station-building.co.jp/search/search.cgi?mode=syousai&gen=food&area=nanboku&no=9







上の3枚の写真が当日頂いたものです。食べすぎですネ。
これで980円(税込)正確には979円はお得な感じです。


上の写真はお店の入口




上の2枚の写真はモーニングビュッフェの看板


上の写真は営業時間が書かれた看板


おまけに京都タワーの写真を添付しておきます。

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便利堂創業130周年記念「至宝をうつす」見学記 in 京都文化博物館 on 2018-1-24

2018年01月26日 04時20分07秒 | 京都情報
2018年1月24日、数年に1回という寒気の中、表題のイベントを観覧するために
京都文化博物館に出かけていました。

最大の目的はコロタイプで製作された初公開の高松塚古墳壁画(原寸大に加工)を
観ることでした。展示は京都文化博物館本館4階の展示室。
高松塚古墳の壁画の展示を中心に憶えのためにメモしておきます。


上の写真は高松塚古墳壁画の西壁です。
出典:写真撮影禁止だったので展示ガイドのリーフレットよりコピー。
西壁には飛鳥美人として超有名になった女子群像(写真の右手)、真ん中に白虎
左手に男子群像、さらに白虎の上方に月像が配置されています。

その他に北壁、東壁、天井星座(部分)が原寸大に加工されて展示。

5×7インチのカラーフイルムをスキャンし、そのデータをつなぎ合わせて
原寸大まで拡大し、さらに部分撮影されていた壁画写真をレイヤーリングして
製作されたそうです。(作業は2017年)

高松塚古墳壁画発見・撮影45周年を記念してコロタイプ印刷を世界で唯一
継続させている便利堂が創業130周年ということもあり企画されました。



高松塚古墳壁画の全体のイメージとしては上の写真(私の銅版画作品)のような配置

但し西壁(左側)の白虎や東壁の青龍の配置は下方ではなく現物では女子像と男子像に
配置されています。


上の写真は西壁の女子群像を中心とした今回の展示の説明書き
出典:開催案内リーフレットの裏面

女子群像はこんなイメージです。


開催案内のリーフレットは下に添付しました。


展示では昭和47年(1972)3月22日と24日に現地で撮影された時の石室模型
さらに壁画及び撮影機材一式を模型で再現されていました。
この展示はリアルで非常に判り易かった。

また、関連資料の展示で昭和47年(1972)3月21日の夜9時頃、関西大学の
故網干善教先生(関西大学名誉教授)から便利堂の写真部に連絡が入ったこと
3月22日と24日に大八木威男(当時38歳)と上洞猛雄(当時28歳)が撮影をしたこと。
3月23日にポジを現像したことなど当時のノートメモと共に展示。

さらに大八木威男氏の当時の回想の言葉が記載されていました。
吉川弘文館の「歴史の花かご」に写真家の大八木威男が、「高松塚古墳撮影の思い出」
という文を書いておられるようです。

朝日新聞の昭和47年(1972)3月29日号の別刷りで飛鳥美人像が紹介されたことを
説明記載し、且つ朝日新聞の現物も展示されていました。

発掘当時に関西大学考古学教室の学生であった森岡秀人氏は当時を回顧して
下記サイトでその様子を語っておられます。(毎日新聞 2017-10-24)
 https://mainichi.jp/articles/20171024/ddn/013/040/036000c
森岡秀人氏の直接の指導教官であった故網干 善教先生(あぼし よしのり、1927年9月29日 -
2006年7月29日)と共に高松塚古墳発掘の総指揮をとられた故末永雅雄先生
(橿原考古学研究所の初代所長。関西大学名誉教授)の卓越した指導も大きかった。


また、関西大学博物館の下記サイトに発掘時の様子が記載されています。
 http://www.kansai-u.ac.jp/Museum/kohun/

便利堂の代表的な仕事の一つに法隆寺金堂の壁画があります。
6号壁画の部分を題材にした銅版画の作品を2015年度後期に製作していますので
写真紹介します。勢至観音菩薩(下記写真及びサイト)



 兵庫県立美術館でのエッチング(銅版画)教室 2015年度後期 第3作

関連するサイトとして岩波書店のサイトにリンクさせていただきました。
 https://www.iwanami.co.jp/news/n22906.html

今回の特別展の内容詳細を書かれたサイト
  http://takumisuzuki123.blog.fc2.com/blog-entry-113.html?sp


高松塚古墳&キトラ古墳に関する小生のブログ

 2017年5月12日(金)放送の歴史秘話ヒストリア「飛鳥美人 謎の暗号を解け~高松塚壁画のヒミツ~」を視聴して

 奈良散策記 その13 高松塚古墳(最終回)

 奈良散策記 その5 キトラ古墳 on 2011-5-16

  NHKBSプレミアム 飛鳥の大宇宙 ~キトラに眠るのは誰だ~を視聴して

 7月16日放送のNHK BSプレミアム 「キトラ 最古の天文図のミステリー」を視聴して
 
 キトラ古墳壁画体験館 四神の館 on 2016-10-6

 法楽山 専称寺と網干 善教先生

 
文化庁の高松塚古墳&キトラ古墳に関するサイト

 高松塚古墳・キトラ古墳

外部リンク

 高松塚壁画館

 Wikipedia

 神戸新聞(2017-5-13 夕刊)奈良・高松塚の国宝壁画を公開 飛鳥美人鮮やかに

 神戸新聞(2017-6-13朝刊)高松塚壁画カビ除去し青竜鮮明に 文化庁が写真公開

 明日香村-高松塚古墳情報

 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館

 飛鳥資料館(国立奈良文化財研究所)

 便利堂コロタイプギャラリーでの展示詳細


この記事を終わるに当たって京都文化博物館の建物と基本情報を記載します。




上の2枚の写真は京都文化博物館の別館建物と重要文化財の銘板

この建物は辰野金吾(1854-1919)とその子弟である長野宇平治(1867-1937)が設計し、
明治39年(1906)に竣工した日本銀行京都支店の建物であったものです。
昭和44年(1969)に国の重要文化財に指定、昭和61年(1986)4月京都府に寄贈
され、昭和63年(1988)10月京都文化博物館別館として公開平。
平成17年(2005)リニューアル工事が実施され現在に到っています。

京都文化博物館の基本情報

住所:京都市中京区東片町623−1 TEL:075-222-0888
開館時間: 総合展示は10:00~19:30
      特別展示は10:00~18:00
定休日:月曜日 他に12/28~1/3
入場料:一般500円、大学生400円、高校生以下は無料、特別展は別途料金


公式サイト:http://www.bunpaku.or.jp/

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祇園祭の起源について 2017-7-11 毎日放送 Voiceより

2017年07月12日 06時17分43秒 | 京都情報
7月1日より祇園祭が始まり7月31日の疫神社夏越祭まで続きます。
昨日(2017-7-11)、毎日放送 Voiceという番組で祇園祭の起源について 
東京大学史料編纂所名誉教授の保立道久氏が新たな解釈をされておりその内容を紹介した
番組であった。興味深い内容であったので憶えとして書いておきます。

Wikipediaによれば祇園祭の起源について下記のように書かれています。

疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。
御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残した
まま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が
続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。
864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、
869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、
全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国の国の数を表す66本の矛を
卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、
神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。
この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。


番組での結論は祇園祭のきっかけは流行病を沈めるためだとされてきたがそれだけでなく
地震や津波などの災害や大疫を鎮めることが重要であるとのこと(下に添付)



下の一覧年表は少しスパンを長くした天地天変を纏めたものです。
 出典:保立道久 『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書) 
・678年、筑紫地震
・684年、南海トラフ地震
・729年、長屋王自死、怨霊化事件
・734年、河内大和地震(長屋王父の高市皇子墳墓も崩壊)
・737年、疫病流行(藤原四兄弟死去)
・740年、恭仁京遷都
・742年、紫香楽京造営
・745年、美濃地震(紫香楽京被災)、平城遷都
・752年、東大寺大仏開眼(華厳経、釈迦は地震を鎮める)
・800年、富士大噴火
・818年、北関東地震
・838年、伊豆神津島大噴火
・864年、富士大噴火(富士五湖ができる)
・869年、東北沖大津波(一昨年の大津波はこの繰り返しだった)
  祇園祭の始まり
・879年、南関東地震
・887年、東海・南海大地震(八ヶ岳山体崩壊)
・915年、十和田大噴火(記録のあるうちでは日本最大)

全体としては、七世紀末から八世紀半ばに地震の活発期があって、八世紀後半は少し
静かになり、九世紀の四半世紀頃から再び地震が激しくなるということになります。


神泉苑で行われたお祓い神事









番組では祇園祭の起源はWikipediaの解説にあるように貞観5年(863)神泉苑で行われた
御霊会がはじまりであったことが紹介されています。
神泉苑の鳥越英徳住職が全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、
その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓ったと説明されています。
八坂神社より神泉苑に行列を組んで神事が行われた。

御霊会では早良親王(崇道天皇)をはじめ藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂らの怨霊を祭る

下記サイトに祇園祭の起源と歴史が簡潔に纏められていますのでリンクさせて頂きます
http://ii-nippon.net/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A5%AD/1779.html

広峰神社から八坂神社に移された牛頭天王




東京大学史料編纂所名誉教授の保立道久氏は『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で
祇園祭のはじまりについて当時頻発していた地震を鎮めることが大きく関係していると
述べられています。
磯田道史は歴史家の中でも新説が浸透してきているとコメントされました。




八坂神社は牛頭天王・スサノオノミコトを広峯神社から連れてくることで地震を鎮めようと
考え移された。
広峯神社に祀られている牛頭天王は後にスサノオノミコトと同一視され、疫病や災害などを
防ぐ神として全国に知られていた。

さらに保立氏は八坂神社は花折断層と桃山断層に挟まれたところにあり、広峯神社も
山崎断層の裾野に位置している。
断層の動く場所を神様の居場所と見定め神社を置いたとの論を説明されました。
(下の2枚の写真)






昨年の祇園祭 前祭 山鉾巡行についてブログを書いていますのでリンクしておきます。

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その1 1番目の長刀鉾~6番目の太子山

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その2  7番目の四条傘鉾~12番目の保昌山

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その3  13番目の鶏鉾~18番目の木賊山

祇園祭 前祭 山鉾巡行 on 2016-7-17 その4(最終回) 19番目の郭巨山~23番目の 船鉾
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ねじりまんぽと田辺朔郎氏の銅像 in 京都・蹴上 on 2017-4-13

2017年06月05日 04時34分51秒 | 京都情報
2013年11月3日BS朝日の百年名家の録画を観ていたら琵琶湖疎水と「ねじりまんぽ」の
映像があったのでそれに刺激されて2017年4月13日に訪問した写真を基に表題のテーマ
で記載していきます。

「ねじりまんぽ」とは地下鉄東西線蹴上駅を地上に上がってすぐのところにある歩行者用トンネル
の愛称で上からの大きな負荷に耐えられるよう、ねじったように斜めにレンガを
積んで作られたトンネルを意味します。英語ではNejirimanpo twisted tunnelとか
Spiral Brick Tunnelと訳されます。

英文での説明は下記サイトにあります。(京都 岡崎コンシェルジュのサイト)
 http://www.kyoto-okazaki.jp/spot/spnjmp

 Googleマップ(所在地の地図)へのリンク
 https://www.google.co.jp/maps/place/35%C2%B000'31.1%22N+135%C2%B047'24.5%22E/@35.0086483,135.7879625,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x0:0x0!8m2!3d35.0086483!4d135.7901512


上の写真は国道143号線側の入口
篆書(てんしょ)体で「雄観奇想」(ゆうかんきそう)と書かれた扁額が目立ちます。
扁額は粟田焼きで、揮毫は第三代京都府知事・北垣国道だそうです。

「雄観奇想」という意味は、辞書などでみると「優れた眺めと思いもよらない考え」という意味。
北垣国道は琵琶湖疎水が完成した姿を雄観と表現さらに若きエンジニアの田辺朔郎氏の突出した
アイデアを讃えさらに電力、水運、上水道に利用する水の多目的な利用を奇想と表現したと推定
されます。


上の写真は上述の百年名家の番組の映像です。


上の写真はトンネル入り口付近に掲示の京都一周トレイルの案内板です。






上の3枚の写真はトンネルの内部。
(下の2枚は上述の百年名家の映像より)


上の写真は反対側の入口部分です。
扁額には「陽気発処」と書かれているようですが字が消えてしまっていて判読できません。

『陽気発処 金石亦透 精神一倒 何事不成』
(ようきはっするところ きんせきまたとおる せいしんいっとう なにごとかならざん)
という言葉の一部で『集中して物事に挑めば何事でも成し遂げられる』という意味だそうです。
上述のサイトでは次のように英訳されています。
we can do anything with our concentration


上の写真は琵琶湖疎水記念館の展示で「雄観奇想」の扁額が展示されていました。

琵琶湖疎水事業は、第3代京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者
として、明治18年(1885)起工され、同23年(1990)に竣工した。

ねじりまんぽを設計・製作した田辺朔郎工学博士に焦点を当てて写真紹介していきます。


上の写真は田辺朔郎工学博士の業績を讃え建てられた銅像、顕彰碑と説明石碑の遠景です。


上の写真は田辺朔郎工学博士の銅像


上の写真は田辺朔郎氏の顕彰碑


上の写真は田辺朔郎工学博士の説明石碑

田辺朔郎は文久元年(1861)江戸に生まれる。明治15年(1882)に工部大学校(現在の東大工学部)
の学生であった田辺は京都の衰微を回復するため琵琶湖疎水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に
会い請われて翌年京都府に着任し 財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け明治18年(1885)
起工後は設計 施工の総責任者となる当時はほとんど機械 資材とてなく いわば人力のみに頼る
長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが 卓抜な技術と強い信念不屈の精神力により
これを克服した。 また優れた先見性により世界で2番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し産業動力源
とするとともにわが国初の路面電車を京都に走らせた明治23年(1890)4月晴れの通水式を迎えた
田辺朔郎は28才であった。わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に近代都市京都
の基礎をつくった恩人田辺朔郎の像を建てここに顕彰する
                        京都市


銅像は京都華頂ライオンズクラブが1982年11月に建て、京都市に寄贈した。(下の写真)









上の3枚の写真は琵琶湖疎水記念館の説明パネル(北垣国道知事と田辺朔郎工学博士)

疏水建設は当初、運河や水車動力が目的だったが、後に水力発電や上水道へと役割を変えた。
第二疏水も着工され、東京遷都によって沈滞していた京都の産業界は活力を取り戻した。
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蹴上(けあげ)発電所訪問記 on 2017-4-13

2017年05月06日 05時20分08秒 | 京都情報
2017年4月13日に琵琶湖疎水の水を利用した日本初の水力発電所「蹴上発電所」を敷地の外側
より写真を撮ってきましたので関連資料と共に紹介します。

琵琶湖疎水事業は、京都府知事北垣国道の発意により、田辺朔郎工学博士を工事担当者として、
明治18年(1885)起工され、同23年(1990)に竣工した。

一方、蹴上発電所は明治21年(1888)に田辺朔郎と高木文平はアメリカコロラド州アスペンの
銀山で視察した水力発電に関心を持ち,導入を決定しました。
第一期蹴上発電所は明治23年(1890)に建設工事が開始され明治24年(1891)に完成しました。

明治45年(1912)第2疏水の完成に伴い第一期蹴上発電所が取り壊され、第二期蹴上発電所が開業。

昭和11年(1936)には、第一期発電所の跡地に第三期発電所が建設された。

2001年に「琵琶湖疏水の発電施設群」として、夷川発電所、墨染発電所とともに
土木学会選奨土木遺産に認定されている


蹴上発電所(けあげはつでんしょ)の歴史や由来について、さらに詳細は下記サイトを参照
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000170052

蹴上発電所の現況については下記サイトを参照願います
http://www.kepco.co.jp/corporate/pr/2016/__icsFiles/afieldfile/2016/09/12/0912_1j_02.pdf

蹴上発電所の基本情報

住所:京都市左京区粟田口鳥居町1番地 TEL:関西電力 蹴上発電所 非公開(見学不可)
現況:運転中 着工:明治23年(1890)1月  運転開始:明治24年(1891)6月
発電方式:水路式 最大出力:4,500kW 発電電力量:16.7百万Kwh/年
最大使用水量:16.7㎥/s 有効落差:33.74m CO2削減量:約8,300t/年



上の写真は蹴上発電所周辺の地図

前置きが長くなりましたが早速写真紹介に入っていきます。

上の写真は蹴上発電所のあゆみに関する現地説明板です。


上の写真は上記の説明版の図の拡大版です。


上の写真は琵琶湖疎水記念館の展示パネルで夷川発電所、墨染(伏見)発電所が竣工した
年代も確認できます。

第1期蹴上発電所

上の写真も同じく現地の説明板で第1期蹴上発電所についてと年表が記載されています。
この中に今は残存していませんが当時の建物の写真がありましたので下に添付しました。






上の2枚の写真は第1期蹴上発電所で使用されていたペルトン式水車の展示(琵琶湖疎水記念館)と説明板





上の2枚の写真は第1期蹴上発電所で使用されていたスタンレー式発電機の展示(琵琶湖疎水記念館)と説明板

第2期蹴上発電所


上の写真は第2期蹴上発電所の現地説明板








上の4枚の写真は琵琶湖疎水記念館における第2期蹴上発電所に関する展示















上の7枚の写真は現存する第2期蹴上発電所の建物






上の3枚の写真は2013-11-3放送 BS朝日 「百年名家 京都琵琶湖疎水の流れる町」からの
第2期蹴上発電所に関するもので当時の電線は発電機ごとに電線が分かれていることを説明
したもので建物から電線の穴が多数あることが判る(現存)

第3期蹴上発電所


上の写真は第3期蹴上発電所の現地説明板


上の写真は第3期蹴上発電所の現況 撮影:2017-4-13

小生の関連ブログ:南禅寺の境内の水路橋「水路閣」 on 2013-1-30

         銀閣寺(慈照寺) on 2012-9-5    
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建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その3 法堂の天井画 小泉淳作氏の作品「双龍図」

2017年04月22日 04時10分04秒 | 京都情報
2014年の12月17日に建仁寺を訪問しています。

今回はその第3回として建仁寺・法堂の天井に描かれた小泉淳作氏の作品「双龍図」を紹介します。

第1回 建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その1 俵屋宗達の作品「風神雷神図」

第2回 建仁寺 訪問記 on 2014-12-17 その2 海北友松作の方丈の襖絵

建仁寺の基本情報

住所:京都市 東山区大和大路通四条下る四丁目小松町584
TEL:075-561-0190
山号:東山  御本尊:釈迦如来
宗派:臨済宗建仁寺派大本山 京都五山(注)の3位
開山:栄西  開基:源頼家

公式HP:http://www.kenninji.jp/

(注)京都五山:南禅寺(別格)・天龍寺(1位)・相国寺(2位)・建仁寺(3位)・
        東福寺(4位)・万寿寺(5位)

 Wikipediaによれば「京都五山=京都の禅寺の格付と一般に勘違いされやすいが、それは
  決して正しい解釈ではない。京都五山はあくまで足利氏の政治、政略的な格付けであり、
  大徳寺は同様の理由から格を下げられ、後に五山制度から脱却している」


公式サイト以外で建仁寺について詳しく纏められたサイトへのリンク

 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-11/2014_05_08.htm 

 http://takaoka.zening.info/Kyoto/Gion/Kenninji_Temple/index.htm 

 http://www.rinnou.net/cont_03/12kennin/





上の2枚の写真は小泉淳作氏の作品「双龍図」
作品は2年の歳月をかけ平成13年(2001)10月に完成
平成14年(2002)4月14日に開眼法要が行われました

龍が法の雨(仏法の教え)を降らすといわれ、また龍神は水をつかさどることから「火災から守る」
という意味も込められています




上の2枚の写真は小泉淳作の「双龍図」に関する現地説明板


上の写真は案内の看板 双龍図の他に仏像の写真もあったので添付しました。

作者の小泉淳作氏についてWikipediaより引用紹介します。

小泉 淳作(こいずみ じゅんさく、1924年10月26日 - 2012年1月9日)、は日本画家、陶芸家。

鎌倉市生まれ。政治家小泉策太郎の七男で、俳優小泉博は弟にあたる。山本丘人に師事し、
1952年東京藝術大学日本画科を卒業。その後デザイナーとして活動し、陶芸家としても注目された。
その間も日本画を画き続けたが、日本画家として注目を浴びたのは1970年代半ばである。
最近の重要な作品としては、建仁寺および建長寺の天井画がある。
陸軍予備士官学校の経験からか戦争には強烈な嫌悪感をもつ

父:小泉策太郎(立憲政友会所属の政治家)
母:大内ふみ
同母弟:汪(ひろし、俳優の小泉博)
異母兄弟姉妹多数、詳細不明(小泉策太郎の正妻には子がいない)
5歳のとき実母が急死し、東京広尾の本宅に移り住む。13歳のとき父小泉策太郎死去。
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