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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その11(最終回) 清海堀と龍城堀

2025年04月24日 05時31分58秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第11回(最終回)として清海堀と龍城堀をお届けします。
やっと、最終回に漕ぎ着けました。

シリーズ記事のIndex












清海堀

上の写真は本丸北側、本丸と持仏堂曲輪を隔てる堀で、岡崎城の最初の築城者
西郷頼嗣(よりつぐ)の法名である「清海入道」からその名がつけられた
「清海堀」は、岡崎城の中で最も古い堀と考えられています。


上の写真は清海堀 に関する現地説明板

龍城堀


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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その10 花時計と「からくり時計」

2025年04月22日 03時56分13秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第10回として花時計と「からくり時計」をお届けします。

シリーズ記事のIndex











花時計
上の写真が花時計です。知勇兼備の勇将「榊原康政」の家紋がデザイン
昭和35年(1960)3月に完成し稼働し続けています。


からくり時計

家康公の人形が毎時00分、30分に能を舞います。
近くには能楽堂があります。(下の2枚の写真)






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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その9 大手門と二の丸井戸

2025年04月20日 05時14分42秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第9回として大手門と二の丸井戸をお届けします。

シリーズ記事のIndex










大手門


上の写真は大手門
この大手門は岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として、平成5年(1993)に
建設されました。
本来の岡崎城大手門は現在の浄瑠璃寺の南(北東約200m)にあり記録によれば
1桁行10間、梁2間4尺であったそうです。

二の丸井戸



上の2枚の写真は二の丸井戸と現地説明板


上の2枚の写真は二の丸に関する現地説明板




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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その8 三河武士のやかた家康館

2025年04月19日 05時04分34秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第8回として三河武士のやかた家康館をお届けします。

シリーズ記事のIndex









三河武士のやかた家康館の基本情報
住所:岡崎市康生町561−1  TEL: 0564-24-2204 
開館時間:9:00~17:00
休館日:12月29日~31日
入館料:大人(中学生以上)400円 小人(5歳以上)200円
2024年3月23日にリニューアルオープン
開業:1982年11月3日 


館内での写真撮影が禁止であったのでほとんど写真はありません。
写真OKは1階エントランス・地階 体験コーナー

上の写真が唯一の写真です

三河武士のやかた家康館の常設展では、家康公の出生から天下統一までと、
それを支えた三河武士たちに関する解りやすい貴重な資料が展示されています。

当日の企画展は「短刀に魅せられて」が展示 現在は終了


展示室に日本刀の各部名称の資料がありましたので添付(上の写真)


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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その7 本多平八郎忠勝公銅像

2025年04月17日 05時24分13秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第7回として本多平八郎忠勝公銅像をお届けします。

シリーズ記事のIndex








上の写真が本多平八郎忠勝公の銅像です。
名槍「蜻蛉切」を携えています。
本多忠勝(1548-1610)は酒井忠次 、榊原康政 、井伊直政 と共に「徳川四天王」の一人。
徳川家康に過ぎたるもの「天下無双の勇士」と称賛された武将である。
「蜻蛉切」の名槍を操り、生涯57回の出陣で傷ひとつ負わなかった。

天正18年(1590年)、家康の関東移封の際に、忠勝に上総国大多喜5万石が与えられ、
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功で、翌慶長6年(1601年)1月、忠勝に
伊勢国桑名藩10万石が与えられ、忠勝の長男本多忠政の代に姫路藩15万石を領した。
本多忠孝の代に越後国村上藩に転封されたが、宝永6年(1709年)に幼少で急死し、
無嗣改易となるところ、忠勝の功により3分の1に所領を減らした5万石で
忠良への家名存続が許された。その後も転封が繰り返されたが、1769年以降は
三河国岡崎藩で固定され廃藩置県を迎えた(→岡崎本多子爵家)。
他にも複数の分家が存在した。


上の写真は本丸にあった映世神社の名残。
映世神社は本多忠勝公を祭神とする神社で明和3年(1766)岡崎藩主本多忠粛が創設。


本多忠勝は1560年、12歳で初陣、1601年領地替えで江戸から遠ざけられる。
1610年、62歳で死去。
墓所は 浄土寺(三重県桑名市)、圓教寺(兵庫県姫路市)、良玄寺(千葉県夷隅郡大多喜町)
上の写真は圓教寺(姫路市)にある本多家の墓所です。
中央部が本多忠勝公の廟屋です。戒名は西岸院殿長誉良信大居士。
慶長15年(1610)10月18日 享年63歳。
その左手には、廟屋に入っていないが、本多忠刻公(本多忠政の長男で千姫の婿殿
である)と忠刻公と千姫長男 幸千代君(享年 3歳)の五輪塔があります。
本多忠刻公の戒名は 円泰院殿黄山蒼雄大居士。 寛永3年(1626)5月7日 享年31歳。
忠刻の伴には宮本三木之助=宮本武蔵の養子、宮田角兵衛(三木之助の伴)、
岩原牛之助(忠刻の伴)の切腹殉死者の墓碑がある。

上の写真は本多忠勝の息子の本多忠政を中心とした系図です。
本多忠勝ー忠政の子孫としてWukipediaでは次のように解説しています。
水戸藩主徳川斉昭、15代将軍徳川慶喜らは忠政の末裔に当たり、経済学者の三木谷良一や、その次男である楽天グループ創業者の三木谷浩史も子孫にあたる(それぞれ本多忠明の曾孫、玄孫)

本多忠明についてWikipediaでは次のように解説しています。
本多 忠明(ほんだ ただあき)は、播磨国山崎藩第9代(最後)の藩主。官位は従五位下、正四位、肥前守。政信系本多家10代。
第8代藩主・本多忠鄰の次男として誕生(1833年)。幼名は鑑三郎。
明治2年(1869年)正月晦日、父の隠居で家督を継ぐ。同年の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。同年9月、東京に移った。1876年(明治9年)11月13日に隠居し、家督は弟の忠禎が継承した。明治34年(1901年)12月17日、69歳で死去した。法号は実想院殿真誉義山大居士。墓所は兵庫県宍粟市山崎町上寺の大雲寺


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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その6 岡崎公園内の徳川家康公像

2025年04月16日 04時01分15秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第6回として岡崎公園内の徳川家康公像をお届けします。

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上の写真は岡崎城天守の裏側に設置された出世ベンチの上に建つ徳川家康公と
徳川家康公の幼名「竹千代」の石像の遠景
上の写真は徳川家康公像の近景
上の写真は徳川家康公の幼名「竹千代」の石像の近景




上の写真は松平元康公=徳川家康の騎馬像。
平成4年(1992)に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として設置されました。
上の写真は徳川家康公銅像


上の2枚の写真は徳川家康公のしかみ像と現地説明板
徳川家康の「しかみ像」は、三方ヶ原の戦いで敗北した家康の姿を描いた肖像画で、
別名「徳川家康三方ヶ原戦役画像」とも呼ばれています。

上の写真はビジュアル江戸三百藩1の表紙で使用された徳川家康公のしかみ像
NHKの大河ドラマ(どうする家康)でも紀行で紹介されていた記憶があります
ビジュアル江戸三百藩は2015年10月13日・20日(株)ハーパーコリンズ・ジャパンより発行


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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その5 龍城(たつき)神社

2025年04月12日 03時39分37秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第5回として龍城(たつき)神社をお届けします。

シリーズ記事のIndex






上の写真は龍城(たつき)神社拝殿の近景

公式サイト

御祭神
  • 徳川家康公(東照公)
  • 本多忠勝朝臣
  • 天神地祇
    天の神(天照大神・スサノオノミコトなど)
    地の神(国土の神:大物主神・猿田彦大神など)
  • 諸国英霊
    戦争で活躍された兵士さん
龍城神社の歴史
 公式サイトより引用転記
1452年(宝徳4年)
三河国守護代、西郷稠頼が岡崎城を築城した際、城の井戸から龍神が現れ昇天した。
以降、天守に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城と称した。
1543年(天文12年)
徳川家康公生誕の朝、城楼上に雲を呼び、風を招く金の龍が現れたという伝説が残る。
家康公は戦乱の世を鎮め、泰平の世を築く。その偉業を称え、城内に東照宮を奉祀。
1766年(明和3年)
岡崎藩主本多忠粛は、本丸に本多忠勝公を祭神とする映世神社を祀る。
1876年(明治9年)
東照宮と映世神社を合祀。龍城神社となる。
1962年(昭和37年)
社殿再建を機に、天神地祇、岡崎市旧領の護国の英霊を合祀した。


上の写真は龍城神社の遠景
天守のすぐ近くに立地しています。
上の写真は拝殿の上部に掲示の龍の絵馬

上の写真は拝殿の天井部の龍の彫刻

上の写真は手水舎

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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その4 家康公遺言碑と龍の井

2025年04月06日 06時03分29秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第4回として家康公遺言碑と龍の井をお届けします。

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家康公遺言碑



わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し、
されども将軍の政道その理にかなわず、億兆の民艱難することもあらんには、
たれにても其の任に変らるべし、
天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務を
とりたりとも四悔安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、
家康が本意にしていささかも、うらみに思ふことなし

元和2年4月17日 家康公甍75歳於駿府城
大樹寺57世 宏天 謹書

元和2年(1616)4月17日は家康の亡くなった日ですので枕元で語った言葉を
家族か家臣が文章にまとめたものと推定されています。



上の写真は岡崎城天守の入口付近にある家康遺言碑の位置を示したものです

龍の井


龍城神社の、岡崎城との境目、東照公遺訓碑の横に、「龍の井」という井戸があります。



出世開運 龍の井
康正元年(1455年)岡崎城竣成の日、龍神の出現により、別名を龍ヶ城とした。
天文11年(1542年)、家康公、城内にご誕生の刻、金の龍が昇天したと伝える。
吉兆の度に、この井水が噴出し、龍神に注ぐ不可思議にこれを祈り、出世開運の井と称えられている。


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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その3 徳川家康公(東照公)えな塚

2025年04月02日 03時44分08秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第3回として徳川家康公(東照公)えな塚をお届けします。

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上の2枚の写真は東照公胞衣塚の近遠景です
上の写真は東照公えな塚の場所を示したものです


上の2枚の写真は現地説明板
岡崎城内で生まれた徳川家康の胞衣=読み方は「えな」(へその緒・胎盤)を埋めたと
伝えられる塚。
昔の日本では子どもの成長を願い、「えな」を埋める風習があったと言われます。
昭和11年(1936)に公園整備の一環として建立されました。
以前は本丸南にあった物を現在の場所に移されました。 


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岡崎城跡の岡崎公園 散策記 on 2025-3-11 その2 徳川家康公(東照公)産湯の井戸

2025年04月01日 04時05分09秒 | 愛知県
2025年3月11日、岡崎城跡の岡崎公園を散策してきました。
見所が沢山あるのでシリーズとして書いていきます。
本日はその第2回として徳川家康公(東照公)産湯の井戸をお届けします。

シリーズ記事のIndex


上の写真が徳川家康公(東照公)産湯の井戸です。
天文11年(1542)12月26日、竹千代君(徳川家康)は岡崎城内で生まれました。
東照公産湯の井戸は、徳川家康が生まれた岡崎城内で産湯に使用されたと
伝えられる井戸です。平成27年(2015)に井戸の水を汲み上げた「取り水場」が設けられ、
直接水に触れることができるようになった。 開運スポットとして知られています。

徳川家康公(東照公)が生まれた時に解説では、ここの水だけでなく、
松平家ゆかりの場所の井戸の水も早馬で運ばれて産湯に使われたとあります。
井戸そのものは意外に小さいですが、葵のご紋入りの玉垣で囲われ、さらに外側を竹垣が囲んでいるので、大きく感じます。

上の写真は現地解説板。

解説板の英文の説明文
Ubuyu no Ido (UBUYU WELL)
When the future Shogun  Tokugawa Ieyasu was born on the 26th day of
the 12th month of 1542(by the old Japanese calendar),water for the first bath
was said to have been drawn from the well. It  is also claimed that water well
also delivered   from Matsudaira village  in Toyota, Aichi Prefecture the born place of Ieyasu's  ancestors, the Matsudaira clan, and from the clan associated Rokusho Shrine.
Wells associated with historical figures are clan fevered in Japan.




上の2枚の写真は徳川家康公(東照公)産湯の井戸の場所を示した地図



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