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小野一柳藩で活躍した豪商、篤志家「近藤亀蔵」の功績

2021年06月25日 03時51分08秒 | 神戸市以外の兵庫県

本日は江戸時代後期から幕末に小野一柳藩で活躍した豪商、篤志家「近藤亀蔵」の功績を

メインテーマに記載していきます。

上の写真は近藤亀蔵翁の肖像画です。  出典:兵庫県立歴史博物館のパネルより

 参照資料:

  1)兵庫県教育委員会編 pfuku17_105_m.pdf (hyogo-c.ed.jp)

  2)小野史談 第12号 松村義臣 鶴亀池築造の碑 p34-p41

  3)小野市史 第二巻 小野市 近藤家記事の挿入 p552ー557

  4)ひろかずのブログ 東播農民運動史(9) 余話として、大地主:近藤亀蔵 - ひろかずのブログ (goo.ne.jp)

 

近藤亀蔵の年譜

  出典:1) 一部加筆

 天明元年(1781) 近藤亀蔵生まれる

  近藤家は加古川の舟運を利用した廻船業を営む豪商で大坂、兵庫、明石、高砂に倉を所有

  米、塩、木綿、肥料、木材、紙、たばこなどを売買していました

 文化元年( 1804)24歳で家督を継ぐ

 文化9年(1812) 一柳藩用人格となる

 文政2年(1819) 山田村に鶴亀池を築き始める

 文政11年(1828) 吉川と市場をつなぐ道完成

 天保3年(1832) 鶴亀池落成式

 天保4年(1833) 凶年のため米を安売り

 天保5年(1834)  金沢新田の開墾に着手

 天保7年(1836) 凶年のため米を安売り

 天保14年(1843) 鶴亀池の碑ができる

          敷地(しきじ)新田の開墾に着手

 天保15年(1844) 幕府より表彰される

 弘化4年(1847) 幕府より近藤の苗字をゆるされる

 嘉永元年(1848) 次男文蔵に家督を譲る

          凶年につき白米や雑穀を安売り

          中村新田の開墾に着手

 嘉永4年(1851) 大谷池の碑ができる

 安政3年(1856) 近藤亀蔵が死去(75歳)

   年譜には記載されていないが青野ケ原新田も開発

 

近藤亀蔵の功績

(1)灌漑用ため池の築造

鶴池と亀池は地域の水不足を解消するために、近藤亀蔵(1781-1856)が

文政11年(1828年)に、私財約3,000両を投じて造った溜池です。

池の畔には、天保14年(1843年)に建てられた近藤亀蔵氏の功績をたたえる石碑が

残されています。

天神町の大谷池も亀蔵が築造した池です。

 

(2)新田開発

金沢新田、敷地(しきじ)新田、中村新田、青野ケ原新田など新田を開墾した。

 

(3)凶年時、米などを安く売る

 

(4)北前船での商売で蓄財

 工楽松右衛門との交友有り 工楽松右衛門より臥牛石(750トン)を受領

(5)幕末期に長州藩への援助

 近藤家が長州藩の討幕派の活動を援助していた。伊藤博文も近藤家に潜伏していた。

(6)吉川と市場をつなぐ道を造成

 

 

鶴亀池造成の顕彰碑

上の写真は鶴亀池に建立された顕彰碑 出典:1)

 

上の写真は近藤亀蔵の鶴亀池造成顕彰碑(部分) 出典:3)

原文は『六諭衍義大意附録』(りくゆえんぎたいい)(勝田知郷 著/江戸中期の教訓書)

 

上の3枚の写真は近藤亀蔵の顕彰碑の全文と訓読及び語釈  出典:2)

「鶴亀池碑記」の内容を要約すると、近藤亀蔵は市場村の田畑は水の便が悪く一たび

日照りで少雨となると作物が枯れるのを手を拱いて待つばかりという状況を何とか

克服したいと予てより考えていた。隣の山田村の高地に窪地を見出し、そこを掘り込めば

きっと水が湧き出るものと思い、領主の一柳候に願い出て掘削の許可を得た。

予想通り水が湧き出し2つの池を造ることができた。たまたま1つの池に白鶴が舞い降りた

ので鶴池と呼ばれるようになった。もう1つの池は近藤亀蔵の功績から亀池と呼ばれる

ようになった。

この碑文を起草したのは林韑(あきら)、揮毫したのは三木高木一柳家で隠居していた

第10代近江守直敬(1802-1858) 順之助である。

起草者の林韑(1800-1859)は江戸在住の有名な儒者で江戸の一柳家屋敷に出入りし

藩主の一柳末延に講談したり詩文の添削をしていた関係で末延が「鶴亀池碑記」の

文章を起草してもらうように依頼していた。

寛政12年(1800年)に林述斎の六男で林復斎という名前で広く知られた人物。

嘉永7年(1854)日米和親条約調印の際、井戸覚弘(さとひろ)らと全権をつとめた。

上の写真は「六諭衍義大意附録」での勝田知郷による解説文 出典:2)

 

鶴亀池のGoogle地図

 所在地:兵庫県小野市山田町

 

 

近藤家の住居

 

上の2枚の写真はかって近藤家の屋敷があった万歳橋の東詰に残る土蔵の遺構

出典:Google ストリートビュー

近藤家の屋敷は加古川にかかる万歳橋の東側にあったが、天保4年(1833)9月14日

加古川流域で起きた一揆により見事なまでに潰された。

出典 4)によれば、原文は神戸新聞社の連載「故郷燃える 1巻」

「市場亀蔵、阿弥陀か釈迦か、お門(かど)通れば後光さす」と、当時の俗謡に歌われている。

何でも相撲の番づけ表に見立てるのが日本人の好みで、江戸時代大はやりしたが、

享保年間(1730年ごろ)に、はじめて「日本長者鑑(かがみ)」という長者番づけが

出たとき、東西の両横綱として上げられたのは、東が出羽の本間、財産四十万で、

西は播磨の近藤、六十万両であり、近藤家は日本一の大金持ちと折り紙をつけられた。

 

 

 

上の写真はかっての近藤家の屋敷の配置図 出典:1)

上の写真は近藤家屋敷の残影  出典:1)

 

 


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