CHIKU-CHANの神戸・岩国情報

神戸・岩国の最新情報を紹介していきます。また、最近のキーワード についてメモを作成していきます。

藤原京 大極殿院 北門跡の発掘調査

2018年09月15日 07時30分55秒 | 奈良情報
奈良文化財研究所は2018年9月13日、奈良県橿原市の藤原宮跡で、天皇が重要儀式を
執り行う「大極殿」を四方に囲む回廊の北門跡を確認したと発表しました。
北門の北側には天皇の住まいである内裏があり、天皇が政治を行う大極殿と普段の
生活の場である内裏を行き来する際に利用した際に利用されていたと思われます。
発掘調査では、門の4つの柱のうち南東隅の柱を据えた柱穴を確認した。
門の南北規模は約5・8m、東西規模は約4・7mとみられる。
南門(東西約35m、南北約10m)、東門と西門(共に南北約29m、東西約6.6m)よりも
かなり小規模であるが、門の基壇が削られるなど遺構の残存状態が悪いことから、
奈文研はもっと大きかった可能性もあるとしている。
また、大極殿院の回廊の東西規模は約116mと推定通りだった。
現地説明会は15日午後1時半から行われる。


尚、大極殿院の回廊、南北方向の長さは152mであることが確認されています。
下記サイトに発掘調査に関する報道 日経新聞電子版(2018-3-1)
飛鳥藤原京第195次調査
 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2756519001032018CR8000/

上記の内容の報道をNHKテレビ(2018-9-14)で知った。
NHKの報道に加えて2016年12月22日に藤原京跡を訪問した時の写真を加えて
ブログを作成していきます。


Gooブログの記事
奈良・橿原の藤原京跡で「大極殿北門」跡を確認 天皇の公私の空間分ける重要な門


まず、発掘現場の概要を把握するために現地の写真を添付しました。

出典:橿原市 藤原京資料室展示パネルに手書きで追加






上の3枚の写真は橿原市 藤原京資料室展示の藤原京の模型です。
撮影:2016-12-22




上の2枚の写真は特別史跡 藤原京跡の現地説明板です。撮影:2016-12-22
朝堂院南門跡付近に掲示されていたものです。


上の写真は大極殿院を中心とした周辺の図を整理したものです。








上の4枚の写真は上述のNHK報道


上の写真は今回の大極殿院北門付近から大極殿跡であろうと推定される森
を臨んだ風景 撮影:2016-12-22


上の写真は大極殿東門跡の発掘調査地 撮影:2016-12-22




上の写真は大極殿院の大極殿跡地の近景 撮影:2016-12-22


上の写真は大極殿院閣門(南門)の現地説明板 撮影:2016-12-22


最後に2018-9-15の藤原宮大極殿院の発掘調査(第198次調査)「現地説明会」
大極殿院北門跡と回廊跡について実際に行かれた方のサイトにリンクさせていただきました。

 https://blog.goo.ne.jp/izumi_s11/e/870ff390bababba7c0ac5da82425edcf


http://guesthouse-egao.com/2018/09/15/「飛鳥藤原京第198次調査-現地説明会」に行ってき/



関連サイト:
 奈良文化財研究所 現地説明会

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日本に最初に来たインド僧 菩提僊那(ぼだいせんな) on 736年 

2018年09月13日 07時34分20秒 | 奈良情報
本日、2015年1月2日、NHK総合テレビで21時から放送された番組「世界遺産ドリームツアー!
「外国人が驚く! 古都 奈良&京都」の録画を観た。

この中で、表題の菩提僊那(ぼだいせんな)が紹介されていた。
忘れないうちにメモとして残す為にブログを作成した。
菩提僊那は東大寺大仏の開眼供養(752年)の導師を勤めたインドから来た僧です。





上の2枚の写真は東大寺蔵の四聖御影の中から撮った菩提僊那(ぼだいせんな)です。

菩提僊那についてはWikipediaの解説を引用させていただきます。

菩提僊那(ぼだいせんな、サンスクリット語: बोधिसेन、Bodhisena ボーディセーナ、
704年 - 760年3月16日(天平宝字4年2月25日)は、奈良時代の渡来僧。
婆羅門僧正、菩提僧正、菩提仙那とも称される。
中国に滞在中に日本の入唐僧の招請を受けて736年(天平8年)12月13日に来日。
752年(天平勝宝4年)4月9日に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として
導師をつとめた。弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』および『東大寺要録』中の
「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている。



上の写真は東大寺蔵の四聖御影です
聖武天皇(701-756)の右隣に描かれているのが菩提僊那です。
菩提僊那は57歳で亡くなっていますが絵から推定すると晩年の菩提僊那像と
思われます。東大寺大仏殿開眼供養が行われた752年当時、菩提僊那は49歳でした。

尚、四聖御影の前の2人は行基と良弁。



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東大寺東塔院跡

2018年07月04日 05時34分01秒 | 奈良情報
本日は東大寺東塔院跡について調べてみました。
写真を中心に紹介します。


上の写真は東大寺大仏殿の内部にある東大寺創建時の模型から東塔院付近を拡大
したものです。 撮影:2018-4-8

東大寺創建時の伽藍 復元模型 on 2018-4-8

上の動画は東大寺創建時の伽藍 復元模型(撮影:2018-4-8)


上の写真は奈良市役所の展示パネルの説明図で東塔の図面です。
その威容が想像できます。

東大寺東塔院跡はその名の通り、創建時に造営された「七重塔」があった場所です。
創建は奈良時代の天平宝字8年(764)頃と言われています。
初代の塔はその後約400年経過した平安末期の治承4年(1180)平重衡の南都焼き討ち
によって一度焼失した。その後鎌倉時代の嘉禄3年(1227)頃に復興を経て、
室町時代(南北朝時代)の嘉禄3年(1362)に落雷に伴う火災で再度焼失し、その後は
再建されることがありませんでした。

かつての東塔は、「東塔院」と呼ばれるように、東西南北4か所の門を有する重厚な回廊
によって塔が囲まれた形を取っていたと言われ、七重の塔の高さは33丈(約100m)と
23丈(約70m)とする2種類の記述があります。






上の2枚の写真は東大寺付近の地図と航空写真で東塔と西塔のあった位置が記載されています。


上の写真は奈良市役所の平城京の模型の東大寺付近拡大図で東塔と西塔の七重の塔の
威容がビジュアルに確認できます。

奈良文化財研究所と東大寺・奈良県立橿原考古学研究所は、2015年に発掘調査団を
組織して、東大寺の東塔院跡の発掘調査を行っています。
写真などは「なぶけんブログ」の記事を参照してください。

2015/11/21と2017/10/7に現地説明会が行われています。
 奈文研の現地説明会資料へのリンク:https://www.nabunken.go.jp/fukyu/account.html


上の写真は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の企画展「2016年発掘調査速報展」
のリーフレットで東大寺東塔院跡の七重塔の基壇の発掘調査の写真が使用されています。

奈良文化財研究所では2017年7月19日から11月10日の期間、東大寺東塔院跡の回廊の一部と
南門の実態解明と東門、西門の位置や遺存状態の確認を目的として発掘調査されました。

現地説明会は2017年10月7日に実施されました。



上の2枚の写真は発掘調査の現場
出典:奈文研ニュース No.67 Nov.2017

成果1:南門の土台=基壇の規模は東西に約16m、南北に約13mあり、
    柱を立てた礎石の配置などから、門の規模は東西約12.9m、南北約7.2m


成果2:回廊の構造は中央を壁で仕切られた2列の複廊

成果3:上記の鎌倉時代の南門と回廊の規模と構造が判明したと同時に創建時の基壇も残存


奈良テレビニュースのサイトで簡明な報道をされていますのでリンクさせていただきます。
 http://www.naratv.co.jp/news/20171003/20171003-05.html
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隆光大僧正の墓石 on 2017-12-28

2018年06月03日 04時00分51秒 | 奈良情報
2017年12月28日、平城宮跡(奈良市二条町)の北側にある佐紀古墳群を中心
に散策をしている最中に本日紹介する隆光(りゅうこう)大僧正の墓石を見つけました。

この地は超昇寺(ちょうしょうじ)跡で現在は佐紀こだま保育園(かっては佐紀幼稚園が
あった)の敷地の裏側(南側)にあります。

隆光大僧正の墓石の基本情報

所在地:奈良市佐紀町2715
問い合わせ先:隆光僧正顕彰会事務局・山城町延命院内 TELは0774-86-5171
生年月日:慶安2年2月8日(新暦換算1649年3月20日)
没年月日:享保9年6月7日(新暦換算1724年7月26日)


所在地のGoo地図を添付しておきます。
 
近くには佐紀神社があります。


上の写真は隆光大僧正の墓石です。


上の写真は卒塔婆


上の写真は隆光大僧正の墓石であることを示す標石


上の写真は現在に残る超昇寺(現在廃寺)の住職などの墓石





上の2枚の写真は現地説明版


隆光大僧正は、慶安2年(1649)この地(大和国佐紀村)の河邊家に生まれ、長谷寺等で
学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設しました。
「生類憐れみの令」を綱吉の母・桂昌院に進言し、その援助で大和の社寺修復に
尽くしました。特に永禄10年(1567)松永久秀が焼き、142年間雨ざらしの東大寺
大仏殿再建に当たり、東大寺の公慶上人を助け再建した功績は大きい。

晩年は故郷の超昇寺(現在廃寺)に引退し、享保9年(1724)に亡くなりました。

上記の記述とだぶる部分もあるがWikipediaより隆光大僧正について引用紹介します

1658年(万治元年)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学した後、奈良・醍醐で密教を
修め、儒学・老荘をも学んだ。1686年(貞享3年)5代将軍徳川綱吉の命により将軍家の
祈祷寺である筑波山知足院の住職となったの機に、急速に綱吉の帰依を得た。
10月3日に江戸城黒書院で安鎮法を修している。1688年(元禄元年)には知足院を
神田橋外に移して護持院と改称してその開山となった。1695年(元禄8年)には
新義真言宗の僧では初めて大僧正となっている。
宝永4年2月25日隠居し、駿河台成満院へ転住する。
しかし、綱吉の死去と共に失脚。宝永6年(1709年)には江戸城への登城を禁じられ、
筑波山知足院への復帰願いも認められず[要出典]、失意の内に大和に帰郷し没したという。
墓所は大阪府太子町と奈良市の佐紀幼稚園裏の2カ所にある。
綱吉及び綱吉の生母桂昌院の寵を受け、生類憐れみの令を発令することを勧めたと
されていたが、生類憐れみ政策の研究が進むと政策が開始された時期は貞享2年以前と
考えられており、隆光主因説は後退している。また、京・奈良の寺社の再建を
綱吉・桂昌院親子に奨めた人物でもあり、幕府の財政悪化の遠因ともなった。


最後にこの付近から観た復元された平城宮第1次大極殿の写真を添付しておきます。




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「平城京」復元模型 in 奈良市役所 on 2017-12-28

2018年05月14日 05時08分29秒 | 奈良情報
2017年12月28日、奈良市役所に展示されている「平城京」の復元模型の
写真を撮りましたので紹介します。
東西8.3m×南北6.4mの巨大な模型です。


上の写真は平城京の復元模型(縮尺1/1,000)の遠景。
南側から北側に向けて撮ったものです。


上の写真は北側から南側に向けて撮ったものです。


上の写真は東側より西側に向けて撮ったものです。

昭和34年(1959)に平城京復元模型作成委員会、昭和50年(1975)には平城京模型
作成研究調査会を発足させ、模型製作に取り組み事業開始後、約16年経った昭和52年
(1977)2月に完成公開されています。

平城京の大きさは「東西8.3m×南北6.4m」で約24㎢ 中国の随・唐時代の首都「長安」
の約4分の1の規模です。
和銅3年(710)に藤原京から遷都され延暦3年(784)桓武天皇により長岡京に遷都
されるまで日本の首都として機能した。
平城京の人口は7万人とも20万人とも推定されています。
世界的にも当時は世界有数の大都市であったと思われます。

平城京の南北を走る最も広い道が「朱雀大路」で、道路の幅は約70m×長さは
約3,700mあり、都の正面玄関にあたる羅城門から、平城京の正門である朱雀門を結ぶ
メインストリートでした。


上の写真は平城京の全体図で主要な寺院や宮城などの位置を示したもの
出典:山川 詳説日本史図録 

都の中心の平城宮から羅城門を向いて左手を左京、右手を右京と呼び
左手の張り出し部を外京と呼びます。

都の中心の平城宮には、皇居である内裏、政治や儀式を行う大極殿、朝堂院のほか
多くの国の役所が並び、その周囲には高さ約5mほどの築地塀を巡らせ、奈良時代の
政治の中枢機能を果たしていました。


上の写真は平城京復元模型のあらましを記載した説明板です。(現地に掲示)

再現されている寺院は上記の説明で記載されているように26箇所の寺院ですが、
具体的な名称は以下に記載のとおりです。大寺13(東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・
法華寺・西隆寺・西大寺・薬師寺・唐招提寺・紀寺・菅原寺・新薬師寺・秋篠寺)、
小寺13(佐伯院・葛木寺・海龍王寺・伴寺・穂積寺・阿弥陀浄土院・服寺・禅院寺・
殖槻寺・姫寺・平松寺・三松寺・法世寺)


上の写真は平城京条坊復元図
出典:奈良市観光振興課 平城京 復元模型のしおり

都の道路は一条から九条まで東西に走る「大路」、南北方向には朱雀大路と平行に
一坊から七坊までの「大路」があり、大路間は一辺510mの正方形の区画で、更に
小路で16分割し一辺約120mを1坪(14,400㎡)としています。
1坪の16分の1で約900㎡

平城京内の住宅として約7,300戸が復元されました。
その内訳は以下のとおり。
 1坪以上       3戸
 1坪の宅地     20戸
 1/2坪の宅地    76戸
 1/4坪の宅地   約690戸
 1/8坪の宅地   約2千5百戸
 1/16坪の宅地   約4千戸


上の写真は奈良ロータリークラブが制作した平城京条坊重ね図 タイムトリップマップ
の解説「平城京のはなし」からの引用です。


上の写真は平城宮の北側の「佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群」の古墳で
右手よりウワナベ古墳、コナベ古墳、少し上のヒシャゲ古墳(磐之媛陵)、水上池が
写っています。


上の写真は東大寺大仏殿付近で七重の塔が目立つ伽藍だったことが判っています。

東大寺創建時の伽藍 復元模型 on 2018-4-8

上の動画は東大寺創建時の伽藍 復元模型(撮影:2018-4-8)




上の2枚の写真は東大寺創建時の頃の事情が書かれた説明パネル


上の写真は現在の東大寺伽藍を示したもので七重の塔の位置が示されています。

奈良文化財研究所と東大寺・奈良県立橿原考古学研究所は、2015年に発掘調査団を
組織して、東大寺の東塔跡の発掘調査を行っています。
写真などは「なぶけんブログ」の記事を参照してください。
2015/11/21と2017/10/7に現地説明会が行われています。
 奈文研の現地説明会資料へのリンク:https://www.nabunken.go.jp/fukyu/account.html



上の写真は東大寺創建時の東塔の模型 東大寺大仏殿にて撮影:2018-4-8


上の写真は奈良市役所の掲示の資料で奈良時代の主な出来事が記載されています。


上の写真は奈良ロータリークラブが制作した平城京条坊重ね図 タイムトリップマップ
の解説「奈良時代 歴代天皇と御陵」からの引用です。

関連ブログ:
 西大寺 旧境内地の金堂院 発掘調査 By 奈良文化財研究所 on 2014-7-1

 奈良散策 on 2010-4-18 (その2) 興福寺

  奈良散策記 その3 元興寺(がんごうじ)

 奈良散策 on 2010-4-18 (その4) 春日大社

 奈良薬師寺の食堂跡の発掘調査 By奈良文化財センター

 深江北町遺跡から東大寺大仏建立に関わる寄付活動を記した木簡が見つかる

  平城宮跡東院地区の発掘調査(平城第593次調査) で台所跡などが見つかる

 鑑真大和上と唐招提寺

 史跡大安寺旧境内 講堂の調査(DA137・140次)

 平城宮跡 第2次大極殿跡と朝堂院跡 on 2016-10-5

 平城宮跡 内裏の井戸 on 2016-10-5

 平城宮跡の東院庭園 on 2016-10-5

 平城宮跡の造酒司の井戸 on 2016-10-5


 平城京左京三条二坊十四坪(奈良警察署跡)の発掘調査 現場説明会 on 2015-12-20

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乙巳(いっし)の変と甘樫丘東麓遺跡

2018年04月16日 04時39分04秒 | 奈良情報



上の写真は談山神社に残る多武峰縁起絵巻で、蘇我入鹿暗殺の場面と首以外の胴体の
遺骸が運び出される場面です。所謂、乙巳(いっし)の変を描いたものです。


明日香村に史跡として残る板蓋宮は、645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)
に発生したクーデター(乙巳の変)の舞台となった。
この日、皇極天皇の眼前で大臣の次期後継者である蘇我入鹿が刺殺される
という凶行がなされ、翌日(6/13)蘇我入鹿の父蘇我蝦夷が自邸に火をつけて
自害したことで蘇我氏宗家は滅亡した。ここから「大化の改新」と呼ばれる
政治改革が始まることになる。

「日本書紀」には皇極3年(644)に蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)親子の
邸宅があったと記録されており、その場所とされているのが奈良県明日香村の
甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡である。
蘇我蝦夷の舘は「上の宮門(うえのみかど)」、
蘇我入鹿の舘は「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼ばれていた。

2018年4月4日(水) 午後10:25~午後11:10 放送のNHK「歴史秘話ヒストリア」
発見 蘇我入鹿の棺 よみがえる“大化改新”」でも
乙巳の変と蘇我蝦夷、入鹿の邸宅に関する番組があったことから表題のような
テーマで話を進めていきます。

まず、私の新聞スクラップ(下の写真)より甘樫丘東麓遺跡の発掘調査を担当している
奈良文化財研究所の2014年の紀要に下記表題の検討がなされました。
14C年代ウイグルマッチングによる甘樫丘東麓遺跡の年代学的検討 第171次
新聞はこの結果について結論が紹介されています。

甘樫丘東麓遺跡の炭化材の年代(95.4%の確率)は605年~645年であった。

結果の詳細は下記サイト。
 https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/6381/1/BA67898227_2014_123_126.pdf




次に、奈良文化財研究所の過去の発掘調査結果の成果をまとめていきます。


上の写真は177次調査現地説明会資料で書かれた発掘調査の行われた場所です。

1993年度からの発掘調査
第71-11次(1993年度)が初調査、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の整備に伴い
遺跡の有無や状況を確認するために発掘調査が行われた。
第75-2次調査では7世紀中頃の焼土、焼けた壁土、炭化した木材、多数の土器を確認
7世紀後葉から藤原宮期に大規模な整地が行われたことも確認
報告書:藤原概報25

2005年度の発掘調査(第141次)
国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の整備にともなう試掘調査で2005年8月~11月に実施。
調査地は丘の麓から北西に入り込む約6,000mの平坦な谷地で幅5m、長さ145m
の調査の結果、大規模な整地層と6棟の掘立柱建物、3条の塀を確認

建物や石垣などの遺構は、7世紀前半のもの(Ⅰ期)、7世紀中頃~後半のもの(Ⅱ期)、
藤原宮期(7世紀末期)のもの(Ⅲ期)の、3時期に分かれるようです。
「紀要2006」で報告

2006年度の発掘調査(第146次)
2006-10-4~2007-3-14に調査 
7世紀代の3時期(上記)にわたる大規模な整地と建物が検出された。
7世紀前半(Ⅰ期)の石垣を確認。
今回検出された建物は規模が小さく焼けた痕跡も見られなかった。
日本書紀によれば蘇我氏は滅亡時に天皇記などを燃やしているが邸宅が燃えて焼失した
との記述はない。今回の調査ではⅡ期、Ⅲ期の整地層に焼土や炭を含み、工房関係の
遺構、建物も出土している。焼土は工房に由来している可能性もあり、注意が必要
建物配置の全容解明が課題。

現地説明会(2007-2-11)の様子を詳細に記載されているサイトがありましたのでリンク
 http://sendo.fc2web.com/flame02/20070211amakasihigasi/amakashi146.htm

奈文研ニュース No.24 Mar.2007にも概要が記載されています。

2007年度の発掘調査(第151次)
2007-11月~  建物跡を確認 現地説明会は2008-3-29
奈文研ニュース No.29 June 2008に概要が記載

2008年度の発掘調査(第157次)
2008年12月17日~  
現地説明会資料は下記サイトよりダウンロードできます。
 http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14909
第146次(2006年度)の石垣の検出を含め7世紀前半から中頃の石垣遺構34m
が確認された。このほか石組の溝をめぐらせた石敷き50点を超える土師器、須恵器
建物跡なども確認。

2009年度の発掘調査(第161次)
2009年12月~2010年6月  現地説明会:2010-3-20

斜面の中腹に7世紀の柱穴を確認。丘陵上部の遺構が広がる可能性
調査区南端の下層調査で7世紀前半の谷の造成や炭・焼土層の広がりを確認

2011年度の発掘調査(第171次)
2011-9-22~2012-?-?    現地説明会:2012-3-4

工房的な施設の一部が谷入口部付近の存在

2012年度の発掘調査(第177次)
2013-1(C区)~2013-?    現地説明会:2013-9-7

7世紀半ばごろの2棟の建物跡が見つかったと発表されました。2棟の建物跡が
確認されたのは、邸宅跡の中心部とみられる場所の北約100m地点。
1棟は東西4.5m、南北3.9m。柱穴の配列から高床式の倉庫跡などとみられるとの
ことです。別の1棟の規模は東西5.4m、南北3m。建物の性格は不明とされています。
敷地内では、谷を最大で5.5m以上も埋め立てる大規模な造成工事がされており、
飛鳥盆地を見下ろす丘を広範囲に邸宅として利用していた可能性も考えられると
コメントされています。

現地説明会の詳細は下記サイトで確認で確認できます。
 http://www.gensetsu.com/20130907amakashi/index.htm


上の写真は上述のNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」からのもので
甘樫丘東麓遺跡の蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅跡と小山田遺跡と菖蒲池古墳が
描かれています。


上の写真も上述のNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」からのもので
番組では蘇我氏一族の古墳が主要道路の要所に配置されたとの解説がありました。

さらに番組では中大兄皇子と中臣鎌足が初めて出会ったとされる槻の木の広場
(飛鳥寺西方遺跡)蘇我氏初代の蘇我稲目の屋敷跡とされる向原寺内の豊浦宮跡の
紹介がありましたので写真を添付しておきます。




また、同じく番組で蘇我蝦夷・入鹿の親子の家形石棺が菖蒲池古墳に安置され
石棺が蝦夷・入鹿親子の邸宅を模したものだという仮説を紹介されていたので
写真を添付しておきます。





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西大寺バルでのランチ on 2017-12-28

2017年12月29日 06時18分06秒 | 奈良情報
昨日(2017-12-28)は平城宮跡と佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群を散策するために
奈良に来ていました。当日は西大寺バルで昼食を頂きましたので写真紹介します。
2回目の訪問です。

西大寺バル 英文で Saidaiji barは長く親しまれていたイタリアン「PUZZLE」が
閉店後の2012年10月15日に開店した店で開店から約5年とのこと。

西大寺バル Saidaiji bar の基本情報
住所:奈良市西大寺栄町3−10 サンク栄町ビル1F 
TEL:0742-55-0290
営業時間:月・水~日 ランチ 11:30~15:00
           ディナー 17:00~23:30
休日:火曜日 (祝日の場合は営業)


公式Facebook:https://www.facebook.com/473225722789815/photos/a.473226196123101.1073741825.473225722789815/473226202789767/?type=1&theater

西大寺バルの位置を示したGoo地図は初回の訪問記に記載しています。


上の写真は当日注文したパスタランチ 850円(税込)
パスタはベーコンときのこのトマトソース


追加料金でホットコーヒー(100円)とデザート(200円)も注文




上の2枚の写真はお店の外観


上の写真はランチメニュー


上の写真は1ランク上のメニュー表


上の写真は忘年会、新年会などのパーティメニュー


上の写真はお店の前の看板(メニュー表)
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平城宮跡東院地区の発掘調査(平城第593次調査) で台所跡などが見つかる

2017年12月27日 07時01分40秒 | 奈良情報
平城宮跡東院地区の発掘調査(平城第593次調査) で奈良時代後半の大型井戸跡と、
水路でつながる建物跡が見つかり、奈良文化財研究所が2017年12月21日発表した。

続日本紀には天平勝宝6年(754)1月7日46代女帝孝謙(48代称徳)天皇(2度即位)は
東院で五位以上の役人と宴会(後の白馬の節会に相当)をしたこと、さらに
神護景雲3年(769)1月17日、宝亀1年(770)1月8日にも宴会が開催された
記録が残っています。また種々の儀式もこの時期東院で挙行されていました。
49代光仁天皇(在位770-781)の時代にも773年に完成した東院・揚梅宮で
宴会が行われたことが上述の続日本紀で記載されています。


これらの儀式や宴会を支える台所跡であった可能性がある発掘担当者が発言されていました。

現地説明会は12月23日(土)に行われました。
現地説明会に行けませんでしたがTVや新聞報道から纏めてみました。


上の写真は今回見つかった井戸跡、水路、建物跡の発掘現場 
  出典:TV報道(12/24MBS)より

井戸は約4m四方で、周囲を囲む石組みを含めると南北約9m、東西約9・5mと平城宮最大級。
溝を覆う建物跡は南北9m、東西18m以上と推定されるそうです。



上の写真は現場説明会(2017-12-23)の様子 出典:TV報道(12/24MBS)より


上の写真は平城宮跡付近の航空写真 
  出典:平城宮跡資料館(奈良文化財研究所)のパネル展示
平城宮は約1Km四方の敷地と東側に東西約250m、南北750mの張り出し部を持ち、
その南半分の南北350mの範囲を東院地区と呼んでおり皇太子がいる時はその居所
「東宮」として、いない時は内裏に準ずる天皇の居所「東宮」、「東院」、「東内」
として利用され、神護景雲元年(767)に完成した東院玉殿(瑠璃色の瓦を葺き彩色)
宝亀年間(770~780)には「揚梅宮(やまもものみや)」に改造
高麗福信(*1)が造営卿として造営を担当

 *1 Wikipediaより引用
 高倉 福信(たかくら の ふくしん、和銅2年(709年) - 延暦8年10月8日
(789年11月3日)は、奈良時代の公卿。氏姓は背奈公のち背奈王、高麗朝臣、高倉朝臣。
高句麗王族と伝承される背奈福徳の孫で、背奈福光の子。官位は従三位・弾正尹。



上の写真は奈良時代後期の平城宮
 出典:平城宮跡資料館(奈良文化財研究所)のパネル展示





上の2枚の写真は発掘された遺物。
 土師器の甕(かめ)、すり鉢、タライなどが出土
 出典:2017-12-23NHKテレビの報道






上の3枚の写真は発掘担当者の解説    出典:2017-12-23NHKテレビの報道






上の3枚の写真は奈良時代における食事の再現
  出典:平城宮跡資料館(奈良文化財研究所)の展示及びパネル展示

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鑑真大和上と唐招提寺

2017年12月10日 05時28分10秒 | 奈良情報
唐招提寺には2012年6月7日に訪問し訪問記のブログを作成しました。(下にリンク)
 唐招提寺の御影堂の鑑真像、没後1250年を記念して特別公開 


唐招提寺はデジタル大辞泉の解説によれば
「奈良市にある律宗の総本山。開創は天平宝字3年(759)、鑑真(がんじん)の開山で、
ここに戒壇を設け律宗の根本道場とした。金堂、平城宮の朝集殿を移築した講堂、
経蔵・宝蔵などは奈良時代の建物で国宝。薬師如来像・鑑真和上(わじょう)坐像(国宝)
のほか多数の文化財を所蔵。平成10年(1998)「古都奈良の文化財」の一つとして
世界遺産(文化遺産)に登録された。招提寺。」


最近BS-TBS高島礼子・日本の古都#90 2時間スペシャル 世界遺産歴史ミステリー
「鑑真と唐招提寺1200年の謎」(2017年9月8日放送)の録画を観たことも
あり表題のテーマで纏めてみることにしました。

乾漆鑑真和上坐像


上の写真は乾漆鑑真和上坐像です。 鑑真和上は
688年〈持統天皇2年〉生まれ - 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉没
像が鑑真の弟子の忍基(にんき)他が鑑真和上の死期を知り手作りで造立
したと伝えられる像でわが国初の肖像彫刻で国宝に指定されています。
脱乾漆像で重量は12Kgと軽く火事でもすぐに持ち出せ造立当時のものが残されて
います。出典:総合日本史図表 監修 坂本賞三、福田豊彦 第一学習者(1994)

鑑真和上、日本への渡海
鑑真和上は日本の2人の僧、栄叡と普照の懇願を受け入れ日本への渡海を決意したが
5回の失敗を重ね6回目で日本への上陸を果たした。

上の写真は中国揚州大明寺で鑑真和上に懇願する栄叡と普照

Wikipediaよりその経緯を追ってみる。

1回目 743年夏 鑑真55歳 渡海を嫌った弟子が港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」
    と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた

2回目 744年1月 鑑真55歳 周到な準備の上で出航したが
    激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。

3回目 744年鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が
    逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。

4回目 744年 栄叡は病死を装って出獄に成功し、
    江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を
    立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を
    気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、
    4回目も失敗する。

5回目 748年 鑑真60歳 栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。
    懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月
    風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の
    漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、
    海南島に数々の医薬の知識を伝えた。751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を
    離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ
    向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の
    気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。


上の写真は海南島から揚州までの2,500Kmの旅程で鑑真の1番弟子祥彦(しょうげん)
と日本の僧栄叡(ようえい)が死去してしまう。出典:上述BS-TBS番組

6回目 753年、遣唐大使の藤原清河らが鑑真のもとに訪れ
    渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、清河は鑑真の同乗を
    拒否した。それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は清河に内密に第二船に鑑真を
    乗船させた。天平勝宝5年11月16日(753年12月15日)に
    遣唐使の四舟が同時に出航する。第一船と第二船は12月21日に阿児奈波嶋
   (現在の沖縄本島)に到着。第三船はすでに前日20日に到着していた。
    3船は約半月間、沖縄に滞在する。12月6日(754年1月3日)に南風を得て、
    第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰嶋(国)(現在の種子島)
    に向けて就航する。 出港直後に大使・藤原清河と阿倍仲麻呂の乗った第一船は
    岩に乗り上げ座礁したが、第二船・第三船はそのまま日本(多禰嶋)を目指した
    のち第一船はベトナム北部に漂着。第一船の一行は唐に戻ることとなる。
    7日後(七日去)の天平勝宝5年12月12日(754年1月9日)に益救嶋(現在の屋久島)
    に到着して鑑真の来日が叶った。鑑真66歳。
   朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つこと6日後の12月18日に大宰府を目指し出港する。
   翌19日に遭難するも古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日(754年1月17日)に
   秋目(秋妻屋浦。鹿児島県坊津)に漂着[1]。 その後12月26日に、大安寺の延慶に
   迎えられながら大宰府に到着。奈良の朝廷への到着は、翌天平勝宝6年2月4日
   (754年3月2日)である。
(参照『唐大和上東征伝』『続日本紀』)


上の写真は遣唐使の4隻の船団が東征する様子 出典:上述BS-TBS番組


上の写真は天平勝宝6年2月4日(754年3月2日)奈良平城京に到着の様子
 出典:上述BS-TBS番組


上の写真は律宗の10の戒律


鑑真和上、日本での活動

天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に
   隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

天平勝宝6年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、
  孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する
  こととなった。
  4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた
  これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立された。
 
天平宝字2年(758年)淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる
  労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。
  鑑真大和上70歳

天平宝字3年(759年)新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、
 戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、
                     日本にこれらの知識も伝えた。
 また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。鑑真大和上71歳

天平宝字5年(761年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、
  大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に
  整備されていった。 鑑真大和上73歳

天平宝字7年(763年)5月6日唐招提寺で死去(遷化)した。享年76歳
   
唐招提寺

唐招提寺の基本情報

住所:奈良市五条町13−46 TEL:0742-33-7900
宗派:律宗 御本尊:廬舎那仏 開基:鑑真 759年創建

公式サイト:http://www.toshodaiji.jp/about.html

Goo地図を添付しておきます。
 


上の写真は唐招提寺の現地説明板(2012-6-7撮影)
唐招提寺と鑑真は井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった
さらの昭和55年(1980)には映画化もされ鑑賞した記憶があります。


唐招提寺の意味は「各地から集まった僧が住むところ」出典:上述BS-TBS番組

金堂


上の写真は金堂の建物(国宝) (2012-6-7撮影)
金堂は天平期に建立された建物で火災に遭っていないので建設当時に近い形で
残されている。当時の最先端の建築様式でパルテノン神殿と同じ8本の
エンタシス柱で重量を支えています。
唐招提寺は私寺であったため経済上の困難も多く、770年代に入り鑑真の弟子の
如宝らによって建立されました。

金堂は平成の大修理が平成12年(2000)より奈良県教育委員会文化財保存事務所の主導
によりスタートし平成21年(2009)11月の落慶法要まで10年をかけて実施されました。


上記修理の中で天平期の色を確認された。(上の写真)出典:上述BS-TBS番組


確認された色彩をベースにコンピューターグラフィックで金堂が再現された(上の写真)
出典:上述BS-TBS番組


金堂内の仏像彫刻




上の2枚の写真は金堂内の仏像で中央が乾漆盧舎那仏坐像、右は木心乾漆薬師如来立像
左は木心乾漆千手観音立像 3体ともに国宝  出典:上述BS-TBS番組

御本尊の乾漆盧舎那仏坐像の台座内組板に漆部造弟麻呂、物部広足、沙弥浄福などの
名が記されています。





上の2枚の写真は乾漆盧舎那仏坐像(国宝)のX線写真撮影風景と仏像の手の部分
から2つの水晶製数珠が見つかった(両手で4つ)鑑真和上が使用していた数珠か?
出典:上述BS-TBS番組


上の写真は平成の大修理の際に分解された木心乾漆千手観音立像 木心乾漆千手観音立像

金堂内には上記の三尊以外に木造梵天、帝釈天立像や木造四天王立像(いずれも国宝)
があります。


上の写真は木造梵天立像 出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造 帝釈天立像
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 持国天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 増長天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 広目天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


上の写真は木造四天王立像 多聞天
   出典:重要文化財4 彫刻Ⅳ 文化庁監修 毎日新聞(1975)


講堂


上の写真は講堂(国宝)平城京の東朝集殿を移築・改修された。
平城京の官庁を知る唯一の遺構である。
 出典:上述BS-TBS番組


上の写真は平城京の東朝集殿(儀式の時に百官が参集する場所)
 出典:上述BS-TBS番組

鑑真和上坐像の里帰り

1980年に鑑真和上坐像は故郷中国の揚州の運搬され公開されました。









上の5枚の写真はその時の様子です。 出典:上述BS-TBS番組
 






 
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法楽山 専称寺と網干 善教先生

2017年09月11日 04時11分38秒 | 奈良情報
故網干 善教先生(あぼし よしのり、1927年9月29日 - 2006年7月29日)は、
日本の考古学者、関西大学名誉教授。専門は考古学、古代史、仏教史。
文学博士(関西大学、1979年)。昭和47年(1972)、関西大学助教授で
奈良県立橿原研究所所員だった時に高松塚古墳で彩色壁画を発掘されたことで
知られています。

古代文化研究会 月刊発掘情報 第3号(1997.11.1)に網干先生が1997年の
10月4日に関西大学で行われた考古学入門講座で高松塚古墳の発掘調査について
講演された内容の要旨が掲載(Page53-56)されていました。

高松塚古墳と網干善教先生について調べていたら法楽山 専称寺が先生の生家である
ことが判りましたので備忘録として残しておきます。


上の写真は法楽山 専称寺 撮影:2017-1-9






上の3枚の写真は都塚古墳の現地説明会があった時(2014-8-16)に撮影の専称寺

法楽山 専称寺の基本情報

住所:奈良県高市郡明日香村祝戸101
宗派:浄土宗 山号:法楽山  御本尊:阿弥陀如来


Goo地図を添付
 

網干善教先生についてWikipediaより引用紹介させていただきます。

網干善教先生の父の網干順三は梶井基次郎の異母弟。順三は1924年(大正13年)9月、
奈良県磯城郡桜井町(現・桜井市)の浄土宗大願寺の徒弟となり、その後宇陀に住む
マサヱと結婚し、1927年(昭和2年)9月29日に長男の善教が生まれた。
善教の生家は石舞台古墳のすぐ下にある専称寺という浄土宗の寺で、1933年(昭和8年)
から始まった第一次石舞台発掘調査に接して考古学に関心を持つようになる。
旧制畝傍中学校(現、奈良県立畝傍高等学校)時代より、京都帝国大学考古学研究員で
あった末永雅雄(橿原考古学研究所初代所長、関西大学名誉教授、文化功労者、
文化勲章受章者)が陣頭指揮を執る石舞台古墳の発掘調査に参加するなど、考古学に傾倒し、
橿原考古学研究所に通いつめ、末永の薫陶を受ける。中学校を卒業後、佛教専門学校
(現、佛教大学)に学び、末永博士が教えていた龍谷大学文学部史学科へ進学。
以降、末永博士の講義を学部、大学院、その後と17年間聴き続けた。
龍谷大学大学院文学研究科修了。文学博士。関西大学助教授で奈良県立橿原研究所所員だった
1972年、高松塚古墳で彩色壁画を発掘、日本中に考古学ブームをもたらした。
その後、末永雅雄の後任として関西大学文学部教授、同博物館長を経て名誉教授。
その後、佛教大学講師などを歴任。末永門下で三羽烏の一人(他に森浩一、伊達宗秦)。


網干善教先生について紹介したサイトへのリンク
 http://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/70/21_greatman/index.htm

 http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY200705070108.html

高松塚古墳と被葬者について紹介したサイトへのリンク
 http://www.bell.jp/pancho/k_diary-6/2012_03_24.htm

2017年5月12日(金)放送の歴史秘話ヒストリア「飛鳥美人 謎の暗号を解け~高松塚壁画のヒミツ~」を視聴して
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