goo blog サービス終了のお知らせ 

CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

橿原考古学研究所博物館に展示のエビノコ郭のエビノコ大殿の模型

2025年05月11日 05時41分01秒 | 奈良情報
2025年3月28日、橿原市、明日香村をレンタサイクルを借りて散策してきました。
雨の中、カッパを着ての散策旅でした。
最初に訪問したのは橿原考古学研究所博物館で本日はその展示からエビノコ郭
(エビノコ大殿)の模型を写真紹介します。


エビノコ大殿は1977年に現在の明日香村役場の東南で巨大な建物跡が見つかりました。
この建物は土地の小字名をとって「エビノコ大殿」と名付けられました。
建物は9間×5間と飛鳥では最大の規模を誇ります。



上の2枚のエビノコ郭の場所を示す為に添付しました
出典:2024年11月30日・12月1日に実施の現地説明会資料(飛鳥京跡第191次調査)
上の写真も飛鳥宮付近の広域図でエビノコ郭についても発掘調査に基づき正確に記載

上の写真は飛鳥宮の宮殿のイメージ図(明日香村発行 飛鳥京絵図より)


上の写真は前園実知雄氏の著書「律令国家前夜」(2022)の表紙で使用された
飛鳥宮の宮殿の周辺イメージ図。
一番下はエビノコ郭の建物のイメージ図。その上が飛鳥宮の宮殿のイメージ図。

「日本書記」天武天皇10年(681)2月25日の条に、天皇と皇后がともに大極殿
において、親王、諸王、諸臣に対して「律令を定め、方式を改める」との詔を
出したことが記載されています。これがいわゆる「飛鳥浄御原令」の発布とみられる。

上記、大極殿がエビノコ大殿であった可能性が高い。
天武天皇期、飛鳥浄御原宮の政治の中心として大極殿にあたる建物がエビノコ大殿
だったと考えるとロマンが広がり楽しい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橿原考古学研究所博物館でエントランスホールに展示のメスリ山古墳の埴輪 on 2025-3-28

2025年05月10日 05時32分19秒 | 奈良情報
2025年3月28日、橿原市、明日香村をレンタサイクルを借りて散策してきました。
雨の中、カッパを着ての散策旅でした。
最初に訪問したのは橿原考古学研究所博物館で本日はエントランスホールに展示の
メスリ山古墳の埴輪について写真紹介します。

上の写真が橿原考古学研究所博物館エントランスホールに展示の奈良県桜井市
メスリ山古墳から出土の大型円筒埴輪です。
説明書きによれば2005年に奈良芸術短期大学が復元製作されたようです。

本物は橿原考古学研究所の所蔵品で現在は九州国立博物館で開催中の「埴輪展」
で展示されています。

上の写真が九州国立博物館に展示の本物のメスリ山古墳の円筒埴輪
撮影:2025年4月10日

4世紀に製作された口縁部が受け口状になっている器台形の円筒埴輪。
高さが242cm、厚さが2cm弱と極めて薄く高い技術により製作された。
石室を取り囲む二重の埴輪列のなかで最大の2個体のうちの一つである。
重要文化財に指定されています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

橿原考古学研究所博物館のエントランスホールに展示の横田堂垣内の刳り抜き井戸

2025年05月09日 04時49分55秒 | 奈良情報
2025年3月28日、橿原市、明日香村をレンタサイクルを借りて散策してきました。
雨の中、カッパを着ての散策旅でした。
最初に訪問したのは橿原考古学研究所博物館でエントランスホールに展示の
横田堂垣内の刳り抜き井戸について写真紹介します。

上の写真が展示の横田堂垣内の刳り抜き井戸
上の写真は展示の写真パネル

上の写真は説明パネルの文章。読み難いので転記しておきます。

大和郡山市横田町小字堂垣内に所在する横田堂垣内遺跡で、奈良時代の大きな井戸が確認されました。
堀り方の規模は長径6.2m、短径5.7m、深さ3.3mで、その中央はこのヒノキの一木を刳り抜いた井戸枠が据えられていました。
長さは3.1m、直径(外径)は1.0mを測ります。
これまでに県内で確認された奈良時代の一木を刳り抜き井戸のなかでは、斑鳩町法起寺7次調査に次ぐ極めて大きいものです。
井戸枠の外面には手斧の加工痕が明瞭に残っています。
一方、内面は比較的平滑に仕上げられています。井戸枠下方2ケ所には方形の
孔が穿 たれており、そこには外面から別材がはめ込まれています。
この別材には「下」の墨書が認められました。
位置は井戸枠の上下と一致しており、井戸の設置時あるいは加工時に
必要とされたものと考えられます。

上の写真は同じく説明パネルで手斧(ちょうな)による加工の様子

上の写真は方形の別材が埋め込まれている部分の拡大図で「下」の文字が確認できます。

関連サイト

上記サイトには発見された場所の写真が掲載されています。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川原寺跡(弘福寺)への訪問記 on 2025-3-28

2025年05月08日 05時22分50秒 | 奈良情報
2025年3月28日、川原寺跡(弘福寺)へ訪問し写真を撮りましたので紹介します。

川原寺は、飛鳥にあった仏教寺院。跡地は国の史跡に指定されている。
第37代斉明天皇の時代(在位655~661年)火災に遭った飛鳥正宮(板蓋宮)を新たに造営
する間、斉明天皇は飛鳥川原宮に仮住まいされました。
斉明天皇は661年、九州の「朝倉橘広宮」(福岡県朝倉市) で崩御されました。
崩御された斉明天皇を供養するために建てられたのが川原寺です。 
往時は飛鳥寺(法興寺 )・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」
の1つに数えられた大寺院であったが、中世以降衰退し廃寺となった。
現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺が法燈を継承する。
また、川原寺は日本書紀の天武天皇2年(673年)3月の記事によれば、
「書生(書き手)を集めて川原寺において初めて一切経を書写した」とある。
この事から日本で写経が行われた最古の記録とされています。

川原寺(弘福寺)の公式サイト:

所在地は奈良県高市郡明日香村川原1109 でGoogleマップを添付しておきます。


上の写真は史跡川原寺址の石碑と後方の弘福寺 
上の写真は飛鳥京跡第191次調査の現地説明会で使用された資料に記載の川原寺跡
飛鳥川を挟み飛鳥京跡の西に川原寺が造営されました。
出典:2024年11月30日・12月1日に実施の現地説明会資料



上の写真は川原寺跡の西側から東側に向けて撮った遠景
上の写真は川原寺跡の五重塔の台座(復元)

上の写真は川原寺跡の北側から南側を観た遠景 橘寺の伽藍が見えています。



上の写真は弘福寺の本堂と本堂前の現地説明板
本堂付近が中金堂があった場所になります。

上の写真は上記説明板より川原寺の伽藍配置図
上の写真は同じく上記説明板より中金堂跡のメノウ礎石に関する説明
上の写真は弘福寺に掲示の資料



上の3枚の写真は川原寺跡からの出土品の展示と説明パネル
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影

上の写真は上述の展示のうち川原寺の解説パネル拡大版
ここに川原寺と伎楽(クレカクラ)に関する記述があります。
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影

上の写真は上述の展示のうち川原寺の復元模型の写真パネル拡大版
復元模型は奈良県立飛鳥資料館で展示されています。
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影
上の写真も同じく上述の展示より川原寺の造営時の想像スケッチ拡大版
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影


上の2枚の写真も明日香村埋蔵文化財展示室の復元塼仏壁に関する展示
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影
川原寺の塼仏壁に関するWikipediaの解説
1974年(昭和49年)、川原寺の裏山の板蓋神社から、千数百点におよぶ塑像の断片や塼仏が発掘された。塼とは土製品を焼いたもので、材質的には煉瓦に近い。川原寺裏山からは、縦横とも20cmほどの板状の塼に三尊仏を浮き彫りにした三尊塼仏が大量に発掘されている。塼仏が1箇所から大量に発掘された事例は日本で他になく、その用途ははっきり解明されていないが、仏堂の壁面を塼仏で埋め尽して荘厳していたという説が有力である。

上の写真も同じく明日香村埋蔵文化財展示室の展示で飛鳥諸宮の変遷のパネル
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香村 岩屋山古墳への訪問記 on 2025-3-28

2025年05月07日 04時42分48秒 | 奈良情報
2025年3月28日、橿原市、明日香村をレンタサイクルを借りて散策してきました。
雨の中、カッパを着ての散策旅でした。
本日は近鉄の飛鳥駅近くの岩屋山古墳を写真紹介します。

岩屋山古墳の基本情報  
住所:奈良県高市郡明日香村大字越小字岩屋山516
古墳の形態:2段造成の1段目は方墳(一辺約54m)、2段目は八角形?
      高さ 約12m
古墳の造成年代:7世紀中葉から7世紀第3四半期
国の史跡に指定された年:昭和43年(1968)
発掘調査:昭和53年(1978)史跡環境整備事業による調査 By橿原考古学研究所
被葬者:不明だが候補者として吉備姫王、巨勢雄柄宿禰、斉明天皇

所在地のGoogleマップを添付しておきます。





上の3枚の写真が岩屋山古墳の遠景、石室入口、石室内部


上の写真は現地の説明板 読み難いので転記しておきます。

「史跡 岩屋山古墳 Historical Site Iwayayama Tumulus

岩屋山古墳は、7世紀代の一辺約54m、高さ約12mの方墳と推定されており、
墳丘の西半分は現在失われている。石室は南面に開口する横穴式石室で、花崗岩の
切石を用いて構築されている。石室の規模は全長約16.7m、玄室は長さ約4.72m、
幅約2.7m、高さで側壁、奥壁二段に切石を積み、下段はほぼ垂直に上段は内側に
傾斜している。羨道は、長さ約12m、幅約1.9mで、入口側の側石は二段積みとなる。
羨道南端の天井石には閉塞施設のための溝が切り込まれていることや、一段高く
なっていることにも特徴がある。また玄関南側の床面には集水のための円形の
掘りこみがあり、ここから羨道のほぼ中軸に並行して排水溝が設けられている。
The Iwayayama Tumulus is assumed to have been a square burial
mound 54m on each side and about 12m high from the 7th century,
but most of the soil from the western half of the mound
has disappeared.
The stone chamber opens to the south through a horizontal entrance
corridor,and was built with dressed granite stones,The stone
chamber is about 16.7 long overall,with the burial chamber about
4.72m long ,2.7m wide,and 2.6m high.
The side and inner most walls have two steps,with the lower step
nearly perpendicular and the upper step slanted inwards.
The passageway to the burial chamber is about 12m long and 1.9m
wide,with two step on the side stone by the entrance.
The ceilling stone at the southern end of the passageway has
a groove cut into it for sealing the chamber,and is also raised
one step.The floor of the south sade of the burial chamber has
a circular depression for collecting water with a duct for draining
the water nearly parallel the central axis of the passageway.

明日香村」

上の写真は岩屋山古墳の音声ガイドを聞くためのQRコード
上の写真は墳丘の上に立つ樹木

上の2枚の写真は墳丘から観た近鉄飛鳥駅方面の景観 遠くの山が霞んで情緒のある光景でした

上の写真は現地に行く途中で見つけた道標


上の写真は現地に行く途中に撮った道案内の標識

近くには斉明天皇と娘の間人皇女の合葬陵であることが有力な牽牛子塚古墳、
真弓鑵子塚古墳、マルコ山古墳、中尾山古墳など多くの古墳が分布

Wikipediaの情報 によれば
岩屋山古墳の石室は両袖式の横穴式石室で岩屋山式と呼ばれ、石室の編年の
指標の1つとなっている。

奈良県から南河内にかけての地域には、岩屋山古墳の石室と平面・立面の規格が
同一である古墳、あるいは同一の仕様で規模を縮小した古墳が複数存在する
出典:土生田純之『古墳』、(歴史文化ライブラリー)、吉川弘文社、2011の
pp.184 - 186。
奈良県桜井市ムネサカ第1号墳の横穴式石室は本古墳の石室と同形同大で、また
同県橿原市の小谷古墳、同県天理市の峯塚古墳は本古墳の石室の規格を一部縮小
したものである。
さらに大阪府叡福寺北古墳(伝聖徳太子墓)の石室も現在調査不可能であるが、
古記録によればこれらと同じ形式に属するとされる(出典:土生田純之『古墳』)
白石太一郎はこれらを総称して岩屋山式と呼び古墳時代終末期の横穴式石室の
代表的な形式の1つとしている。
また、奈良県艸墓古墳、同県西宮古墳など岩屋山古墳の壁面構成を単純化し、
岩屋山式に後続する型式の横穴式石室を岩屋山亜式とも呼んでいる。
出典:白石太一郎「畿内における古墳の終焉」『国立歴史民俗博物館研究報告第1集』 1982年 79頁-120頁


被葬者の記述で述べた吉備姫王の墓は猿石がある場所として有名である。
過去の訪問記にリンクしておきます。

最後に観光PRパンフレット「飛鳥」より広域エリアマップと岩屋山古墳付近の
拡大図を添付して筆を置きます(下の2枚の写真)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日香村 真弓鑵子塚古墳への訪問記 on 2025-3-28

2025年05月06日 16時06分12秒 | 奈良情報
2025年3月28日、雨の中レンタサイクルを借りて牽牛子塚古墳・越塚御門古墳などを
訪問した折に、近くにある真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)にも
立ち寄りましたので写真紹介します。

牽牛子塚古墳・越塚御門古墳への訪問記は下記ブログを作成しています。

「注意 この先の真弓鑵子塚古墳は、民有地内のため侵入禁止」の看板があった為
現地説明板付近からの遠景を撮るだけに終わりました。
上の写真は真弓鑵子塚古墳と思われる遠景


上の写真は真弓鑵子塚古墳に通じる小道を中心にした遠景

 


上の2枚の写真は牽牛子塚古墳の近くに掲示の地図で見る真弓鑵子塚古墳の位置と説明書き

所在地の住所は 奈良県高市郡明日香村越181
所在地のGoogleマップを添付しておきます。

上の写真は現地説明板
上の写真は現地説明板に掲示の埋葬施設

上の写真も同じく現地説明板の説明図で埋葬施設の名称図

真弓鑵子塚古墳の現地説明板やWikipediaの情報から要点を記載しておきます
古墳の様式と規模:約40mの円墳 高さ8m 2段造成
造成時期:6世紀中~後半
石室の仕様:石英閃緑岩の巨石を積み上げた右片袖式の穹窿状(ドーム状)横穴式石室
 壁面は6-7段積みによって構築、特に3段目以上は急激に持ち送っており、天井はドーム状(穹窿状)を呈する。天井石は3枚。石室の床面には、幅約30cm・深さ約7cmの排水溝が認められる。また羨道部では人頭大の石材の閉塞石が認められる
石室の規模:床面面積は約28㎡で、日本最大級の規模
 石室全長は17.8m(または19m以上)
 奥室は長さ3.7m、幅2.0-2.2m、高さ2.2-2.4m
 玄室は長さ6.5m、幅4.3m、高さ4.3m
 羨道は長さ6.6m、幅2-2.2m、高さ2.2m
 
出土品:銀象嵌刀装具・玉類・馬具・鉄鏃・須恵器・土師器(ミニチュア炊飯具)
被葬者:周囲には、渡来系要素を持つ与楽古墳群が存在することから、この古墳も渡来系東漢氏(やまとのあやうじ)に関連すると考えられる。
Wikipediaでは下記のように解説されています。
一帯では、同様のドーム状天井の横穴式石室として与楽カンジョ古墳・与楽鑵子塚古墳などが所在するほか、ミニチュア炊飯具など渡来系遺物がスズミ1号墳・与楽古墳群(英語版)・寺崎白壁塚古墳などから出土しており、本古墳もまた渡来系氏族(特に東漢氏一族)の墓と推測される

過去の調査:Wikipediaより転記
1913年(大正2年)、奈良県史蹟調査会による調査(1915年に報告)。
大正時代刊行の『高市郡古墳誌』に記述。
1962年(昭和37年)11月、石室実測調査(末永雅雄ら後期古墳研究会)。
範囲確認調査(明日香村教育委員会、2010年に報告書刊行)。





上の2枚の写真は渡来系遺跡からの出土品の展示と説明パネル
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影

関連サイト

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【若一調査隊】奈良・飛鳥 緊急取材!大発見があった飛鳥宮跡とその近くに眠る謎の巨石が眠る酒船石遺跡 誰が何のために造った石? 謎の石造物が点在する理由とは…

2025年04月25日 05時29分55秒 | 奈良情報
【若一調査隊】奈良・飛鳥 緊急取材!大発見があった飛鳥宮跡とその近くに眠る謎の巨石が眠る酒船石遺跡 誰が何のために造った石? 謎の石造物が点在する理由とは…

上に添付のYoutube動画に関連して2025年3月28日に訪問した明日香村、橿原市で
撮った関連写真及び過去のブログからの写真も紹介していきます。

飛鳥宮跡 
天武・持統天皇期の建物跡(天皇家の住居か)の一部が発掘調査されました。

上の写真が史跡「飛鳥宮跡」(飛鳥京跡第191次調査)発掘現場の遠景
撮影:2025-3-28
上の2枚の写真調査地の場所
出典:2024年11月30日・12月1日に実施の現地説明会資料
上の写真は発掘現場の様子
出典:2024年11月30日・12月1日に実施の現地説明会資料の表紙
上の写真は飛鳥宮跡の建物跡の詳細
出典:2024年11月30日・12月1日に実施の現地説明会資料

上の写真は飛鳥宮跡の建物跡の解説
出典:2024年11月30日・12月1日に実施の現地説明会資料


上の2枚の写真は飛鳥宮跡の大型建物付近から観た北側の景観
撮影:2025-3-28



飛鳥宮跡北東部




上の3枚の写真は飛鳥跡宮跡北東部
撮影:2025-3-28

上の写真は現地説明板 撮影:2025-3-28
上の写真は飛鳥宮跡の建物に関する現地説明板 撮影:2025-3-28

上の写真は飛鳥宮の変遷に関する現地説明板 撮影:2025-3-28

上の写真は飛鳥宮跡Ⅲ期(斉明天皇期)遺構配置図 撮影:2025-3-28

上の写真は飛鳥宮跡の内郭北東部の現地説明板 撮影:2025-3-28

謎の石造物

上の写真は猿石 明日香村埋蔵文化財展示室の展示 撮影:2025-3-28


上の2枚の写真は亀石と現地説明板 撮影:2025-3-28

上の写真は石人像と須弥山石の写真展示(明日香村埋蔵文化財展示室の展示)
撮影:2025-3-28

牽牛子塚古墳


訪問記は下記ブログ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牽牛子塚古墳・越塚御門古墳への訪問記 on 2025-3-28

2025年04月08日 16時23分37秒 | 奈良情報
2025年3月28日、雨の中レンタサイクルを借りて牽牛子塚古墳・越塚御門古墳などを
訪問しましたので写真紹介します。
上の写真は北西から観た牽牛子塚古墳・越塚御門古墳
牽牛子塚古墳・越塚御門古墳は建造された当時に復元され2022年3月6日から公開されています。
内部の見学を含めて見学の詳細は下記公式サイトで確認できます。
上の写真は石室の見学に関する現地の掲示



上の写真は南東から観た牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の遠景

牽牛子塚古墳・越塚御門古墳の所在地は奈良県高市郡 明日香村越189他
Googleマップを添付しておきます。

牽牛子塚古墳 
牽牛子塚古墳は、7世紀後半ごろ築造され、八角形を3段重ねた形の古墳。
宮内庁は、同県高取町の古墳を斉明陵として指定しているが、研究者は日本書紀などの
記述や天皇陵に多い八角墳の特徴から牽牛子塚古墳を斉明陵とみる
別名、アサガオ塚とも呼ばれます。
被葬者は斉明天皇と娘の間人皇女を667年2月に合葬
上記は日本書紀の記述からほぼ確実とみられています。

但し、宮内庁の陸墓指定では斉明天皇陵は車木ケンノウ古墳(高取町)
=小市岡上陵(おちのおかのうへのみさき)と比定 
 


上の2枚の写真は日本書記の記述部分
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー

関連の記述として
日本書紀の天智天皇の六年の春二月に雨豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と
間人皇女とを小市岡上陵に合葬したが、この日、皇孫、太田皇女を陵前の
墓に葬ったとの記述がある。





上の3枚の写真は牽牛子塚古墳及び八角墳の現地説明板

上の2枚の写真は発掘時の写真



上の2枚の写真は牽牛子塚古墳の石室に関する現地説明板

上の写真は斉明天皇のイメージ絵
出典:明日香村埋蔵文化財展示室の展示 2025-3-28撮影

牽牛子塚古墳の副葬品
上の写真は現地説明板

上の写真は明日香村埋蔵文化財展示室の牽牛子塚古墳の副葬品展示
出典:2025年4月2日(水)10ch読売テレビ 若一調査隊


上の2枚の写真は私が撮った明日香村埋蔵文化財展示室の展示
撮影:20205-3-28

越塚御門古墳 
上の写真は越塚御門古墳の現地説明板
被葬者は日本書紀の記述から斉明天皇の孫の大田皇女とされています。 






上の写真の黄色矢印が越塚御門古墳です。
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー

越塚御門古墳の発見の経緯についてWikipediaでは次のように纏められています
2010年10月中旬、牽牛子塚古墳周辺の発掘現場を埋め戻す最中、明日香村教育委員会の
技師である西光慎治は、古墳の南東約20mに埋まっていた1mほどの石に人為的に割れた
痕跡があったため、気になってその周辺を発掘したことが発見に繋がった


上の写真はNHK番組歴史探偵で解説された西光慎治さん
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー

牽牛子塚古墳 と越塚御門古墳の配置 

上の写真は現地説明板による配置図

上の写真はNHK「歴史探偵」で紹介の牽牛子塚古墳・越塚御門古墳(陵前之墓)
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー


八角形の古墳 

上の写真は八角形の古墳(5つの八角形天皇天皇陵)に関する現地説明板
645年を境として四角形(蘇我氏の影響)から八角形の天皇陵墓が採用されていきました。
下記は5つの八角形天皇陵 
段ノ塚古墳   34代 舒明天皇(在位629年-641年)
牽牛子塚古墳  35代 皇極天皇(在位642年-645年)?
              &37代 斉明天皇?(在位655年-661年)
御廟野古墳(山科陵) 38代天智天皇(在位661年-668年)
野口王墓古墳  40代 天武天皇(在位673年-686年)
        41代 持統天皇(在位690年697年)
中尾山古墳   42代 文武天皇?(在位697年-707年)
 御廟野古墳は飛鳥ではなく京都府山科区にあります。
上の写真はNHK総合テレビ「歴史探偵」で説明された5つの八角形天皇陵
出典:2023年5月10日放送 NHK総合テレビ 歴史探偵 名作選 飛鳥の古墳ツアー
上の写真も同じく八角形の天皇陵の仕様及び所在地に関する現地説明板

飛鳥に関する下記動画にGooで共有 
鈴木亮平、ご飯を食べる時のしあわせそうな表情にほっこり【いざいざ奈良 新CM「飛鳥編」】

関連ブログ 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中谷本舗 橿原神宮売店で購入した柿の葉寿司 on 2025-3-28

2025年04月05日 05時10分05秒 | 奈良情報
2025年3月28日、雨の中でしたが奈良県橿原市と明日香村を散策してきました。神戸より日帰りでの小旅行です。
帰りに近鉄橿原神宮駅の構内にある中谷本舗 橿原神宮売店で 柿の葉寿司を
購入しましたので写真紹介します。その日の夕食としていただきました。

中谷本舗 橿原神宮売店の基本情報
住所:奈良県橿原市久米町618 近鉄橿原神宮駅構内 TEL:0744-24-6227
創業:大正10年(1921)、奈良・上北山村で米屋として創業
 

上の写真はお店のショーウィンドーの柿の葉寿司
当日は柿の葉すし2種6個入り907円(税込)を購入しました。
上の写真は2種の内容で「鮭」と「鯖」です。
上の写真は当日の夕食
購入した柿の葉寿司とミネストローネのスープです。
ニンジン、玉ねぎがタップリと入っています。
昨年5月9日、妻をすい臓がんで亡くし一人寂しく夕食を食べる毎日です。


上の写真は柿の葉寿司の由来の解説
上の写真はいざさ寿司の由来の解説

上の写真は召し上がり方と保存についての説明書

当日(3月28日)の昼食は下記ブログで書いています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良県 近鉄飛鳥駅前 食彩酒音 パレットでのランチ on 2025-3-28

2025年04月05日 04時51分31秒 | 奈良情報
2025年3月28日、近鉄飛鳥駅前にある食彩酒音 パレットでランチをいただきましたので
写真紹介します。初訪問のお店です。
当日は雨の中、レンタサイクルで橿原市、明日香村を散策してきました。

食彩酒音 パレットの基本情報  
住所:奈良県高市郡明日香村越11-6  TEL:080-9747-0369 
営業時間:昼11:30~15:00 夜18:00~21:00
定休日:なし 不定休でInstagramで通知
オープン日:2022年11月18日 

所在地のGoogleマップを添付しておきます。

飛鳥駅前100m圏内で駅から徒歩1分以内に立地しています。

上の写真は当日注文したお好み焼き定食 1,420円(税込)
古代米のご飯、味噌汁、ポテトサラダ、漬物、果物(イチゴ)がついています



上の写真はランチのメニュー表です。


上の写真はお店から近鉄飛鳥駅を撮ったものです。
明日香らしく斉明天皇期の石造物を模したモニュメントが展示されています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする