三宮センター街東入口近くにある野村證券(株)神戸支店の1階のショーウィンドーに
日本燐寸工業会がPR展示をしていましたので写真紹介します。
撮影日:2017-8-22
上の写真はメインのポスター展示
上の写真は上記メインポスターの中の拡大図で
マッチの生産は兵庫県が全国シェア90%であることをPR
上の写真は上記メインポスターの中の拡大図で
明治26年(1893)から明治29年(1996)の4年間は神戸港からの輸出品目でマッチが
トップであったことをPRしています。
上の写真は上記メインポスターの中の拡大図で
マッチが初めて神戸港から輸出されたのは明治11年(1878)であったことをPR
上の写真は北野工房のまち2階にあるマッチの専門店「マッチ棒」をPR
上の写真はマッチ関連商品の展示
マッチは文政10年(1827)イギリスの薬剤師J.ウォーカーが摩擦マッチ、ウォーカーマッチ
(Friction Lights )を発明し、販売したのが始まりで、その後1855年スウェーデンの
イェンシェピング社のJ.E.ルンドストレームが安全性を改良した「安全マッチ」を発明
特許も取得し普及していった。
日本ではマッチは明治の初め早附木(はやつけぎ)とか摺附木(すりつけぎ)と呼ばれ
最大の輸入品であった。
国産のマッチ製造に貢献したのは燐寸(マッチ)開祖、清水 誠(しみず まこと)である。
彼は明治8年(1875)東京霞ヶ関の吉井友実卿私邸において黄りんマッチの試作に成功
その後改良を加え明治9年(1876)4月に東京三田四国町に「新燧社(しんすいしゃ)」を
設立、同年9月に東京本所柳原町に移転し、安全マッチの本格的製造を開始した。
神戸では明治10年(1877)神戸監獄使役場での生産が初めてと言われている。
その後荒田町、湊町、琴ノ緒町、大開町などで民間のマッチ生産が行われました。
明治12年(1879)本田義知が明治社、明治13年(1880)滝川辨三が清燧社を設立
操業を始めた。明治18年(1885)播磨幸七が鳴行社を、明治20年(1887)には
直木政之助が奨拡社。滝川辨三の養子の瀧川(梶岡)儀作は良燧社を設立した。
これらの人物の内、滝川辨三は「日本のマッチ王」と呼ばれている。彼は燐寸工場を合併して
大同マッチを設立、一時期1社でシェア70%を占めるまで成長させた。
最盛期の大正8年(1919)には神戸のマッチ生産額シェあは80%を占めていた。
また、同年の輸出においては神戸港が全国の79%を占めていた。
昭和に入ってからは生産地の中心地が姫路、淡路などに移るようになって神戸における
マッチ生産量シェアも減少しています。
関連リンク:
燐寸博物館(田中燐寸)
たるみ燐寸博物館
神戸マッチ株式会社
一般社団法人 日本燐寸工業会
株式会社ナカムラ
マッチ 昔の隆盛 今、新発想で 神戸の「ナカムラ」(毎日新聞)
マッチ棒(北野工房のまち)
明治創業、淡路のマッチ工場閉鎖へ 兼松日産農林(神戸新聞)
アヘン禍の中国へ復興マッチ 明治期、神戸の華僑ら(神戸新聞)
神戸のマッチ生産
株式会社 日東社
株式会社 ダイドー
株式会社 中外燐寸社
神戸市広報誌 2017年8月号の長田区区民広報誌に「長田区とマッチ」というテーマで
現在もマッチの製造販売をされている株式会社ナカムラを取材し、
長田区まちづくり課がまとめられていますので添付紹介します。(下の2枚の写真)