NHKラジオでは標題の番組が放送されています。
本日の放送から
NHKラジオが選択したItems及び神戸新聞のきょうの小史
並びにWikipediaなどからピックアップしました。
赤字がNHKラジオの放送
1156年(保元元年7月11日)
保元の乱: 後白河天皇方の平清盛・源義朝らが、
崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し、上皇方が敗退。
1836年 - パリのエトワール凱旋門が落成。
1858年(安政5年6月19日) - 日米修好通商条約締結。
1894年 - 日清戦争: 安城渡の戦いでラッパ手の木口小平が被弾し、死んでも口から
ラッパを離さなかったとして小学校の修身の教科書にも載る。
1921年 - ヒトラーがナチス党党首に就任。
1948年 - 第14回夏季オリンピック、ロンドン大会開催。8月14日まで。
1957年 - 国際原子力機関(IAEA)設立。米国アイゼンハワー大統領が主導し本部はウィーンに設置
1978年 -17年ぶりに両国花火大会が復活。後に墨田川花火大会に名称変更
1997年 - 水俣湾の魚貝類について、水俣病発見から41年ぶりに熊本県が安全宣言を出す。
2008年-マリナーズのイチロー選手が日米通算3,000本安打を達成 張本選手につぎ2人目
これだけでは写真もなく寂しいので保元の乱について写真を添えて記述していきます。
保元の乱関係系図
上の写真は保元の乱関係系図
出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008)Page86
保元の乱の対立構図
敗者 勝者
天皇家:崇徳上皇(兄) VS 後白河天皇(弟)
摂関家:藤原頼長(弟) VS 藤原忠通(兄)
平氏:平忠正(叔父) VS 平清盛(甥)
源氏:源為義(父)・為朝(弟) VS 源義朝(子/兄)
保元の乱までの経過
(1156年7月11日=新暦では1156年7月29日)
以下の月日はすべて旧暦で表記
6月1日:鳥羽院の病状悪化。後白河天皇の里内裏高松殿に北面の武士動員
7月2日:鳥羽上皇が死去。後事を得子(美福門院)と藤原忠通に委ねる
7月3日:藤原頼長の邸宅東三条殿(高松殿のすぐ北側)に崇徳上皇方の軍勢が集結。
7月5日:後白河天皇側は検非違使や諸国の武士を動員し街道要所を警備
7月8日:崇徳上皇が陰謀を企み軍勢を集めているとし源義朝に命じて東三条殿を押収
藤原頼長の謀反の証拠を見つけたと宣伝
7月9日:崇徳上皇が白河北殿に移る
7月10日:藤原頼長、白河北殿に合流。平忠正、源為義、源為朝らも白河北殿に集結
7月11日:
未明:源義朝勢百数十騎、平清盛勢200騎弱、源義康勢数十騎が白河北殿に向け出発
午前4時:鴨川を挟んで崇徳、後白河両軍の激戦開始。源義康一斉に敵に矢戦をしかけるが
弟の源頼賢の応戦され敗戦。平清盛鴨川を渡る。腹心が約50騎が白河北殿西門に
迫るが源為朝の強弓に阻まれる。
午前6時:源為朝らの奮戦で戦況動かず援軍として第2陣を派遣。
後白河天皇が三種の神器とともに東三条殿(高松殿のすぐ北側)に移る
午前8時:信西より焼き討ちの許可を得た源義朝、平清盛らが白河北殿に放火。
崇徳上皇は混乱に乗じて滋賀県の三井寺をめざして落ち延びる
7月14日:藤原頼長は父を頼って大和に逃避行するが途中見つけられ死亡
7月23日:崇徳上皇讃岐へ配流。
敗者の処分
崇徳上皇は讃岐に配流され、藤原頼長は逃避行中に死亡。
平忠正、源為義は斬首。源為朝は伊豆大島へ流刑
上の写真は後白河天皇方の本拠地(高松殿)となった現在の高松神明神社
撮影:2012-5-29
高松神明神社の基本情報
住所:京都市中京区綾小路通釜座東入る TEL:075-231-8386
最寄り駅は地下鉄烏丸線烏丸御池駅 徒歩5分程度
後祭神:天照大神(あまてらすおおかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
誉田別命(ほんだわけのみこと)。
境内摂社:八幡神社、春日神社
建立年代:延喜21年(921)第60代醍醐天皇の皇子高明親王が7歳の時、源姓を賜り
西宮左大臣・源高明(たかあきら)(914-982)となり邸宅として造営、同時に
天照大神を勧請し高松神明神社とした。
上の写真は高松神明神社の境内にあった地図で昔の高松殿、東三条殿の位置の他に
信西の邸、三条殿、藤原宗忠、閑院(里内裏)=後白河天皇が即位の儀式で使用
堀川院の里内裏などの位置が示されています。
撮影:2012-5-29
上の2枚の写真は後白河天皇の御陵の石碑と陵へ続く沿道(法住寺)
撮影:2012-1-29
法住寺の歴史
法住寺の基本情報
住所:京都市東山区法住寺三十三間堂廻り町655 TEL:075-561-4137
宗派:天台宗 本尊:不動明王
永祚元年(989)に太政大臣藤原為光が急死した娘祇子(しし)=花山天皇の女御の
菩提を弔うために創設された。
長元5年(1033)12月8日火災により消失。
後白河法皇はこの地を院の場所と決め応保元年(1161)に法住寺殿となった。
さらに後白河法皇は平清盛に命じて法住寺境内に蓮華王院(三十三間堂)を造営
させた。三十三間堂造営は長寛2年(1164)のことであった。
蓮華王院(三十三間堂)には父忠盛が建てた得長寿院にならって33間の本堂に
1,001体の十一面千手観音像を安置した。
法住寺殿は、後白河法皇の御所と共に、自分の墓の墓守の意味もある。
また御所を守る新日吉神宮・熊野神社も移した。
安元2年(1176)に後白河上皇の女御建春門院(平滋子)が亡くなると、
女御の御陵として法華堂が建てられた。
寿永2年(1183)木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられ(法住寺合戦)、
後白河法皇は北の門から新日吉神社へむけ輿にのって逃亡、以後法皇は
六条西洞院の長講堂に移りそこで生涯を終えた。建久3年(1192)であった。
法住寺合戦の折、後白河法皇の身を守るために天台座主の明雲が敵の矢に
倒れた。命拾いした後白河法皇は「不動明王が明雲の姿をかりて、私の
身代わりになってくださった」と涙されたと伝えられている。
これが身代わり不動尊の謂れである。
元禄期には大石内蔵助が参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木造が安置されて
いるなど、忠臣蔵縁の寺としても知られている。
上の写真は後白河上皇(後白河法皇)が30数年院政を行った政治の中心地
法住寺殿の跡碑の説明板にあった略地図です。
京都国立博物館側にあった北殿と蓮華王院三十三間堂などがあった南殿があり
広大な御所でありました
後白河上皇(1127-1192)は永暦2年(1161)4月から約20年間住まいとして
法住寺殿を利用されていました。
撮影:2012-1-29