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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

鎌倉市 覚園寺の2基の石造宝篋印塔(開山塔と大燈塔)

2023年08月17日 07時33分39秒 | 神奈川県情報
2023年8月7日から始まったNHK Eテレ「趣味どきっ! 関東会いに行きたい仏さま」
の第1回の番組で覚園寺の薬師堂の薬師三尊坐像、十二神将及び愛染堂の愛染明王坐像、
不動明王坐像の紹介と解説がありました。
そこで、覚園寺について調べていく中で国の重要文化財となっている宝篋印塔が2基
(開山塔と大燈塔)覚園寺の境内にあることが判りました。
覚園寺の有料ゾーンでは写真撮影禁止ということで、2基の宝篋印塔の写真は
毎日新聞社が監修した重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page72
より引用して紹介します。 

本題に入る前に覚園寺について簡単に概要を整理しておきます。

建保六年(1218)、第2代執権の北条義時により創建された大倉薬師堂は、建長三年(1251)に焼失し弘長三年(1263)ころに復興された。覚園寺と号されたのはこの頃。
本尊薬師如来像(重文)はその復興期のものと考えられているが、両脇侍像をはじめその他の造像は遅れて八代住持悦岩思咲(えつがんししょう)の時である。

鎌倉市 覚園寺の基本情報
住所:鎌倉市二階堂421  TEL:0467-22-1195 
宗派:真言宗泉涌寺派  山号:鷲峰山 院号:真言院 御本尊:薬師如来
開祖:建保6年(1218)、第2代執権の北条義時により創建された大倉薬師堂
開基:永仁4年(1296)北条貞時が造営 
開山:智海 心慧(ちかいしんえ)が真言、律、禅、浄土四宗兼学の寺として開山
重要文化財:薬師如来三尊、十二神将、開山塔、大燈塔、覚園寺文書など
史跡指定:昭和42年(1967)6月22日、覚園寺境内が史跡に指定
史跡指定基準:三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
公式サイト:
鎌倉 覚園寺 (kamakura894do.com)

覚園寺の所在地のGoo地図を添付しておきます。

 覚園寺は、北条義時の建立した大倉薬師堂の後身で、永仁4年(1296)、北条貞時が造営して覚園寺とした。谷奥には開山塔・大燈塔の2基の法篋印塔[ほうきょういんとう]があり、境内の山の斜面には多種多様なやぐら(鎌倉特有の岩壁をくりぬいてつくった墓、主として鎌倉・室町時代の造営)が群在している。


開山塔(国指定重要文化財)

上の写真は覚園寺を開山した僧、心慧智海(1306年歿)の供養塔(石造宝篋印塔)
心慧没後26年経った正慶元年(1332)に造立された。刻銘より判明。
正慶元年壬申仲冬廿七日の刻銘がある。昭和9年(1934)1月30日に重文に指定

出典:重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page72

写真の背後には三世以降の歴代住職の無縫塔 が写っています。
宝篋印塔内には納置品があります。
関東大震災の折、塔身より阿弥陀経笹塔婆が発見されました。また、昭和41年(1966)
阿弥陀経笹塔婆には正慶元年(1332)十一月円信奥書
塔の解体修理の際、黄釉草葉文壼、基壇より銅五輪塔および褐釉壼が発見されました。
銅五輪塔の卜書:元亨三年(1323)三月十九日光広在銘
これらの納置品も昭和43年(1968)4月25日に国の重要文化財に指定されました。
下記文章の黄釉草葉文壼は骨壺として使用されたもの。
以下、文化庁のデータベースよりの引用文です。
銅五輪塔の銘文に見える「孝子光廣」は両石塔の刻銘中の「大工光廣」と同一人とみられ、笹塔婆の奥書には開山塔の刻銘と同年同月の紀年がある。また銅五輪塔には南朝、両石塔および笹塔婆には北朝の年号が使われているなど注目される。これらの遺物はわが国中世の墓制を知る上に貴重な資料であるばかりでなく、黄釉草葉文壼は鎌倉時代、古瀬戸の遺品としてまれに見る優品であり、日本陶磁史上特記すべきものである。


上の写真は重要文化財17 建造物Ⅵ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)に
記載の銘文など。塔内の納置品についても記載されています。

大燈塔(国指定重要文化財)

上の写真は覚園寺の二世大燈(歿年不詳)の供養塔(石造宝篋印塔)
心慧没後26年経った正慶元年(1332)に造立されたことが刻銘より判明。
正慶元年(1332)壬申仲冬廿七日の刻銘がある。昭和9年(1934)1月30日に重文に指定

出典:重要文化財14 建造物Ⅲ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)Page72

昭和41年(1966)塔の解体修理の際、塔身より水晶五輪塔、石室より褐釉双耳壼が発見された。
これらの納置品も昭和43年(1968)4月25日に国の重要文化財に指定されました。
上の写真は大燈塔の銘文など解説
出典:重要文化財17 建造物Ⅵ 文化庁監修 毎日新聞社(1972)

宝篋印塔の各部名称


上の図は宝篋印塔の各部の名称です。
出典:神戸の石造遺品 川辺賢武 著 (1971)神戸市史資料室 Page4

宝篋印塔は、宝篋印陀羅尼経を納めておく塔で、インドに
おこり中国を経て平安時代に日本に伝わってきた塔である。
本来は納経のための塔であったが、鎌倉時代頃から、
主として供養塔、墓石として建てられるようにようになった。

境内案内
神奈川県には在住期間が約20年で、鎌倉には何度か訪問していますが覚園寺には
訪問していません。そこで、詳しく境内案内をされているサイトにリンクさせていただきます。


せっかくの機会なので冒頭に書いた覚園寺の薬師三尊と十二神将及び薬師堂の
写真を添付して筆を置きます。

出典:2023年8月7日NHK Eテレ「趣味どきっ! 関東会いに行きたい仏さま」の第1回

上の写真は薬師三尊像 中央薬師如来坐像、右日光菩薩坐像、左月光菩薩坐像
本尊薬師如来座像(重文)はその復興期(弘長三年(1263の頃)のものと
考えられているが、両脇侍像をはじめその他の造像は遅れて八代住持悦岩思咲
(えつがんししょう)の時の作である。
上の写真は12神将のうちの6体
上の写真は覚園寺の本堂にあたる薬師堂の建物外観
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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その19 朝代神社

2022年01月19日 04時19分14秒 | 神奈川県情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第19回で11月18日の夕食前に訪れた朝代神社

を写真紹介します。朝代(あさしろ)神社は円隆寺に隣接する神社です。

朝代神社は城下町田辺の氏神です。

 

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第5回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第6回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その6 金剛院 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第7回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その7 だるま堂のだるま様 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第8回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その8 生け簀料理 卑弥呼での夕食 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第9回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その9 ホテルベルマーレでの朝食 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第10回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その10 赤レンガパーク駐車場付近の見どころ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第11回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その11 赤レンガパーク - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第12回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その12 海軍ゆかりの港めぐり遊覧船 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第13回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その13 赤れんが博物館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第14回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その14 五老スカイタワー - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第15回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その15 道の駅 舞鶴とれとれセンター - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第16回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その16 JR西舞鶴駅周辺の光景 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第17回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その17 舞鶴グランドホテルの夕食と朝食 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第18回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その18 圓隆寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

事前の情報

 舞鶴旅行 予備訪問 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

朝代神社の基本情報

住所:舞鶴市朝代13 TEL:0773-75-0132 社格:府社 丹後国十一社の一つ

御祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)  創建:672年(天武天皇元年)9月3日

文化財:朝代神社本殿 附 「享保年朝代神社再建諸事控」

     元文4年(1739)再建 (舞鶴市指定文化財)

公式サイト(舞鶴市):朝代神社(舞鶴市) (kyoutabi.com)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

上の写真は現地の案内板 現在地お赤字で書かれている場所が朝代神社

拝殿

手水舎

鳥居

上の写真は朝代神社の入り口(一の鳥居付近)

二の鳥居 厳島神社と同じ形式(両部鳥居)の鳥居

境内の歌碑

上の2枚の写真は西村尚昭の歌碑と現地説明板

歌碑の内容は不明

文化財

上の2枚の写真は朝代神社本殿(舞鶴市指定文化財 建築)と解説文

出典:舞鶴市教育委員会編 「舞鶴の文化財」(2014)Page33

上の2枚の写真は朝代神社奉納和船(舞鶴市指定 有形民俗文化財)と解説文

出典:舞鶴市教育委員会編 「舞鶴の文化財」(2014)Page33

 

朝代神社に関わる文化財として他に「朝代神社祭礼絵巻 3巻」、新・魚屋・丹波・西の

各地区の朝代神社祭礼芸屋台と見送幕が舞鶴市指定 有形民俗文化財になっています。

上の写真は朝代神社祭礼絵巻

祭礼は11月3日に実施されています。

上の写真は魚屋町の芸屋台と見送幕

 

朝代神社の由緒他の歴史について詳しく記述されているサイトがあったのでリンク

させていただきました。

 朝代神社・朝禰神社:舞鶴の地名 (tangonotimei.com)

 朝代神社 (komainu.org) 写真が多い

 

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国史跡 永福寺跡

2022年01月09日 04時43分00秒 | 神奈川県情報

本日は鎌倉市にある国史跡 永福寺(ようふくじ)跡について調べた結果を紹介します。

NHK大河ドラマ「鎌倉堂の13人」が1月9日(日)から始まるということでこのテーマを

選んでいます。

上の2枚の写真はかって御願寺として建てられた永福寺のCG画像です。発掘データをもとに
湘南工科大学が寺院の復元CGを作成した。

出典:2022年1月3日2:57、NHK総合テレビで放送された「北条義時ゆかりの地をめぐる」

Wikipedia(一部加筆)によれば

永福寺跡(ようふくじあと)は、神奈川県鎌倉市二階堂(旧二階堂村)にある寺院跡。
鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建ての仏堂であった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている。また世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。

永福寺は源頼朝により建久3年(1192年)、奥州合戦で亡くなった弟・義経や藤原泰衡ら数万の霊を供養するために建てられた大寺院。建久5年(1194)に三堂(二階堂、薬師堂、阿弥陀堂)が完成。
源頼朝が建立した鶴岡八幡宮寺・勝長寿院と並ぶ三大寺院のひとつです。

応永12年(1405年)の火事で焼失したといわれ、現在は廃寺。発掘調査により本堂、阿弥陀堂、薬師堂の三堂が横に並び、その前面には広い池が作られ、中の島や釣殿がある浄土式庭園を持つ壮大な寺院の遺構が確認されている。現在は、鎌倉時代を代表する遺跡として国の史跡に指定され、公開活用に向けた整備工事が終了、平成29年6月から整備範囲を全面公開し、史跡を生かした公園として親しまれている。

永福寺跡の基本情報

所在地:神奈川県鎌倉市二階堂178
公開時間:4月から10月までの間は 午前9時から午後5時まで
     11月から3月までの間は 午前9時から午後4時30分

公式サイト(鎌倉観光公式ガイド):鎌倉市観光協会 | 時を楽しむ、旅がある。~鎌倉観光公式ガイド~ トップページ (trip-kamakura.com)

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

 

 

発掘調査

上の写真は永福寺跡の現況

出典:2022年1月3日2:57、NHK総合テレビで放送された「北条義時ゆかりの地をめぐる」

1983年(昭和58年)から開始された発掘調査で、北方から流れ込む谷川を水源とする南北200メートル、東西40-70メートルの苑池を中心とした浄土庭園の西岸に、二階大堂を中心に南北に阿弥陀堂、薬師堂の翼廊を従えた中心伽藍が確認された。両側の堂からはL字型の廊が付属し中門・釣殿がつくられていました。このことから、伽藍全体の空間構成は無量光院をモデルにしたと考えられる。

現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。

無量光院については下記のブログで記載しています。

 岩手県平泉町 無量光院跡へバーチャル訪問 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

復元
長らくススキが生える湿地となっていたが、史跡指定翌年の1967年(昭和43年)度から土地の公有化を進め、2007年(平成19年)以降復元整備工事に着手し、2017年(平成29年)6月、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂などの基壇(基礎)と苑池の復元が完了し、公開された。

2007年から復元工事が行われ、2017年に基礎と池泉が復元され公開。

上の写真は復元された現況

出典:2022年1月3日2:57、NHK総合テレビで放送された「北条義時ゆかりの地をめぐる」

国史跡指定

 昭和41年(1966)6月14日に国指定の史跡に指定されました。

 文化庁のデータベースに記載の解説文:源頼朝が奥州平泉で見た藤原氏建立の寺に習った寺で、

 本堂は2階建(二階堂の名の起こり)、その前にすぐれた苑池を設けた。今も礎石、中島、

 立石、汀石等がのこり、鎌倉文化史上重要な史跡である。

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源実朝公御首塚(秦野市東田原)へのバーチャル訪問

2021年12月26日 04時55分27秒 | 神奈川県情報

神奈川県秦野市東田原に表題の「源実朝公御首塚」があります。

秦野市には20年近く住んでいたのですが首塚があることは知っていましたが

訪問したかも知れませんが記憶には残っておらず写真も残っていません。

そこで、バーチャル訪問することにしました。

上の写真は秦野市東田原999の「田原ふるさと公園」に離接して所在する源実朝公御首塚

出典:Googleストリートビュー

所在地(秦野市東田原999)のGoo地図を添付しておきます。

上の写真は秦野市が昭和46年(1971)7月26日に市重要文化財に指定したことを示した碑

出典:Googleストリートビュー

建保7年(1219)正月27日、源実朝は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参拝の帰りに甥の公暁(鶴岡八幡宮寺の別当で2代目将軍頼家の子)に殺害されました。28歳でした。その後、実朝の首を持った公暁は追っ手の三浦義村の家来に殺害され、首は当時この地を治めていた波多野忠綱に義村の家来の武常晴らが渡し、手厚く葬られたと伝えられています。

謎が多く真偽は不明だが、「新編相模国風土記稿」(1814)の東田原の項によれば
源実朝墓 村の中程に在 塚上に五輪塔建てり 承久元年(1219)武常晴 実朝の首級
を当所に持来り」という記述があります。

武常晴は三浦義村が公卿を討つために送った刺客(長尾貞景ら5名が派遣)の1人で、のちに東田原村に移り住んだといわれています。
実朝公首塚の近くにある金剛寺には源実朝の像が安置されています。

1250年、波多野忠綱が金剛寺を再興した際に、首塚は石造に改修されたそうで、撤去された

木造の五輪塔は、現在、鎌倉の国宝館にて展示されている。

上の写真は源実朝が暗殺された鶴岡八幡宮の境内略図と建保7年(1219)正月27日の夜8時

100人の警備を連れて行進する源実朝の一行。

 

上記の記事に出てきた主な人物の紹介

源実朝

以下はWikipediaよりの引用

源実朝(1192-1219)の幼名は千幡。別名:鎌倉殿、将軍家、羽林、右府、鎌倉右大臣は
鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡出の次男として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。

歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金槐和歌集』がある。芭蕉により西行と並び称されている不世出の歌人である。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。

 6歳で父を亡くした実朝は当時朝廷に君臨し、名付け親でもある後鳥羽院に強い君恩を感じ憧憬の念を抱き、王としての範とした。金槐和歌集掉尾の「山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」には後鳥羽への強い思慕が感じられる。

上の写真は鎌倉幕府の歴代将軍。代々、鎌倉殿と呼ばれていました。

出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」

上の写真は鎌倉将軍家の系図

出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」

上の写真は源実朝と天皇家との婚姻関係図 源実朝は高倉天皇の皇后の出身家の坊門家

より妻を娶っています。

出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」

公卿

上の写真は源実朝を殺害した公卿の絵

出典:2021年9月13日 Pm10:00~10:54 BSTBS にっぽん!歴史鑑定「鎌倉殿と北条義時」

 

武常晴

武常晴は三浦義村が公卿を討つために送った刺客(長尾貞景ら5名が派遣)の1人で、

のちに東田原村に移り住んだといわれています。

1219年に暗殺された源実朝(鎌倉幕府第3代将軍、金槐和歌集作者)の

首級(御首)を秦野の地に持ち帰ったといわれている人物。

 

三浦義村

 2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では山本耕史さんが三浦義村を演じられます。

 三浦義村は父親の三浦義澄の時代から相模国守護を務め上記ドラマの主人公の北條義時

 の盟友です。

 三浦義村は、1180年(治承4年)、源頼朝が石橋山で挙兵すると父三浦義澄とともに

 頼朝に従い、源氏再興に尽力した。母は、伊東祐親の娘。
 
 頼朝の亡き後、北条氏と組んで有力御家人を次々と滅ぼし、幕府での地位を向上させ、

 建保7年(1219)に起こった源実朝の暗殺事件では、その黒幕だったのではないかともいわれている。

 1239年(延応元年)12月5日に亡くなり、菩提寺(横須賀市の薬王寺廃寺)近くに葬られたという。

 詳細は下記サイト

  三浦義村の墓(三浦市) (yoritomo-japan.com)

三浦義村についてWikipediaより略歴を引用紹介します。

三浦 義村(1168-1239)は、鎌倉時代初期の相模国の武将。鎌倉幕府の有力御家人。桓武平氏良文流三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)

時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 仁安3年(1168年)?
死没 延応元年12月5日(1239年12月31日)
別名 平六
墓所 神奈川県三浦市南下浦町金田
官位 右兵衛尉、駿河守、三浦介
幕府 鎌倉幕府 侍所所司、評定衆
主君 源頼朝、頼家、実朝、藤原頼経
氏族 桓武平氏良文流、三浦氏
父母 父:三浦義澄、母:伊東祐親の娘
兄弟 三戸友澄、義村、重澄、胤義、他
一条忠頼の娘[要出典]、土肥遠平の娘
朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、資村、胤村、重時、良賢(僧侶)、
 矢部禅尼、土岐光定室、毛利季光室、千葉秀胤室

幕府創設期 略

梶原景時の変・畠山重忠の乱 略

和田合戦・実朝暗殺 

 建暦3年(1213年)2月、北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見。義村の従兄弟で侍所所司であった和田義盛の子息義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛される。その後、子息の2人は配慮され赦免になるが、義盛は三浦氏を含む一族を挙げて甥の胤長も赦免を懇請した。だが胤長は首謀者格と同等として許されず流罪となり、さらに胤長の屋敷は没収された。そのため北条氏と和田氏の関係は悪化。義盛は親族である三浦一族など多数の味方を得て打倒北条の決起をする。しかし義村は直前で裏切って義時に義盛の挙兵を告げ、御所の護衛に付く。戦いは義時が将軍源実朝を擁して多数の御家人を集め、義盛を破り和田氏は滅亡した(和田合戦)。合戦後、論功行賞に際して義村と波多野忠綱が政所前の合戦における先登(一番駆け)をめぐって言い争うという一幕もあった。

建保7年(1219年)1月27日、将軍実朝が公暁(実朝の兄である2代将軍源頼家の子)に暗殺される。公暁は義村に対し「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を持った使いを出し、義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽って討手を差し向けた。待ちきれなくなった公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇し、激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとした所を殺害された。公暁の乳母は義村の妻であり、子の駒若丸は公暁の門弟であるなど義村との縁が深い事から、事件は公暁をそそのかして実朝と義時を同時に葬ろうとした義村が黒幕であるとする説[注釈 1]もあるが、義時が公暁を裏で操ったという説[注釈 2]や、将軍親裁を強め後鳥羽上皇との連携を目指した実朝を義時と義村が手を結んで排除したとする説[注釈 3]、幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説[注釈 4]もあり、またそれらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解[注釈 5]もあって、真相は明らかではない。義村は公暁討伐の功により、同年駿河守に任官した。

[注釈 1] 義村黒幕説は永井路子が小説『炎環』で描いて以来注目され、石井進がその可能性を認めたことで浮上した。他に  同説を支持する研究者には、大山喬平、上横手雅敬、美川圭などがいる。
[注釈 2] 義時黒幕説を取っているのは龍粛、安田元久など。
[注釈 3] 北条・三浦ら鎌倉御家人共謀説は五味文彦が提唱し、本郷和人が支持している。
[注釈 4] 後鳥羽黒幕説は谷昇が提唱している。
[注釈 5] 公暁単独犯行説を取っているのは山本幸司、永井晋、坂井孝一、高橋秀樹、矢代仁など。

承久の乱・伊賀氏の変 略

幕府宿老 略

人物

藤原定家は『明月記』の嘉禄元年(1225年)11月19日条で「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」と書いており、義村の行動が同時代の人物の眼から見ても理解不能であったことをうかがわせている。これを受けて小説家の永井路子も義村を「不可解な人物」としつつ、「権謀――といって悪ければ緻密な計画性に富み、冷静かつ大胆、およそ乱世の雄たる資格をあますところなく備えたこの男は、武力に訴えることなく、終始北条一族を、振廻しつづけた。政治家的資質とスケールにおいて僅かに上回ると思われる北条義時すら足を掬われかけたこともしばしばだった」と綴っている。
橘成季が編纂した世俗説話集『古今著聞集』に記されたエピソード。某年正月、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に若い下総国の豪族・千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総犬は、臥所を知らぬぞとよ」とつぶやくと、胤綱はいささかも表情を変えず「三浦犬は友を食らふなり」と切り返したという。胤綱の発言は和田合戦での義村の裏切りを当て擦ったものだが、国語学者の森野宗明は「座席の順位すなわち席次は、序列での位置すなわち地位 status の表象であり、その人物の格付けが端的に表現される」とした上で「この出来事を通して、義村という人物には、長幼の序にこだわり年長者を立てようとする面のあることを垣間見ることが可能であり、そうした性格を具えた人物像と、この説話において描かれている」と、権謀家とされる義村の別の一面を指摘している。ただし、相手を犬に喩えたのは行きすぎで、森野も「相手を犬に喩えての義村の嘲罵は、天に向かって唾する行為であった。それは、同じく犬に喩えた強烈な嘲罵を胤綱が浴びせる材料を提供する格好になった。この勝負、明らかに胤綱の勝ちである」と結論付けている。
また寛喜3年(1231年)9月27日、北条泰時の弟・朝時の名越の第(邸)に賊が押し入るという事件が起った。この一報が入るや泰時は評定中であったにもかかわらず名越の第に駆けつけた。これに対し、執権という重職にある身としては行動が軽すぎると諌めるものがあった。泰時はその諌言を諒としつつも、眼前に兄弟の殺害されるのを手を拱ねいていては人の誹りを受ける。武の道もまた人なればこそである。他人には小事であっても兄にとってはそうではないのだと答えた。傍でこの言葉を聞いていた義村は感涙を拭い、御台所に伺候する男女にも語って聞かせたという。このエピソードを紹介した森野は論文の最後をこう締めくくっている――「かつて一族の長老を裏切り、多くの同族を死に追いやった苦い経験のある義村は、どのような思いで泰時の言葉を聞いていたのであろうか」。だが泰時の死の前後、御家人達に遅れて朝時が出家した事を、都では「日頃疎遠な兄弟であるのに」と驚きと不審を持って噂されており(『平戸記』仁治3年5月17日条)、この逸話も『吾妻鏡』が泰時を顕彰するための曲筆とする説もある。

 

金剛寺も含め詳しく書かれたサイトへリンクさせていただきました。

 実朝の首塚・金剛寺/神奈川県秦野市 : 四季歩のつれづれ (fc2.com)

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その9 ホテルベルマーレでの朝食

2021年12月11日 12時16分29秒 | 神奈川県情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第9回で11月18日に頂いたホテルベルマーレ

での朝食について紹介します。

 

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第4回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第5回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その5 松尾寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第6回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その6 金剛院 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第7回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その7 だるま堂のだるま様 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第8回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その8 生け簀料理 卑弥呼での夕食 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

ホテルベルマーレの基本情報

住所:舞鶴市浜2002−3 TEL:0773-66-2000

公式サイト:ホテルベルマーレ公式サイト|舞鶴市ホテル | 舞鶴市のビジネス・観光に人気のホテル (h-mare.co.jp)

 

上の写真は当日いただいたホテルベルマーレの朝食(和食)です。

いつもは朝食はパン食ですが旅行中でもあり普段と違った和食を選択していました。

バランスのとれた組み合わせでご飯をお替りしました。

上の写真はホテルの客室から撮ったもので当日入港した海上自衛隊のあさぎり型

護衛艦「せとぎり」DD156

艦艇の詳細情報は下記サイトを参照ください。

 舞鶴地方隊在籍部隊【護衛艦せとぎり】 (mod.go.jp)

 

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神戸事件の犠牲者 瀧善三郎切腹に臨席した検証者

2021年12月06日 05時11分49秒 | 神奈川県情報

神戸市立名谷図書館から借りた本「内山正熊著の神戸事件~明治外交の出発点~」の

Page157に滝善三郎の切腹検証人の配置(下の写真)が掲載されていました。

このデータを基に切腹場面の図に検証人の名前を書き出してみました。

上の写真で立会人の名前を記載していますが読み難いので説明しておきます。

黄色で囲ったのが字を記載。

奥は外国の検証人、左よりハール、サベース(伊)、クレントジース(蘭)、

ハンデルフォー(仏)、サトー(英)、ミットフォード(英)、クリートン(米)

左手は伊藤博文と中島作太郎

中央は瀧善三郎と介錯人の佐藤佐源次?

 

慶応4年(1868)1月11日(1868.2.4):神戸事件、三宮神社前を東進中の備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と藩兵の軽微な接触に端を発し、沖に停泊中の外国艦隊(米・英・仏計18隻)から陸戦隊が上陸し備前藩と交戦した(「神戸事件」)。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設けて日本人の通行を制限し、維新政府に恫喝的書状を送った。両軍に死者は出ていない。維新政府は、勅使・東久世通禧を神戸に派遣した。

慶応4年(1868)1月15日(1868.2.8)
 勅使・東久世通禧、神戸で外国代表に政権交代を告げ事件処理。

  東久世は神戸運上所で6か国公使と会見し、天皇親政の国書を手渡して日本側の

 政権交代を告げ、衝突事件の日本側の責任を認め、責任者の処刑を約束した。

慶応4年(1868)2月9日(1868.3.2)

午後11時30分、備前藩小隊長瀧善三郎が、外国側と日本側立会いの下、兵庫永福寺で

切腹した。

神戸事件解決交渉において活躍した伊藤博文について初代兵庫県知事時代の事象を

記しておきます。

神戸の開港1ヶ月後に起きた神戸事件は明治新政府にとって初めての外交交渉となった。
この事件の穏便解決で活躍したのは明治元年(1868)5月23日兵庫県の初代知事と
なった伊藤博文(当時28歳の青年であった)である。
伊藤博文は偶然事件翌日の1月12日に神戸に立ち寄っていた。
伊藤博文まず大阪の外国事務取調掛の東久邇通禧(ひがしくにみちとみ)を勅使として神戸の
各国の公使を集めて「王政復古」を宣言した後、新政府の代表者として認めさせたうえで
事件解決の交渉に入っていった。

伊藤博文は初代の兵庫県知事で知事であった期間は下記のとおりです。
自:慶応4年5月23日  新暦換算では1868年7月12日
至:明治2年4月10日  新暦換算では1869年5月21日

伊藤博文の兵庫県知事時代は上記のように1年にも満たない短期であったが26歳
の伊藤博文は若輩ではあったが1863年に長州ファイブの一員として英国に留学
さらに英国から帰国後の1864年に高杉晋作、井上馨とともに下関戦争の戦後処理
1868年1月(旧暦)に起きた神戸事件の処理、さらに政府の要職参与にも
なっていた外交問題などに精通した大物の政治家であった。
尚、伊藤博文が兵庫県知事就任時は伊藤俊輔と称していました。

 

神戸事件関連、過去に書いたブログ

 瀧善三郎正信の顕彰碑 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 神戸事件と三宮神社 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 滝善三郎が切腹した永福寺(かって神戸市兵庫区にあった) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 堺事件犠牲者の墓とモニュメント in 神戸市立外国人墓地 on 2018-11-17 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 JR西日本赤穂線 西片上駅から備前市役所までの史跡 on 2019-10-4 その2 潮光山正覚寺 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

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舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その4 復元引揚桟橋

2021年12月04日 05時27分05秒 | 神奈川県情報

本日は舞鶴への訪問記シリーズの第4回で11月17日に訪問の復元引揚桟橋について

紹介します。

過去の訪問記

 第1回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 202-11-17~11-19 その1 舞鶴市の概要 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第2回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その2 舞鶴引揚記念館 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 第3回 舞鶴への2泊3日の旅行記 on 2021-11-17~11-19 その3 海軍割烹術食堂 羅針盤でのランチ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

舞鶴引揚記念館の駐車場に上の写真の案内板がありこれに従い復元された引揚桟橋

に向かいました。

復元引揚桟橋は平成6年(1994)5月、引揚者が帰国の第一歩を踏みしめ、感動の

舞台となった「平引揚桟橋」が「引揚を記念する舞鶴・全国友の会」により展望台の

眼下にある平湾に復元されました。

 

上の写真が復元引揚桟橋の現場です。

当時の桟橋は今の3倍の長さだったそうです

上の写真は引揚桟橋の遠景です。

上の写真は現地説明板。

記載の内容をそのまま転記しておきます。

引揚桟橋(復元)

舞鶴港は昭和20年から昭和33年まで、延346隻の引揚船が入港しました。

特に昭和25年以降は、舞鶴港が日本唯一の引揚港でした。

引揚船の乗船人数は1隻あたり約2,000~3,000人で、引揚船に小型船が横づけされ、

引揚者はこれに乗り換えて桟橋に上陸していました

平成6年(1994)5月建立

北桟橋・・・昭和27年の大雪で壊れるまで、引揚桟橋の右手に見える白い三階建の

      建物(大浦小学校)付近の海岸にありました

南桟橋・・・昭和28年からは、北桟橋に代わり上陸桟橋として使用されており、

      復元桟橋より約20m北側にありました。

上の写真は説明板の写真の部分の拡大版

復元引揚桟橋は南桟橋があった場所の近くに建設されました。

北桟橋は現在、大浦小学校の近くにあったようです。

上の写真は引揚桟橋の復元に注力された引揚を記念する舞鶴・全国友の会のメンバーの

名前が記載のボードです。

引き揚げの母として有名な田端ハナさんの名前も見られました。

上の写真は招霊の碑

説明板には次のように書かれています。

昭和二十年八月八日、日ソ不可侵条約の一方的破棄による旧ソ連の参戦により発生した六十万兵士のシベリア抑留(強制労働)と、満州における一般邦人(婦女子)の悲劇。
この死没者の鎮魂のため、各収容所跡、墓地、自決地付近の小石を蒐集、納石し、断腸の思いも空しく異国の地に果てた同胞のため、引揚桟橋の傍に招霊の碑を建立する。

上の写真は復元引揚桟橋の場所あたりにあった南桟橋

上の方には舞鶴地方引揚援護局の建物群が写っています。

舞鶴地方引揚援護局の跡地は現在「平工業団地」となっています。

上の写真は興安丸

上の写真のような碑もありました。引揚者の方だと思います。

 

Wikipediaによる平桟橋の解説文は以下のとおりです。

平桟橋(たいらさんばし)は舞鶴港にある桟橋。中国からの帰還者や、ソ連に不法抑留された引揚者が夢にまでみた祖国の土を踏んだ地である。引揚桟橋とも。

太平洋戦争(大東亜戦争)が終結した当時、海外に残された日本人は660万人以上といわれ、その引揚げのために舞鶴港の他9港が指定され、引揚援護局を設置して業務を開始された。舞鶴港では当初は舞鶴西港が引揚げ港に指定されたが、ソ連地域からの引揚げが開始された1947年(昭和22年)には舞鶴東港の平桟橋へ変更され、その後13年にわたって多くの引揚者が祖国への一歩を平桟橋に記した。

 

youtube動画

舞鶴引揚桟橋(舞鶴市平)

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近鉄特急12200系(新スナックカー)ラストラン on 2021-11-20

2021年11月22日 17時12分08秒 | 神奈川県情報

近畿日本鉄道 大阪上本町駅で11月20日、近鉄特急12200系(新スナックカー)ラストラン

出発式が行われ、多くの鉄道ファンが駆け付けた。

Youtube 動画にGooで共有させていただきました。

 

近鉄特急12200系「新スナックカー」ラストラン出発式

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第93回 明石公園 菊花展覧会が開催されています

2021年10月27日 04時56分03秒 | 神奈川県情報

第93回 明石公園 菊花展覧会(平日10時から16時、土日9時~17時)が開催されています。

私は10月26日に訪問して写真を撮ってきました。

撮った写真の中から特に印象に残ったものをピックアップして紹介します。

尚、菊花展の開催期間は2021年10月23日(土)~11月14日(日)です。

第1回の明石公園菊花展覧会は大正15年(1926)の6月12日に住友会が誕生。

初代の住友会会長「木下吉左衛門」が初めて菊花展覧会を開催。

会期40日間、観覧者20万人と記述されています。

木下吉左衛門は神戸市垂水区の舞子にある木下邸の所有者であった人物です。

(昭和27年(1952)に木下吉左衛門の所有となった)

上の写真はJR明石駅構内コンコースの展示作品

上の写真は明石城の堀のフェンスに架けられた横断幕

上の3枚の写真は意匠花壇の展示と説明文

全国豊かな海づくり全国大会明石プレ大会開催にちなんで、旧波門崎灯籠堂(明石港旧灯台)

が意匠花壇のメイン展示として存在感を示しています。

旧波門崎(はとさき)燈籠堂は通称「明石港旧灯台」。明暦3年(1657)5代藩主の

松平忠国が建てたとされ、現存する石造りの旧灯台としては日本最古で平成26年(2014)

4月25日に国の登録有形文化財(その他工作物)に指定されています。

旧波門崎灯籠堂は明石の水運と商工業の発展に貢献した。

さらに詳細は下記ブログで書いています。

 明石港の旧波門崎(はとさき)燈籠堂 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上の2枚の写真は福助花壇と解説文

上の写真は菊花展覧会のメイン会場の遠景

上の写真はドーム菊花壇の展示

上の写真は大菊鉢組の展示

上の写真は立懸崖鉢個別(左)と小懸崖鉢個別(右)

上の写真は小品盆栽

上の写真は記念撮影用のスポット

上の2枚の写真は学校園花壇

上の写真は時のわらし意匠花壇

上の写真は入口の立て看板

上の写真は当日、入手したリーフレット表紙

最後にリーフレットより会場案内図を添付して筆を置きます。(下の写真)

 

過去の訪問記

 第91回 明石公園菊花展覧会 on 2019-10-26 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 第87回 明石公園 菊花展覧会 on 2015-10-29 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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第6回 MOA美術館 神戸たるみ児童作品展 in レバンテ垂水2番館1階ホール(終了)

2021年10月26日 04時35分45秒 | 神奈川県情報

第6回 MOA美術館 神戸たるみ児童作品展が2021年10月21日(木)から10月25日(月)

にレバンテ垂水2番館1階ホールにて開催され、私は10月25日に観覧しました。

この展示会は子供達の豊かな心を育てようとMOA美術館(公益財団法人岡田茂吉美術文化財団)

とMOA美術館神戸たるみ児童作品展実行委員会が主催し神戸市垂水区の小学校20校から

375点の応募の中から選考され81点の入賞作品が展示されました。

児童の作品は日常に体験し印象に残ったこと、将来への希望など夫々の思いを素直に表現

されたものが多く児童の心をはぐくむ教育として良いものと感じました。

過去の参加校の数と応募作品数が掲示されていましたので転記しておきます。

 第1回(2016年) 参加校19校  作品応募数307点

 第2回(2017年) 参加校18校  作品応募数257点

 第3回(2018年) 参加校20校  作品応募数378点

 第4回(2019年) 参加校21校  作品応募数363点

 第5回(2020年) コロナウイルス感染拡大防止のため中止

 第6回(2021年) 参加校20校  作品応募数375点

 

上の6枚の写真は入賞作品群の遠景です。

神戸市長賞など特別賞を受賞した作品には審査委員会の評が記されていました。

 

MOA美術館について

 当日配布されていたリーフレットよりMOA美術館を紹介します。

 箱根の美術館には行ったことがあります。

 

関連サイト

 児童作品展ページ | MOA美術館 | MOA MUSEUM OF ART (moaart.or.jp)

 

 

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