歴史が好きな方は多いと思います。(さとうも好きです。)
だから、同じ題材で、いくつものドラマが生まれます。
もう10年以上、日本は戦国時代ブームのようです。
室町時代から江戸時代初めまで、とくに戦国時代が
どれほど多くのドラマになっていることでしょう。
歴史物の面白さは、個人のドラマが歴史の波とリンクしているその兼ね合いでしょう。
豊臣秀吉ほどの運と能力に恵まれ、歴史を支配していた人が、最終的には、
歴史の中で無念をいだいて死んでいくのです。
本能寺で思いがけず死ななければならなかった織田信長も同じです。
武田信玄、坂本竜馬に対する人気は、
美しく雄々しい個人の運命が、歴史の酷薄さに埋もれる衝撃と共感ではないでしょうか。
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さて、テーマは「聖書に見る美貌」でした。
ヤコブの息子ヨセフに続く
二人目の登場人物は、古代イスラエルの初代の王サウル。
裕福なベニヤミン族のキシュのひとり息子サウルが、突然、王に指名される話です。
サウルには王になってやろうといった野心はまったくなく、
当時の、政治的状況の中で王制が求められていることさえ、知らなかったようです。
また、神の声を聞いてサウルを選んだ預言者サムエルも
直前までは、王になるのがどういう人物かしりませんでした。
運命に引かれるように二人は邂逅し、そのとき、
神が「この者だ」とサムエルに告げるのです。
美貌で人柄も良いサウルは、国民の受けもよく、外敵と戦う王として勇敢にふるまいました。
すべり出しはよかったのですが、間もなく、つまづくのです。
王はあくまで、軍事的支配者として立てられたのて、
戦いを含めた政治的な行動のすべての決定は、
神のご支配のもとにあると言うのが、古代イスラエルの原則です。
平たく言えば、「この選択は、神のみこころに叶っていることだろうか」と問うことです。
大丈夫と思えることも、その初めにあたっては、神にささげ物(いけにえ)をして
お伺いを立てるのです。
神と人との仲立ちは、祭司や預言者がするものでした。
ミクマスにおけるペリシテ人との戦いのときに、サウルがサムエルの到着を待てずに
いけにえをささげたのは、その意味で、大きな間違いだったのです。
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サウルは、この後、もう一度預言者サムエルを失望させます。
ある時、アマレク人を打つようにと、神からの預言がサムエルに下ります。
預言の内容は、「アマレク人を打った後、人も家畜もすべて聖絶せよ」というものでした。
「聖絶」ということばは、かなり誤解されていると思いますが、この箇所は
「聖絶」の意味を改めて考えさせてくれます。
アマレクを打ったイスラエル軍は、神のご命令の通り敵の民も家畜も、多くを殺したのです。
しかし、「サウルと彼の民は、アガク(アマレクの王)と、それに肥えた羊や牛のもっとも良いもの、
子羊とすべてのもっとも良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、
ただ、つまらない、値打ちのない者だけを聖絶した。(Ⅰサムエル記15章9節)
これがサムエルを怒らせました。
「あなたはなぜ主のみ声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に
悪を行ったのですか。」(同19節)
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当時の戦争は、(たぶん近代まで)、「分捕り物」も大きな目的でした。
聖絶というのは、戦いにおいて
戦いの余得(よとく)である戦利品を、
「人間が取ってはならない。神にささげよ」という意味でした。
これは、じつは、いのちを張って闘う兵士にとっては、過酷な命令でした。
だからといって、
天地創造の神――聖書の神は、この世界のすべての所有者ですから、
ご自分がささげ物や奴隷を必要としているわけではなく、
祭司や預言者のものになったのではありません。あくまで「聖絶」なのです。
サウルは、民が良い羊や家畜を惜しんで持ってきたのを、聖絶できませんでした。
神のご命令より、戦利品に目を輝かす民の歓声に引かれたのでしょう。
人間的な目で見れば、サウルは常識円満な人情家だったのかもしれません。
また、王として、民の人気を気にしたのかもしれません。
しかし、この事件は、サウルが神から退けられる決定的事件でした。
この後、神は、サムエルに新たな人物に王として油を注ぐべく、
ベツレヘムのエッサイの家に行かせるのです。エッサイの息子ダビデが次の王でした。
この選びにあたって、神はサムエルに美貌に惹かれてはならないと仰せになっています。
「人はうわべを見るが、神は心を見る」という有名な聖句の出てくる箇所です。