ノアの小窓から

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聖書に見る美貌――2

2016年09月05日 | 聖書



     聖書は、神が主役の物語です。
     神は霊ですから、人や物のような形、外見がありません。
     その神との霊的なかかわりにおいて登場してくる「人間」は、
     ですから、もともとあまり外見は

     問題ではないのかもしれません。
     アダムとエバがどんな姿かたちだったのか、想像するのは自由ですが、
     じっさいには、アダムがどんな肌の色だったとか、エバが金髪だったかとかは問題ではないのです。
     エバは女性ですから、乳房があったことは疑う余地はありません。二人の目が開けた後、
     彼らは、
自分たちがはだかであるのに気がついて、
     いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいをつくった。(創世記3章7節)
と書かれています。
     この時、人は初めて、たがいの性を意識し、それに戸惑いを持ったのです。

     それまでも、ふたりは夫婦であり、
     ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった(創世記2章25節)のです。

     創世記を見ると、人間が互いに「恥ずかしい」と思うようになったのは、
     「知恵の実]を食べて、目が開けたからです。

     また、この恥ずかしさは、アダムとエバ二人だけの間に起きた羞恥心ではなく、
     彼らは、神の前にも姿を隠したのです。それまでは、毎日神のまさに臨在の中で、
     エデンの園を住まいとする歓びを生きていた人間が、

     神の前に、裸であることを恐れて隠れた。(同12節)と言い訳しているのです。

     この後、ふたりは楽園から追放の憂き目に合うのです。
     この箇所の聖書的な謎解き、解釈は、とても深遠で含蓄があると思います。
     ぜひ、聖書をお読みください。

     悪魔にそそのかされて知恵の実を食べるまでは、
     本来、性は、「はずかしい」ものではなかった?

     もっと言うなら、人の「外観」「外見」は、
     羞恥心とは、まったく関係のないものだった?

          ◎  


     そのような前提に立てば、
     聖書における美貌が、
     しばしば、試練をともなう属性として現れれている理由に納得できる気がするのです。
     一年前の、GOOの記事は、まだヨセフについて記しています。

     エジプトでパロの侍従長であったポテファルという人の家に売られたヨセフは、
     美貌であっただけでなく、神様がともにいてくださったので、
     何をしても能力があり、
     上手にできるので、主人の信用を勝ち取って、
     たちまち主人から家の管理をすべて任される立場になるのです。
     平たく言えば、イケメンであるだけではなくとても有能だったので、
     奴隷ではあったけれども、異例の取り立てで出世をしたのです。

     聖書は、次のように記しています。

     彼(ポテファル)はヨセフの手に全財産をゆだね、自分の食べる食物以外には、
     なにも気を使わなかった。
     しかも、ヨセフは体格もよく、美男子だった。(創世記39章6節)
     これらのことの後、主人の妻はヨセフに目をつけて、
     「私と寝ておくれ」と言った。(同7節)

     ヨセフの美貌は、女難を引き寄せたのです。

     何度も言い寄ったにもかかわらず固い拒絶に会って、ポテファルの妻は、
     ぎゃくにヨセフに言い寄られたと、夫にうその告げ口をし、
     ヨセフは牢屋に入れられてしまいます。

     ますます窮地に陥ったヨセフですが、
     牢屋に入れられたことは、次の飛躍へのきっかけになりました。

お時間がおゆるしになれば、
    合わせて2015年9月五日の記事をお読みください。


            ◎




      男子にとって美貌というのは、どれくらいの意味があるのか、私にはわからないのです。

      とはいえ、
      今はテレビと写真の時代ですから、「見てくれ」は大切かもしれません。
      スケートの羽生ゆずる君や、体操の内村航平選手など、
      とびぬけた実力があるのは事実ですが 
      外見も、人気を後押ししている気がします。
     

                 


      ヤコブの11番目の息子ヨセフの物語は、世俗的な話としても、とても面白いのです。

      エジプトで苦労し、一時は牢屋に入れられて、辛酸をなめるヨセフですが、
      神がお与えになった特別な能力で、エジプト王パロの信頼を得て、やがて
      総理大臣に取りたてられ、国政のすべてを任せられるようになります。

      いっぽう、カナンに残っている父ヤコブと他の兄弟たちには、度重なる飢饉が襲います。
      ヤコブは、食糧を確保するため、息子たちに穀倉エジプトに行かせます。
      そこでヨセフと兄弟たちは再会するのです。

      身分が高くなってすっかり変貌しているヨセフを
      兄たちは、実の弟ヨセフだとは気がつきませんが、

      ヨセフは、兄たちのことに気がついていて、懐かしく思うのです。


               ★ ★  


      ヨセフは兄たちに憎まれて砂漠の商人に売られたのです。とても苦労したのですから、
      兄弟たちに復讐心を抱いていたとしても、自然かもしれません。

      でも、ヨセフ物語は、復讐の話ではなく、赦しの話、和解の話になっています。
      熱い肉親愛の物語なのです。

      けっきょくは、ヨセフの美貌は問題ではなくて、
      様々な苦労を経て大きく成長したヨセフが、肉親を思う情に、
      読む者は、思わずもらい泣きするほどです。

      もし、聖書をお持ちでしたら、ぜひ読んでみていただきたいのです。
                       (旧約聖書・創世記37章~50章)


      聖書では、美貌が益や得であるかどうかではなく、美貌が特に取り上げられているケースでは、

      神様がその人に意図された「ご計画がある」のだとわかるのです。

      むしろ、それは「試練」であるようですが。