真実は一つだ。だが、その分析、見解、解釈は無限にある。
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今回の話は長い。しかし一つずつ追って書いていこうと思う。
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正義とは何かをテーマにした時、以前ここでは正義とは人が正しいと思うルールの事だとした。尤もこれでは少し正確でないので、もう少し細かく書くと、正義とは人が正しいと心情で理解できる心理的志向性の事だと私は考える。
この正義はどのように行使されるべきであろうか。
これを多面的に捉える為に、一見関係なさそうに見えるいくつかのテーマの小話を先にしておきたい。
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1.プロレスとは何だろう
衰えたりと言えど、現在においてもプロレスは格闘技エンターテイメントの1ジャンルを築いている。このプロレスであるが、「面白い」と思う人と「面白くない」と思う人に二分される。「面白い」と思う人が面白い理由を「面白くない」と思う人に伝えても、面白いと思う人自身がそこにどっぷりと浸かっている為に客観的面白さを説明できず、面白く無い派の人達に上手く伝わらない。面白くない派の主要意見としては、「なぜ相手の攻撃を避けないのか」「相手の攻撃を受けて何になるのか」「事前の打ち合わせなどなぜあるのか」「そもそも格闘技からしてエンターテイメントとして成立しない」「格闘技はエンターテイメントとして意味が無い」などなど。こうした疑問にプロレス好きからは「プロレスは総合芸術だから」と言われても余りピンと来ない。だが、これにあえて私がプロレスが素晴らしいのはこうではないか、という内在的論理に挑戦してみようと思う。プロレスとは何であろうか。
私は想像する。昔も昔、太古原始時代の大昔に、村の代表の男と、他の村の代表の男が勝負しようと力自慢をしていた。周囲の男や女子供は、うちの村の男が強いんだ、と思いながら期待と不安と焦燥と熱気を顔に浮かべながら見守っている。
力自慢の勝負のルールは単純だ。順番に殴り合って相手を倒したら勝ち。一人の男が相手を殴る。殴られた男はお前の攻撃なんて効いてねえぜ、さあそれ俺の番だ、このパンチでお前が沈むんだぜ、と言って、渾身の力で殴りかかる。
今度は殴られた方が、蚊でも刺したかよとそれにやせ我慢で耐える。そして再度これで沈みやがれとこれまた全力で打撃を放つ。意地とプライドを賭けて殴りあうこのスタイルであるが、これはプロレスでも同じである。但しプロレスでは拳だけではない。ラリアット、キック、投げ、なんでもありとして進化している。相手の技を避けないのは、自分の肉体が相手の攻撃力を上回る耐久性、強靭な肉体を持っている事の証明であり、避ける事はそれを証明できない貧弱な肉体を持っているという認識を周囲に持たれる事になるからだ。プロレスが通常の格闘技と異なるのは、防御する技術を重視しているのではなく、耐久できる強靭な肉体、即ち肉体そのものの防御力が力の誇示に直結しているからである。
そして、アントニオ猪木氏が自伝で「打ち合わせをしているのは、レスラー同士がかなり強いので、却ってちょっとした事で死などの重大事故に繋がってしまう、なので互いが全力で技を出して、全力で受けきれるよう打ち合わせをする必要がある」という旨の文章を書いていた。プロレス脚本論を大上段にかざす人は、これを色眼鏡で見るだろうが、しかしこれは本質的に否定できない。打ち合わせが卑怯であろうがなんであろうが、死のリスクは低減すべきであって、攻撃と防御に全力を出すのがプロレスならば、その目標のお膳立てはしても当然であろう。
そしてエンターテイメント云々に関しては、マンガ「グラップラー刃牙」がポイントをついたセリフを主人公に言わせている。
「二人の男を並べてさあどっちがつええんだ? って・・・」
確かにオリバと烈海王はどっちがつええんだ? ってなる。郭海皇と渋川剛毅はどっちがつええんだ? ってなる。対戦があれば、それは見たいし知りたくもなる。それがエンターテイメントに繋がるのではないだろうか。
今日はここまで。
[追記]
2.イスラエル
続いてイスラエルである。
イスラエルではパレスチナ自治区との戦闘が止む気配が無い。
その戦闘にはイスラエル側は戦車を用意するが、戦車にはある設計思想がある。
戦車での戦闘において、有効射程距離は長ければ長いほど良い。何故か。
それは自らがダメージを追う事なく、相手を攻撃できるからだ。戦争においては、一発のダメージが深刻な状況になる。一発のダメージを受ける事は致命傷なのだ。よって自己生存を守る為に、相手の砲撃が届かない位置から、自分の砲撃を相手に届かせる必要があるのだ。自己の生命を守る、という観点から言って、相手からのダメージを受けない、というのは必須なスキルなのであり、闘うものの正義である。
3.NHK
2008年2月8日、NHK大阪放送局による放送:NHKかんさい特集『新知事・市長に問う 大阪の、これから』と言う討論番組があった。
この日、橋下徹氏は遅れて出演し、NHKの藤井彩子アナから「遅刻」と指摘された。これが後ほど騒動になる。これには背景があるので簡単に書き出してみたい。
NHKが出演を打診した。
橋下氏は「公務で遅れるが、それでも良いなら出演する」と回答した。
そこへ当日、橋下氏がNHKのスタジオに現れてみると、藤井アナから「ちょっと遅刻ですけども、およそ30分で遅刻して到着されました」とコメントした。
何の注釈もなければ単に橋下氏がだらしないという印象を受けるコメントである。そこへ橋下氏はきちんと「遅刻と言っても別にこちらの責任じゃないので」と釘を刺している。
この藤井アナのコメントはイスラエルの攻撃方法だ。相手の攻撃が届かぬ範囲で橋下氏を攻撃しようとした。つまり反論を受けても、当人による補足になる訳で、自らが傷つく心配は無い。
しかしイスラエルの攻撃の正義性とは自らの生存の為にある。
「藤井の発言は場を和ませようとしたもの」(NHK大阪放送局広報部)としたお遊び感覚で使用するもではない。
そして遊びでこの攻撃手法を使った藤井アナは二重に反撃を食らった。
一つは橋下氏から即座に反論されて釘をさされ、発言そのものを否定された事。見ようによっては中立報道を守るべき立場の人間が、偏向的報道をしたとも受け止めかねられない発言となってしまった。
もう一つは、これが騒動になった事に伴い、藤井は番組の降板を余儀なくされ、東京アナウンス室に配置転換された事である。大組織というものは得てして騒動や騒乱、汚点などを避ける傾向がある。
藤井アナは悪意はさほど無かったのだろう。しかし悪意なき所作で他人を傷つけてしまう場合は、それは立派な悪である。
子供なら許されるかもしれないが、大人は許されない。
これは私自身も注意せねばならないが、無知は悪なのである。無遠慮、無配慮は悪なのである。
NHKという組織は基本的に大真面目な人間で構成されている。悪意はネットで言われているほど、さほど存在しないと私は考えている。ただ、橋下氏がきちんと反論せず、この問題をスルーした時に、藤井アナの処遇はどうなっていたか。本来であればNHKは自らの報道姿勢と正義を貫く為に、何の反論が無かったとしても自らのけじめを自らの中でつける為、藤井アナを処断すべきであっただろう。しかし、実際にはそのような事は行われないのではなかったか。大組織はおおよそ事なかれ主義なのだ(そして末端が割を食う構造になっている)。騒動が起きなければ将来を鑑みて、処断は行われなかったと私は考える。今回の配置転換による処遇決定は飽くまで外部に向けたけじめであって、NHK自身の自己改善ではない。
私が見る限り、NHKにはこのような発言を番組内で許容する空気が存在する。但し、繰り返すがNHKという組織は基本的に大真面目な人間で構成されているので、人員的な素質として個々が改善できないとは思わない。問題はそれを許容する構造なのだ。もっと言うとその構造から派生する集団的精神構造を改善できるかどうかという事になる。
そして私の現在の結論としては、個々に注意を払う事は可能なりうるけれども、NHKとは大組織である為、その組織的行動に保守性が及び、自己改革ができない為、集団的精神構造を改善する事は不可能である、という事になる。
ただ、日本は加工貿易国である。言語も文化も思想も材料も、自らが最善と思う形へ変革し、変化させていった。
NHKもこれができないとは思わない。私の予想を裏切る事を切に期待する。
今日はここまで。
次回があれば、何が正義で何が卑怯であるのかを解読してみたい。
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今回の話は長い。しかし一つずつ追って書いていこうと思う。
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正義とは何かをテーマにした時、以前ここでは正義とは人が正しいと思うルールの事だとした。尤もこれでは少し正確でないので、もう少し細かく書くと、正義とは人が正しいと心情で理解できる心理的志向性の事だと私は考える。
この正義はどのように行使されるべきであろうか。
これを多面的に捉える為に、一見関係なさそうに見えるいくつかのテーマの小話を先にしておきたい。
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1.プロレスとは何だろう
衰えたりと言えど、現在においてもプロレスは格闘技エンターテイメントの1ジャンルを築いている。このプロレスであるが、「面白い」と思う人と「面白くない」と思う人に二分される。「面白い」と思う人が面白い理由を「面白くない」と思う人に伝えても、面白いと思う人自身がそこにどっぷりと浸かっている為に客観的面白さを説明できず、面白く無い派の人達に上手く伝わらない。面白くない派の主要意見としては、「なぜ相手の攻撃を避けないのか」「相手の攻撃を受けて何になるのか」「事前の打ち合わせなどなぜあるのか」「そもそも格闘技からしてエンターテイメントとして成立しない」「格闘技はエンターテイメントとして意味が無い」などなど。こうした疑問にプロレス好きからは「プロレスは総合芸術だから」と言われても余りピンと来ない。だが、これにあえて私がプロレスが素晴らしいのはこうではないか、という内在的論理に挑戦してみようと思う。プロレスとは何であろうか。
私は想像する。昔も昔、太古原始時代の大昔に、村の代表の男と、他の村の代表の男が勝負しようと力自慢をしていた。周囲の男や女子供は、うちの村の男が強いんだ、と思いながら期待と不安と焦燥と熱気を顔に浮かべながら見守っている。
力自慢の勝負のルールは単純だ。順番に殴り合って相手を倒したら勝ち。一人の男が相手を殴る。殴られた男はお前の攻撃なんて効いてねえぜ、さあそれ俺の番だ、このパンチでお前が沈むんだぜ、と言って、渾身の力で殴りかかる。
今度は殴られた方が、蚊でも刺したかよとそれにやせ我慢で耐える。そして再度これで沈みやがれとこれまた全力で打撃を放つ。意地とプライドを賭けて殴りあうこのスタイルであるが、これはプロレスでも同じである。但しプロレスでは拳だけではない。ラリアット、キック、投げ、なんでもありとして進化している。相手の技を避けないのは、自分の肉体が相手の攻撃力を上回る耐久性、強靭な肉体を持っている事の証明であり、避ける事はそれを証明できない貧弱な肉体を持っているという認識を周囲に持たれる事になるからだ。プロレスが通常の格闘技と異なるのは、防御する技術を重視しているのではなく、耐久できる強靭な肉体、即ち肉体そのものの防御力が力の誇示に直結しているからである。
そして、アントニオ猪木氏が自伝で「打ち合わせをしているのは、レスラー同士がかなり強いので、却ってちょっとした事で死などの重大事故に繋がってしまう、なので互いが全力で技を出して、全力で受けきれるよう打ち合わせをする必要がある」という旨の文章を書いていた。プロレス脚本論を大上段にかざす人は、これを色眼鏡で見るだろうが、しかしこれは本質的に否定できない。打ち合わせが卑怯であろうがなんであろうが、死のリスクは低減すべきであって、攻撃と防御に全力を出すのがプロレスならば、その目標のお膳立てはしても当然であろう。
そしてエンターテイメント云々に関しては、マンガ「グラップラー刃牙」がポイントをついたセリフを主人公に言わせている。
「二人の男を並べてさあどっちがつええんだ? って・・・」
確かにオリバと烈海王はどっちがつええんだ? ってなる。郭海皇と渋川剛毅はどっちがつええんだ? ってなる。対戦があれば、それは見たいし知りたくもなる。それがエンターテイメントに繋がるのではないだろうか。
今日はここまで。
[追記]
2.イスラエル
続いてイスラエルである。
イスラエルではパレスチナ自治区との戦闘が止む気配が無い。
その戦闘にはイスラエル側は戦車を用意するが、戦車にはある設計思想がある。
戦車での戦闘において、有効射程距離は長ければ長いほど良い。何故か。
それは自らがダメージを追う事なく、相手を攻撃できるからだ。戦争においては、一発のダメージが深刻な状況になる。一発のダメージを受ける事は致命傷なのだ。よって自己生存を守る為に、相手の砲撃が届かない位置から、自分の砲撃を相手に届かせる必要があるのだ。自己の生命を守る、という観点から言って、相手からのダメージを受けない、というのは必須なスキルなのであり、闘うものの正義である。
3.NHK
2008年2月8日、NHK大阪放送局による放送:NHKかんさい特集『新知事・市長に問う 大阪の、これから』と言う討論番組があった。
この日、橋下徹氏は遅れて出演し、NHKの藤井彩子アナから「遅刻」と指摘された。これが後ほど騒動になる。これには背景があるので簡単に書き出してみたい。
NHKが出演を打診した。
橋下氏は「公務で遅れるが、それでも良いなら出演する」と回答した。
そこへ当日、橋下氏がNHKのスタジオに現れてみると、藤井アナから「ちょっと遅刻ですけども、およそ30分で遅刻して到着されました」とコメントした。
何の注釈もなければ単に橋下氏がだらしないという印象を受けるコメントである。そこへ橋下氏はきちんと「遅刻と言っても別にこちらの責任じゃないので」と釘を刺している。
この藤井アナのコメントはイスラエルの攻撃方法だ。相手の攻撃が届かぬ範囲で橋下氏を攻撃しようとした。つまり反論を受けても、当人による補足になる訳で、自らが傷つく心配は無い。
しかしイスラエルの攻撃の正義性とは自らの生存の為にある。
「藤井の発言は場を和ませようとしたもの」(NHK大阪放送局広報部)としたお遊び感覚で使用するもではない。
そして遊びでこの攻撃手法を使った藤井アナは二重に反撃を食らった。
一つは橋下氏から即座に反論されて釘をさされ、発言そのものを否定された事。見ようによっては中立報道を守るべき立場の人間が、偏向的報道をしたとも受け止めかねられない発言となってしまった。
もう一つは、これが騒動になった事に伴い、藤井は番組の降板を余儀なくされ、東京アナウンス室に配置転換された事である。大組織というものは得てして騒動や騒乱、汚点などを避ける傾向がある。
藤井アナは悪意はさほど無かったのだろう。しかし悪意なき所作で他人を傷つけてしまう場合は、それは立派な悪である。
子供なら許されるかもしれないが、大人は許されない。
これは私自身も注意せねばならないが、無知は悪なのである。無遠慮、無配慮は悪なのである。
NHKという組織は基本的に大真面目な人間で構成されている。悪意はネットで言われているほど、さほど存在しないと私は考えている。ただ、橋下氏がきちんと反論せず、この問題をスルーした時に、藤井アナの処遇はどうなっていたか。本来であればNHKは自らの報道姿勢と正義を貫く為に、何の反論が無かったとしても自らのけじめを自らの中でつける為、藤井アナを処断すべきであっただろう。しかし、実際にはそのような事は行われないのではなかったか。大組織はおおよそ事なかれ主義なのだ(そして末端が割を食う構造になっている)。騒動が起きなければ将来を鑑みて、処断は行われなかったと私は考える。今回の配置転換による処遇決定は飽くまで外部に向けたけじめであって、NHK自身の自己改善ではない。
私が見る限り、NHKにはこのような発言を番組内で許容する空気が存在する。但し、繰り返すがNHKという組織は基本的に大真面目な人間で構成されているので、人員的な素質として個々が改善できないとは思わない。問題はそれを許容する構造なのだ。もっと言うとその構造から派生する集団的精神構造を改善できるかどうかという事になる。
そして私の現在の結論としては、個々に注意を払う事は可能なりうるけれども、NHKとは大組織である為、その組織的行動に保守性が及び、自己改革ができない為、集団的精神構造を改善する事は不可能である、という事になる。
ただ、日本は加工貿易国である。言語も文化も思想も材料も、自らが最善と思う形へ変革し、変化させていった。
NHKもこれができないとは思わない。私の予想を裏切る事を切に期待する。
今日はここまで。
次回があれば、何が正義で何が卑怯であるのかを解読してみたい。
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