とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

ミーニングと認識、意味の理解と真理の到達

2018-05-27 13:21:57 | 哲学・社会
少し難解な話になるが、記載しておく。

人は人である限り、理解と認識の範囲において限界が存在する。
真理を理解したと認識している我々のそれは、スタート地点という無知の領域から真理というゴール地点に対して何割進んだかで示されているにすぎない。

例えば三次元に住んでいる我々は三次元と二次元と1次元を理解することができるが、四次元が想像できない(こうではないか、と想定したり仮定したりして議論することはできる)。
同様に、二次元に住んでいる人がいるならば、二次元と1次元を理解することができるが、三次元が想像できない(こうではないか、と想定したり仮定したりして議論することはできる)。

そしてここから問題であるのだが、人間とは、真理に到達する際の道中において、人間は人間なりの思考の補助線や、あるいはストーリーを描き立てて、それが真実だと思い込んでしまうフシがあり、そういう本能的な理解の修正を持ってしまうのだ。

例えば、夜の月を見上げては、世界各地ではその模様を何である、あれはどういう経緯でできたのだ、と、様々な理由を並べてストーリーを構築した。

星座や流れ星を見てはその吉凶を占い、日蝕を見ては神様の怒りだと思ったり、雨乞いや豊作の祈願を行い、死や生に対する解釈をストーリー立てた。

ランダムな流れの中に、何が起因してそれが起こったのか、どのような法則性があったのかと”解釈”してしまうのが人間なのである。

そこに何らかの法則性や要因・遠因を見出すのは全くもって正しい。
但し、それが「それらしい」という理由だけで、あたかも法則を見つけたかのような認識になるのは間違いなのではないのか、と問いたい。

これは何も人間だけの話なのではない。アメリカの心理学者スキナーが行った鳩の実験では、エサを与えるその操作で、自分の主観が世界に影響を及ぼしているのだという錯覚を持つことを説明している。

その実験では、鳩にボタンを押せばエサがでるという鳥かごにおいて実験すると、鳩はボタンを押し続けるが、ボタンの押すのと押さないのとに関わらず、ランダムでエサが出るようにした時、鳩の行動の最適解は「ただ待つこと」だったが、そこでの鳩は、各個体ごとに奇妙な動きをし始めた。ある個体はぐるぐるかごの中を回ったり、ある個体はぐいっと頭を突き出す行動をし始め、それを繰り返した。
ここでのスキナーの説明では「鳩が自身の行った、エサが出る直前のその動作が、エサが出る起因になったと思い込んだ」としている。

人間の話に戻ろう。
人間はランダムな数に何か法則性があるのではないかと長年探ってきた感がある。
その内の一つが素数の探求である。

だが何番目の素数はいくつになるか、と言う素数を法則的に産出する数式は成立の目を見ていない。
ウラムの螺旋というものがあり、螺旋状に数字を書いていくと、数字を書いたその線同士がつながっているように見える。

なぜそのように見えるのか、と言うのは未だ分かっていない。

もし「ウラムの螺旋」が数式化されれば、そこにミーニングが存在し、それを新たな認識として人間社会は取り込むことができるだろう。

問題は、「これがたまたまの本当のランダムで、その線が現れるのは偶然だった」と言うケースにおいて、人間は星座に意味をもたせる感覚で、ランダムで出現する数字に意味をストーリーづけてしまったと言うことになる。

この発見の探訪において、「そこに真理が存在するかもしれない」と言う仮定の認識と、「それがある種の真実なのだ」と言うミーニングをストーリー付けてしまった認識ではおおいな差が存在し、こと、後者においては大変な危険性が伴うものであろう。

しかし大変残念ながら、その慣用性における社会的な誤用と言うのは広く社会に存在する。
つまりは、誤った認識であったとしても、みんながあまりにもそれを常識として言っているから、自分もつられて「それが真理なんだ」と思っているフシである。


例えば鏡では左右が逆になると言う慣用的な表現は、正確には逆になっているのは左右ではなく前後である。
あるいは、時間の概念を考えれば、多くのSF映画で時間を遡って過去に行ったり、未来に行ったりすることがあまりにも氾濫しているから、我々の思考の中では完全に「未来は計算上のオブジェクトがどこか別の平行世界に配置されているもの、逆に過去とは物理の中ではその痕跡が抽出できたり、その場にいけるもの」として考えてしまうが、実際の物理世界ではそのようなことはない。物体の移動変化が、我々が共通して認識している変化の基準に対してどれだけ物体が動いたか、と言うのを認識として数直線的に捉えているに過ぎないのが時間である。

誤認を多くするがゆえに、検証も行わず、それを真理として捉える危険性は多くある。

ひょっとしたら、上述の考えさえも真理に至るまでの道中の道半ばなのかもしれない。
ただ、それは「まだ真理には到達できていないけれども、いま現状を生きるためには、暫定的に見つかったこの法則を用いて、社会を運用する他ない」と言う理解をするしかないのだ。
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