とめどもないことをつらつらと

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エンターテイメントの二種類の楽しみ方 そのばその場の楽しさと真理の追求

2018-05-03 18:11:02 | 哲学・社会
ゲーテが「ファウスト」の冒頭で劇団の座長、詩人、道化にそれぞれセリフを言わせたように、劇のやり方には種類がある。
一つはファウストの中で詩人の言うように、「いつまでも永遠に語り継がれる、世界の真理をつく物語を」と言う形。
もう一つは同じくファウストの中で道化の言うように、「真理なんてどうでもいい。その場その場でお客がウケるものをどんどん」と言う形。

実はファウスト自身はどのような体裁の創作となっているのか、と言うと、上記のいずれかに分類されるのではなく、両者のハイブリッドになっている。


さて、そういう中で「いつまでも面白いと言われる作品」か、それとも「その場だけでウケるがそうしたものをどんどん」かになる場合、多くの創作者が頭を悩ませる形になるが、しかしそれは先達のゲーテが何をするべきなのかをファウストを通して教えてくれている。両方やればいいのだ。


私個人のギリシャ哲学への見解だが、ギリシャ哲学の時代、全ての世界の出来事は頭の中で捉えられることができるとされたようだ(但し、あくまでギリシャ哲学がそのような体系をしている、と言う私自身の理解なのであって、私自身としては、「全ての世界の出来事は頭の中で捉えられることができる」とは思っていないが・・・)。
時代や季節、環境や場所が変わっても変わらない一つの答えは、我々が頭の中で理解しうる理念として「イデア」と呼ばれる。
その対義として、一般的にはイデアが実世界に実装されたものは、私自身は「現象」としてこの実世界に現れるのだ、と理解している。

世界の諸要素をなす根源的な何かが、我々が理解する時にイデアとして頭の中に蓄積され、その根源的な何かがうつろいゆく時節ごとに違った様相を見せるのが「現象」となる。

創作でも同様で、数千年後まで人を感嘆させる「イデア」に通じた作品を作るべきか、それとも今この瞬間だけを喜ばせる底の浅く、しかし実利的な「現象」の劇を見せるべきなのか。

今現在においても、いや、今後の未来においてでさえ、イデアを魅せながらもしかし現象を表現して、目先の客層を追わなければならないという宿命を、創作は負っているのだろう。

以上である。


追記:
いきなり話しは卑俗になるが、「ガッチャマン クラウズ インサイト」と言うアニメのオープニング映像を見て、その中での後半の登場人物が空から降ってきて集合するというシーン(1:12~)が大変良い出来であった。

GATCHAMAN Crowds Insight ガッチャマン クラウズ インサイト OP FHD NC
https://youtu.be/h3nINqfBSAY?t=72



この集合シーンの構成そのものは「イデア」、つまり何千年経っても人が感銘を受ける構図なのに対して、デザインと描き方が今しかウケないだろう「現象」となっていて、将来的にはここが「あっ、ちょっとここは古いな」と感じてしまう場所になるのだろう、と想像している。

しかし、ここを作った人が本当に羨ましい。
自分の才能を思う存分ここに叩き込んで、多くの人を感嘆させ、感銘させる仕事をしたのだから。
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