と言うことなのだが、私は今まで真面目に生きてきたか? それともそうでなかったか? と言う点については、多くの人と同じように、そうであるとも言え、あるいは逆にそうでないとも言えない生活を送ってきた。
本人的には真面目に生活をしてきたつもりではあるものの、では、毎日何かの勉強をしていましたか? と言われると答えはノー。毎日何かの運動をしていました? と言われれば、こちらもやはり答えはノーとなる。
ではそれ以上にやっている人に虐げられるべきか? と言うとこれもやはりそれは違うんじゃないか、と言うことになってくる。
私は上流会社の泥を被ったことがあるし、それによって人生が破綻した。
それに対して上の人間は誰も私に謝罪などしない(彼らは普通の人間なので、具体的に指摘する形で言われれば贖罪感に苛まされることになるとは思う)。
ツァラトゥストラでの解説「驢馬のように黙々と困難を引き受けてこそ、真の謙遜である。」と言う言葉について、私は実行できそうにない。
どこかで文句は言うし、地位も給料も人生の安定も要求するだろう。それ至るまで私は延々と今まであった不遇を喋り続ける。
私は聖人などではなくて凡人であるからだ。では凡人は黙ってろ、と言われることなのだろうかというとこれもまた間違いであって、人は生きる上で自然権の範疇として、努力とそこに伴った結果に対する報酬を要求し、人生の毀損となるような負債を背負わされた場合は、それを補填する要求をすることができるのだ。これは私が凡人であるからこそ言える話である。そしてそれができぬ病理が宿痾として根深く根治できずにいるのが日本社会の実態であると言えよう。
ビジネスマンの父より息子への30通の手紙 キングスレイ・ウォード P231
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私の見るところ、多くの人は生き残るために潔く戦おうとはしないで、むしろ逃げている。国の福祉制度、教会、友人、そのほかのさまざまな社会的な支えのかげに逃げ込んでいる。もちろん麻薬や酒に逃避する場合もある。成功や失敗の経験が足りないので、困難を乗り越えるための精神力がついていない。
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そう、本来は逃げなかった者が称賛と利益を得て、逃げた者がそれらを剥奪されるべきである。
しかし実態は逆だ。
上流工程の不始末の泥を下流がかぶり、上流は逃げる。
これはいくつかの事例の内の2つを取り上げておきたい。
1つは2008年1月の事故の反省会で末端の現場作業員が悪いと責任を押し付けて逃げたこと。
1つは仕事の結果に対して、「〇〇、△△(会社の略称)は悪くないよな? 」と言って逃げたこと。
私はもう疲れた。