私は仕事で悩んでいる。
というのも2008年に潰れた後は、誤魔化し誤魔化しで色んな職場を点々とし、その後回復してきたこともあって、仕事もあともう少しで十全にできぞうな感じかもしれない。
ただ、そこでまた一生懸命仕事をすると、また潰れて、半壊している自分の人生が全壊することにつながりかねない。
それが一歩を踏み越えることを躊躇させている。
そもそも人間が人生を生きる上で、仕事に関してつらい思いをしながら生きなければならないのだろうか?
更なる年収アップのために更なる苦痛を許容しなければいけないなどと言う、よく分からない思想が日本の企業文化の精神的な根底を構築しているように思えてならない。
無論、上に立てば責任を取る範囲が増え、その責任を進んで取る、というのが本来のあるべき健全な姿であると私は思っていたが、私が責任を進んで取るという姿勢の割りには、私が実態として見たのは、要領よく責任から逃げ回る上長たちの姿であった。これは2006年から2009年に見た上司の中で、誰一人として例外の無かった姿であり、これに落胆したのも私が潰れた原因の一つであったとも言える。
私の先輩であるSさんが、職場ルール的に逸脱した仕事を持っていて、それを私に引き継がせようとした時、Sさんは「大丈夫、何かあった時には俺が責任を持つから」と言った際には、その言葉に違和感があって、かねてから違和感だらけで悶々としていた私はついにそれが暴発してしまった。次のように反論をしてしまう事態となる。「仕事で責任って言う意味は、何かあるということを前提に責任を取るということではなく、その仕事で何かないように責任を持ってやることではないですか? 」と。
Sさんの持っている仕事とやっている仕事がそもそも職場ルールに遵守していない、彼一人のオリジナルなものが多かったので、一匹オオカミ的にやっていれば良かったのだが、それを組織内で周囲にやらせるというのでは話しが違う。Sさんの仕事は引き継ぐ以前に、職場ルール的にイリーガルなことをやっている、という話しが前提として存在していたので、責任も何も無かったように思う。
責任云々言い出すのであれば、自身の仕事をクリーンにしてから引き継がせるべきだったと思うのだが、そうでないところに、私とSさんの間で、仕事に対する考え方が何か違う点があったように思う(そしてそれを上から管理していない上長陣も全く同じことが言えたわけだが)。
あるいは東芝に代表されるように、責任者が責任感を持ってやらない、というのが日本における組織文化だったのだろう。
経営上の数字が悪化すれば、それは経営している組織体の船の運航が上手く行っていないということで、船長のクビは挿げ替えられて当然であろう筈が、それを誤魔化して揉み消すために、東芝の数字的成績は地震計測や嘘発見器の記録が残すような、不自然な線(ネット上で俗に言う、ワロス曲線)を描くことになる。
話しを戻す。
思えば、私の2006年から2009年に仕事で付き合ってくれた上司やその他の方々は、私を育てるという意味において皆優しかったのだが、その笑顔の裏には、何か暗黙的に潜むサディズムと、強制されるマゾヒズムが潜んでいて、それを暗に上と下の役割でそれぞれ演じろという空気が流れていたのも、私の観点から見れば確かにあった気持ちの悪い事実であった。
とにかく仕事をこなすというよりは作法の方に集中していて、何をやっても何か言われる。失敗すればそれは指摘を受けるのも当然なのだが、成功しても何かとやかく言われるのだ。それでいて収入や評価は上がらない。
それの不備を指摘しても、すべての人間は責任を取らない。逃げ回って誤魔化しに終始する、というのが、私が実態として見て来た企業の実像であった。
ここに黒人奴隷制やあるいはフランスの市民運動が暴発したときの第三身分のように、ここ日本では何か構造上の問題を抱えていることになるように思われるのである。
そんなこんなで、その構造が継続している以上、私の仕事はどれだけ注力しても、どれだけ負担を抱えても、今後は収入も評価も上がらないだろう。
(正確に言うと、先日ようやっと評価の話しがあったのだが、「昇進した後に倒れたくない」という理由で、私はそれを蹴ってしまった。)
日本人はこういう仕組みでしか昇進しないのだろうか? 評価されないのだろうか?
しかしそれでも評価されたり昇進したりとしている人達は何が違うんだろう? 私の観点から見れば、皆死屍累々になっていなければおかしいし、実際問題、私の職制の上以上は皆ヘロヘロになって働いている。
その一方で人生を楽しんでいる人もいて、何がなんだかよく分からない。
仕事とは何だろう? 人生とは何だろう? 余暇や喜びやあるいは元気と引き換えに、苦痛を伴った労賃を貰うのが仕事なんだろうか?
私の持っている仕事のイメージは、進んで皆のためになることをし、社会に奉仕でき、そしてそれに見合ったお金を対価として得る、というのが健全であったように思うのだが、しかし社会とはそういうもので出来ていないのだ。
というのも2008年に潰れた後は、誤魔化し誤魔化しで色んな職場を点々とし、その後回復してきたこともあって、仕事もあともう少しで十全にできぞうな感じかもしれない。
ただ、そこでまた一生懸命仕事をすると、また潰れて、半壊している自分の人生が全壊することにつながりかねない。
それが一歩を踏み越えることを躊躇させている。
そもそも人間が人生を生きる上で、仕事に関してつらい思いをしながら生きなければならないのだろうか?
更なる年収アップのために更なる苦痛を許容しなければいけないなどと言う、よく分からない思想が日本の企業文化の精神的な根底を構築しているように思えてならない。
無論、上に立てば責任を取る範囲が増え、その責任を進んで取る、というのが本来のあるべき健全な姿であると私は思っていたが、私が責任を進んで取るという姿勢の割りには、私が実態として見たのは、要領よく責任から逃げ回る上長たちの姿であった。これは2006年から2009年に見た上司の中で、誰一人として例外の無かった姿であり、これに落胆したのも私が潰れた原因の一つであったとも言える。
私の先輩であるSさんが、職場ルール的に逸脱した仕事を持っていて、それを私に引き継がせようとした時、Sさんは「大丈夫、何かあった時には俺が責任を持つから」と言った際には、その言葉に違和感があって、かねてから違和感だらけで悶々としていた私はついにそれが暴発してしまった。次のように反論をしてしまう事態となる。「仕事で責任って言う意味は、何かあるということを前提に責任を取るということではなく、その仕事で何かないように責任を持ってやることではないですか? 」と。
Sさんの持っている仕事とやっている仕事がそもそも職場ルールに遵守していない、彼一人のオリジナルなものが多かったので、一匹オオカミ的にやっていれば良かったのだが、それを組織内で周囲にやらせるというのでは話しが違う。Sさんの仕事は引き継ぐ以前に、職場ルール的にイリーガルなことをやっている、という話しが前提として存在していたので、責任も何も無かったように思う。
責任云々言い出すのであれば、自身の仕事をクリーンにしてから引き継がせるべきだったと思うのだが、そうでないところに、私とSさんの間で、仕事に対する考え方が何か違う点があったように思う(そしてそれを上から管理していない上長陣も全く同じことが言えたわけだが)。
あるいは東芝に代表されるように、責任者が責任感を持ってやらない、というのが日本における組織文化だったのだろう。
経営上の数字が悪化すれば、それは経営している組織体の船の運航が上手く行っていないということで、船長のクビは挿げ替えられて当然であろう筈が、それを誤魔化して揉み消すために、東芝の数字的成績は地震計測や嘘発見器の記録が残すような、不自然な線(ネット上で俗に言う、ワロス曲線)を描くことになる。
話しを戻す。
思えば、私の2006年から2009年に仕事で付き合ってくれた上司やその他の方々は、私を育てるという意味において皆優しかったのだが、その笑顔の裏には、何か暗黙的に潜むサディズムと、強制されるマゾヒズムが潜んでいて、それを暗に上と下の役割でそれぞれ演じろという空気が流れていたのも、私の観点から見れば確かにあった気持ちの悪い事実であった。
とにかく仕事をこなすというよりは作法の方に集中していて、何をやっても何か言われる。失敗すればそれは指摘を受けるのも当然なのだが、成功しても何かとやかく言われるのだ。それでいて収入や評価は上がらない。
それの不備を指摘しても、すべての人間は責任を取らない。逃げ回って誤魔化しに終始する、というのが、私が実態として見て来た企業の実像であった。
ここに黒人奴隷制やあるいはフランスの市民運動が暴発したときの第三身分のように、ここ日本では何か構造上の問題を抱えていることになるように思われるのである。
そんなこんなで、その構造が継続している以上、私の仕事はどれだけ注力しても、どれだけ負担を抱えても、今後は収入も評価も上がらないだろう。
(正確に言うと、先日ようやっと評価の話しがあったのだが、「昇進した後に倒れたくない」という理由で、私はそれを蹴ってしまった。)
日本人はこういう仕組みでしか昇進しないのだろうか? 評価されないのだろうか?
しかしそれでも評価されたり昇進したりとしている人達は何が違うんだろう? 私の観点から見れば、皆死屍累々になっていなければおかしいし、実際問題、私の職制の上以上は皆ヘロヘロになって働いている。
その一方で人生を楽しんでいる人もいて、何がなんだかよく分からない。
仕事とは何だろう? 人生とは何だろう? 余暇や喜びやあるいは元気と引き換えに、苦痛を伴った労賃を貰うのが仕事なんだろうか?
私の持っている仕事のイメージは、進んで皆のためになることをし、社会に奉仕でき、そしてそれに見合ったお金を対価として得る、というのが健全であったように思うのだが、しかし社会とはそういうもので出来ていないのだ。