かれこれもう5年も前になる。
2008年~2009年の間の私の上長は、私の親会社に当たる会社に在籍するOさんという主任の方であった。
この方はとてもいい人で気遣いもよくして頂いていたのだが、いくつか引っかかることをよく思い出すので、ここに書いておく。
それは私がOさんと面談した時のことであった。
これは私の仕事内容を告解した時の面談とは別の時の面談である。
私は自分の仕事にプライドを持っていたし、与えられた仕事は十分に応え、更にその上にも行こうと努力をしていた。
しかし不満があった。どこまでやろうにも、全く評価されない。相応の仕事はどんどん振られてくるが、それでも評価の声は聞こえてこないのであった。
仕事にミスがあった? 仕事のミスについては以前の記事に書いたとおりだ。
嫌われていた? その可能性はある。潜在的な味方と潜在的な敵は増えていた。しかしそのようなことで仕事の評価はなされるべきなのか?
生意気だった? 実にその通りだ。私は誰よりも仕事をし、それを誇りに思っていたし、「○○君はとんがっているから、もっと丸くなった方がいい」と言われたこともある。だから評価をされないというのはおかしいのではないか。
そうしたことは今回は口に出さずに、Oさんの言うことを頷いてよく聞いていた。
Oさん「○○(私)、『マズローの欲求段階説』って知ってるか? 」
私「いいえ、知りません。それは何でしょうか? 知らないので教えて下さい。」
Oさんは私に対し、明らかに何かを伝えたがっていたように見えたし、私は純粋にその言葉を知らなかったのでこのように答えた。
Oさん「じゃあ、教えてやろう。『マズローの欲求段階説』は、人間の自己実現のモデルのことだ。人間の欲求には食欲などの低いレベルのものから、何か自分の決めた目標を達成してやろうという高いレベルのものまである。」
私「はい」
私が短く答える。Oさんは続ける。
Oさん「この中間にも承認されたいというような欲求などがあるけれど、それをしなくても、その一段階上の自分の目標を遂げることはできる。」
ここで私は思い出した。これはあれだ。以前ピラミッドのような図で見たことがある。これは自己実現をモデル化した階層で、低次の食欲などの欲求を満たせば、一段高い次の層の欲求、例えば生活の安全などの欲求に自分の意識が振り向くことになる。なるほど、これは『マズローの欲求段階説』って言うのか。勉強になった。けれど、仮にOさんの言っているモデルと私の思い出したモデルが完全一致するならば、Oさんの言っていることはおかしい。
恐らくOさんは上長による仕事の承認にとらわれず、自分の判断で自分の仕事を達成せよ、という話しにつなげたかったのだろうが、そもそもが承認欲求を満たさなければ、自己実現欲求に意識を振り向けることができない。
私は私の表情を見ることはできない。ので、私自身がどういう表情になっていたのかは分からないが、恐らく頭の上にはてなマークがたくさん並んだ顔をしたのだろう。Oさんがそれに気づき、「ん? ○○、どうした? 」と言った。
私「Oさん、ちょっと聞いてもいいですか? 」
Oさん「ん? いいよ? 」
私「そのモデルは低次の欲求を満たさなければ高次の欲求を満たすことができないことを示すモデルなのでは・・・」
と言ったときに、Oさんは斜め上を見た。
Oさん「あー、うん、俺はそういった風には考えてなくて、別に承認がなくとも、自己実現はできる、と思っている」
と答えた。ならどうしてマズローの欲求段階説とか持ち出したんじゃい、などというツッコミはせず、私は穏便に笑顔を保ったままOさんから視線をはずさず、「そうなんですね」とだけ答えた。
数年後に聞いた話だが、こうした主任クラスの人たちは、自分が受けた直近の研修内容を部下に教えるクセが基本的にあるようで、ある種の普遍的に見られる傾向があるようだ。
確かにマズローとかジョハリの窓とかは自分が研修を受けたら人に教えたいだろう内容でもある。
私がひっかかるのは、
・自分が知ったからと言って、知識的優位を表現したいために即座に他人に教えるのはいかがなものか。
・誤った内容を人に教えるのはいかがなものか。
・それでいて教えてる方に指摘くらうのはいかがなものか。
・知識の多寡でそういう優位が決まるのか。
・なぜ知識が私の方に多くあるのに私は評価されないのだろうか。詰まる所、それは研修しているかしていないかの差でしょう。
・経験が足りない? 人の15倍仕事をしていて、言葉がしゃべれなくなった私が経験が足りないというのであれば、その他に何を経験すればいいのだろう? 残りの経験は過労死くらいしかない。死んだら評価してくれるだろうか。いや、この組織に限ってそれはない。みんなで悲しいね、と言って終わりである。
・要は構造的差別の差である。私はこの親会社に当たる会社と私の会社の関係で一生頭が上がらず、評価もされない。どれだけ能力があったとしても。
なぜか。それはなぜか。それは一体なぜ起こったのか。
しかし、現在の私は、この頃を振り返るに、この時期でとても重要なことを学んだ。それは、作業量と仕事の内容と言うのは報酬に比例しない。飽くまで、選んだ会社と、その会社がとって来る仕事にのみ報酬額、評価内容が左右される。例え周囲に見守ってくれる人がいても、それは個人を収入的に救ってくれたり、未来を保証してくれたりする訳では無いのだ。
そして当時の私は、その時の「いくら結果を出しても他人に認められない」と言う感覚が強烈に染み付いた。この感覚が今になっても自身の思考にこびりつき、他人の承認と言うものは無意味なものであり、自分が定めた目標の履行にしか意味が無いと結論した。
これはOさんにとって皮肉である。「他者からの承認を目標とするのではなく、自己実現を目標とせよ」と言うOさん自身の言葉を私は否定したが、別の形で理解するに至った。
2008年~2009年の間の私の上長は、私の親会社に当たる会社に在籍するOさんという主任の方であった。
この方はとてもいい人で気遣いもよくして頂いていたのだが、いくつか引っかかることをよく思い出すので、ここに書いておく。
それは私がOさんと面談した時のことであった。
これは私の仕事内容を告解した時の面談とは別の時の面談である。
私は自分の仕事にプライドを持っていたし、与えられた仕事は十分に応え、更にその上にも行こうと努力をしていた。
しかし不満があった。どこまでやろうにも、全く評価されない。相応の仕事はどんどん振られてくるが、それでも評価の声は聞こえてこないのであった。
仕事にミスがあった? 仕事のミスについては以前の記事に書いたとおりだ。
嫌われていた? その可能性はある。潜在的な味方と潜在的な敵は増えていた。しかしそのようなことで仕事の評価はなされるべきなのか?
生意気だった? 実にその通りだ。私は誰よりも仕事をし、それを誇りに思っていたし、「○○君はとんがっているから、もっと丸くなった方がいい」と言われたこともある。だから評価をされないというのはおかしいのではないか。
そうしたことは今回は口に出さずに、Oさんの言うことを頷いてよく聞いていた。
Oさん「○○(私)、『マズローの欲求段階説』って知ってるか? 」
私「いいえ、知りません。それは何でしょうか? 知らないので教えて下さい。」
Oさんは私に対し、明らかに何かを伝えたがっていたように見えたし、私は純粋にその言葉を知らなかったのでこのように答えた。
Oさん「じゃあ、教えてやろう。『マズローの欲求段階説』は、人間の自己実現のモデルのことだ。人間の欲求には食欲などの低いレベルのものから、何か自分の決めた目標を達成してやろうという高いレベルのものまである。」
私「はい」
私が短く答える。Oさんは続ける。
Oさん「この中間にも承認されたいというような欲求などがあるけれど、それをしなくても、その一段階上の自分の目標を遂げることはできる。」
ここで私は思い出した。これはあれだ。以前ピラミッドのような図で見たことがある。これは自己実現をモデル化した階層で、低次の食欲などの欲求を満たせば、一段高い次の層の欲求、例えば生活の安全などの欲求に自分の意識が振り向くことになる。なるほど、これは『マズローの欲求段階説』って言うのか。勉強になった。けれど、仮にOさんの言っているモデルと私の思い出したモデルが完全一致するならば、Oさんの言っていることはおかしい。
恐らくOさんは上長による仕事の承認にとらわれず、自分の判断で自分の仕事を達成せよ、という話しにつなげたかったのだろうが、そもそもが承認欲求を満たさなければ、自己実現欲求に意識を振り向けることができない。
私は私の表情を見ることはできない。ので、私自身がどういう表情になっていたのかは分からないが、恐らく頭の上にはてなマークがたくさん並んだ顔をしたのだろう。Oさんがそれに気づき、「ん? ○○、どうした? 」と言った。
私「Oさん、ちょっと聞いてもいいですか? 」
Oさん「ん? いいよ? 」
私「そのモデルは低次の欲求を満たさなければ高次の欲求を満たすことができないことを示すモデルなのでは・・・」
と言ったときに、Oさんは斜め上を見た。
Oさん「あー、うん、俺はそういった風には考えてなくて、別に承認がなくとも、自己実現はできる、と思っている」
と答えた。ならどうしてマズローの欲求段階説とか持ち出したんじゃい、などというツッコミはせず、私は穏便に笑顔を保ったままOさんから視線をはずさず、「そうなんですね」とだけ答えた。
数年後に聞いた話だが、こうした主任クラスの人たちは、自分が受けた直近の研修内容を部下に教えるクセが基本的にあるようで、ある種の普遍的に見られる傾向があるようだ。
確かにマズローとかジョハリの窓とかは自分が研修を受けたら人に教えたいだろう内容でもある。
私がひっかかるのは、
・自分が知ったからと言って、知識的優位を表現したいために即座に他人に教えるのはいかがなものか。
・誤った内容を人に教えるのはいかがなものか。
・それでいて教えてる方に指摘くらうのはいかがなものか。
・知識の多寡でそういう優位が決まるのか。
・なぜ知識が私の方に多くあるのに私は評価されないのだろうか。詰まる所、それは研修しているかしていないかの差でしょう。
・経験が足りない? 人の15倍仕事をしていて、言葉がしゃべれなくなった私が経験が足りないというのであれば、その他に何を経験すればいいのだろう? 残りの経験は過労死くらいしかない。死んだら評価してくれるだろうか。いや、この組織に限ってそれはない。みんなで悲しいね、と言って終わりである。
・要は構造的差別の差である。私はこの親会社に当たる会社と私の会社の関係で一生頭が上がらず、評価もされない。どれだけ能力があったとしても。
なぜか。それはなぜか。それは一体なぜ起こったのか。
しかし、現在の私は、この頃を振り返るに、この時期でとても重要なことを学んだ。それは、作業量と仕事の内容と言うのは報酬に比例しない。飽くまで、選んだ会社と、その会社がとって来る仕事にのみ報酬額、評価内容が左右される。例え周囲に見守ってくれる人がいても、それは個人を収入的に救ってくれたり、未来を保証してくれたりする訳では無いのだ。
そして当時の私は、その時の「いくら結果を出しても他人に認められない」と言う感覚が強烈に染み付いた。この感覚が今になっても自身の思考にこびりつき、他人の承認と言うものは無意味なものであり、自分が定めた目標の履行にしか意味が無いと結論した。
これはOさんにとって皮肉である。「他者からの承認を目標とするのではなく、自己実現を目標とせよ」と言うOさん自身の言葉を私は否定したが、別の形で理解するに至った。