とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

上長Oさんと私

2013-06-15 21:41:47 | 会社での出来事
かれこれもう5年も前になる。
2008年~2009年の間の私の上長は、私の親会社に当たる会社に在籍するOさんという主任の方であった。
この方はとてもいい人で気遣いもよくして頂いていたのだが、いくつか引っかかることをよく思い出すので、ここに書いておく。

それは私がOさんと面談した時のことであった。
これは私の仕事内容を告解した時の面談とは別の時の面談である。
私は自分の仕事にプライドを持っていたし、与えられた仕事は十分に応え、更にその上にも行こうと努力をしていた。
しかし不満があった。どこまでやろうにも、全く評価されない。相応の仕事はどんどん振られてくるが、それでも評価の声は聞こえてこないのであった。
仕事にミスがあった? 仕事のミスについては以前の記事に書いたとおりだ。
嫌われていた? その可能性はある。潜在的な味方と潜在的な敵は増えていた。しかしそのようなことで仕事の評価はなされるべきなのか? 
生意気だった? 実にその通りだ。私は誰よりも仕事をし、それを誇りに思っていたし、「○○君はとんがっているから、もっと丸くなった方がいい」と言われたこともある。だから評価をされないというのはおかしいのではないか。
そうしたことは今回は口に出さずに、Oさんの言うことを頷いてよく聞いていた。

Oさん「○○(私)、『マズローの欲求段階説』って知ってるか? 」
私「いいえ、知りません。それは何でしょうか? 知らないので教えて下さい。」
Oさんは私に対し、明らかに何かを伝えたがっていたように見えたし、私は純粋にその言葉を知らなかったのでこのように答えた。

Oさん「じゃあ、教えてやろう。『マズローの欲求段階説』は、人間の自己実現のモデルのことだ。人間の欲求には食欲などの低いレベルのものから、何か自分の決めた目標を達成してやろうという高いレベルのものまである。」
私「はい」
私が短く答える。Oさんは続ける。
Oさん「この中間にも承認されたいというような欲求などがあるけれど、それをしなくても、その一段階上の自分の目標を遂げることはできる。」

ここで私は思い出した。これはあれだ。以前ピラミッドのような図で見たことがある。これは自己実現をモデル化した階層で、低次の食欲などの欲求を満たせば、一段高い次の層の欲求、例えば生活の安全などの欲求に自分の意識が振り向くことになる。なるほど、これは『マズローの欲求段階説』って言うのか。勉強になった。けれど、仮にOさんの言っているモデルと私の思い出したモデルが完全一致するならば、Oさんの言っていることはおかしい。
恐らくOさんは上長による仕事の承認にとらわれず、自分の判断で自分の仕事を達成せよ、という話しにつなげたかったのだろうが、そもそもが承認欲求を満たさなければ、自己実現欲求に意識を振り向けることができない。

私は私の表情を見ることはできない。ので、私自身がどういう表情になっていたのかは分からないが、恐らく頭の上にはてなマークがたくさん並んだ顔をしたのだろう。Oさんがそれに気づき、「ん? ○○、どうした? 」と言った。

私「Oさん、ちょっと聞いてもいいですか? 」
Oさん「ん? いいよ? 」
私「そのモデルは低次の欲求を満たさなければ高次の欲求を満たすことができないことを示すモデルなのでは・・・」

と言ったときに、Oさんは斜め上を見た。
Oさん「あー、うん、俺はそういった風には考えてなくて、別に承認がなくとも、自己実現はできる、と思っている」
と答えた。ならどうしてマズローの欲求段階説とか持ち出したんじゃい、などというツッコミはせず、私は穏便に笑顔を保ったままOさんから視線をはずさず、「そうなんですね」とだけ答えた。

数年後に聞いた話だが、こうした主任クラスの人たちは、自分が受けた直近の研修内容を部下に教えるクセが基本的にあるようで、ある種の普遍的に見られる傾向があるようだ。
確かにマズローとかジョハリの窓とかは自分が研修を受けたら人に教えたいだろう内容でもある。

私がひっかかるのは、
・自分が知ったからと言って、知識的優位を表現したいために即座に他人に教えるのはいかがなものか。
・誤った内容を人に教えるのはいかがなものか。
・それでいて教えてる方に指摘くらうのはいかがなものか。
・知識の多寡でそういう優位が決まるのか。
・なぜ知識が私の方に多くあるのに私は評価されないのだろうか。詰まる所、それは研修しているかしていないかの差でしょう。
・経験が足りない? 人の15倍仕事をしていて、言葉がしゃべれなくなった私が経験が足りないというのであれば、その他に何を経験すればいいのだろう? 残りの経験は過労死くらいしかない。死んだら評価してくれるだろうか。いや、この組織に限ってそれはない。みんなで悲しいね、と言って終わりである。
・要は構造的差別の差である。私はこの親会社に当たる会社と私の会社の関係で一生頭が上がらず、評価もされない。どれだけ能力があったとしても。

なぜか。それはなぜか。それは一体なぜ起こったのか。

しかし、現在の私は、この頃を振り返るに、この時期でとても重要なことを学んだ。それは、作業量と仕事の内容と言うのは報酬に比例しない。飽くまで、選んだ会社と、その会社がとって来る仕事にのみ報酬額、評価内容が左右される。例え周囲に見守ってくれる人がいても、それは個人を収入的に救ってくれたり、未来を保証してくれたりする訳では無いのだ。

そして当時の私は、その時の「いくら結果を出しても他人に認められない」と言う感覚が強烈に染み付いた。この感覚が今になっても自身の思考にこびりつき、他人の承認と言うものは無意味なものであり、自分が定めた目標の履行にしか意味が無いと結論した。
これはOさんにとって皮肉である。「他者からの承認を目標とするのではなく、自己実現を目標とせよ」と言うOさん自身の言葉を私は否定したが、別の形で理解するに至った。
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麺とご飯

2013-06-15 13:44:37 | 最近の出来事
麺とご飯の組み合わせが非常においしい。

とは言っても、ラーメンライスのような個別に分かれているものを食べるのではなくて、そばめしのような混ぜ込まれているようなものを食べている。

そばめしはなかなかおいしかったし、以前やったスパゲティー+サラダ+ご飯という混ぜ込みもかなりおいしかった。ただ、一つ問題点がある。
見た目がグロい。麺とご飯をまぜこんだ場合、どう見てもどう組み合わせてもそれは残飯そのものなのであった。

追記:先日BBQでそばめしを食べたときはそんな見た目は気にならなかった。昨日のそばめしはグロかった。
やはりみんなで食べるという要素が食事には重要なのであろうか。
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仕事とブログ

2013-06-15 11:49:51 | 最近の出来事
ブログに書く体力を仕事に向ければいいのに、という批判が聞こえてきそうではあるが、ちょっと現在の事情を書いておく。

私は体を壊した。満足に仕事ができるわけではない。現在は徐々に回復しているけれども、不安は抱えている。

ブログの方は別段体力をかけているわけではない。一般的には文章を書くのに多大な労力を使っているというイメージが強いかもしれないが、私は特に構成などで悩んで書いているわけでもないし、義務も締め切りもない。思い描くままに書いているだけだ。なので、誤字脱字は当然あるし、読みにくいこともままあるだろう。特に負担になっているというわけではなく、逆に、ここのブログが私の負担を減らすために作ったのが最初だったので、むしろ自らの健康のためにはこれを書いたほうが良いように思える。

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日本の科学的予見

2013-06-15 11:21:25 | IT・ビッグデータ・新技術
「2050年の世界」p346-p347より引用。

 アジア諸国、特に中国は科学の振興をめざすことを言明している。科学振興は実際、小平の中国近代化四大戦略のひとつだった。ところが科学は、権威に従うのではなく挑むことで進展する。今のところ非西洋では随一の技術大国だる日本でさえ、本格的な基礎科学の研究は立ち後れている。日本人研究者で科学部門のノーベル賞を受賞したのはわずか十五人。それは、例えばオーストリアの受賞者数よりひとり多いだけ--オーストリアの人口は日本の人口の七パーセント以下--で、その理由のひとつとして、日本の若手科学者が先達の理論に迎合しがちなことがしばしば挙げられる。これに対して欧米では、旧来の理論を否定することでキャリアが築かれる。権威の軽視によってもたらされるものは、個人のキャリアにとどまらない。西洋科学の隆盛に伴いリベラルな思考様式が広まって、やがて世の中に政治的変容がもたらされ、ガリレオからダーウィンに至る科学者たちは、当時の権力者が長らく依存していた社会規範を覆してきたのだ。
 アジアの新興国はこれまでのところ、革新につきもののの破壊思考に手を焼くことも無く、四世紀にまたがる西洋の科学革命がもたらした実りだけを享受してきた。そして低雇用層の活性化に資金をつぎ込み、先行諸国が目にしたこともないような経済成長率を達成している。しかし、いったん欧米諸国においついたら、アジアの新興国は次に何を目指すのだろう? 
 この問いに対する答えの中に、科学の未来、および人類の未来がある。欧米諸国が苦労してやっと獲得した、科学の反映につながるリベラルで知的な環境を新興国でも実現できるなら、その国は科学の面ばかりか社会的、政治的な面でも繁栄するだろう。もし実現しないなら、あるいはできないなら、彼らの行く末には日本と同じ運命が待ち受ける。つまり、ぬるま湯のような暮らしの中でぼんやり日を過ごし、真に新しいことには気持ちが向かなくなるのだ。日本のこの現状に鑑みれば、科学者たちが民主的で序列にとらわれないインド(伝統的に数学に強いもう一つの国)のほうが、永遠のライバルである権威主義的な中国より前途有望だと言えるだろう。

(引用ここまで)

くっそおおおおおおおおおおお、日本人なめんな! 

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ヴィンランド・サガ

2013-06-15 10:51:56 | マンガ
ついにアルネイズが死んでしまった。
しかしこれ以上美しいシーンがかつてあっただろうか。

鍋が多く造れる(鉄資源)とそれだけの理由で戦争に行った男たち。その留守に村を略奪されてしまった女たち、子供たち。
子供と離れ離れになり、奴隷として売られ、つらい思いをしたまま死んでいく。
アルネイズは死の間際、生きる希望も無く言った。
「みんな死んだわ……私の大切な人はみんな……
 これ以上生きて……何になるの……?
 なぜ……生きなければならないの?苦しいばかりなのに……
 なぜ……私は……生きなければならないの…?」
戦争と奴隷に対し、ほぼ否定する形での疑問を投げ、しかしこの世には戦争と奴隷しかないことに望みを絶たれ、そのまま静かに息を引き取ってしまった。

アルネイズはもう戻らない人となってしまった。
陽光の中、どうしようもない死とどうしようもない世界に立ちくれる人々。

教会でもない荷馬車の上で、トルフィンは非情な死を遂げてしまったアルネイズに言霊に似た詩を口上する。
「…………はるかな西…………
 大海の向こうに、ヴィンランドという名の…土地がある

 そこは暖かく豊かで……
 奴隷商人も戦の炎も届かない遠い地だ

 そこならきっと、あなたも苦しまずに生きてゆける
 アルネイズさん、オレ達と一緒にそこへ行こう。
 ヴィンランドに平和な国を作ろう」

同じ悩みを持っていたトルフィンが自らの言葉で自らの考えと感情を語ったことで、そのつらい思いと悲しみに対する慈愛は真理に達した。

悲しすぎる物語だが、目を離さずにはいられない。
間違いなく最高傑作である。
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