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安積遊歩(あさかゆうほ)さんの、やまゆり園事件へのコメント・・怖い思いをしている、と伝えよう

2017-01-19 | 心身障がい


久しぶりになりますが、今日の夕刊に相模原やまゆり園事件の記事をみつけました。

          ・・・・・

「ひと」・奈良崎真弓さん 相模原事件を語る会を主宰する知的障害者」
                          朝日新聞2017・01・19

「私いま壊れそう」。

昨年7月に相模原市の施設で知的障害のある19人が刺殺された翌日、知人にそうメールを送った。

そして考えた。

「こんな事件が起こるのは、知的障害者は何もできないと思われているから。事件への思いを障害者本人の言葉で伝えたい」

4カ月後、9人の知的障害者らと語る会を開催。

封印していた悲しみや怒りがあふれ出た。

この活動を全国に、と計画する。

小学5年の時、算数の計算や漢字の勉強についていけなくなり、友だちからいじめを受けた。

孤独を忘れさせてくれたのは、次兄の勇さんと過ごす時間。

知的障害のある勇さんは、言葉の代わりに豊かな表情で語りかけてくれたが、4年後の秋、20歳で急逝した。

25歳の時、知的障害者の活動家ロバート・マーティンさんから

「障害者自身が声を上げ、物事を決めることが大事。真弓ならやれるよ」と言われた。

周囲から「明るさと行動力は天性のもの」と評される。

数カ月かけて地元の横浜市内に障害者らが集う「本人会」を立ち上げた。

花屋で働く傍ら、障害者自らの発信にこだわる。

「自分でやりたいことを選べて、困った時は『助けて』と言える社会はだれもが幸せなはず。障害のあるなしに関係なくお互いを知り、感じ合おうよ」。

将来は知的障害者への支援拠点「マミちゃんセンター」を作るのが夢だ。

             ・・・・・


次は、かつて見つけたあるブログの安積遊歩さんの「相談コーナー」の質疑応答を掲載させていただきます。

サイト名が分からなくなりましたので、あとで追記させていただきます。



安積遊歩さんは以前当ブログでもご紹介した、骨形成不全症で、障がい者問題に取り組む方です。

安積歩遊(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・わたしは車いすの私が好き」
 
              ・・・・・

          (転載ここから)

●相談者の質問

相模原事件のあと、車いすを使っている自分のことを、「みんなも実は厄介者と見ているんじゃないか?」という疑念がとれなくなりました。

外出は好きなほうでしたが、街に出るのもこわくなりました。

これまでそんなふうに感じたことがなかったので、どうすればよいのかわかりません。

アドバイスがあればお願いします。(かもめ・22歳・学生)


この投稿に対して、安積遊歩さんは、以下のように答えています。

            ・・・

〇「こわい気持ちを人に伝えていきましょう」


私もまったく同じ気持ちになりました。

数日間ではありましたが、恐怖におそわれて過ごしました。


遺族への配慮を理由に被害者の名前が報道されなかったことも、非常な差別でした。

親は、考えに考えて子どもに名前を付けます。

名前とは、その人が何者であるかをもっともシンプルに伝えるものです。

名前を発表しないことによって、犠牲者ひとりひとりの大切ないのち、存在そのものに、思いをはせることができなくなります。

家族への配慮が理由として挙げられましたが、家族にとっても、「障がいを持つ家族」という存在が負担とされる社会だからです。

社会の大多数の人々が、障がい者には名前すら必要でない、という意見に賛同しているんだと私には受け取れます。


私たちの社会は、障がいを持つ仲間たちが、番号をふられてガス室に送られた、ナチス時代と同じようなものかもしれません。

当時のドイツでは、人種主義を背景に、優生学が権威を持つようになりました。

障がい者(こどもやユダヤ人も同様でした)の強制収容運動が広がり、ヒトラーの命令のもと、医者たちによって障がいを持つ人々が移送され、殺されました。

この犯罪がホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)につながるのは、多くの歴史書が語る通りです。

その背景には、「生きる価値のない人には安楽死という慈悲を」という、とても身勝手で傲慢な思想がありました。

報道される相模原事件の容疑者の言葉が事実なら、容疑者は、ヒトラーの、ひいてはナチス時代のドイツで受容されていた思想を模倣していると感じざるを得ません。


すぐに効く答えにたどりつくことは、できません。

ただ一つ言えるのは、〝私たちは驚愕し、大きな恐怖におそわれている″ことに、私たち自身が向き合い、可能な限り表現すること。

そして聞いてくれる人を見つけて、伝えていくこと。

私たちの恐怖心を、社会へ発信することが、必要だということです。

どんなに想像力があっても、当事者の話を聞くこと以上に、当事者の気持ちを共有することはできないものです。


まずは、「どんなにこわい思いをしているか」という自分の思いを言葉にしてください。

そして伝えられる限りの人に、繰り返し伝えていきましょう。

語り伝えることを重ねていれば、私たちはだれもが、自分の日々の暮らし、その積み重ねである人生を、かけがえのない勇気と使えるだけの情報を駆使して懸命に生きているという現実を、忘れないで過ごしていくことができます。


たとえば私は、この事件の数日後、バスに乗ろうとしました。

バスの車掌は「リフトがついていないので乗せられない」と言いました。

もし、事件の影響を受けて私の中の恐怖心が勝っていたなら、「もういいか」と、引き下がっていたかもしれません。

でも気づくと、「バスにリフトがついたのは、私たちがリフトのない時代から乗車を望み、交渉の努力をし、まわりの人の手を借りて乗り続けたから。

あなたが言ったような言葉に私たちがあきらめていたら、いま、路線バスの一台にもリフトはついていなかった。だからリフトのないバスにこそ、私は人の助けを得ながら乗る必要があるのです」と、交渉していました。

運転手に訴える自分の言葉を、半ば冷静に、でも充実感を持って聞きながら、やはり私はあきらめていないんだと気づきました。

周りの冷ややかな人のまなざしも感じました。

それでも、「次はリフトのあるバスにも予約がなければ乗せない」という車掌の言葉にさらに発憤して、その差別性を問いただしました。


状況は、たしかに過酷です。

過酷さは、20年前よりもある意味先鋭化しているかもしれません。

若い人たちが互いに分断され、孤立しているようすには、胸がいたみます。

でもそれと同時に、こうして呼びかける私たちの世代がいることも、事実です。


20年前は、同じような障がいを持っていてさえ、「人に迷惑をかけない生き方を選びなさい」と、年上の先輩たちから説教された時代でした。

障がいを持っていてもがまんしない生き方を選んだなら、同じ感性の仲間とつながることが重要です。

今は、私たちの世代にも自立運動を続けてきた仲間がいますし、若い仲間たちもたくさんいます。

そして、障がいを持たない若い人たちもまた、心のどこかで、仲間として呼びかけてもらうことを、待っているように私には見えます。


決してあきらめないで。

こわい、こわいと言いながらでいいから、外に出かけていきましょう。

〝こわいから外出しない″、という選択を終わりにしない限り、事件の容疑者のような考えに凝り固まっている人たちには、私たちの〝人間性″が見えないままになるでしょう。


分け隔てられることは、互いへの理解をはばむことです。

私たちは、障がいのある人と障がいのない人が、分けられ、隔離されることを止めようと運動してきました。

しかしその運動が充分に行き渡らないうちに、今回のような事件が起きたのは、本当に本当に残念です。

あきらめることなく、努力し続けていきましょう。

わがままだとか、手がかかるから付き合いたくないと言い合いができるくらいの、対等な関係を求め続けていきましょう。(遊歩)


           (引用ここまで)

         
            ・・・・・


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