始まりに向かって

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右肩が下がってゆく時の生きる道・・鷲田清一氏「しんがりの思想」(1)

2015-12-20 | 野生の思考・社会・脱原発




読売新聞の2015・07・16日付で、鷲田清一氏という哲学者の新刊本のインタビュー記事が載っていました。

「「しんがりの思想」」刊行・縮小社会の若者に希望」とありました。

図書館で探して読んでみました。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


はじめに」という章に、次のような文章が紹介されていました。

民俗学者・宮本常一氏の、瀬戸内の石工の方の聞き書き文です。

           
              *****



              (引用ここから)


              ・・・

石工は、金を欲しい、いうてやる仕事だが、けっして良い仕事ではない。

ことに冬など、川の中でやる仕事は、泣くにも泣けないつらいことがある。

子供は石工にしたくはない。

しかし自分は生涯それで暮らしたい。

田舎を歩いていて、なんでもない田の石垣などに、見事な石の積み方をしてあるのを見ると、心を打たれることがある。

こんなところに、この石垣を積んだ石工は、どんなつもりでこんなに心を込めた仕事をしたのだろう、と思ってみる。

村の人々以外には見てくれる人もいないのに。

しかし石垣積みの仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。

崩れないような。

そしてそのことだけを考える。

積みあげてしまえば、それきりその土地とも縁は切れるが、いい仕事をしておくと、楽しい。

後から来た者が、他の家の石垣を積む時、やっぱり粗末なことはできないものである。

前に仕事に来た者が、がざつな仕事をしておくと、こちらもつい雑な仕事をする。

また親方請負の仕事なら、経費の関係で手を抜くこともあるが、そんな仕事をすると大雨の降った時は、崩れはせぬかと夜も眠れぬことがある。

やっぱり良い仕事をしておくのがいい。

おれのやった仕事が、少々の水で崩れるものか、という自信が、雨の降る時には沸いてくるものだ。

きっといい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、後から来る者も、その気持ちを受け継いでくれるものだ。

             
                   ・・・



石工は石垣の跡を歩いて、見事な石の積み方に心打たれ、同じ職工の目に触れたときに恥ずかしくないような仕事をしておきたい、と思った。

この時、石工の言葉は、実に未来の職人に宛てられていた。

これに対して、目先きの法案や利害でなくはなく、何十年か先の世代に見られてもけっして恥ずかしくない仕事を、という、そのような矜持をもって仕事に向かう人がうんと減ったのが、現代である。

未来世代のことを、まずは案じる。

そういう心もほとんど失っているのが、現代である。

私たちは今まだ見ぬ未来の世代に対して、この石工のように「恥ずかしい仕事、みっともない仕事はできない」と、胸をはって言えるだろうか?

かえり見て、懐疑のかけらもなく謳われる空疎なリーダーシップ論ではなく、この石工の、他人にわざわざ訴えることもなく、自らにしみじみ言い聞かせる、このような矜持こそが、激変期に最も必要な眼であろうと思う。

とりわけ私たちは、未来をいくつもの限界の方から考える他なくなった時代にいる。

私たちは今、放射能で自然を修復不能なまでに壊したまま、それを次世代に手渡そうとしている。

また、法外な国の債務を未来世代につけ回して、平気でいる。

さらに次の世代が経済を回すための需要を、「経済成長」の名で先食いしようとしている。

毎年1兆数千億円の社会保障費の「自然増」・・本当はこれは断じて自然のことではなく人為の無策である・・に伴う増税や年金の削減という、過重な負担も、次の世代に強いようとしている。

これが、今のこの国の姿である。


わたしたちは、いつからなぜ、あの石工の矜持を失ってしまったのか?

この国には、今「人口の減少」つまりは「社会の縮小」に伴うさまざまな課題が、今すぐに対応を考えておかなければ取り返しがつかなくなる課題として、立っている。

この事実を前にすれば「経済成長」の掛け声など、どう考えても空言のようにしか響かない。


日本はこれから、先進国の中でいち早く、巨大規模での人口減少という事態に向き合ってゆくことになる。


「右肩下がり」の時代は、社会がまともになってゆくためには悪いことではない。

「右肩上がり」の時代には、次は何を手に入れようかと考えていたわけだが、「右に下がってゆく時代」には、何を最初にあきらめるべきかを考えざるをえない。

絶対に手放してはならないものと、あればよいけれど無くても良いものと、端的に無くてもよいものと、絶対にあってはならないもの。

これら4段階の価値の遠近法にもとづいて、優先順位というものをいやでも常に頭に入れつつ、社会運営にあたらねばらないのである。

そういう社会的な判断を下し、またそれに基づいて行動する力量を、私たち市民は今どれほど持っているか?


市民としての力量は、福沢諭吉が明治のかなり早い時期にその受け身のふるまいを難じて以降、ますます落ちてきているのではないか?

いやそもそも日本社会の近代化の過程で、それを支えるべき市民の力量はなぜ落ちていったのか?


社会が嫌でも縮小してゆく時代、「廃炉」とか「ダウンサイジング」などが課題として立ってくるところでは、先頭で道を切り開いてゆく人よりも、むしろ最後尾で皆の安否を確認しつつ、登山グループの「しんがり」のような存在が重要である。

「退却戦」で、敵の一番近くにいて味方の安全を確認してから最後に引き上げるような「しんがり」の判断がもっとも重要になってくる。



実際、震災復興にあたっても、ひたすら防災のためにハード面での公共事業に取りくむばかりでなく、地域が震災前から抱え込んでいた問題を見据えながら、そこでの日々の暮らしを創造的に再構築する取り組みと結びついた経済活性化策を講じなければならないだろう。

また、もしそうした社会全体への気遣いや目配りができていれば、建築資材と労賃の高騰を招くことで、東北での復興事業を大きく遅延させることが必至な「五輪の誘致」など、誰も発想しなかっただろう。

こういう「全体の気遣い」こそ、本当のプロフェッショナルが備えていなければならないものなのである。

また、良き「フォロワーシップ」の心得というべきものである。

私はこうした心を「しんがりの思想」と呼んでみたい。


               (引用ここまで)

 
                *****


国語の教科書のような文章ですが、ほんとうに、喫緊の課題なので、投稿しようと思いました。


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