朝日新聞・2014年12月
・・・
移民宿
「バンクーバーの朝日」という映画が昨年12月に封切られた。
舞台はかつて日本人街と呼ばれ、日本からの移住者たちがコミュニティを形成していた町。
さびれた、簡易宿泊所街のような一区画で、それゆえ往時の移住者たちの苦労がしのばれる場所だ。
日本人の集団海外移住は1868年(明治元年)に始まる。
42人がグアムに渡ったが、暑さと過酷な労働で病死する者が続出し、残った者も、外国船の助けを借りて日本へ戻るというむごい結果に終わった。
だがその後も集団移住は続き、ハワイ、カナダ、アメリカ、ブラジル、オーストラリアと地域も広がっていく。
今でこそ経済大国だが、日本は貧しかった。
人々は海外に活路を求めた。
持ち物をすべて売り払い、一家全員で移住するケースも多かった。
移住先での仕事は農地開拓、鉱山労働など。
労働は低賃金で過酷なものだった。
事前の情報はろくに無い。
現地の言葉もできない。
業者に騙され、女郎屋に売られた娘もいた。
だけど後戻りはできない。
横浜で船を待つ彼らの胸には、希望と同時に不安が渦巻いていたことだろう。
そんな移住者たちにとって頼みの綱だったのが、「移民宿」だ。
正式には「外航旅館」という。
最盛期の大正から昭和初期には、横浜港に近い関内を中心に、20軒以上もの「移民宿」があった。
資料を見ると熊本屋、福島屋、上州屋など、地方色を出した宿名が多く目につく。
横浜駅への出迎え、パスポート取得、健康診断、荷物の手続き、運搬、これから行く国の情報入手、通貨の両替まで、宿はすべてを請け負った。
こういうことを個人で行うことは困難な時代だったから、「移民宿」は必然だったのである。
海外移住は、決して楽な選択ではなかった。
人種差別にさらされた上、太平洋戦争が勃発すると「敵国人」とみなされ、苦労して築いた財産を没収されたりもした。
にもかかわらず、日本人は移民先の産業・文化に大きく貢献し、各地でその業績をたたえられている。
横浜の移民宿も、戦争中は軍の寮に転用されたり、終戦後は関内の至る所が進駐軍に接収されたりで、大打撃を受けた。
この時点で廃業した宿も少なくなかった。
その後日本は急速に経済発展し、集団移民はなくなった。
1980年代に入ると同時に、横浜の移民宿もすべて消滅。
関内を歩いても、その痕跡をみつけることは難しい。
だがバンクーバーの日本移民街では、初期の移民がこの地で築き上げた事績を忘れないよう、在留日本人たちが町の公園に集まり、毎年「日本の祭り」を開催している。
・・・
「アジア」カテゴリー全般