マニ教、ミトラス教、弥勒信仰のあたりを行きつ戻りつしています。
菊池章太氏の「弥勒信仰のアジア」という本を読んでみました。
著者は、「アジアの弥勒信仰」についてではなく「弥勒信仰のアジア」について書きたいのだ、と語っており、“アジア”なるものへの愛が流れている、魅力的な本でした。
とても柔軟な発想が印象的です。
おおまかに抜粋して引用させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「弥勒」とは、仏教の教えでは未来に現れる仏である。
中国ではどうか。
「弥勒」については到底一口には言えない。
ある時代には誰の目にも明らかなくらい、おおっぴらに信仰された。
ある時代には目につかないように、かげに隠れて信仰された。
長い歴史の中で、あるいは社会の表で、あるいは裏で、それは信仰されていた。
「弥勒」が菩薩から仏陀になろうとして、この世に現れることを下生という。
この世に下ってきて生まれるからである。
ではこの世に現れるのはいつなのか。
それは想像を絶するような遠い未来のことである。
(引用ここまで)
*****
アジアでは、たくさんの巨大な弥勒像がつくられてきた、と著者は語ります。
仏教であって仏教ではない、なにものかを、著者は感受しているようです。
*****
(引用ここから)
巨大な「弥勒」像というのは、「弥勒」がこの世に現れた姿である。
その時理想の世界が地上に実現していることを意味した。
あえて言いたい。
東アジアにおける「弥勒」信仰の本質は「弥勒への約束」にも「弥勒下生経」にも関わりがない。
もちろん「弥勒」信仰の出発点は「弥勒への約束」にあった。
しかし「弥勒下生経」に基づく「弥勒」信仰は、ある時東アジアにおいて破たんしたのである。
その時「弥勒」信仰は変わった。
それは6世紀の中国においてであった。
中国には「疑経(インド伝来ではないお経)」と呼ばれる仏教文献がある。
それらのいくつかの「疑経」において、弥勒はまさに、「慈悲的、救済者的、神的」としか言いようのない存在として登場する。
観音や阿弥陀が信仰されるようになるずっと前に、「疑経」の中で、弥勒はすでに「慈悲的、救済者的、神的」な存在として信仰されていたのだ。
偽経に語られた弥勒とは、どのような存在なのか?
(引用ここまで・続く)
*****
wikipedia「疑経」より
「偽経」、あるいは「疑経」とは、中国において、漢訳された仏教経典を分類し研究する際に、インドまたは中央アジアの原典から翻訳されたのではなく、中国人が漢語で撰述したり、あるいは長大な漢訳経典から抄出して創った経典に対して用いられた、歴史的な用語である。
中国撰述経典という用語で表現される場合もあるが、同義語である。
「偽経」あるいは「疑経」として認定された経典類は、経録中で「疑経類(偽経類)」として著録され、それらは「大蔵経」に入蔵されることはなかった。
それに対して、正しい仏典として認定されたものは「真経」として、「大蔵経」の体系を形成することとなった。
しかしながら、「偽経」あるいは「疑経」と認定され、「大蔵経」に入蔵されなかったとは言え、これらの経典群が消え去ることはなかった。
むしろ、盛んに読誦され、開版されて、今日まで伝わる経典は数多い。
『父母恩重経』、『盂蘭盆経』、『善悪因果経』など、今日も折本形式で発売されている偽経類は、多く見られる。
多くの経本に収録されている『延命十句観音経』なども偽経の一つである。
このことは、「偽経(疑経)」というレッテルを貼られていても、時機相応の教説を説く、これら中国で撰述された経典類が、漢字文化圏において受容され得る力を持ち続けている証左となるものと考えられる。
「現在の日本のある宗派の所依の経典、つまり根本聖典が、偽経(疑経)であるから、当該の宗派の立場は仏教の異端である」と、別の宗派からの非難がなされることがある。
しかし、仏教経典と呼ばれるものが釈迦の教説をそのまま伝えているのではないことは、経典研究の結果[要出典]、明らかとなっている。
東晋の釈道安の時代には、雑多に翻訳された漢訳経典を整理する上で「真経」と「偽経(疑経)」とを厳に区分することは、最優先事であった。
比較的最近に発表された「偽経」にまつわる説としては『般若心経』が中国撰述であるという説がある。
米国のジャン・ナティエ(Jan Nattier)は、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという説を1992年に発表している。
関連記事
ブログ内検索
弥勒 15件
弥勒下生 12件
弥勒踊り 1件
仏教 15件
偽経 1件
中国 15件
(重複しています。)
菊池章太氏の「弥勒信仰のアジア」という本を読んでみました。
著者は、「アジアの弥勒信仰」についてではなく「弥勒信仰のアジア」について書きたいのだ、と語っており、“アジア”なるものへの愛が流れている、魅力的な本でした。
とても柔軟な発想が印象的です。
おおまかに抜粋して引用させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「弥勒」とは、仏教の教えでは未来に現れる仏である。
中国ではどうか。
「弥勒」については到底一口には言えない。
ある時代には誰の目にも明らかなくらい、おおっぴらに信仰された。
ある時代には目につかないように、かげに隠れて信仰された。
長い歴史の中で、あるいは社会の表で、あるいは裏で、それは信仰されていた。
「弥勒」が菩薩から仏陀になろうとして、この世に現れることを下生という。
この世に下ってきて生まれるからである。
ではこの世に現れるのはいつなのか。
それは想像を絶するような遠い未来のことである。
(引用ここまで)
*****
アジアでは、たくさんの巨大な弥勒像がつくられてきた、と著者は語ります。
仏教であって仏教ではない、なにものかを、著者は感受しているようです。
*****
(引用ここから)
巨大な「弥勒」像というのは、「弥勒」がこの世に現れた姿である。
その時理想の世界が地上に実現していることを意味した。
あえて言いたい。
東アジアにおける「弥勒」信仰の本質は「弥勒への約束」にも「弥勒下生経」にも関わりがない。
もちろん「弥勒」信仰の出発点は「弥勒への約束」にあった。
しかし「弥勒下生経」に基づく「弥勒」信仰は、ある時東アジアにおいて破たんしたのである。
その時「弥勒」信仰は変わった。
それは6世紀の中国においてであった。
中国には「疑経(インド伝来ではないお経)」と呼ばれる仏教文献がある。
それらのいくつかの「疑経」において、弥勒はまさに、「慈悲的、救済者的、神的」としか言いようのない存在として登場する。
観音や阿弥陀が信仰されるようになるずっと前に、「疑経」の中で、弥勒はすでに「慈悲的、救済者的、神的」な存在として信仰されていたのだ。
偽経に語られた弥勒とは、どのような存在なのか?
(引用ここまで・続く)
*****
wikipedia「疑経」より
「偽経」、あるいは「疑経」とは、中国において、漢訳された仏教経典を分類し研究する際に、インドまたは中央アジアの原典から翻訳されたのではなく、中国人が漢語で撰述したり、あるいは長大な漢訳経典から抄出して創った経典に対して用いられた、歴史的な用語である。
中国撰述経典という用語で表現される場合もあるが、同義語である。
「偽経」あるいは「疑経」として認定された経典類は、経録中で「疑経類(偽経類)」として著録され、それらは「大蔵経」に入蔵されることはなかった。
それに対して、正しい仏典として認定されたものは「真経」として、「大蔵経」の体系を形成することとなった。
しかしながら、「偽経」あるいは「疑経」と認定され、「大蔵経」に入蔵されなかったとは言え、これらの経典群が消え去ることはなかった。
むしろ、盛んに読誦され、開版されて、今日まで伝わる経典は数多い。
『父母恩重経』、『盂蘭盆経』、『善悪因果経』など、今日も折本形式で発売されている偽経類は、多く見られる。
多くの経本に収録されている『延命十句観音経』なども偽経の一つである。
このことは、「偽経(疑経)」というレッテルを貼られていても、時機相応の教説を説く、これら中国で撰述された経典類が、漢字文化圏において受容され得る力を持ち続けている証左となるものと考えられる。
「現在の日本のある宗派の所依の経典、つまり根本聖典が、偽経(疑経)であるから、当該の宗派の立場は仏教の異端である」と、別の宗派からの非難がなされることがある。
しかし、仏教経典と呼ばれるものが釈迦の教説をそのまま伝えているのではないことは、経典研究の結果[要出典]、明らかとなっている。
東晋の釈道安の時代には、雑多に翻訳された漢訳経典を整理する上で「真経」と「偽経(疑経)」とを厳に区分することは、最優先事であった。
比較的最近に発表された「偽経」にまつわる説としては『般若心経』が中国撰述であるという説がある。
米国のジャン・ナティエ(Jan Nattier)は、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという説を1992年に発表している。
関連記事
ブログ内検索
弥勒 15件
弥勒下生 12件
弥勒踊り 1件
仏教 15件
偽経 1件
中国 15件
(重複しています。)