「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

イジメの記憶

2011年09月03日 16時52分10秒 | Weblog
 
父の続かない仕事のせいで、小学校の低学年から中学
2年の初めまで、転校をくり返した。その度に、大な
り小なりイジメを受けた。だが、イジメが激しくなり
始める頃と、父の退職が重なり、新地への引越しで難
を逃れていた。だから当時は、父の転職が有難かった
今思えば、初めから同じ地にいたならば、イジメを受
ける可能性は、まだ低かったのだろうが…

中学2年の時、父がアルコール中毒で倒れた。少なか
らず精神も病んでいたため入院することになった…
否、精神が病んでいたから酒に溺れ中毒になったのか
もしれない。いずれにしても、父との生活は終わった

僕が小学1年の時に、父と別離した母とは音信不通で
親戚とも疎遠にしていたため、全く身寄りの無い僕と
妹は、札幌の孤児院に引き取られることになった

結果的にそのことで、また転校を余儀なくされた

新しい中学は、いわゆる“荒れた学校”で、授業が女
性教師の担当だと、お喋りや教室内の徘徊は当たり前
になっていた。いわゆる“崩壊学級”だ。今に始まっ
たことではない。40年近く前に、それはあったのだ
担当が恐い男性教師だと、皆は大人しい生徒だったが
それが女性教師だと、狡賢い狐に変身した。相手を見
て態度を変えるのだ。親の姿を見て子は育つ。きっと
その子の親も同じなのだろう、と、当時の僕は思った
ものだ

そんな学校に転校した初日、体も小さく大人しかった
僕は、早速、イジメの対象になった。初めは、椅子に
画鋲を置くという、文字通り子供染みたイジメだった
それがエスカレートし、暴力に発展した。さすがに僕
は教師に告げた。労組活動に忙しかった担任は、「判
った。注意しとく」と言っただけで、改善はされなか
った。彼の視線は生徒ではなく、自らの待遇や社会主
義の実現に向いていたのだ
教師に失望したが、孤児院にいる身の僕には、相談す
る相手がいなかった。勿論、妹にも言えない。毎日が
苦しかった。「地獄とはこのことか」と、幼い僕は悟
った気がした。だが、そこから逃れる方法として「死」
というものは連想しなかった
今では考えられないが、読書少年だった僕はトルスト
イの「人生論」等の難しい本のほかに、仏教関係の古
書も読み漁っていた。そこには「恐ろしい地獄」の様
子が事細かに書かれていた。だから、当時の僕は「死」
は比べようも無い、何よりも恐いものだったのだ
死ぬくらいなら、イジメられる方を選んだ

それでも、イジメの苦しみからは逃れたかった。腕力
に自信のなかった僕は、力で対抗することは無理と思
っていた。それも、僕をイジメる相手は3人。到底敵
わない。その日も、僕は校庭の裏に呼び出され、3人
と対峙させられた。今日も殴られるのかと溜息が出た
そして僕は、また3人から殴られた…


父と暮らしていた頃、毎朝のように父から暴力を受け
ていた。理由は判らない。ともかく父は朝の機嫌が悪
かった。父は拳骨で思い切り僕の頭を殴り、平手で頬
を叩いた。殴られる度に、苦い鉄の味がした。殴られ
ることには慣れていたが、度重なるイジメと相まって
それが心に何かを育てたようだ。20代の前半から30
歳頃にかけての僕は、普段は笑顔を絶やさない青年な
のだが、少しでも恫喝されたり脅され暴力を振るわれ
たりすると、途端に凶暴になり、たとえ相手が危ない
ソノ筋の人間であろうと、死ぬのを覚悟で向かってい
った。それが重なるとクソ度胸がつく

ケンカになり、相手が刺青をチラつかせると、僕はそ
の唐獅子の刺青に顔を近づけ「なんだ、こりゃ?猫か
?」と惚け「モンモン(刺青のこと)なんざ恐くねぇ
んだよ」と凄んでみせた。もう完全に“アッチの人間”
だ。修羅界の極地だ。よく警察沙汰にならなかったと
思う。よく危ない世界に行かなかったと思う。今考え
ると、冷や汗が出る…


心に育ったそんな凶暴性が噴出したのが、社会に出て
2年目の頃だったと思う。当時勤めていたダンボール
工場の上司から、何が気に入らなかったのか理不尽な
暴力を受けた。相手は拳骨で僕の脳天を思い切り殴っ
てきたのだ。父にやられたものと同じだ。そこから先
はよく憶えていない。気が付くと上司は床に倒れてい
た。前歯が二本欠け、口から血を流し、泣きながら僕
に許しを乞うていた
翌日、僕は会社はクビになった。上司ではなく僕が…


今、こうして更正(?)した自分を振り返ると、暴力
からは、暴力しか生まれないと実感する。それが無視
や言葉によるものでも…。暴力を受けた人間は歪む
歪んだ人間が暴力を使う。悪循環だ。なかなか凌駕で
きない。だから、暴力の根は小さいうちに摘み取るべ
きなのだ。それが教師や親、周りの大人の責務だ

だが、僕の育った札幌では、40年近く経った今でもイ
ジメは無くなっていない。先日も、中学2年生の男子
生徒(13)が、イジメを苦に飛び降り自殺した。男子
生徒は死ぬ前に、担任に相談していた。だが、何も改
善されなかった。一体、担任は何処を向いていたのか

その後、市教育委員会は「イジメを行った生徒を指導
し改善した」と発表していた…が、実はそうではなか
った。イジメを行った生徒を、実際には特定しておら
ず、学級全体を指導しただけだったという

僕がイジメにあっていた頃と何も変わっていない
教師たちは何をしていたのか。社会主義活動と、選挙
違反運動に明け暮れていたのか…?

教育界は「イジメをした子供たち」を守ろうとする
「犯人さがし」は良くないと言う。だが、それは間違
っている。イジメは暴力であり、イジメる側とイジメ
られる側、双方にとって、それは大人になっても、人
生に悪い影響を及ぼすことを“教育”すべきなのだ
それは、子供の将来のためにも、だ

教師は教えるべきだ「イジメる方が100%悪い」と
そしてイジメる子供を徹底的に教育すべきだ。それに
は、親への再教育も必要だ。イジメは双方の人間性に
暗い傷を刻む。だからこそ、イジメる子供と、その親
も含め、カウンセリングを行うべきなのだ
日本を社会主義化する熱意の10%でもいい。本気で
イジメ問題に取り組みたまえ!



さて…イジメられている君に向けて

映画『ミスト(The Mist)』(米07)を観たことがある
だろうか。原作は、世界的ホラー作家スティーヴン・
キングだが、映画では原作に無い結末が描かれている
それは、深い霧から出現した謎の異生物に追われ、生
き残った子供を含む5人の主人公たちが、遂には追い
詰められ、絶望の果てに死を選ぶ…というもの

自決の道具は1丁のピストルだが、弾は4発しかない
主人公は、我が子と、一緒に逃げ延びた3人を撃ち
自らは異生物に身をさらし、殺されようとするが、直
後に、異生物を駆除するため最強の軍隊が登場する…
そう、後、数分待てば、皆が助かったのだ。自決は無
意味だったのだ…。主人公は激しい後悔と絶望に、天
に向かい咆哮する…というもの

なんとも、後味の悪い残念な結末だが、大いに考えさ
せられる結末でもある。「もうダメだ。死ぬしかない」
そんな苦境に立たされても、「決して諦めない」とい
う姿勢がこそが大事なのだと…
そう、「決して諦めない」。その姿勢が、自らの人生
を切り開き、未来を明るいものにするのだ

以前、僕の卒業した大学の創立者は言った
『苦しい時は“この闇が永遠に続く”ような気がする
ものです。しかし、そうじゃない。いつか絶対に、晴
ればれと“あんな時代もあった”“あの時は苦しかっ
た”と、笑顔で話せる日が来ます。必ず来ます。だか
ら生きて、生きて、生き抜いてもらいたい』と…

そして、『いじめられていることは、何も恥ずかしい
ことではない。恥ずかしいのは、人の痛みに気づかな
い人たちのほうです。人が苦しんでいるのに、助けよ
うとしない人たちの方です。この一点を、心の底から
わかるかどうかが、“いじめ絶滅”の戦いのポイント
です』

更に『ほかの子が同じような犠牲者にならないため』
仕返しなど恐れず、教師に言う。それが駄目なら違う
教師に言う。何度でも言う。親にも言う。イジメてい
る人間のことを多くの人に言う言論の戦いを、勝利す
る日まで続けることを勧めている


妻も、子供時代、皆に無視され「汚い」と罵られるイ
ジメにあい「死のう」と思ったことがあるそうだ。そ
の話を聞くと、僕は怒りがこみ上げ、タイムマシンで
過去に遡り、イジメた奴等を片っ端からぶん殴りたい
衝動に駆られる。だが、過去には遡れない。当時のイ
ジメ加担者は、自らの行為を忘れている。それだけみ
れば、なんともやるせない気分になるが、妻は“イジ
メの傷”があるからこそ、他人に同じ傷を受けさせた
くないという思いが染み付いている。つまり、人に優
しいのだ。これは体験者ならではの思いだ

暴力からは暴力しか生まれない
暴力を根絶するには言論で戦うしかない
真の勇者は正義を言い続ける人だ
さあ、皆のためにも戦おう!
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