Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

語彙展開の魔術師?尊敬する作家・開高健作品「最後の晩餐」を、紐解く・・・

2007-02-02 20:36:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
<添付画像>:397ページの長編エッセイ?!文字数にして、29万文字を上回る長編作品「最後の晩餐」を読み終え、ホッと一息、、、。デジカメ画像に収めた・・・


 このところ2~3年間、あまり本を読む時間無いけれど、頑張ってむさぼって意識して読もうとしている作家の作品集あり。

 その作家とは?
 読み進めれば進む程に、ますます尊敬に値してやまない小説家。世界を渡り歩く紀行文の達人、玄人はだしの素人釣り道楽の人、猥談から高所高見より鳥瞰する古今東西の文献紐解きつつピンキリ談義を、かくも迷わず飾らずさりげなく、文筆表現できる人物逸者。奇想天外なる作風を展開なさる気骨なエッセイスト!
 マジシャンの如く自在変化(ジザイヘンゲ)に"Kaikou流"語彙をあやつり読者を魅了して止まず、ますます尊敬して止まない、文体雰囲気を真似をしたくても仕切れない「モノカキ名人」は、すなわち開高健先生なのである。

 一体全体、何が面白いか?・・・
 かくなる作家の何を?何処を?尊敬できるか?・・・

 尊敬できるポイントは、随所にある、色々ある。
 まずは、エセ男爵好み!限定?なる博識加減は頃合にてメッポウ博学。単に机上の博学的知識としてのみならず、世界を股に架けて御自ら身体張って徘徊され、ご自身の知識学識博識を実地現場検証されつつ格調高き文字系列に認(シタタ)められているからして、印刷物となった一連の文章は新鮮にして陳腐さ老醜漂わず錆付かず、今も尚、輝き続けるから、尊敬に値するのである。氏の広い見識と波乱万丈なる人生体験を以って著作創作すれば、狭き書斎でのみ思考を燻らした天才文豪!かの「芥川龍之介」も自らのフィールドワークの少なさ過ぎを反省しつつも取り返しつかず、あの世の天国から開高流展開を眺め、歯軋りして止まず・・・
(あ、そうか!開高先生も若死ににて、すでに天国に召されておられのであるか!)

 「最後の晩餐」を読み始めたのは、至極最近になってから、、、。 先週、軽井沢から帰省する新幹線の中で読み耽った。時には早くすらすらと、時には前頁に立ち戻り読み直し、食彩談話中心なれど、食座に臨席する登場人物の立ち居振る舞い表現はまさにkaikou的森羅万象網羅されつつ微細流麗、綿々縷々書き下ろされ、あまりにも面白すぎて笑い転げ、笑い過ぎては読み進めること叶わず緩急一呼吸。これだけの長編エッセイを、新幹線道中にて完全読破は無理、、、。かくして帰省し、自宅書斎に立て篭もり、外出したりしなかったり、マイペースにてのんべんだらりと継読且つ続読す。時には漢字熟語意味解せず、めったに目を通さない漢和辞典と取っ組み合いの大格闘にて、早くも?かれこれ!一週間は経過する。以外や以外、とっくに読み終えねばならぬものを、手こずり巻くって七転八倒、心地よき悪戦苦闘しつつも善戦する。かくして昨夜、ようやく最後のページにたどり着き、読破!読了した・・・

 新幹線の車中にて読見始めた当初、
 「難解なるエッセイか?」
と、思いきや、
読み進めていて面白いから、思わず一人笑いが噴出す、、、。隣に座っていた乗客は、さぞかし我輩の笑いに「驚き」、我輩を変人扱いしたに違いない!

 まぁ、本日を皮切りに、読書感想文を書くというよりも、このエッセイ集にちりばめられている滑稽且つ知的な表現のバランスよき組合せを再度解読分析し、自分流儀の発想展開に発展させてみたい。と、思い立つ。その理由は、単純にして明瞭。開高先生見識のさりげない知識放流などなど、我輩自身真似をしたくても仕切れない「名句名言、鋭利的語彙」などなど、文芸春秋社にお叱りを受ける事覚悟にて、拙ブログに引き抜き引用し、読者諸兄姉に「不定期的連載記事」にてご披露申し上げたく、以後、時に折に触れ、我が尊敬してやまない開高作品引用とその話題、非連続的に記事投稿致したい。

 ご退屈召されぬよう切磋琢磨工夫を凝らし表現展開いたしたく、万事万障乗り越えますからに、エセ男爵ブログの読者諸兄姉に於かれましては是非ご声援下さるようあらためてお願い申し上げます、、、。

 (はてさて本日のこの勢い、何処まで続くやら・・・)



PS:「最後の晩餐」の掲載誌は「諸君!」にて。昭和52年1月号~54年1月号まで。我輩通読した単行本は1979年5月文芸春秋刊。と、なっているから、ずいぶんと古い本なのだ。実はこの本、Book-Offにて探し求めたもの。もっと早く、この本を読んでいれば「我輩の人生」は少し変わっていたかもしれないし、少なくとももっと食通になったかも知れない。よく解らない。はっきり云えることは、我輩にして、もっと文章が巧くなっていたはず・・・
 尚、以下ご紹介の同著は下記の通り表紙や装丁などは刷新され、今尚刊行されているとの事!
 嗚呼、
 我輩にとって「偉大なるモノカキ」、語彙駆使の魔術師、開高健先生は今もって健在なり!

最後の晩餐

光文社

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4 Comments

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とりあえず... (あきさん)
2007-02-02 22:31:33
開高健...偉大なエッセイストでありながら雄大なドキュメントをいつも感ずる。あきさんが愛読しているもう一方の偉大な歴史家兼エッセイスト?が司馬遼である。さて、開高釣り名人?晩年頃か、記憶は定かでないがモンゴルに行ってイトウという古代魚をトライしたドキュメントがあった。
小説でも、フィクションとドキュメントが多いが、いずれも小説家自ら行動し体験したことがベースになっていると素晴らしい。だから、開高健や司馬遼の小説を読むときは自分が体験した海外生活時代の情景が見つかるか、重なるか、いつもそれはそれは楽しみである。以上、内容がないコメントなので、とりあえず...とした。
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あきさん・・ (エセ男爵)
2007-02-03 07:48:02
コメントありがとうございます。
私にとって「貴兄の云う司馬遼」は、師と仰ぐべき偉大なる歴史小説家、司馬遼太郎先生なのです。司馬先生も若くしてお亡くなりになっておられ、まことに残念です。若しも今尚お元気であれば、まだまだ十分「日本の歴史」を書ききれる、数少ない偉人である。と、確信しております。
期せずして同じ関西出身の作家、開高さんと司馬さんの個人史、似通っているようで若干違うようでも在ります。たぶん年齢的には凡そ"one-generation"の開き有り、まずはそれぞれ、お生まれになった世代が違う。若き頃の時代背景と生活圏と嗜好分野が違えば、自ずと両先生とも観てきたも体得されたモノが違って当然、、、。
違いあればこそ、だから、両者の作品を(比較せずに)読み漁りたい。似ているようでまったく違う作家の作品に没頭耽溺してみたい、、、。
比較できそうでできない人物が両小説家の相関図であると睨んでいます。
話題は少し飛びますけれど、司馬先生に関しては、拙ブログの約1年半前に記事投稿しており、「読書カテゴリー」を遡って下さると辿り着けますので、是非ご参照願いたく思います。
司馬先生著作の最初の出会いは約20年前、然る飲屋のママから勧められ、「項羽と劉邦」の上巻をお借りし、一晩寝ずに約30時間掛けて読破したのが切っ掛け。その後同著は都合3回通読し、その後ハンガリー逗留時代に「坂の上の雲」を読み始め、全6巻?を2ヵ月おきに往復するヨーロッパ線の機上にて愛読し、その後4回再読に再読を重ね現在既に4回読破している次第です。見当たる司馬遼太郎作品は短編長編問わず読み耽り、「菜の花の沖」はTV放映される数年前に2回通読。2年前に2回通読した「韃靼疾風録」に至っては、是非映画化してほしいと願っている不肖エセ男爵なのであります。
さて、話戻って、
開高健先生、モンゴルの大平原の河川にて「幻の魚・イトウ」を追い求め、TV取材されていた報道は、何だか無意識に垣間見ました。よく似たカタチで司馬遼太郎先生のTV放映は「街道を行く?」のシリーズで、同じく画像放映され合わせて三流モノカキが「司馬遼太郎解説」等やっておりますが、何しろ司馬先生と三流モノカキの「作文」を同じ著書の中で比較するを見るに忍びず耐えがたく、結局、街道シリーズは目を通さぬまま現在に至っています。ま、ほとんど手当たり次第に司馬遼太郎作品を読む中、何だかオートマティカリー?
(automatically=〔副詞〕にて、本文の〔主動詞〕「真似る」を修飾する!は、貴兄既にご承知のこと。automatically or unconsciously無意識に、知らず知らずに。の選択の方がこの場合適切かも?ならば、動詞・〔真似る〕はimitate?ではなく trace? or follow on・・after~?の方が適切かも?いや、どちらかは会話風平文ならず文語調になるか?あぁ、めんどくさい!日本語に横文字差し挟むは、宜しくない!このような検討且つ試行錯誤をせずして組み立てる安直な流行和製英語運用or挿入は、文法的に用法的には現役英語とは大見当違いとなり、ハチャメチャになるから大嫌いなのだ!英語談義、とりあえず終り!)
に、
司馬遼流「書き方」を真似ているような感じがしてなりません。
〆て、
開高作品を読みたくなった動機には、やはり開高流「筆の進め方・語彙の操り方」を会得したく、もって自分なりに消化し、自分流儀の書き方に開高流儀を取り入れ、鍛錬練磨研磨しよう!等と、きおい立っている次第にて、なんともはや、お恥ずかしい限りです。
我が人生、恥を掻き掻き成長するもの!と、いい歳しても「恥を掻く事」恥と思わず、自然体にて押し通したいと願って止みません。
そんな無手勝流破廉恥この上ない「エセ男爵メ」の「たわ言」を、末永く読み続けて下さるよう、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
おっと、薄ら寒い朝っぱらから、喋り書き過ぎたか?
「・・・!?」
あきさんに於かれましては今日も元気に闊達に、互いに良き日となりますよう・・・
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いつも傍らに (あきさん)
2007-02-03 10:52:57
開高健から話し変って、司馬遼のこと...許されい!でも、まるっきり180度違う話しではないので。
思えば、海外駐在や出張にいつも手元にあったのは、司馬遼、池波正太郎などの本だった。寝るときはいつも何か読みながら、それはそれは、今でも同じパターンが続いている。
司馬遼で歴史を紐解いて、池波、白石一郎、津本楊等の本でピンポイントの歴史を楽しむ...あきさんはこんな読み方が一番気に入っているよ。
でも司馬遼も開高健も、本当は随分羨ましい気がする。例えば、「アイルランド紀行」...あれだけ何百年も虐げられた歴史を持つアイルランドの人達、国土、文化、が、あんな薄っぺらな本、一冊だものね。
悲しいよ。でも司馬遼は書かなかった紀行が、人々とのほのぼのとした話しが、それこそいっぱいあっただろうに...だから羨ましい。じゃまたね。
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あきさん(2)・・ (エセ男爵)
2007-02-04 15:25:17
コメントありがとうございます。
好きなんですねえ~・・・
時代物が!
実は数年前、我輩の友人にして好人物フレンチのシェフ曰く、池波先生は超グルメの作家にて「隠れ作品」の中に、いとも微細に「食の話」を織り込み見事な表現をなさっておられるとの事、聞きました。
文筆家の世界に於いて、「食べる話」と「男女の愛情表現」は下種にて「禁手世界」と云われる通念の存在、開高先生も当該著書に中にて触れられています。ならば、如何に「優雅」に「上品」に時には猥談交え食の世界を表現し、以って、文芸芸術世界に取り込まれるよう「したためるか」?を、一番最初の命題に掲げられているのです。(あまりコメントに書きすぎると、記事本文のネタに影響するからあまりここでは書きたくないけれど、、)
それをもって「その作家の力量」が判る!と、断言された上での執筆が当該著作なり。
このあたり、司馬遼太郎先生とは「分け持つ」フィールドの違いありか。と、懐深く広く、受け止めるように心がけたく、自分自身の視野をもっともっと際限なく広げていきたく想う今日この頃です、、、。
かの葛飾北斎は、なんと70歳代になってからも一考に衰えぬ「画家の眼力」を以ってして創作活動を続けられれていたとも聞き及びます。
すべからく、無駄に歳を重ねるのも無意味なれど、あまりにも若死するのもみっともない。
司馬先生にして然り開高先生も勿論のこと、もっと長生きしていただきたかった「日本の宝」なのです。そのような先生方の著作に触れるのは少し遅かったか?「もっと早く読み始めれば良かったのに!」気が付くのが遅いか?等と、後悔しつつ思うことは、「今からでも遅くは無い!」と、自分を励ましつつ、我が人生は、今こそ「旬」か。等と、敢えて勘違いしながら、今からもお互い元気に、ますます自然体的に躍動したいものです・・・
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