たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

花と禅その4 <「和顔施」 言葉以上の力、それは心のこもった笑顔>

2017-12-02 | 心のやすらぎ・豊かさ

171202 花と禅その4 <「和顔施」 言葉以上の力、それは心のこもった笑顔>

 

今日も土曜日を活かして、大阪に出かけていきました。普段通る高野街道は途中から住宅が建て込んでいて、交通渋滞も激しく、あまり利用したくないので、足が遠のきます(こういうと毎日のように通っている人は何を勝手なことを言ってと文句を言われるかもしれませんね)。

 

ところが今回は、ナビの案内でいつの間にか、山の尾根道に入り、ときに谷戸(やと)の脇を走ったりで、とても快適なドライブになりました。一部は車一台やっとの区間が長くあり、多少は大変ですが、こういう道をゆっくり走るのなら、私もドライブをしたくなります。

 

さてさきほど大阪から帰ってきて、ブログを書き出しました。

 

今日は、『花のように、生きる』を直截に表すような話です。平井住職は、

 

「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」

 

という「江戸時代の俳人・滝野瓢水の句」を取り上げています。

 

平井住職は、この句から「田んぼの畦や道ばたに咲く蓮華草は、紅紫色の花をつけ、ほのかな甘い香りを漂わせます。目立つ花ではありませんが、旅や散策の道すがらふと蓮華草を見つけた人は、心和むものを感じるはずです。」と脇役ながら、旅人たちの疲れた気持ちに心地よいエキスを与えて、その心を優しく包んでくれるものと指摘しているようです。

 

ただ、近世農法では、蓮華草は草肥の重要な一つで、畦や道ばたに咲かせることもあったかもしれませんが、基本は田んぼに肥料として植えるものでしょうね。だいたい刈敷という草肥や柴・枝葉を使って田んぼの肥料にする農法が基本だったと思います。

 

畦や道ばたでは、マメ科の植物を副食用などに植えて、田んぼ全体を有効利用していたと思います。

 

むろん現在でも、レンゲ草は草肥として植える農家もあり、同時に、養蜂も行っていたりして、レンゲ草をよく見るとミツバチが楽しそうに、忙しそうに舞っては、ミツを吸っています。

 

そんな農法については、田舎で住民の世界に住んだ良寛さんも知らなかったかもしれませんね。僧侶は生産に関心を抱かないのが基本のように思われますので。

 

で、平井住職は、

 

「仏教では『無財の七施(むざいのしちせ)といって、『財力や教えを説く知識がなくても、他人にして差し上げられるおこないがある」としています。そのひとつが『和顔施(おげんせ)』。どんなときでも、誰に対しても、穏やかな笑顔で接する、というのがそれです。』

 

いや、これは素晴らしい言葉ですね。「和顔施(おげんせ)」、大事にしたい言葉です。

 

平井住職は、「心のこもった笑顔を向けられて怒る人はいません。虫の居所が悪いときだって、笑顔で相対されたら、心が和むものです。逆に、元気づけの言葉や励ましの言葉は、ともすると、かえって相手の気持ちを落ち込ませたりすることがあります。」

 

なぜか、良寛さんの面影が浮かんできそうです。実際のお顔はどうでしょう。でもいつも子どもたちと遊んでいるような、そんな良寛さんを思い浮かべると、笑顔に見えるのですから不思議です。

 

最後に、平井住職の言葉

 

「仕事で一歩抜きん出なくてもいい、他人に負けじと自分を主張しなくてもいいじゃないですか。目立たないけれど、その笑顔でいつも周囲の人たちの心を和ませる。そんなふうに、野に置かれた蓮華草みたいに、“咲いてみる” のも悪くない。」

 

私も田舎の片隅で暮らし、仕事をしていますが、レンゲ草のように静かに田んぼの肥やしになり、あるいは遠くから近くから顔をふと向けると、心が安まる存在になると、すてきだなと思う、この頃です。

 


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