たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

地球「胎動」の豊かさ <キンメダイ 怖いけど…母なる南海トラフ>などを読みながら

2019-02-06 | 地球科学 人 

190206 地球「胎動」の豊かさ <キンメダイ 怖いけど…母なる南海トラフ>などを読みながら

 

統計不正問題で、毎日のように喧騒が国会内外で起こっているようです。どうやら政府というか厚労省の対応が後手後手に回っていてますます混乱にあるかのように思えます。不正原因をただす、不足分の支給をするなど、現場はてんてこまいでしょう。むろん担当部署では間に合わず、他の部署からの応援を受けても間に合わない状態のようです。そのため、たとえば保育所落選希望の手続が遅れているとか、ドミノ倒し的に影響もでているようです。

 

備えあれば憂いなしとよく言われますが、このような状態では、いつ起こってもおかしくないといわれる南海トラフ大地震津波に適切に対応できると思える人はいないでしょう。統計不正は霞ヶ関の問題で災害発生危険のある自治体は関係ない、と見ているような人は、そもそも現状の問題で対処するのに余裕がなく、その危険を真剣に考える機会がないのかもしれません。庶民はそれでもいいでしょう。責任ある立場にある行政や大手企業の担当者はそれでは困りますね。そういう懸念が杞憂であればいいのですが。

 

さて昨夕の毎日記事<美食地質学入門第11講 キンメダイ 怖いけど…母なる南海トラフ>は、改めて豊かな自然の恵みを感得できるとともに、南海トラフの脅威を感じさせてくれました。

 

まずは記事内容から取り上げましょう。

二人の専門家のお話です。一人はマグマ学者の<巽好幸(たつみ・よしゆき) 神戸大学海洋底探査センター長>、もう一人は日本料理の<大引伸昭(おおびき・のぶあき) エコール辻大阪(辻調グループ)副校長>です。

 

キンメダイについて<大引「深海の魚で、水深200~300メートルから800メートルにすんでいます。名前の由来は、大きな目の奥にわずかな光も集める反射層があって、金色に光るから」>といえば、<巽「200~300メートルという水深は、太陽の光が届くんです。光合成ができて藻が生えるから、プランクトンが豊富で小魚が多い。キンメダイはそれを食べてる」>と返します。

 

さらに<巽「もう一つ、この水深がいいのは、南海トラフ(図1)があるので栄養に富む海洋深層水が上がってくるんです」

 海洋深層水は、海底深くから水深200~300メートルまで上がってくる。太陽光と深層水を両取りできる絶妙の水深なのだ。>このくだりは海洋深層水がどんなものか(飲んだことはあるもののその性質はちんぷんかんぷん)わからないものですから、絶妙さが今ひとつという感じです。

 

<高知沖や室戸岬の東側の白っぽい部分が水深200~300メートルの大陸棚。ここが漁場だ。その下の茶色の部分が大陸棚斜面で、キンメダイは普段はここにいて、餌を食べに大陸棚に上がってくる。その下のギザギザの所は海溝斜面、ギザギザの一番下が南海トラフで、駿河湾まで続いているのがわかる。>ということで、どうようの大陸棚は駿河湾もとのこと。そういえば伊勢湾も同じではと思ってしまいました。

 

ここからは地質学というか、プレートテクトニクスの話となります。

まずは日本周辺の海の深さの種類の話。<巽「海溝より浅いのをトラフというんです。南海トラフは深さ約4000メートル。日本海溝は約8000メートル、マリアナ海溝で1万メートル以上あります」>

 

その深さの違いの原因について、<巽「南海トラフから沈み込んでるフィリピン海プレートが若いからです。フィリピン海プレートができたのは、ついこないだ。地球で一番若いプレート」>とのこと。

 

日本列島周辺の海底地形図が掲載されていて、その違いがよくわかります。興味深いのは伊豆小笠原孤のいわば海底山脈のような壁と、日本列島の台湾に至る壁があり、南海トラフも囲まれていて、なにか少し薄めのお盆の底のように見えたりします。4000mの深さですが。

 

地震多発の要因について<巽「マリアナ海溝や日本海溝から沈み込んでる太平洋プレートは古くて重いので、海溝からストンと急角度で沈み込む。フィリピン海プレートは新しいから角度が浅く、ユーラシアプレートに衝突して、やたらとゆがみがたまるんですね」

 それが地震多発の原因で、今後30年で大地震が起こる確率が高いと予測されているゆえんだ。巽先生が図2の海溝斜面を指さす。>

 

たしかに大陸棚斜面は激しく連続する衝突の痕のようにギザギザというか、波打っている感じです。

 

南海トラフ大地震津波と言えば、忘れてはならないのは1707年の宝永大地震津波ですね。先日このブログで取り上げた藤本清二郎著『紀州藩主 徳川吉宗』でも、被災地域の古文書などを引用した文献に基づいて、各地の被害状況を丁寧に詳述しています。

 

その一部を概括的に述べたいとおもいます。流失家屋や死傷者など、各地で報告されています。そして大畑才蔵も、西海岸沿いの海士郡、名草郡、有田郡、日高郡の被害調査を1年かけて行ったとされています。ただ、私が才蔵日記をぱらっと読んだ限りではまだその箇所にであっていないのですが・・・

 

さらに興味深いことに塩浜の被害状況を才蔵に調査させています。塩は紀州藩にとって米とともに貴重な食料品であり、おそらく商品でもあったのでしょう。ほとんど壊滅状態であったようです。そして吉宗に厳しい選択の時が来ました。玉津島神社や東照宮・天満宮の前の境内地は手をつけてはならない場所、でも民も藩も塩成ではやっていけない、結局、塩浜にする決断をするのです。とまれ吉宗は、歴史上最大の(貞観の陸奥国大地震は当時僻地であったことから同列には扱えないと思うのです)大地震、津波を経験して、その対応に持続的に対応した最初の為政者であったのではないかと思うのです。

 

話変わってキンメダイの漁場として南海トラフ近くの大陸棚がよいとのことですが、どうやらクジラもそうかもしれません。

 

23日付け毎日和歌山版<平成の記憶わかやまの30年/8 2010(平成22)年 米映画「ザ・コーヴ」国内上映 /和歌山>では、<太地町は約400年前から大勢の漁師で船団を組む「古式捕鯨発祥の地」。>として、反捕鯨運動を含む世論に向けて、<漁協はホームページで、鯨とともに歩んできた歴史や資源量が豊富であることを説明、捕鯨への理解を求めた。>とのこと。

 

通常、古式捕鯨といった場合、近世初期を念頭に置いていますね。この点、森浩一氏は、著作『日本の深層文化』中、「鯨と日本人」という項で、中国の後漢時代に「鯨」という漢字が当てられ、魚偏で、旁の「京」は巨大である(たしかにスーパPCの名前にもなっています)ことを表すとして、使われていたというのです。

 

わが国の遺跡に残った痕跡から、縄文時代からすでに鯨漁が行われていて、古墳時代はもちろん、その後も平安時代、鎌倉時代、室町時代にもそれぞれ記録があり、漁業が行われていた、高貴な人に贈呈されたり、宴に呼ばれて食べたりしたとの日記があるというのです。

 

そしてその漁場として、太地町はもちろんですが、三河湾にもそういった記録があるそうです。私が以前居住していた横須賀と横浜の境付近、六浦(昔、海か入り江であったと思われます)も。それが近世ではなく遠く昔からというのです。それもちゃんとした漁法で。

 

豊かな自然の恵みを私たちの先祖は享受しつつ、自然の脅威も恐れおののくだけでなく、それに打ち克ち、立ち上がってきたのでしょう。

 

そしてそのような歴史を掘り起こしてきた森浩一氏、上記著作で、自分たち夫婦は子がない、望まなかったと述べられ、他方で、自分には大勢の教え子が育ってくれた、また、著作も亡くなる数年前で100冊を越える、子を産んだとも述べられています。

 

私はその10分の1を超えるくらいしか読んでいませんし、理解もできていませんが、いつか著作を通じて孫弟子以下の末端にでもなれればと思う次第です。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


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