たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

海から見た日本 <『宮本常一講演選集8日本人の歩いてきた道』をちらっと読みながら> 

2017-12-29 | 日本文化 観光 施設 ガイド

171229 海から見た日本 <『宮本常一講演選集8日本人の歩いてきた道』をちらっと読みながら> 

 

今日は中央構造線の橋本から紀ノ川沿いを西に走り、南海フェリーに乗って徳島からは吉野川沿いをさらに西に走りました。

 

吉野川は、神武東遷のときから、熊野から吉野を経て吉野川を渡ったと言われているとおり、古い歴史を持ちますね。ま、伝承と受け流せばそれですみますが、それでも天武・持統朝にはよく訪れた由緒あることは万葉集にもあるので確かなのでしょう。

 

その吉野川が五條から橋本(当時はおそらく別の地名でしょうね)当たりで紀ノ川に名称が変更になったのはいつからでしょうか。紀伊の国ができたころでしょうかね。では、四国三郎といわれる吉野川はいつからそう呼ばれているのでしょうか。なにか吉野川はずっと繋がって一本の川であったということがあったのではと思いたいところですが、地形学的にはありえないのでしょうね。紀ノ川と徳島・𠮷野川を分断する紀伊水道が生まれなかったらどうなっていたのでしょう、なんてことをフェリーの中でふと考えてしまいました。

 

そのフェリーの乗船時間は2時間余り。高速道路を走れば時間は短くなりますが、私のように首・腰痛持ちだと、耐えられません。このフェリー乗船時間は最高の骨休みです。いつも横になっています。外国でなんどもフェリーに乗りましたが、こういった横になれる場所は経験がありません。まさに日本人の伝統的な生活様式が生んだものでしょうか。むろん

日本でも長距離の場合は寝室付きですので、これは別ですね。

 

こういったフェリーに乗ったことがない方のために一言付け加えますと、大部屋のような座れる場所ですが、たいていの人は横になっています。年末年始の時は込み合いますので、雑魚寝状態ですね。ま、山小屋風でしょうか。庶民的といえばそうだと思うのです。

 

お金に余裕のある方はフェリーを使わない?、あるいはフェリーに乗ってもグリーン券?を買って有料の椅子席で休むのでしょうか。

 

私はこの雑魚寝的空間が割合平気です。小さなお子さんは泣き叫んだり、人の寝ているところをまたいでどんどん歩き回ったりします。外国人はめったに見かけません。仰天するかもしれませんね。アジア的雰囲気でしょうか。アジア人なら大丈夫かもしれません。

 

さてその雑魚寝的雰囲気の中で、一寝入りもしますが、それ以外はだいたい本を読んでいます。今日は冒頭の書籍でした。

 

喧噪な雰囲気ですが、宮本常一の体験的な話、コクのある話、日本人の本質に近づくことができるような話に、埋没しました。

 

いま寝る前にこのブログを書いていますので、正確に内容を再現できるわけではありませんが、いくつか興味を覚えた点を書き記したいと思います。といっても睡眠時間もあったので、実際のところ1時間程度くらいしか読んでいませんから、300頁あまりのほんの一部しか読めていませんので、ほんのさわりです。

 

宮本氏は、日本は海に囲まれた国だから、海からこの国、人を見ることが大切だというのです。そのとおりですね。記紀を含め日本の歴史書には、どうも海からの視点が十分でないように思うのです。

 

それは海人には文字を必要としない生活があり、文字を残していないことも大きな影響があると思います。文字を残さなかったとはいえ、その海の民が伝えた、形成した文化・文明は多大なものがあるように思えますね。

 

宮本氏は、多くの鋭いまなざしをもって各地でヒアリングを重ねて、彼独自の見方を低k評してくれているように思えます。その中で面白いと思ったのが筏です。古代の海の民はどのような乗り物で海洋に出たのでしょうか。宮本氏は道具がない時代、筏をうまく組み立て、時には2層に重ねることで、大海原でもわたることができたのではないかと指摘していたと思います。これまで世界各地で多くの人が古代人の海洋航海に素朴な船でチャレンジしてきたと思いますが、筏も結構有効なものだったかもしれません。

 

筏は底が平たいですね。そこが西洋船との違いだと宮本氏は指摘します。東南アジアでは、

船底が平らなのが普通で、その平坦な船底だからそこで生活もできる、現在もそういった平底の船で生活している人は各地にいることからもいえるのでしょう。技術の進展で巨大化する船でも、平底を起点に板を重ね、天井に大きな梁を渡す構造が和船の基本スタイルとして長く発展してきたというのです。

 

で、ここからが生活文化に関係してくるのですね。平底船の日本への導入は、男女が海で共同して働くことが漁民の中でも一つのグループとして成立したというのです。それに対し、別のルート、これは男性だけが海に出て漁をし、女性は決して海に出ないという方式、琉球あたりからの南方ルートでしたか、ずっと北上していくのですが、なぜか瀬戸内海では両者が併存していたというのです。

 

この海の民は、海で魚を獲るだけでなく、交易やさらに海賊行為も行ったというのです。

 

そして生贄ということが象徴的な意味合いで語られています。記紀の中にも、「 持衰(じすい)」という存在が期されていますが、航行の安全を祈願する、祈祷するそういう祈祷師的な存在が必ずいたというのです。持衰は船の舳先に立ち、船の安全を祈祷する神的尊大だったといのです。しかし、海難にあったときは、持衰は海の神を鎮めるため、生贄として海に投じられる危うい存在でもあったのですね。

 

そういえば、記紀の中に、日本武尊が関東を征伐するために赴く際、東京湾を渡ろうとして、嵐に遭遇して危うい状態になったとき、弟橘媛が身を捧げ海に飛び込むシーンがあったと思うのですが、それもこのような伝承を踏まえた話でしょうか。横須賀の走水にある伝承記録ですね。

 

で、話が落ち着きませんが、今日のお題のポイントは、元々は血を捧げる、生贄が重要な儀式であったのが(これは南米など世界各地でも見られますね)、ある時点から血から水に変わったという点です。それまでは動物の生贄に血を神に捧げることが行われていたのが、血は汚れたもの、忌み嫌うものになり、水になったというのです。それは米作、しかも水田で作られる米栽培が普及したことによるというのです。

 

陸稲の方は焼き畑耕作がかなり早い段階から導入され、血をささげることとも両立したのでしょうが、水田の場合は水こそ貴重なものとなり、水を呼び込むことと雨水の予想というか祈願こそ求められるようになったということでしょう。

 

それにかかわったのが海の民というのです。

まだきちんと理解していない中で、記憶の中でいろいろ断片的に残っていることを適当に書きました。さらに興味深い話があったのですが、どうも脈略がはっきりしません。

 

中央構造線の断層付近を走行したので、頭の中にも断層というか断裂が生じて、せっかく宮本氏がきちんと整理した開設をしていたのを、目茶目茶にしてしまったかもしれません。

 

もう一時間を優に超えたようです。そろそろ時間となりました。また明日。


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