たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

陵墓のあり方 <宮内庁 仁徳天皇陵を発掘へ>などを読みながら

2018-10-16 | 古代を考える

181016 陵墓のあり方 <宮内庁仁徳天皇陵を発掘へ>などを読みながら

 

今日は2つの特別養護老人ホームを訪ねて私が担当している方と面会してきました。お会いしたとき笑顔を見せてもらえると、こちらもうれしくなります。面会に訪れる人は私が担当している方に限らず、あまり多くないようです。施設に入ると動くことが少なくなり、あるいはほとんど動かない人もいますので、どんどん体力が落ち、言葉も発せなくなり、家族の方も面会しても意思疎通が容易でなくなるように思えます。

 

という私も、なんとか話しかけますが、言葉での応答はなかなか容易でなく、会話も次第に途切れてしまいます。ユマニチュードにはほど遠い状況です。ま、心がけてなんとか前進するといいのですが。

 

さて、今日の毎日記事<宮内庁仁徳天皇陵を発掘へ 今月下旬から堺市と共同で>を見て、時折感じるのですが、紙面とウェブ記事とでは表現を微妙に変えることがありまして、今回もそうでした。

 

紙面では「大山古墳」と表示していたのが、ウェブでは<仁徳天皇陵>になっています。記者はいずれも矢追健介氏です。この点、伊藤和史記者は以前、別の記事<今どきの歴史世界遺産候補 百舌鳥・古市古墳群(大阪府) 悩ましき被葬者論争>で、その当たりを解説しています。

 

紙面で「大山古墳」とだけ書かれていれば、一体どこの古墳かと思う人もいるでしょう(実は私も当地に来るまではそのくらいの感覚でした)。

<「大山古墳?」と首をひねる人も、仁徳天皇陵のことだと聞けばうなずけると思う。墳丘長486メートル(最近、525メートルに上方修正)。最大の古墳として歴史教科書に出てくる前方後円墳である。>

 

といって、堺市をはじめ多くがこれまで長く呼称し、今回の世界遺産登録候補として名乗りを上げる場合も、目玉の古墳名を仁徳陵と呼んでいますが、<仁徳天皇陵という呼称は不評。>なんですね。<在位の時期と古墳の年代とのズレなどから、ここに仁徳天皇が葬られていると考える研究者はまずいないからだ。>さらにいえば、仁徳天皇なる人の実在性についても疑問視する考えも結構有力ではないかと素人的には思っています。

 

そんなこんなで両論併記ではないですが、<「大山古墳(仁徳天皇陵)」のように、その雄大さにちなむ地域での呼称と、管理する宮内庁の認定名との並列的な表記が多い。>わけですね。これは大山古墳だけの問題ではなく、<保存のよい49基(4~5世紀)が世界遺産登録を目指している。その中に天皇陵クラスといえる墳丘長200メートル以上の大古墳も10基ほどあるが、大山古墳に限らず、宮内庁の認定と、実際の被葬者との関係では議論が尽きない。>

 

被葬者も特定できていないのに(宮内庁はちゃんと認定しているというかもしれませんが)、世界遺産登録をしてもいいのかしらと思うのです。

 

<被葬者決定の根拠としては、記紀にある皇統や陵墓の記録のほか、平安時代に律令の施行細則を定めた延喜式(927年完成)にある陵墓の所在地情報が重視される。古墳時代からは数百年も後の史料なので、うのみにはできないのだが。>つまりは歴史的な文献資料は根拠として薄弱なのですね。信頼性に乏しいということですね。

 

結局、<大胆に次々被葬者を特定する研究者もいるが、土生田さん(土生田純之(はぶたよしゆき)・専修大教授(考古学))は「根拠を持ってこうだと言う、その材料がない」と話す。大山古墳の主は「(中国の史書にある)倭の五王の誰か、くらいは言えますが」とのことだった。

 世界遺産登録の可否とともに、天皇陵の現況や、被葬者論の今後にも注目したい。>というのですが、今日の記事は少し進展があったとみてよいのかでしょうか。

 

陵墓で初めての発掘を発表した宮内庁ですが、記事では<宮内庁と堺市は15日、同市堺区にある日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(仁徳天皇陵)について、今月下旬から共同で発掘すると発表した。古墳保存のための基礎調査だが、歴代天皇や皇族の陵墓の発掘に宮内庁が外部機関を受け入れるのは初めて。宮内庁は「周辺遺跡の知見を持つ堺市との連携は適切な保存につながる。天皇陵の保全管理に地元の協力は不可欠」とする。>

 

大胆な一歩を踏み出したと思いたいのですが、どうでしょう。

今回の宮内庁の計画内容について、記事では<調査は10月下旬~12月上旬、埴輪(はにわ)列などがあったと考えられる最も内側の堤(幅約30メートル)に幅2メートルの調査区を3カ所設け、堺市の学芸員1人も発掘や報告書作成に加わる。宮内庁陵墓課は、今後も堤の別の部分や墳丘の裾などを発掘し、濠の水で浸食されている古墳の保存計画を作る。>

 

これまでの宮内庁の態度からすると、これは大きな変化の表れとも見えますか。

<宮内庁は全国の陵墓への立ち入りを「静安と尊厳を保持するため」として原則認めず、単独で調査してきた。・・・宮内庁は2008年から、日本考古学協会など考古・歴史学の16団体に限定的な立ち入り観察を認めた。16年3月には地元自治体や研究者に協力を求める方針に転換し、徐々に公開度を高めてきた。>漸進であるとはいえましょう。

 

しかし、<大山古墳を含む百舌鳥・古市古墳群の来年の世界文化遺産登録を目指している>堺市だけでなく日本人、日本国として、このままでいいのでしょうかね。

 

だいたい、今回の発掘は前方後円墳の本体に入るわけではないのですね。内堀と外堀を仕切る堤の一部だけを対象としています。保全計画を立てると言っても、それでは全体像は描けないでしょう。なぜ本体に入れないのでしょう。

 

私は今夏に大山古墳を訪問する前に、ニサンザイ古墳と御廟山古墳を訪れたときそれぞれ古墳内では刈払機など機械を使って大勢が入って、古墳本体内の草木や竹林の手入れをしている最中でした。それは当然でしょうね。大山古墳も滅多に見る機会もありませんが、それも濠の外からしか見えません。それでも、とても樹木が整い、美しい状態に保たれているのは分かります。つまりは、樹木や草の管理をする人は入って、機械を使ってやっているはずだと思います。

 

私は直ちに、発掘することについては慎重であってもよいと思いますが、古墳内を研究者の方々が入って、とりあえず表層だけでも調査する価値があるのではと思うのです。樹木の状態を確認することも大事かもしれません。実際、前のブログでも触れましたが、これまではげ山状態にあったことは何度かあると思われます。そうでなくとも樹林の遷移は間違いなく起こるわけですから、さまざまな観点から調査する意味はあると思います。

 

作業員(ちゃんとした宮内庁職員とのことでしたが)が入ってよく、研究者はダメというのは通らないのではないかと思います。いろんな意見があるでしょうから、発掘については段階を経て、また十分な議論と理解を経て行うことを期待したいと思います。

 

だれが被葬者か分からないこと自体、恥ではないでしょうか。

 

ちょうど一時間となりました。この辺でおしまい。また明日。