たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

人の生き方いろいろ 社内結婚・企業が後押し、常識と非常識

2016-12-14 | 人の生と死、生き方

161214 人の生き方いろいろ 社内結婚・企業が後押し、常識と非常識

 

今朝は、小糠雨で割合、空気も緩んでいるようで暖かく感じます。毎日朝刊を開くと、いろいろ話題の記事の続報がありますが、くらしナビの「社内結婚、企業が後押し」というタイトルに惹かれて読みました。

 

それによると、「結婚した2人が出会う場所は、今も昔も職場が上位だが、割合は減少傾向にあるようだ。」と、職場結婚の比率が多いことは当たり前と思いつつ、その比率が減っているのは意外でした。とはいえ、社内恋愛を応援する企業が現れたということで、社内結婚手当を導入したり、婚活目的のさまざまな出会いの場を提供したり、多くの社内行事を行い運営を若手に委ねる方法をとったり、と企業それぞれがいろいろな工夫を凝らしています。

 

晩婚とか、少子化とか、さまざまな問題が指摘されている現代の結婚状況に新風を吹き込む、一つの取り組みとして評価されていいかと思います。ただ、なにか物足りないと感じています。上記の例で離職率も低くなったというのは、結婚後もというのならいいのですが、わが国のこれまでの雇用慣行というか実態は、社会結婚してもいずれか(多くは女性)が離職する場合が多かったというか、普通ではなかったのでしょうか。

 

そもそも企業組織、工場など、明治維新以降、突然、なんの受け入れる土壌もない中、無理矢理のように導入された社員・従業員システムです。公務員も似通っていると思います。それまでの文化といろいろな意味で軋轢が、働く人たちの間にあったいます。その中で、男女が一定の空間で、決まった時間、一緒に仕事をするといったことも経験のない状態だったと思います。しかも戦前は維新政府が作った家族制度の下、女性の権利が法的には認められない状態でした。

 

明治民法(1896年制定)は、第14条に、次のような定めを置き、妻の無能力を明確にしていたのです。

「1 妻が左に掲げた行為をなすには夫の許可を受けることを要する。

    第12条第1項1号から6号に掲げた行為

    贈与若しくは遺贈を受諾し又はこれを拒絶すること

    身体に羈絆を受けるべき契約をすること (羈絆は束縛の意でしょうか)

2 前項の規定に反する行為はこれを取り消すことができる。 」

 

では維新前の江戸時代はどうだったのでしょうか。従来は、男尊女卑が制度的、実体的にあったというのが歴史学者の定説であったのかと思います。しかし、百姓や町民などでは、そのような差別が明確だったかは疑問に感じています。古文書など記録が残っているものはほとんどが女性について書かれていませんので、女性の生活や活動の実態は必ずしも明らかではありません。幕府や藩などの法令にかかわる古文書はとりわけそうです。ただ、数少ない庄屋日記などでは、女性が奢侈禁止令に違反して、高価な衣服を求めたり、桜狩りなど行楽にでかけたり、結構、自由を楽しんでいる様子がうかがえます。とりわけ仕事という面では、農業や漁業では、夫婦が一緒になって作業している様子がときに表現されています。

 

そのことは維新時に訪れた異邦人のさまざまな記録からも、女性の貞節でありつつ、大らかで、笑顔の絶えない、豊かさを伝える部分は、単に異国人に見せる「おもてなし」の表面儀礼的なものとはいえないと思うのです。男女が一緒になって自分たちの都合で時間を決め、仕事をして、またわずかな快楽を享受し、それで一定の満足、足を知るという境地にあったから、自然な笑顔が生まれたのではないかと思っています。

 

話変わって、現代の職場ですが、おそらく男女が親しく話すような状況にはないのではないかと思います。社内などで親しく話すと言うことは、私事であり、業務とか公務ではありえないといった考えが長くあったように思うのです。しかし、そのような業務のあり方は、決して自由で快活な雰囲気でなく、創造的な仕事には結びつきにくく、通常の業務でも自然に疲れる職場になるのではないでしょうか。だから、無用に神経に負担がかかることも多いと思います。

 

私が若い時代にいた職場では、ボスが結構厳しい人でしたので、ボスがいるときはしーんとしていました。が、彼が出かけると、急に雰囲気が変わります。少人数ですが、女性陣は勝手に好きな歌を歌い出したりハモったり、いろいろ話しながら、作業を進めていました。私はそれでリラックスしつつ、頭が働くときはどんどん文書をつくっていくという感じでした。これがいいかはなんともいえませんが、職場は本来、それぞれのメンバーが生き生きと活動できるようにあって欲しいと思うのです。職場が窮屈で地獄だと、能率も上がるとは思えないし、無用に長時間労働にもなりかねません。余暇も大切ですが、職場も生活の重要な一部です。

 

で、また元に戻って、社内結婚を促進することは、職場自体を快活にする面で、いいかと思います。ただ、結婚したら離職というのであれば、どうかと思います。むろん夫婦で職場にいると、私事と公務の区別がつかないという意見もあるでしょう。しかし、職場や社会が成熟期に向かう中、そこに働くメンバーも、結婚したからといって、私事を公務に持ち込むことの節度やたしなみは、自然にそなわってきているように思いますし、そうでなくともそういう自然の規範を組織内で醸成すればよいのではないかと思うのです。むろん離職するかどうかは、カップルが判断すればいいので、離職を当然視して、それを事実上強要するようなシステムこそ改める必要を感じています。

 

と同時に、わが国では職場と家庭は別といった意識がいつのまにか当たり前になっているように思うのです。私がカナダの研究所に席をおかせてもらっていた頃、研究員相互で、各家庭での手作り料理持込のパーティが頻繁に行われていました。夫婦ないしは付き合っているカップルが一緒に、ときには赤ちゃん連れで、参加します。欧米の映画を見ていると、そのような光景はさまざまな行事に伴う家庭でのパーティだけでなく、披露宴や葬式でも見られるように思います。家庭というものが、以前は地域共同体の中で地域のメンバーと歓談したり飲食したりする場でもあったのが、地域コミュニティが生まれていない、あるいは衰退したところでは、このような職場や仕事先との連携の場になる可能性が高まっているようにも思えるのです。

 

その意味で、自宅の建築のあり方も、いずれは変わってきてもいいのかもしれません。たとえばリビングというものが一応、70年代ないし80年代以降は導入されて割合長い歴史がありますが、家全体が小振りなこともあって、リビングも家族だけの居間としか使われていないというのが普通ではないかと思います。むろんアメリカの大型車や広大な屋敷といったものが、コンパクトシティの観念にそぐわないと同時に、家の規模も西欧式に習う必要はありませんが、昔の家は、大家族だったせいもあり、もう少し大きかったように思います。スモールイズビューティフルと言われたのはいつでしたか。微妙な判断ですが、狭小敷地に無理に合わして個人住宅を建築する手法がTVで紹介されて好評を博しているようですが、それがほんとうに地域コミュニティにもうまく適合すれば別ですが、なにか違和感を感じています。自分たちの家族の生活がよくなればよい、それは大事なことで、本質的なことですが、それだけでいいのか、を自問自答する事柄です。

 

さて、話題が次々変わっていくのがこのブログで、私の頭の中の整理できていない状態ですが、仕事で論理構成を追求されることから離れているので、こんな自由も許されるかなと思っています。というか、最後に触れたいのが、ヘンリー・ディビッド・ソローの「森の生活~ウォールデン」です。彼は、1817年に生まれ、629月リンカーン大統領が南北戦争のさなか、奴隷解放宣言を発表する直前、5月結核で45歳の生涯を閉じています。彼はボストン郊外にある生まれ故郷、コンコード村にあるウォールデン湖畔で2年余の生活を送り、その生活や人生観を綴った書を世にだしのです。本書は、自然保護を担う人にとってはバイブルといってよいものです。でも、彼が生存中は、販売数はわずかでした。

 

なにが多くの人に訴えたのか、人それぞれ、影響を受けた内容は異なるでしょう。私は、今日のテーマとの関係で一つだけ取り上げたいと思います。人は、現在の社会が無意識ないし意識的に強制するいかなる行動も、自分の信念に反すれば、拒否する自由があることを、彼は実践で示したのではないかと思います。2つ挙げましょう。一つは、アメリカ建国当初で、多くは敬虔で勤勉なプロテスタントの人たちだったと思います。誰もが賢明に仕事に励んでいたのでしょう。でも彼は、何のために仕事をするかを問うたのです。衣食住のためであれば、家もそこにあるもので簡単に作れると言って小さな小屋を作り、近くの畑でわずかな食料を手間をかけずに作り、衣服もありあわせのもので済ます生活を送ったのです。彼にとってはウォールデンの四季を通して、自然の営みや人の動きを感得することに重要な意義を感じていたのではないかと思うのです。

 

私がボストンを訪れたのは四半世紀前、市街と近郊のニュートンという町を訪問しましたが、当時残念ながらソローやコンコードのことを知らなかったため、すぐ近くなのに、訪れなかったのは残念です。いまはグーグルアースなどで当時の状態がほどよく残っているようなので、それらを見てソローの気持ちを推し量っています。

 

もう一つ加えておきたいのは、彼にもわずかな収入がありましたが納税しませんでした。それで徴収官が納税しないと逮捕するというと、奴隷制は人の自由を奪うものであり、それを容認する州政府に納税することはできないと、逮捕され留置されたのです。そして友人でもあり師でもあるエマーソンが釈放してもらうため税金を代わって払ったところ、彼は州政府に抗議するために拘束を受けることは、自由のための闘いだと、その後のガンジーなど多くの人に影響を与えた非暴力・不服従non-violence and civil disobedienceを実践したのです。