履 歴 稿 紫 影子
香川県編
第三の新居 7の2
新居の西に隣った家は、吉田さんと言って、主人は井戸堀作業の最中に可成り大きい石が頭上に落下して負傷をしたのが原因となって、私達が引越して来た直後に他界したのであったが、その後の家庭は、母親と娘4人の女世帯であった。
吉田さんの家の長女は、未亡人となって出戻った人であったが、次女の人は高松市の女子師範を出て当時城けん小家校で教鞭を取って居た。
そして三女が高等科の二年生、四女が尋常科の六年生と言った家族構成であった。
併しである、主人を失った吉田さんの家庭では、次女の給料のみではささえきれないので、残りの四人の人達が、丸亀市の特産物として広く知られた竹細工であった団扇の骨作りを内職として生活をして居た。
吉田さんの家の人達は、揃って良い人達であったので、私は毎日のようにその吉田さんの家へ遊びに行ったものであった。
私が吉田さんの家へ遊びに行くことを「仕事の邪魔になるから。」と言って、母が私をたしなめたものではあったが、日に一度は、吉田さんの家に行かずには居られなかったと言う私であった。
そうした私が、吉田さんの家へ遊びに行くと、おばさんを始め、長女、三女、四女と言った四人の人達が、団扇の骨を作る手は休めなかったのだが、交代交代、とても面白い話を聞かせてくれたので、いくら母が厳しくたしなめても、私は、吉田さんの家へ遊びに行くことを止めなかった。
吉田さんの家で作って居た団扇の骨作りは、あまり高い工賃ではなかったそうであったが、四季を通じて切れることが無いと言うことが魅力でやって居るんだと、おばさんは言って居た。
毎日のように遊びに行って居た私は、吉田さんの人達が、面白い話に笑い興じながら、二本三本と手際良く削って行く団扇の骨作りを、何時も傍で見て居たのだが、とても面白そうなので、「俺もやって見たいな。」と言ったことがあったのだが、その時、尋常科六年生の秀ちゃんと言う娘が、「そんならやって見な。」と言って、自分がやりかけて居た骨作りを私に削らしたが、尋常科二年生の私には、とても出来る仕事ではなかった。
それは、そうしたことのあった日のことであったが、家に帰った私が、「今日吉田さんとこで、団扇の骨作りをやって見たけど、俺には、とうてい出来なかった。」と、母に愚痴ると、「そうか、お前には出来なくても吉田さんの皆が上手に出来るのだろう。お母さんも、どうせ昼は暇なんだから、やってみたいな。」と母が言ったので、「そう、お母さんもやって見たいの。
そんなら俺、隣りのおばさんに頼んでくるわ。」と早速私は吉田さんの家へ飛んで行った。
吉田さんのおばさんと言う人は、当時50年輩の人であったように覚えて居るが、とても優しい人であった。また、姉さん姉さんと私が呼んでいた娘さん達も、揃って明朗な性格で親切な人達であった。
私から仔細を聞いたおばさんは、「よっしゃ、よっしゃ。」と言って、早速問屋に手続をしてくれた。
私の母は、その後吉田さんのおばさんの懇切な指導によって、立派に団扇の骨作りが出来るようになったが、その収益は全部私達兄弟の小遣銭になって居たようであった。
この第三の家時代に、現在の私が、「その当時の俺は、大馬鹿野郎だったな。」と自分で自分を笑うような、馬鹿げたことをしでかしたことがあった。